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新宿区:夏目漱石ゆかりの地を歩く

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散歩の記録

日時:2023年1月6日(土)
天候:
距離:6.11km
歩数:5468steps
カロリー:323kcal
平均速度:3.5km/h

行程:
12:40 東西線・早稲田駅(出発点)
12:45 漱石誕生の地
12:30 - 13:30 漱石山房記念館
13:45 - 14:00 コンビニでiPhone充電用のlightningケーブル購入
14:10 - 15:00 マクドナルドでiPhoneを給電、東京散歩ブログ執筆開始
15:15 漱石山房に戻り、GPS計測再開
15:15 - 15:25 漱石公園で猫の墓を撮影
15:35 都電早稲田駅で乗車
15:55 雑司ヶ谷霊園駅下車
16:00 - 16:15 雑司ヶ谷霊園で漱石の墓にお参り
16:20 副都心線・雑司ヶ谷駅(終点)

所要時間:3時間40分

ウォーキングマップ

フォトアルバム

前回の下落合に続いて、今日も新宿区を散歩しました。お目当ての目的地は、明治期の文豪・夏目漱石が生まれ、そして亡くなった「漱石山房」と、雑司ヶ谷霊園にある漱石のお墓です。お天気だったので、4時間近くに及ぶ気持ちのいい散歩になりました。

東西線・早稲田駅(出発点)

出発地は地下鉄東西線の早稲田駅です。漱石がこんなところで生まれ育ったことは、今回初めて知りました。イメージとしては、本郷あたりかと思っていたのですが、それは同じ文豪の森鴎外でしたね。

早稲田駅の2番出口を出ると、すぐ右手に「夏目坂通り」があります。この通り名は夏目漱石のお父さんがつけたのだそうです。

東西線・早稲田駅の出口

夏目漱石誕生の地・碑

漱石が生まれたのは、慶応3年(1867年)。当時は江戸の牛込馬場下横町でした。現在の新宿区喜久井町1番地に当たります。その地には現在はあ「やよい軒」というごはん処があり、横に漱石生誕の記念碑が立てられています。この記念碑は昭和41年(1966)に漱石生誕百年を記念して新宿区が建てたもので、題字は漱石の門下生・安倍能成の筆によるものです。

漱石山房通り

お目当ての漱石山房記念館は、この通りではなく、1本北の「漱石山房通り」にあります。うっかりして夏目坂通りを行きかけて、慌てて戻り、早稲田通りを右折してしばらく歩きました。100メートルほど歩くと、右手に斜めに入る狭い道路があります。これが「漱石山房通り」でした(下の写真を参照)。

 

漱石山房通りは、狭いですが、沿道には伝統的な洋館ふうの建物があり、当時の面影を残しています。新宿区立早稲田小学校、幼稚園です。そこを通り過ぎて、しばらく歩くと、左手に漱石山房記念館が見えてきました。

漱石山房通りから記念館を見る

 

漱石山房記念館

漱石山房記念館は、漱石生誕150周年にあたる2017年9月24日に、夏目漱石が晩年を過ごした漱石山房の地に開館しました。夏目漱石は、40歳から亡くなる49歳までの9年間を「漱石山房」と呼ばれた牛込区早稲田南町7番地の家で暮らしました。この家は和洋折衷の平屋建てで、庭の大きな芭蕉の木や、モダンなベランダ式回廊が大きな特徴になっていました。これらは、山房記念館に再現されています(下の写真を参照)。

早稲田南町に転居した頃から文筆業に専念し始めた漱石は、この地で『三四郎』『それから』『門』『彼岸過迄』『こゝろ』『道草』『明暗』など、数々の代表作を世に送り出しました。客間では毎週木曜日に「木曜会」と呼ばれる文学サロンが開催され、漱石を慕う若い文学者たち(の集いの場にもなっていました。建物は昭和20年(1945)5月25日の空襲で焼失しました。

明治43年(1910)、漱石は『門』を執筆中に胃潰瘍を患い、転地療養先の伊豆修善寺で大量吐血(修善寺の大患)、危篤状態となったものの一命をとりとめます。その後も、『彼岸過迄』『こゝろ』『道草』などを発表しますが、大正5年(1916)49歳の時長年患っていた胃潰瘍が悪化、『明暗』を未完のまま残し、早稲田南町の家で亡くなりました。

記念館の内部で写真撮影が許可されているのは、玄関内ロビー、漱石の人形、再現された漱石の書斎の3箇所だけでした。漱石の人形が置かれているところは、漱石が好んでくつろいだベランダのそばでした。このくつろぎの場所と書斎において、胃潰瘍と神経衰弱という宿命の病を癒しながら、9年間という短い歳月に、あれほどの偉大な小説の数々をほぼ毎年に1回のペースで創作し続けたのでした。

下の写真は、漱石山房のベランダのチェアに坐る晩年の漱石の写真です(Wikipediaより)。貴重な一枚ですね。

漱石山房における漱石の書斎は、当時の写真などをもとに、ほぼ正確に再現されたものです。次々と名作を書き上げた机、筆記用具として用いた筆や墨汁などが印象的です。

iPhoneバッテリー切れのアクシデント

書斎の写真を一通り撮ったところで、iPhoneの画面が突然真っ暗になってしまいました。バッテリーが切れてしまったのです。これには、一瞬焦ってしまいました。歩数計測アプリPacerのGPS計測データがパーになってしまうんじゃないか、ウォーキングルートデータがここで途切れたら「東京散歩日記」ブログが書けなくなるんじゃないか、今日撮った写真も消えてしまうのか?などの不安がよぎりました。

このまま、自宅に戻ろうか、それともどこかでiPhoneを充電できる方法はないものか、と考えを巡らせた挙句、思いついたのは、このあたりのカフェで電源を借りて、iPhoneを充電するという緊急対策でした。その準備として、近くのコンビニで安いLightningケーブルを調達することにしました。これがないと、電源があってもiPhoneに充電ができないからです。こんなとき、Lighteningケーブルしか対応できない、私のiPhone14Proが恨めしくなります。Type-Cのケーブルはバッグに入れてあるのに、Lightningケーブルはうっかりして自宅においてきてしまったのです。

そこで、まずFamilyMartに行って、Lightningケーブルを購入しました。幸い、定価は1,800円と比較的リーズナブルの値段だったので、これを買い、次に早稲田通りを歩いて行ったところ、早稲田駅そばにマクドがあるのを発見。幸い、座席ごとに電源も付いていたので、コーヒーを飲みながら、無事にiPhoneを充電することができました。これで、今日の「東京散歩マップ」を完結させることができるでしょう。充電している間を利用して、今日の「東京散歩マップ」ブログの作成を開始しました。

漱石公園と猫の墓

再び漱石山房に戻り、玄関前をスタートして、隣りの漱石公園を見学しました。門の前には、夏目漱石の胸像が飾られています。下の写真にみるように、像の右側には、晩年の漱石が座右の銘としたと思われる「則天去私」の碑文が刻まれています。則天去私という言葉は、漱石の著作の中には現れてきませんが、高弟の小宮豊隆著「夏目漱石」によると、漱石が晩年に到達した境地だとのことです。天(神、自然、天然)に従い、私(私利私欲、エゴイズム)を捨てて生きよ、という意味かと思います。この説については、戦後、文藝批評家の江藤淳が真っ向から否定し、それ以降の有力な学説になっているようですが、私は漱石自身、40年にわたる苦難の人生を経たのちに得た「座右の銘」なのではないか、と考えています。

漱石公園に入ると、一番目につくところに、「猫の墓」が立っています。例の『吾輩は猫である』のモデルになった猫です。明治37(1904)年の6〜7月頃、千駄木の夏目家に1匹の子猫が迷い込み、鏡子さん(漱石の奥さん)は反対したものの、漱石の判断で飼うことにしたそうです。そのうちに、小説と同じく名前はなかったとか。早稲田に引っ越した後もこの猫を飼っていたのですが、明治41(1908)年9月13日にこの猫は死に、書斎裏の桜の樹の下に埋められたそうです。漱石の死後、猫の13回忌に合わせて供養塔も建てられ、これをもとに、現在の「猫の墓」が建てられたというわけです。墓の右側の若木は桜なのでしょうか?

都電荒川線・早稲田駅

これで、漱石山房の散策は終わり。最後は、早稲田から都電に乗って漱石のお墓参りに行くことにしました。

 

雑司ヶ谷公園・漱石の墓

都電・雑司ヶ谷駅(終点)

夏目漱石がよくわかる!クイズ10問

最後に、いま鋭意制作中の「クイズいろいろ」サイトから、最新作「夏目漱石がよくわかる!クイズ10問」へのリンクを加えておきました。クイズに関心のある方は、ぜひご訪問ください。

 

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