Sherlock Holmes Museum : Photo by givingnot@rocketmail.com

ロンドン聖地巡礼「シャーロック・ホームズ」(準備編)

『シャーロック・ホームズ』シリーズの小説は世界的なベストセラーになりましたが、その後、映画やテレビドラマ、アニメなど多くのメディアで原作のリメイク版が作られ、いまだに強い人気を持ち続けています。とくに、2010年から2017年にかけて、21世紀のロンドンを舞台にリメイクされたBBC制作のドラマ「シャーロック」は、大人気を博し、主演のベネディクト・カンバーバッチは、一躍スターダムにのし上がりました。このドラマシリーズは、日本でも2011年からNHK BSで放送され、現在では、NETFLIX、HULU、dtvなどの動画配信サービスでも放映されています。

21世紀版「シャーロック」の興味深い点は、手紙、電報、新聞、雑誌など、情報通信手段の限られていた19世紀末と違って、ホームズがEメール、ウェブ、スマートフォン、GPS、監視カメラ、ノートPCなどのハイテク情報機器を駆使しているということです。私の専門であるインターネット社会論の視点からも、きわめて興味をそそられるところです。もしコナン・ドイルが21世紀に生きていたら、きっとこうした最新の情報通信機器を小説の中に取り入れていたことでしょう。

それでは、作者のコナン・ドイルは、その人生の中で、どのようにして「シャーロック・ホームズ」と出会い、「ホームズ」シリーズの小説を書くに至ったのでしょうか? 本論に入る前に、ドイル自身の「自伝」と伝記を通じて、「シャーロック・ホームズ」誕生秘話を探ってみたいと思います。

(コナン・ドイルの肖像写真:1893年)

コナン・ドイルと「シャーロック・ホームズ」

困窮の中で育ったコナン・ドイル

アーサー・コナン・ドイルは、1859年5月22日スコットランドのエディンバラで、ジョン・ドイルの末子として生まれました。ジョンはマンガの始祖ともいうべき人で、ロンドンで高名を馳せました。けれども、収入は少なく、ドイル一家は貧しい生活を余儀なくされました。アーサー少年は、両親からスパルタ式の厳しい教育を受けて育ちました。

ベル教授との出会い

1976年、アーサーはエディンバラ大学の医学部に進み、医学の他に、植物学、化学、解剖学、生理学、その他多くの科目を履修しました。アーサーが教えを受けた数多くの教授の中で、もっとも大きな影響を受けたのは、ジョゼフ・ベル博士でした。この人はエディンバラ診療所の医師で、心身ともに非凡な人でした。

やせっぽちで眼や髪が黒ずんでおり、鼻が高くて顔つきが鋭く、やせた肩をいからせてひょいひょいと飛ぶように歩いた。声は高くて調子はずれだった。きわめて熟練した医師で、強みの診断は病状ばかりでなく患者の職業や性格のことにまで及んだ。
(コナン・ドイル『わが思い出と冒険』より)

このベル博士は、のちに「シャーロックホームズ」の中で、ホームズのモデルになりました。ベル博士の下した鋭い診断について、ドイルは次のような逸話を紹介しています。

もっともよい実例では一市民患者に先生がたずねる。
「ははあ、君は軍隊にいましたね?」
「そうです。」
「近ごろ除隊になったね?」
「そうです」
「高地連隊だね?」
「そうです。」
「下士官だったね?」
「そうです。」
「バルバドス駐屯隊だね?」
「そうです。」
「さて諸君、これはまじめで卑しからぬ人なのに、はいってきても帽子をとらない 軍隊ではそうするのが普通であるが、これは除隊してまがない から、一般市民の風になれるひまがなかった。見たところ威力があるし、明らかにスコットランド人だ。バルバドスといったのは、この人の訴えて いる病苦は象皮病であるが、この病気は西インド地方のもので、イギリスにはない。」 説明を聞くまでは多くのワトスンたちには不思議でならないが、聞いてみれば至極なんでもないことだ。そういう人の特性を研究した私が、後年科学的探偵を書くようになったとき、これを強化応用した のに不思議はあるまい。
(コナン・ドイル『わが思い出と冒険』より)

医者になったドイル

1880年、ドイルが21歳のとき、彼は7ヶ月間、捕鯨船に乗り組み、北極洋を航海しました。このあたりは、日本の作家、北杜夫と共通したところがあります。どちらも後日、痛快な冒険談を書くことになります。

航海から戻ったドイルは体格堂々とした成人になっていました。1881年には卒業試験にパスし、開業医の資格を得ました。とはいっても、すぐに開業したわけではなく、1881年には船医として、再び3ヶ月間の航海に出ています。

航海からイギリスに戻ると、ドイルはポーツマス郊外のサウスシーという町で開業医としての仕事を始めました。同時に、この頃から文学の創作活動を始めました。当初は匿名で雑誌に発表するだけで、無名のままでした。やがて、少年時代から尊敬する探偵小説家のポーのデュパンのような人物を主人公とする小説を書けないだろうかと思うようになり、ベル博士をモデルとした科学探偵を構想するに至ります。

この思いつきは私を喜ばせた。その男の名を何としよう?  私は今でもノートの一葉を持っているが、それにはあれかこれか、いろんな名が書い てある。名前というものはある程度その人物の性格を暗示するという基本的性質があって調和がむずかしい。初めはシャープズ氏かそれともファーリッツ氏かとも思ったが シャーリングフォード・ホームズ にきめ、それからシャーロック・ホームズに改めた。
(コナン・ドイル『わが思い出と冒険』より)

「ホームズ」シリーズ第1作『緋色の研究』の出版

こうして、名探偵「シャーロック・ホームズ」が誕生したのです。この人物を主人公として書かれたのが『緋色の研究』(A Study in Scarlet)でした。しかし、この小説の船出は決して順調なものとはいきませんでした。1886年5月にドイルがアロウスミス社に送った原稿は、2ヶ月後には送り返されてしまったのです。

最後に、ワードロック社に原稿を送ってみたところ、出版の承諾を得ることができました。ただし、25ポンドで買い取るという条件つきでした。貧窮状態にあったドイルは、やむなくこの条件を飲み、承諾の返事を出しました。その結果、シャーロック・ホームズ第1作『緋色の研究』は、1887年のクリスマスに刊行され、版を重ねることになりました。しかし、ドイルは版権を売り渡してしまったために印税を受け取ることはできませんでした(後に、ドイルはこの作品の版権を高額で買い戻しています)。

(『緋色の研究』が掲載された「ビートンのクリスマス年鑑」 Wikipediaより)

『ストランド』誌における「ホームズ」シリーズの連載と成功

この頃、アメリカではイギリス文学が流行しており、ドイルの『緋色の研究』もアメリカで成功を収めました。『緋色の研究』に目をつけたアメリカの出版社の依頼を受けて、1890年、ドイルは「ホームズ」シリーズの第2作『四つの署名(The Sign of Four )を書き上げ、2月から『リピンコッツ』誌に掲載しました。10月には、イギリスの出版社から単行本が刊行されています。この2冊で、「シャーロック・ホームズ」の骨格が固まり、翌1891年の7月から『ストランド』誌に「ボヘミアの醜聞」が掲載され、幅広い読者の支持を得るに至りました。このあと、1927年まで、「ホームズ」シリーズの短編小説が連載され、大人気を博すことになります。

「ストランド」誌での成功は、挿絵を担当したシドニー・パジェット(Sydney Paget)の才能に負うところも少なくありません。パジェットの描いたシャーロック・ホームズは、作者ドイルの抱いていたイメージとは違っていたとはいえ、近年の映画やテレビに至るまで、ホームズの人物イメージを造形する上で大きな影響を与え続けています(2011年BBC制作の「シャーロック」は、こうしたホームズ像を覆すものといえるでしょう)。

(「ホームズ」シリーズを連載した『ストランド』誌 Wikipediaより)

(Sydney Pagetの描いたホームズとワトソン
『シャーロック・ホームズの冒険』より)

次のページへ >

-未分類