空き家の冒険 The Adventure of the Empty House
アデア卿殺人事件
1984年春のこと。オーストラリアから帰国したロナルド・アデア卿は、母親、妹とともに、パークレーン427番地に住んでいました。とくに人から恨まれることもないはずのこの青年貴族は、3月30日夜、クラブで賭け事をしたあと、部屋に戻りましたが、婦人がおやすみの挨拶をしに部屋に行ったところ、銃弾で暗殺されているのが発見されました。部屋には内側から鍵がかかっており、窓から侵入することは不可能でした。庭には不審な形跡は残されていませんでした。事件解決の手がかりはないように思われました。
ホームズが1891年5月4日にライヘンバッハの滝に消えてから2年余、ワトソンはホームズだったらこの難事件も解決してくれるのに、などと考えながら、診療所から夕方の散歩に出ました。行く先は、パークレーンの殺人現場です。診療所から現場までの散歩ルートは、下の地図のようだったと推測されます。
現場から戻ろうとしたとき、ワトソンは、数冊の本を抱えた白いあごひげを生やした老人とぶつかってしまいました。ケンジントンの診療所に戻ったワトソンが書斎にいると、さきほど通りでぶつかった老人が入ってきました。チャーチ街の角で本屋をやっているのだと言います。
ワトソンが本棚を振り返り、再び正面に顔を向けると、なんとシャーロック・ホームズが座って、笑いかけていました。老人に化けていたのはホームズだったのです。ワトソンは気を失わんばかりに驚きましたが、二人は久しぶりの再会を喜び合うのでした。
ライヘンバッハからの生還劇
ホームズは、ライヘンバッハの滝からどのようにして生還したのか、詳しく語ってきかせました。
"You never were in it?"
"No, Watson, I never was in it. My note to you was absolutely genuine. I had little doubt that I had come to the end of my career when I perceived the somewhat sinister figure of the late Professor Moriarty standing upon the narrow pathway which led to safety. I read an inexorable purpose in his grey eyes. I exchanged some remarks with him, therefore, and obtained his courteous permission to write the short note which you afterwards received. I left it with my cigarette-box and my stick and I walked along the pathway, Moriarty still at my heels. When I reached the end I stood at bay. He drew no weapon, but he rushed at me and threw his long arms around me. He knew that his own game was up, and was only anxious to revenge himself upon me. We tottered together upon the brink of the fall. I have some knowledge, however, of baritsu, or the Japanese system of wrestling, which has more than once been very useful to me. I slipped through his grip, and he with a horrible scream kicked madly for a few seconds and clawed the air with both his hands. But for all his efforts he could not get his balance, and over he went. With my face over the brink I saw him fall for a long way. Then he struck a rock, bounded off, and splashed into the water."
単語と意味:
「いや、ワトソン、ぼくは落ちてはいなかったんだよ。君に宛てたメモはまったく本心からのものだった。ぼくは邪悪なモリアーティ教授が安全につながる唯一の道をふさいで立ち塞がっているのを見たとき、ぼくの人生もいよいよこれまでかと観念したんだ。ぼくは彼の灰色の目の中に、断固たる意図を読み取った。だから、僕は彼と一言二言交わし、君があとで受け取ることになった短いメモを書く許可をもらったんだ。僕はそのメモを煙草入れとステッキとともに残して、狭い断崖の小径を歩いて行った。モリアーティはぼくのすぐ後ろからついてきた。ぼくが崖っぷちまで来た時、ついに追い詰められた。彼は武器を取り出すことなく、いきなりぼくに走りより、長い腕で掴みかかってきた。彼は自分のゲームが終わっていることを知っていたので、ひたすらぼくに復讐をしたいと思ったんだろう。われわれは滝の崖っぷちで取っ組み合いになった。ただ、ぼくはかつて何回か役立ったことのある日本式の格闘技であるバリツの知識が多少あったのが幸いした。ぼくが彼の腕をすり抜けると、彼は恐ろしい悲鳴をあげて、何秒か狂ったように足を蹴り、両手で空中を掴もうとした。しかし、懸命の努力むなしく、バランスを回復することができず、谷底に落ちてしまったのだ。崖の端からのぞいてみると、彼が落ちてゆくのが見えた。それから彼は岩にぶつかり、跳ね返って水に飲み込まれていった。
Illustration by Sydney Paget )
ホームズは、モリアーティの一味が近くにいて復讐を企てる危険を感じ、跡が残らないように、高い崖をよじのぼり、かろうじて敵から逃れることに成功した、と語りました。それから暗い山中を一目散に逃げ、1週間後にフィレンツェにつきました。そして、兄のマイクロフトだけに連絡をとりました。しかし、ロンドンではモリアーティ一味のうちもっとも手強い敵が釈放されたため、戻ることができず、チベット、ペルシャ、南フランスを転々としていたことを打ち明けました。
そして、最近になってロンドンの敵が一人になったことと、パーク・レーン殺人事件が起こり、興味をかき立てられたためにロンドンに戻ることになったのです。
空き家への隠密行
こうして、再びベイカー街のオフィスに戻ったホームズは、さっそくワトソンを伴って、パークレーン事件に取り組むことになりました。ホームズは、敵の正体を暴くため、周到な作戦を実行に移します。それは、相手に知られないように、ホームズ宅の向かい側の空き家に忍び込み、ホームズを狙う敵を捕らえるというものでした。
そのために、ホームズはワトソンとともに馬車でキャベンディッシュ・スクエアまで行き、そこで馬車を降りて、迷路を行くように、裏通りを歩いて行きました。
参考サイト: The London of Sherlock Holmes
I had imagined that we were bound for Baker Street, but Holmes stopped the cab at the corner of Cavendish Square(5). I observed that as he stepped out he gave a most searching glance to right and left, and at every subsequent street corner he took the utmost pains to assure that he was not followed.
Our route was certainly a singular one. Holmes's knowledge of the byways of London was extraordinary, and on this occasion he passed rapidly, and with an assured step, through a network of mews and stables the very existence of which I had never known. We emerged at last into a small road, lined with old, gloomy houses, which led us into Manchester Street, and so to Blandford Street(13). Here he turned swiftly down a narrow passage, passed through a wooden gate into a deserted yard, and then opened with a key the back door of a house. We entered together and he closed it behind us.
The place was pitch-dark, but it was evident to me that it was an empty house. Our feet creaked and crackled over the bare planking, and my outstretched hand touched a wall from which the paper was hanging in ribbons. Holmes's cold, thin fingers closed round my wrist and led me forwards down a long hall, until I dimly saw the murky fanlight over the door. Here Holmes turned suddenly to the right, and we found ourselves in a large, square, empty room, heavily shadowed in the corners, but faintly lit in the centre from the lights of the street beyond. There was no lamp near and the window was thick with dust, so that we could only just discern each other's figures within. My companion put his hand upon my shoulder and his lips close to my ear.
"Do you know where we are?" he whispered.
"Surely that is Baker Street," I answered, staring through the dim window.
"Exactly. We are in Camden House(15), which stands opposite to our own old quarters."
"But why are we here?"
"Because it commands so excellent a view of that picturesque pile. Might I trouble you, my dear Watson, to draw a little nearer to the window, taking every precaution not to show yourself, and then to look up at our old rooms —the starting-point of so many of our little adventures? We will see if my three years of absence have entirely taken away my power to surprise you."
単語と意味:
私たちはベイカー街に向かうものとばかり思っていた。けれども、ホームズはキャベンディッシュ・スクエア(地図の5)の角で馬車を止めた。彼は降りたとき、探るような目で左右を見渡し、続くどの通りの角でも、最大限の注意を払って自分たちが尾行されていないか確かめるのだった。私たちのとったルートは確かに奇妙なものだった。ロンドンの裏通りに関してホームズはきわめて豊富な知識をもっていた。今回も、彼は迅速かつ的確な足取りで、私がまったく知らなかった小路のネットワークを通り抜けて行った。私たちは、とうとう古びた陰気な建物の並ぶ道路に出た。それはマンチェスター街からブランドフォード街(地図の13)に続いていた。ここで彼は素早く狭い小路に曲がり込み、木製の木戸を通って寂しい中庭に入り込んだ。それから家の裏口の扉の鍵を開けた。私たちは一緒に入り、扉を閉めた。
そこは真っ暗だったが、それは明らかに空き家だった。むき出しの床張りの上を歩くと、ミシミシと音を立て、私が手を伸ばすと壁に触れ、そこから紙がリボンのように垂れ下がってきた。ホームズの冷たく細い手が私の手首に巻き付き、長い廊下を導いて行った。やげて、ドアの上に薄暗い明かり窓がぼんやりと見えてきた。ここでホームズは突然右に曲がり、私たちは四角い大きな空き部屋に出た。角は暗かったが、中央は向こう側の通りからの光でわずかに明るかった。近くにはランプもなく、窓は埃で暑く覆われていたので、部屋の中では、私たちは互いの顔をやっと見分けられる程度だった。私の相棒は私の方に手を置いて唇を私の耳元に寄せてささやいた。
「ここはどこだと思う?」
「ここは確かにベイカー街だ」と私は薄暗い窓を見つめて答えた。
「その通り。ぼくらはカムデン・ハウス(地図の15)にいるんだ。ぼくらのなじみの家(地図の1)の真向かいの建物だ。」
「でも、なぜ私たちはここにいるんだい?」
「なぜなら、あのわれらが住む美しい建物を間近に拝めるからだよ。ねえ、ワトソン、君自身の姿が見られないよう細心の注意を払って、もう少し窓に近づいてくれないか。そして、数多くの小さな冒険譚の出発点になった、れらが懐かしき部屋をみてくれないか?そうすれば、3年間の不在でぼくが君を驚かせる力を失なってしまったかどうか分かるだろう。」
ワトソンが向かいの建物の窓を見ると、なんと部屋にはホームズの姿がありました。ホームズは、あの姿は蝋人形なのだと説明しました。なぜ蝋人形をわざわざ置いたのか?それは、モリアーティ一味の残党に見張られていることを知り、今夜この悪党がホームズを狙っていることを知り、向かいの空き家で逆に待ち伏せしていたのです。
Illustration by Sydney Paget )
やがて、真夜中になったところで、思いがけず、通りからではなく、ホームズのいる空き家の裏から、部屋に忍び込んでくる人影がありました。男は窓を開け、銃を構えて、蝋人形のホームズに狙いを定めて引き金を引きました。その瞬間、ホームズが男に飛びかかり、二人がかりで組み敷きました。ホームズは呼び子を鳴らして、通りで警備中の警官を呼びました。やがてレストレード警部が姿を現した。
捕らえた犯人は、ライヘンバッハの滝でホームズを襲ったモラン大佐であり、また、パーク・レーン殺人事件の犯人だったのです。
(『空き家の冒険』 おわり)