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散歩の記録
日時:2023年5月10日(水)
天候:快晴
行程:
13:30 目黒駅
13:40〜14:20 東京都庭園美術館
14:25〜14:45 自然教育園
15:10 フランス大使館
15:20 有栖川宮記念公園
15:40 広尾駅
ウォーキングマップ
写真アルバム
東京都庭園美術館
東京都庭園美術館は、JR目黒駅から10分ほど歩いたところにあります。美術館の建物と敷地は、香淳皇后の叔父にあたる朝香宮鳩彦王がパリ遊学後2年をかけて建設し、1947年の皇籍離脱まで暮らした邸宅でした。3年ほど外務大臣公邸として使われた後、1950年に西武に700万円で払い下げられ、白金プリンス迎賓館として1974年まで使われました。1981年に139億円で東京都に売却され、1983年に都立美術館の一つとして公開され、今日に至っています。2011年から全館改修が行われ、2018年3月21日、西洋庭園やレストランも含めて全面リニューアルオープンしました。
旧朝香宮邸の建築経緯
軍事研究のため欧州に留学していた朝香宮鳩彦王は、1923年、パリ郊外で自動車事故に遭って重傷を負いました。看病のため允子妃が急遽渡仏し、夫妻はフランスに長期滞在を余儀なくされました。そうした中、夫妻は1925年にパリ万国博覧会(通称アール・デコ博覧会)を見学し、アンリ・ラパン(Henri Rapin)やルネ・ラリックの作品に接して感銘を受けました。このことが帰国後に夫妻が「アールデコの館」と称されるこの邸宅を建てるきっかけとなったのです。
建物は鉄筋コンクリート造2階建て(一部3階建て)、地下1階で1929年(昭和4年)頃から建築準備に取り掛かり1933年(昭和8年)5月に完成しました。外観は、玄関ポーチの狛犬以外ほとんど装飾がみられませんが、内装には当時流行のアール・デコ様式の粋を尽くした瀟洒な建物となっています。
建築設計は宮内省内匠寮(担当技師は権藤要吉)ですが、主要な室の内装基本設計はフランスのインテリアデザイナー、アンリ・ラパンが担当しています。また正面玄関にある女神像のガラスレリーフや大客室のシャンデリアなどはフランスの宝飾デザイナーでガラス工芸家でもあったルネ・ラリックの作品です。(Wikipediaより)
美術館前の芝生では、入園者たちが、思い思いの場所にシートを敷いて、ゆったりとした時間を過ごしていました。
フランス海軍から贈られたセーヴル製の香水塔といわれます。足元の黒大理石の水盤に花を生け、頂部のワラビ手型の発光器に香水をふりかけるのだといいます。アンリ・ラパンが1932年にデザインしたものと言われています。
アンリ・ラパンについて
アンリ・ラパン (Henri Rapin)は、1873年2月24日パリのブルゴーニュ通り52番地に生まれました。父は画家のアレクサンドル・ピエール・エティエンヌ・ラパンでした。ジャン=レオン・ジェロームとウジェーヌ・グラセットの弟子であったラパンは、アンリ・ベルリー=デフォンテーヌと親交があり、徐々に装飾芸術へと移行し、 1910 年代からアール・デコ様式へと進化したアールヌーボー様式の家具をデザインしました。1905 年から 1930 年まで、彼はトランク メーカーMoynatの芸術監督を務め、カタログのイラストを描き、ビジュアル アイデンティティを作成し、いくつかのオブジェクトをデザインしました。ラパンはエナン・ボーモンのサン・マルタン教会の十字架を制作しました。このセットは 1929 年に完成し、パリに保存されている記念碑的なアールデコ様式の装飾の 1 つとなっています。1925年に開催された国際装飾美術展(アール・デコ展覧会)のために、ラパンはフランス館の大応接室とダイニングルーム、さらにセーヴル磁器のランプをデザインしました。この国際博覧会でラパンがデザインした赤いモロッコ革トランクは「ディプロム ドヌール」を受賞し、当時を代表する高級鞄メーカーとしてのモワナの名声を高めるのに貢献しました。この機会に、彼はカミーユ・タローに会い、1927 年の装飾芸術家サロンで発表された約 20 の形式といくつかの装飾をデザインしました。1933年に竣工した朝香宮邸では、1階に大広間、居間、小居間、前庭、大応接室の7室を設計し、1階に大広間、居間、大広間を設けました。2階は殿下の居間兼執務室。彼が制作した絵画や壁画もあります。ラパンは、1939 年 6 月 28 日に パリ14区のトンブ=イソワール通り35 番地にある自宅で亡くなりました。(フランス語版Wikipediaより)
ラパンの生涯については、1984年までは没年も分からないなど謎が多かったのですが、1985〜86年に柴田いづみ氏(フランス政府公認建築家)の詳細な現地調査によって没年が明らかにされ、ラパンの姪を通じて、現存する唯一の写真が公開されるなど、徐々に解明されるようになりました。(柴田いづみ『ラパンをたずねて』)
裸の少年、少女が遊び戯れている様子を描いたものです。
この大客室には、ルネ・ラリック作のシャンデリア、マックス・アングラン作のエッチングガラスを嵌め込んだ扉、レイモン・シュブ作の半円形のタンパン、アンリ・ラパン作の小壁の壁画など、アール・デコの芸術家の作品が並んでいます。(『アール・デコ建築意匠: 朝香宮邸の美と技法』より)
大食堂の壁面レリーフは大広間の白大理石のレリーフ『戯れる子供たち』を手がけたレオン・ブランショが製作したものです。
ウィンターガーデンは温室としてつくられた部屋で、水道の蛇口や排水溝が備え付けられています。床に大理石を使用した理由は、水による劣化を避けるためだったと考えられています。
サーモンピンクの大理石で製作された暖炉、その上にある円形の鏡などが特徴的な居間です。
黒と白の石が市松模様に張られています。
朝香宮邸内には東側、南側、北側に面した3つの浴室があります。南側に面した第一浴室は殿下と妃殿下の寝室の間に配された浴室で、床にはモザイクタイル、壁面全体とバスタブの周囲には淡い緑色の大理石が張られています。(アール・デコ建築意匠: 朝香宮邸の美と技法』より)
2階のうち、殿下居間と書斎の2部屋はアンリ・ラパンが内装を担当しました。机、椅子、電話台、カーペットはラパンがデザインしたもので、フランスから輸入されました。書斎机は、半円形の机面の両側に方形の扉付袖斗が張り出した幾何学的な形、ウォルナットの木目を活かしてデザインされたアール・デコ様式の机です。
第一階段は、1階の客間から2階の家族の居室をつなぐ表階段です。手摺り部分の階段状のジグザグの連続がアール・デコ特有のリズミカルな動きを表しています。
正面玄関でまず目を引くのは、有翼の女性像を彫ったガラスパネルの扉です。これは、フランスのガラス工芸家、ルネ・ラリックが製作した特注品です。4体の女性像は、訪れる人々を出迎えるかのように、ガラスパネルから高くせり出しています。「アール・デコの館」を象徴する名作です(『アール・デコ建築意匠: 朝香宮邸の美と技法』より)
参考文献
「東京都庭園美術館」 Wikipedia日本版
「東京都庭園美術館」ホームページ https://www.teien-art-museum.ne.jp/
東京都庭園美術館(編)『アール・デコ建築意匠: 朝香宮邸の美と技法』
朝吹真理子他『庭園美術館へようこそ: 旧朝香宮邸をめぐる6つの物語』
『アール・デコの館 : 旧朝香宮邸 』増田彰久写真 ; 藤森照信文(1984)
柴田いづみ『ラパンをたずねて』
※ 美術館から館内の撮影を許可して頂きました。ありがとうございます。(撮影:三上俊治)
自然教育園
庭園美術館を出て左手に行くと、すぐお隣に自然教育園があります。正式名称は、国立科学博物館附属自然教育園。元々は、旧白金御料地でした。室町時代は、この辺りには白金長者と呼ばれる豪族が住んでいたそうです。江戸時代には高松藩主松平頼重の下屋敷として用いられました。明治時代に入ると陸海軍の火薬庫として使用され、一般人の立ち入りが禁止されました。1917年(大正6年)に陸軍から宮内省帝室林野局に委譲され、白金御料地となりました。1949年(昭和24年)に全域が「旧白金御料地」として天然記念物および史跡に指定され、同時に「国立自然教育園」として一般公開されました。1962年(昭和37年)に国立科学博物館附属自然教育園とな理、現在に至っています(Wikipediaより)。このような歴史があって、この公園は、自然がそのままに残されており、都心とは思えない自然環境が保たれています。
入り口から園内に入ると、鬱蒼とした森林が続きます。森林浴には最適のウォーキングコースです。
園内のあちこちに、このような巨木があります。
360度森林の中を散歩するのはとても気持ちがいいですね。
自然教育園の一番奥には、大きな池があり、水生植物園になっています。
水草やキショウブの花が水辺を彩っています。
これは、紫のカキツバタです。
有栖川宮記念公園
自然教育園を出て北東方向に歩いていくと、20分ほどで広尾に至ります。ここには、フランス大使館など外国の公館があり、超高級マンションが軒を連ねています。その先には、有栖川宮記念公園があります。
この公園がある地は、江戸時代は南部藩の下屋敷でしたが、明治29(1896)年に有栖川宮家の御用地となり、その後、記念公園として一般解放されました。園内には併設施設として都立中央図書館があります。
園内の花が美しいとホームページには書いていましたが、時期が悪かったのか、花はあまりありませんでした。近所の子どもたちが園内を駆け回って遊んでいる姿が印象的でした。ただ、坂道につけられて階段は歩きにくく、バリアフリーとは言い難いという印象を受けました。
園内の階段を下り切って、門を出ると、そこは広尾の商店街。外国人やハイソな広尾住民たちで賑わっていました。