スイス・アルプス旅行 世界遺産への旅

2023/06/29 壮大なマッターホルンの朝焼けショー

旅行記

マッターホルンの朝焼け

快晴の朝。教会横の通称「日本橋」に夜明け前の5時過ぎからカメラ片手に待機して、奇跡とも言われるマッターホルンの世にも稀な朝焼けをバッチリ撮影することができました。

ツェルマットには、かつて日本人観光客が多く訪れていましたが、その頃、マッターホルンが特によく見えるビューポイントとして、中心部に近い川にかかる橋に日本人が集まってきたことから、「日本人橋」と呼ばれるようになったそうです。

「日本人橋」から眺めるマッターホルンの朝焼けと夕焼けの様子は、絶景として人気を博しています。日本人橋の場所は、下の地図に示す通りで、ツエルマット駅からメインストリートを南下して、教会の角を左折してすぐのところです。橋の欄干から南西方向に川を見下ろすと、正面にマッターホルンの優美な姿が大きく見えます。

6月29日午前5時すぎ、まだ夜明け前、カメラを担いで日本人橋に行って見ると、すでにカメラを持った観光客が20人ほど来ていて、橋の欄干に沿って場所取りをしていました。幸い、まだ欄干にいい撮影スペースが残っていたので、早速カメラを構えて、夜明けの瞬間を待ち構えました。以下の写真は、夜明け前から朝焼けまでのマッターホルンの様子を撮ったものです。

5時26分。夜明け前のマッターホルン

5時33分。日本人橋の上でカメラを構える観光客

いよいよ、5時38分。そのときがやってきました。突然、マッターホルンの山頂部に、ポッと鮮やかな朝焼けが映し出されました。まるでマジックを見ているかのような、不思議で感動的な光景でした。

5時38分。マッターホルンの山頂にポッと朝焼けの灯がともった瞬間。

2分後の5時40分には、朝焼けの部分がわずかに広がると同時に、さらに鮮やかな赤味を帯びてきたのがわかります。

5時40分。さらに鮮やかな赤に染まったマッターホルン。

5時42分。朝焼けは、さらに下の方まで降りてきました。

5時42分。マッターホルンの朝焼けは、さらに下まで降りてきました。

5時44分。マッターホルンの朝焼けは、山の肩まで降りてきました。鮮やかな赤い朝焼けは、だいぶ落ち着いてきました。一大パノラマショーは終わりに近づいてきました。

5時44分。朝焼けのショーは終わりに近づいています。

5時57分。マッターホルンの上部がほぼ朝焼けに染まり、朝焼けショーは大団円を迎えました。

6時1分。望遠レンズで拡大したマッターホルンの山肌。

橋を降りて、川べりに歩きながら、マッターホルンの朝焼けの少し違った光景を楽しみました。朝焼けの迫力は満点ですが、建設中のホテルのクレーンが邪魔して、せっかくの景色が台無しですね。橋の上からだと、ちょうどクレーンが森の影に入って隠れていたので良かったのですが、、、

川縁から見たマッターホルンの朝焼け

川縁でマッターホルンの朝焼けのバックに自撮り

この後、少し上流まで歩き、クレーンが見えなくなったところで、自撮り棒をミニ三脚にして、朝焼けのマッターホルンを背景に自撮りでポートレートを撮りました。これは上手に撮れ、いい思い出になりました。

日本人橋の手前にある教会は、ツェルマットのシンボル的な存在ですが、ここからもマッターホルンの朝焼けが少しだけ見えました。建物越しに見たマッターホルンの朝焼けも魅力的です。

教会の壁とホテル越しに見たマッターホルン

ツェルマットのメインストリートから見たマッターホルン

ツェルマットのメインストリート、帰り道

ホテルに戻って、テラスでマッターホルンを見ながら楽しい朝食

参考資料:ツェルマットについて

参考資料:マッターホルン

Wikipediaより

マッターホルン(独: Matterhorn)は、アルプス山脈に属する標高4,478mの山である。イタリア語では「チェルヴィーノ」(Cervino、「鹿の角」の意)、フランス語では「セルヴァン」(Cervin)である。

山頂にはスイスとイタリアの国境が通り、麓の町はスイス側にツェルマット、イタリア側にブレイユ=チェルヴィニアがある。マッターホルンという名称は、ドイツ語で牧草地を表す「Matt」と、角または角のような山頂を表す「Horn」に由来している。

マッターホルンの切り立った北壁は、アイガーおよびグランド・ジョラスと合わせ三大北壁と呼ばれる。

マッターホルン登攀史

マッターホルンが制覇されたのはアルプスの他の山々と比べれば最近のことである。これは技術的な困難によるものではなく、この山が霊峰であるということを初期の登山家達が恐れたからであった。マッターホルン制覇の試みが始まったのは1857年頃で、多くの登山家はイタリア側から挑戦した。しかしイタリア側の登山路は険しく、多くの登山隊は岩壁を攻略できずに退散した。

数回の失敗と民族主義的な中傷を受けつつも、1865年7月14日、エドワード・ウィンパー、チャールズ・ハドソン、フランシス・ダグラス卿、ダグラス・ハドウのイギリス人パーティはミシェル・クロとタウクヴァルター父子をガイドにして登頂に挑戦して初めてこれに成功、これがアルプス黄金時代の終焉とされる。この時に選んだヘルンリ尾根を通る登山路は他のルートより平易であった。下山中、ハドウの滑落にクロとハドソン、ダグラス卿が巻き込まれ、クライミングロープが何らかの衝撃により切れ4人は1,400 m下に落下して死亡した。発見されなかったダグラス卿を除く3人の遺体はツェルマットの墓地に埋葬された。なおウィンパー著『アルプス登攀記』が岩波文庫上下と講談社学術文庫で刊行されている。

初登頂から3日後の7月17日、ジャン=アントワーヌ・カレル率いる登山隊がイタリア側からの登頂に成功した。1868年にはジュリアス・エリオットが自身2度目の登頂を果たし、同年ジョン・ティンダルは2人のガイドとともにマッターホルン初縦走に成功した。1871年にはルーシー・ウォーカーがライバルのメタ・ブレヴォールに数週間先だって女性初の登頂を成し遂げた。1923年には日本人として麻生武治が初登頂を果たした。

その他の主な登頂記録:

1879年9月3日 - アルバート・ママリーらがツムット稜から登頂。
1931年8月1日 - トニー・シュミット、フランツ・シュミット兄弟が北壁を初登頂。
1965年2月22日 - ヴァルテル・ボナッティが初の冬季北壁単独登頂(新ルート)。
1965年8月6日 - 芳野満彦と渡部恒明が北壁を日本人初登頂。
1967年7月19日 - 今井通子、若山美子の2人が女性パーティーとして初めて北壁からの登頂に成功。
1969年7月29日 - 福島博憲が単独で北壁を日本人初登頂(世界第三登)。
1977年2月16日 - 長谷川恒男が冬季北壁単独第二登。

(Wikipediaより)

ウィンパーの初登攀

エドワード・ウィンパー(Edward Whymper 、1840年4月27日 - 1911年9月16日)

ロンドンに生まれる。11人兄弟姉妹の次男で、父が画家だったので家業を引き継いだ。1860年に「英国山岳会 アルパイン・クラブ」からの依頼によりアルプス山脈に赴き、それ以来登攀を続け、とりわけ1865年に7度目の挑戦でマッターホルンを初登頂したが、下山中に仲間4名が遭難死し、大きな非難を浴びた。それらに対する回答と弁明を兼ね、1871年に出版された『アルプス登攀記』は多大な反響を呼び、間もなくフランス語やドイツ語に訳された。1867年と1872年にはグリーンランドに探検調査している。

1879年冬から80年夏にかけエクアドルに遠征探検し、赤道地域のアンデス山脈にあるチンボラソなど8つの高峰を登頂した、1891年に『アンデス登攀記』を出版している。生態系の調査、地理測量も精密に行っており、画家なので彼の著書には多数の図版が用いられ、描写の迫真性ゆえに著作が登山探検記の古典になる一助ともなった。1892年に王立地理学会から金メダル(パトロンズ・メダル)を授与された[1]。ヘンリー・ウォルター・ベイツの著書の挿絵を製作し、共同研究もしている。

画家としての仕事は、20世紀に入る辺りに写真技術の普及に伴いたたんでいる。1899年に講演旅行のためアメリカ合衆国に、1900年代初頭にはロッキー山脈登山旅行(探検紀行ではない)のため、カナダに3度赴いた。1911年登山旅行中に、フランス・モンブランにあるシャモニー=モン=ブランの旅館で急逝した。

(Wikipediaより)


 

「 一八六五年七月十三日午前五時半に、私たちはツェルマットを出発した。雲ひとつなく、見事に晴れわたった朝であった。私たちの一行は、全部で八人であった クロー、老ペーテルと彼の息子二人*、フランシス・ダグラス 、ハドウ、ハドソン*、そして私の都合八人であった。全部が って休みなく登っていけるように、山案内または人夫と、登山者とを一人ずつ組み合せることにした。そして私は、一番年の若いタウクワルダーと一緒になった。この若ものは、なかなか足も達者だったし、一行に加えてもらったことが嬉しく、自分の力量を人に見せることができるのだと勇んでいた。ブドウ酒の皮袋を私はもたされていた。」

「最初約四百フィートほど、この斜面を水平に進み、それから頂上の方に向けて、まっすぐに六十フィートほど登り、そしてまたツェルマットへ落ちている山稜に戻ったのであった。そしてややむつかしい岩を大きく回ると、また雪の上に出た。ついに最後の懸念も消え去った!  マッターホルンは、われわれのものになったのだ!  頂上までは、 か二百フィートほどのやさしい雪しか残っていなかったのだ。  しかしここで、七月十一日にブルイユを出発した七人のイタリア人たちの一行のことを、思い起こして欲しい。彼らが出発してから、既に四日たっているのだ。私たちより先に、彼らが頂上に登ったかどうか、その不安が、心を悩ましつづけていた。ここまで登って来る間にも、そのことを私たちは話し合っていた。「頂上に人影が見えた」と、なん度誤って声を出したか分らない。頂上が近づくにつれて、その心配は一層強くなってきた。最後の瞬間に負けるなどということがあったら、どうだろう。斜面の傾斜がゆるくなってきた。もうロープをはずしても差しつかえなくなったので、クローと私は、ロープをはずし、先を争いながら駆けだした。そして殆んど同時に頂上に登りついた。午後一時四十分であった。ついに頂上に立ったのだ。マッターホルンは征服されたのだ。フレー!  雪の上には、一つの足跡もなかった。」

『アルプス登攀記 下 (岩波文庫)』ウィンパー,浦松 佐美太郎著

スイスの日の出日の入り時間

スイスは日本より緯度が高い上、サマータイムを導入しているので、夕刻になってもまだ日中のように明るく、一日の時間を 得した気分になります。

日付 日出 日没 日長
2023年06月01日 05:36:24 AM 09:13:31 PM 15h 37m 7s
2023年06月20日 05:32:34 AM 09:24:52 PM 15h 52m 18s
2023年06月21日 05:32:46 AM 09:25:05 PM 15h 52m 19s
2023年07月01日 05:36:57 AM 09:25:04 PM 15h 48m 7s

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