シャーロック・ホームズの思い出
コナン・ドイルは、『シャーロック・ホームズの冒険』を1891年7月から『ストランド』誌に連載し始めましたが、当初は6編で打ち切りにするつもりでした。しかし、読者から大好評だったため、ストランド誌の編集者はぜひ連載を継続してくれるようドイルに強く依頼しました。その結果、ドイルは折れる形で1892年6月号まで計12編の『冒険』シリーズを掲載することになりました。しかし、このシリーズの最後の号で、シャーロック・ホームズを「殺す」、つまりシリーズを最終的に打ち切ろうと考えていました。ドイルは、母親にこのことを打ち明けました。すると、シャーロック・ホームズシリーズの愛読者であった母親がこれに猛反対し、自分がドイルに話した金髪の少女が失踪するというアイディアで書くよう強く薦めました。その結果できたのが「ぶな屋敷」という短編で、ホームズは殺されずに済みました。
しかし、コナン・ドイルにとってシャーロック・ホームズの物語は、自分のめざす歴史小説などのハイブラウな小説に比べると低級なもので、いずれは終わらせたいという気持ちは変わりませんでした。1892年2月に、ドイルはストランド誌からホームズシリーズの続編執筆を依頼されていましたが、当時は他の小説の執筆で忙しく、また乗り気でもなかったので、なかなか応じなかったのですが、「新シリーズに1000ポンド出すか」という無理とも思える要求を出したところ、意に反してストランド誌はこれを受け入れたため、いやいやながらも新シリーズの執筆に応じることになったのでした。しかし、シリーズ完結編の「最後の事件」では、ホームズはついに死んでしまうことになります。ホームズが生還して再び登場するまでには、10年の歳月を待たねばなりませんでした。
1892年12月号から連載された新シリーズは、『ストランド』誌の1892年12月号から1893年12月号まで連載されました。
The Adventure of the Cardboard Box ボール箱(1893年1月号)
The Adventure of the Yellow Face 黄色い顔(1893年2月号)
The Adventure of the Stockbroker's Clerk - 株式仲買店員(1893年3月号)
The Adventure of the "Gloria Scott" グロリア・スコット号事件(1893年4月号)
The Adventure of the Musgrave Ritual マスグレーヴ家の儀式(1893年5月号)
The Adventure of the Reigate Squire ライゲートの大地主(1893年6月号)
The Adventure of the Crooked Man 背中の曲がった男(1893年7月号)
The Adventure of the Resident Patient 入院患者(1893年8月号)
The Adventure of the Greek Interpreter ギリシャ語通訳(1893年9月号)
The Adventure of the Naval Treaty 海軍条約文書事件(1893年10月号・11月号)
The Adventure of the Final Problem 最後の事件(1893年12月号)
連載終了後、短編集は単行本『シャーロック・ホームズの思い出』("The Memories of Sherlock Holmes")として1893年に出版されました。
以下では、『シャーロック・ホームズの冒険』と同様、主な舞台がロンドンである短編に限定して、その内容とロンドン市内の関連スポットを紹介したいと思います。
白銀号事件 The Adventure of Silver Blaze
車中での推理
Illustration by Sydney Paget )
ウェセックス杯の本命馬、白銀号(Siver Blaze)が謎の失踪を遂げ、調教師が惨殺されるという事件が起きたあと、ホームズとワトソンは事件を解明すべく、パディントン駅(地図の2)からダートムア行きの列車に乗り込みました。車中、ホームズはワトソンにこれまでに分かっている事件の概要を詳しく説明しました。
"Silver Blaze," said he, "is from the Isonomy stock, and holds as brilliant a record as his famous ancestor. He is now in his fifth year, and has brought in turn each of the prizes of the turf to Colonel Ross, his fortunate owner. Up to the time of the catastrophe he was the first favourite for the Wessex Cup, the betting being three to one on him. He has always, however, been a prime favourite with the racing public, and has never yet disappointed them, so that even at those odds enormous sums of money have been laid upon him. It is obvious, therefore, that there were many people who had the strongest interest in preventing Silver Blaze from being there at the fall of the flag next Tuesday.
"The fact was, of course, appreciated at King's Pyland, where the Colonel's training-stable is situated. Every precaution was taken to guard the favourite. The trainer, John Straker, is a retired jockey who rode in Colonel Ross's colours before he became too heavy for the weighing-chair. He has served the Colonel for five years as jockey and for seven as trainer, and has always shown himself to be a zealous and honest servant. Under him were three lads; for the establishment was a small one, containing only four horses in all. One of these lads sat up each night in the stable, while the others slept in the loft. All three bore excellent characters. John Straker, who is a married man, lived in a small villa about two hundred yards from the stables. He has no children, keeps one maid-servant, and is comfortably off. The country round is very lonely, but about half a mile to the north there is a small cluster of villas which have been built by a Tavistock contractor for the use of invalids and others who may wish to enjoy the pure Dartmoor air. Tavistock itself lies two miles to the west, while across the moor, also about two miles distant, is the larger training establishment of Mapleton, which belongs to Lord Backwater, and is managed by Silas Brown. In every other direction the moor is a complete wilderness, inhabited only be a few roaming gypsies. Such was the general situation last Monday night when the catastrophe occurred.
(from Conan Doyle, "The Adventure of Siver Blaze")
単語と意味:
日本語訳:
このことは、もちろん大佐の厩舎があるキングス・パイランドでも分かっていた。この人気馬を守るための対策が講じられていた。調教師のジョン・ストレイカーは、体重超過で失格になるまでは5年間ロス大佐の馬に騎手として乗っていたが、引退後は7年間調教師をつとめ、つねに熱心かつ真面目に仕事を勤めてきた。彼の下で働いていたのは3人の若者だった。というのは、厩舎は小さく、馬は4頭しかいなかったからである。このうちの一人が厩舎で寝ずの番をし、ほかの2人は2階で眠った。3人とも素晴らしい資質を備えていた。ジョン・ストレイカーは結婚していたが、厩舎から約200ヤード離れたところの小さな家に住んでいた。子供はなく、女中を一人雇っていたが、暮らし向きは悪くない。この辺の地域は寂しいところだが、北に1マイルも行くと、タヴィストックの土建業者が建てた村があり、ダートムアのきれいな空気を楽しみたい病人などが利用している。タヴィストックの町は西方1マイルのところにある。一方、原野をはさんで約2マイル離れたところには、バックウォーター卿の所有するメイプルトンの大きな厩舎があり、サイラス・ブラウンが管理している。あとは、どこを向いても荒れ地ばかりで、いくらかの放浪するジプシー達が住んでいるばかりだ。これが先週の月曜日夜に惨劇が起きたときの状況だ。
ホームズは、その夜の出来事を次のように話しました。「その日の夜9時すぎ、メイドのメーディス・バクスターは、ランタンを持って警備のために厩舎に残ったネッド・ハンターに夕食を運んだ。厩舎まで30ヤードのところまで来た時、一人の男が暗闇から現れ、白い紙切れを厩舎の男に渡すよう頼んだ。ネッドが逃げると、厩舎まで行き、ハンターにレースの情報を聞き出そうとした。ハンターはこれに怒り、犬を放しに奥へ行っている間に、男は逃げてしまった。ハンタはそのことを調教師のストレイカーに報告した。ストレイカーはこれを聞いて興奮したようすだった。午前1時頃、ストレイカー夫人が目を覚ますと、ストレイカーは服を着替えていた。尋ねると、馬のことが心配で眠れないのだという。そして、安全かどうか確かめるために厩舎に行くのだと答えた。彼女がやめるように懇願したにもかかわらずストレイカーは出かけて行った。
ストレイカー夫人は翌朝7時に目を覚ましたが、夫はまだ戻っていなかった。厩舎に急ぐと、ドアが開いていて、ハンターが意識不明で倒れていた。シルヴァーブレイズの厩舎は空っぽで調教師の姿もなかった。二人の若者はぐっすり眠っていて何も聞いてはいなかった。ストレイカー夫人と二人の若者は、調教師と馬を探しに出かけたが、厩舎から約4分の1マイル先で、調教師の死体が発見された。死体の頭は鈍器で殴られたような傷があり、腿には鋭い刃物で切られたような切り傷があった。馬の行方は、それ以来まったく不明である。」
Illustration by Sydney Pading )
これが車中にホームズの話した怪死事件の概要でした。また、警察の捜査状況については、次のように説明しました。「事件を担当するグレゴリー警部は、現地に到着するや、容疑者としてフィッツロイ・シンプスンという男を逮捕した。彼の賭け帳を調べたところ、大金をシルヴァー・ブレイズ以外の馬に賭けていたことが分かった。また、ダートムアにやってきたのは、二番人気の馬についての情報を得るためで、事件当夜にストレイカーの厩舎に来たことも認めたという。」以上が、車中でホームズが話した事件の経緯でした。
現場検証と新たな疑惑
事件が怒ったタヴィストックに着いたホームズとワトソンはロス大佐とグレゴリー警部の出迎えを受けました。ストレイカーの死体が安置されている場所で、ホームズは、死体が握っていた珍しいナイフを念入りに調べました。また、遺体のポケットに入っていた、ボンド・ストリートのマダム・レスリエという夫人帽子屋からの高額な請求書にも注意しました。
ホームズは、失踪した馬の行方を捜して、レースで二番人気の馬がいるケイプルトンの厩舎へと跡をたどって行きました。馬の足跡は、メイプルトン厩舎の前まで続いていました。調教師のサイラス・ブラウンと話し合った結果、彼がシルヴァー・ブレイスを隠していことを認めました。
Illustration by Sydney Paget )
ホームズは、再びグレゴリー警部に会うと、自分はロンドンに戻ること、大佐の馬は必ずレースに出場することを伝え、タヴィストックをあとにしました。
ストレイカー殺害の犯人は?
4日後、ホームズとワトソンはウェセックスの競馬レースを観戦するために、再びタヴィストックを訪れた。すると、思いがけなくシルヴァー・ブレイズへの賭け金額が跳ね上がっていた。出走表にもシルヴァー・ブレイズ号がリストアップされていた。さて、レースの結果とストレイカー殺害の犯人はどうなったのでしょうか? 少し長くなりますが、ストーリーのクライマックスを原文で読んでみることにしましょう。
From our drag we had a superb view as they came up the straight. The six horses were so close together that a carpet could have covered them, but half way up the yellow of the Mapleton stable showed to the front. Before they reached us, however, Desborough's bolt was shot, and the Colonel's horse, coming away with a rush, passed the post a good six lengths before its rival, the Duke of Balmoral's Iris making a bad third.
"It's my race, anyhow," gasped the Colonel, passing his hand over his eyes. "I confess that I can make neither head nor tail of it. Don't you think that you have kept up your mystery long enough, Mr. Holmes?"
"Certainly, Colonel, you shall know everything. Let us all go round and have a look at the horse together. Here he is," he continued, as we made our way into the weighing enclosure, where only owners and their friends find admittance. "You have only to wash his face and his leg in spirits of wine, and you will find that he is the same old Silver Blaze as ever."
"You take my breath away!"
"I found him in the hands of a fakir, and took the liberty of running him just as he was sent over."
"My dear sir, you have done wonders. The horse looks very fit and well. It never went better in its life. I owe you a thousand apologies for having doubted your ability. You have done me a great service by recovering my horse. You would do me a greater still if you could lay your hands on the murderer of John Straker."
"I have done so," said Holmes quietly.
The Colonel and I stared at him in amazement. "You have got him! Where is he, then?"
"He is here."
"Here! Where?"
"In my company at the present moment."
The Colonel flushed angrily. "I quite recognise that I am under obligations to you, Mr. Holmes," said he, "but I must regard what you have just said as either a very bad joke or an insult."
Sherlock Holmes laughed. "I assure you that I have not associated you with the crime, Colonel," said he. "The real murderer is standing immediately behind you." He stepped past and laid his hand upon the glossy neck of the thoroughbred.
(from Conan Doyle, "The Adventure of Silver Blaze" )
単語と意味:
「ともかく、このレースはものにしたんだが」と大佐は手で目をふきながら、あえぐように言った。「いったい何がどうなっているのか、さっぱり分からないんだ。ホームズさん、あなたは長いことこのミステリーについて黙っているおつもりなんですか?」
「もちろんです、大佐殿。いまからすべてをお話ししましょう。みんなで行って、馬をみてきましょう。ああ、ここにいました。」 オーナーとその友人しか入ることを許されない計量所の中に入りながら、ホームズは話を続けた。「馬の顔と足を蒸留酒で洗うだけでいいんです。そうすれば、この馬が以前と変わりないシルヴァー・ブレイズ号だということがお分かりになるでしょう。」
「びっくりしましたなあ!」
「私はこの馬があるペテン師のもとにあるのを見つけ、元通りの姿で自由に走らせることができました。」
「親愛なるホームズさん、あなたはまさに奇跡を起こされました。馬はとても元気で調子よさそうです。これまででもっとも好調といってもいいくらいです。私はあなたの能力を疑ってことに対し、なんとお詫びを申し上げたらいいかわkりません。私の馬を取り戻してくださることにたいへんご尽力いただきました。この上は、ジョン・ストレイカー殺害犯を挙げていただければ、なおありがたいのですが。」
「すでに挙がっていますよ」とホームズは静かに言った。
大佐と私は驚いて彼を見つめた。「あなたが犯人を挙げたと! では、いったいどこにいるんですか?」
「ここにいますよ」
「ここですと! どこに?」
「いまこの瞬間、私たちのなかにいます」
大佐は怒って顔を真っ赤にした。「ホームズさん、たしかに私はあなたに恩義を受けていることは十分承知していますが、あなたがいま言われたことはたちの悪い冗談か侮辱と言わざるを得ませんぞ」
シャーロック・ホームズは笑った。「あなたがこの犯罪に関わっていないことは保証しますよ。本当の殺害犯はあなたのすぐ後ろに立っています。」 彼はつかつかと歩み寄って、サラブレッドの艶やかな首に手を置いた。
Illustration by Sydney Paget )
なんと、ストレイカー殺害の犯人は、名馬シルヴァー・ブレイズだったというのです。事件が解決した後、ホームズとワトソンとロス大佐がロンドンに戻る途中、ホームズは事件の顛末を詳しく語りました。
いくつかの状況証拠から、ホームズは、その晩、ストレイカーが馬を荒野に連れ出したことを突き止めました。ストレイカーが馬に細工を施してレースに勝てないように仕組んだのです。しかし、自分に危害が加えられることを本能的に察知したシルヴァー・ブレイズは、とっさに暴れ出し、蹄でストレイカーの頭部を激しく蹴り、その結果ストレイカーは死亡したのです。ストレイカーが馬に細工しようとした動機は、彼がロンドンにもう一人の妻を持ち、二重生活を送っており、借金返済を迫られていたことにありました。その手がかりは、ボンド・ストリート(地図の3)の帽子屋の高額請求書にありました。ロンドンに戻ったホームズは、請求書の宛先のダービシャという上得意客がストレイカーであることを突き止めたのです。
そうこうしているうちに、列車はクラファム・ジャンクション(Clapham Junction)(地図の4)を通り、ヴィクトリア駅(Victoria Station)(地図の5)に近づいていました。
(『白銀号事件』 おわり)