新宿区 美術館・博物館

2人の天才画家を偲んで、新宿区落合を歩く

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散歩の記録

日時:2023年12月21日(木)
天候:晴れ
距離:3.3km
歩数:4620steps
カロリー:215kcal
平均速度:2.0km/h

行程:
12:00 下落合駅(西武新宿線)
12:20 佐伯祐三アトリエ記念館
12:50 中村彝アトリエ記念館
13:30 高田馬場駅

ウォーキングマップ

フォトアルバム

今日は、お天気も良かったので、二日連続のお散歩に出かけた。たまたまだが、昨日と同じ西武新宿線の沿線。高田馬場の次の駅、「下落合」で下車。目指すは、新宿区が管理する二つのアトリエ記念館。一つ目は、30歳で夭折した天才洋画家の佐伯祐三のアトリエ。もう一つは、これも37歳という若さで亡くなった洋画家の中村彝のアトリエ。どちらも19世紀末から20世紀初頭にかけて生き、フランス絵画の影響を受けながら、短い期間に独自の傑作を残し、絵画史に一ページを刻んだ画家だった。偶然かどうかわからないが、二人とも新宿区落合の高台にアトリエを建てて、画業に励んだのだった。

下落合駅

佐伯はパリを愛し、2回にわたってパリとその近郊で絵画制作に打ち込んだ。下落合駅を降りて、アトリエのあるほうへ歩き出すと、すぐにかなり急な坂道(西坂)に入った。なんだかパリのモンマルトルを思わせないでもない風景だ。といっても、佐伯が住んだパリの街は、モンマルトルとは反対側のモンパルナスだったから、佐伯が落合にアトリエを構えたのは、特にパリの風景とは関係ないだろう。

西坂の登り口

ちょっとモンマルトルを思わせる石段

佐伯祐三アトリエ記念館

記念館の外観

Gooleマップを頼りに15分ほど歩くと、無事に佐伯祐三アトリエ記念館に着いた。ものすごく細くてくねくねした道でわかりにくかった。管理人から館内の案内を聞き、アトリエに入ってみた。入場料は無料で、カメラもOKのようだ。

アトリエに展示された落合の風景画(テニス)

アトリエは小さいが、その部屋いっぱいに大きな絵が展示されていた。「下落合風景(テニス)」という作品だ。落合にアトリエを構えたあと、地元の風景を連作で残した一つのようだ。パリでの作風とはちょっと違う、具象的だ。

郵便配達夫(1928年)

こちらは、写真だけが展示されていたが、パリで亡くなる直前に描かれた人物画。現存する佐伯祐三の傑作の一つ。「郵便配達夫」の制作をめぐっては、こんなエピソードが残っている。米子夫人の記憶によると、たまたま買い物に行く途中で美しい髭の郵便配達夫に出会ったという。買い物から帰ってくると、佐伯はすでにその老人にモデルの依頼をしていて、承諾を得て嬉しそうだったという。その郵便配達夫は後にも先にもこの時にしか姿を見せなかったことから、米子夫人は、「あの人は神様だったのではないか」と語っていた。こんな不思議な縁からこのような名画が生まれたのだった。もしかすると、死を目前した佐伯に、神様が最後のプレゼントをしてくれたのかもしれない。

この絵画にはユトリロやヴラマンクの影響も垣間見えるとはいえ、如何にも佐伯祐三らしい魅力的な作品に仕上がっている。

佐伯祐三は、この年の夏、自殺未遂を企てたあと、病院に収容され、一切の食事を拒み続けた末、妻が病気の娘の看病で不在な中、一人寂しく衰弱死したのだった。6歳だった一人娘の彌智子も、その30日後に父を追うようにして亡くなった。悲しい家族の別れだった。米子夫人は、帰国後、落合のアトリエに長く住み続け、自らも油絵を描き続けたという。

佐伯祐三公園から記念館を見る

佐伯祐三アトリエ記念館を出ると、記念公園になっている。そこから見たアトリエ記念館の建物がおしゃれで素敵だった。

中村彝アトリエ記念館

佐伯祐三記念館を出て、ふたたびGoogleマップを片手に東の方へ歩くこと約15分で、中村彝アトリエ記念館に着いた。このあたりは、佐伯祐三記念館のあたりよりも道幅が広く、さらに高級な邸宅が立ち並ぶ高台の住宅地だ。坂道も多く、モンマルトルみたいな石段も散見される。

中村彝アトリエ記念館付近のちょっとモンマルトル風の石段

敷地は佐伯祐三アトリエよりも広いが、アトリエは佐伯祐三宅とほぼ同じくらいか。高い天井と大きな光とりの窓が印象的。佐伯祐三とは違って、パリに洋行することもなく、ここで絵画の制作に励んだ。

24歳の時、新宿・中村屋の主人・相馬愛蔵夫妻の厚意で、中村屋の裏にある画室に住むことになった。それが画家としての大きな転機となったらしい。人物画「小女」で文展の三等賞に入賞、画壇にデビュー。この絵のモデルになったのは、相馬家の長女・俊子で、彼女と恋愛関係になり、俊子に求婚するが、中村の結核を理由に両親に反対され、失恋。それが元でこの画室にもいられなくなり、新宿区落合にアトリエを構えることになったのである。その後、俊子は別の男性と結婚し、中村の恋は悲しい終わりを告げたのだった。

記念館アトリエの内部

中村彝の絵画には、西洋近代の絵画、中でもレンブラント、セザンヌ、ルノワール、ゴッホの影響が色こく見られる。どれも美しい絵画だが、中村ならではの強烈な個性というのは感じられない。

その点で、従来の絵画の壁を大きく打ち破ったと思われるのは、「エロシェンコ」という肖像画(1920年)だった。ワシーリー・エロシェンコ(1890年 - 1952年)はアジア各地を放浪していたロシア人の盲目の詩人で、先述の新宿・中村屋の世話になっていた。中村の友人であった鶴田がモデルとしてエロシェンコを中村に紹介し、中村と鶴田はエロシェンコをモデルとして、落合のアトリエで競作の形で肖像画を8日間で完成させたそうである。完成した中村彝の「エロシェンコ」は、明治以降の油絵の肖像画中最高の傑作と評された。

わずか数色で一気呵成に描ききったこの作品は、中村彝の従来の絵画の壁を突き抜けた真に独創的な新境地を築くものであり、日本の絵画史に新たな一ページを開く傑作となったのである。

エロシェンコ像(Wikipediaより)

この頃には、長年の結核が徐々に悪化、下に見るような静物画や、自画像などの傑作も描き続けるも、4年後の1924年、結核のため、37歳の短い一生を終えたのだった。

中村彝アトリエ記念館の外観

「画家の命は短くて、苦しきことのみ多かりき」とでも言えるような、二人の天才画家の一生だった。

もう一つ残念なことは、佐伯祐三の150点もの作品を収集した大阪の実業家、山本發次郎氏のコレクションのうち、100点くらいが第二次対戦中の空襲で焼失してしまったことだ。ただ、約50点が空襲の直前に岡山に疎開させて戦災を免れたのは不幸中の幸いだった。「郵便配達夫」をはじめとする佐伯祐三の傑作を見ることができるのはラッキーだったというべきかもしれない。その後、山本コレクションは遺族を通じて大阪市に寄贈され、これがきっかけとなって、大阪中之島美術館が建設され、2022年2月2日に開館した。素晴らしい総合美術館になったようで、次に大阪に行く時には、ぜひ訪れたいと思っている。

 

奇跡的に残った50点の作品が、中之島美術館に永住の地を得たことで、佐伯祐三の魂はようやく安らぎのときを迎えたのではないだろうか。

 

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