史跡・旧跡

ハチ公の足跡を訪ねて:駒馬東大前〜渋谷〜青山霊園

 1,702 total views,  5 views today

散歩の記録

日時:2023年11月14日(火)
天候:晴れ
行程:
8:30 家を出る
10:00 駒場東大正門前出発
10:15 - 10:30 炊事門を出て、農学部正門跡を探す
代わりに、東大裏門を発見
この裏門が、かつて農学部の通用門であった可能性あり
10:30 - 11:00 裏門〜松濤1丁目を歩く
11:00 上野英三郎の住所跡付近(現Bunkamura)を散策
11:30 ハチ公前で写真を撮る
地下鉄銀座線で外苑前まで行く
12:00 外苑前下車、青山霊園まで歩く
12:00 - 12:15 青山霊園でハチ公碑と上野教授夫妻のお墓をお参り
歩行距離: 5.22km
歩数:7827steps
カロリー:274kcal
平均速度:3.3km/h

ハチ公生誕100周年記念日に

今や、世界中の人々からヒーローとして人気の的となった、日本の誇る秋田犬の「ハチ」。そのハチが生まれたのは、1923年11月15日頃だったと推測されています。だとすれば、この散歩日記を書いている今日2023年11月15日は、ハチ公の生誕100周年記念日ということになります。ハチ公の足跡を辿ってゆかりの場所を散歩しようと思い立ったのは、それとは全く関係なく、たまたまその時期に当たったという偶然でした。でも、ハチ公との不思議な縁を感じます。ハチ公については、色々と誤解されていることも少なくないようなので、このブログで、そうした誤解を払拭することに、いささかでも貢献したいと思い、筆をとりました。

昨日(11月14日)歩いたのは、ハチが飼い主の上野教授と毎日のように歩いた駒場から渋谷の界隈、上野教授の亡き後、ハチが毎日のように帰りを待ちつづけた渋谷駅のハチ公前広場、そして、最後に上野教授、妻の八重さん、ハチが仲良く一緒に眠っている青山墓地という4ルートです。

ウォーキングマップ

全行程の地図

区間1 東大正門前〜東大農学部正門跡(三田用水跡)

歩行距離: 1.44km
歩数:2341steps
カロリー:73kcal
平均速度:3.5km/h

散歩の出発点は、東京都目黒区駒場にある東京大学教養学部の正門前です。とは言っても、ハチの飼い主の上野教授と直接ゆかりのある場所ではありません。上野英三郎氏は、ハチを飼っていた当時、東京帝国大学農学部の教授で、駒場にある農学部に毎日通勤していました。ただし、当時の農学部キャンパスの正門は、今の正門の場所にはありませんでした。この辺り、少しややこしいので、以下で年表を整理して、当時の時代考証をしておきたいと思います。

東大農学部と駒場キャンパス

ハチの飼い主となった上野英三郎氏の経歴は次のとおりです。
1872年 三重県生まれ
1887年 東京農林学校に入学
1892年 同大農学科に転じる
1895年 農学科卒業
農学士の称号を受け直に大学院に入り農業土木及び農具に関する事項を研究する
1900年(明治33年)7月10日大学院満了。
同年8月東京帝国大学農科大学講師。
東京帝国大学農科大学にて農業土木学を開講(近代農業土木の始祖)
1902年(明治35年)3月農科大学助教授。
1905年(明治38年)には農商務省委託の農業土木技術員養成官の任務に就き、その後20年間に亙って3,000人を越える技術者の育成に努めた
1907年(明治40年)耕地整理担当技術者を集め耕地整理研究会発足 (農業土木学会の前身
1911年(明治44年)には農科大学教授に任ぜられ、農業工学講座を担当する
その後、農学科に農業土木専修コース(後の東京大学農業工学科、現在の東京大学生物・環境工学専修)を設立。当時の農学部は駒場に在った
1924年(大正13年)、上野は念願であった秋田犬を購入しハチと名づけた。
1925年(大正14年)5月、上野は大学で会議中に脳出血で倒れ急逝、53歳没。
農学博士

このように、上野博士は、農業土木学の始祖として我が国の農業学の発展に重要な貢献を行うとともに、長年にわたって、後進の育成に努めた、偉大な学者でした。

一方、現在の東大農学部の歴史を辿ると、その組織やキャンパスは次のような変遷を辿っています。

1878年(明治11年)農学校開校(目黒区駒場)
農学校はその後、正式に駒場農学校と呼ばれるようになり、1886年(明治19年)東京山林学校と合併して東京農林学校となった
1890年(明治23年)東京農林学校は帝国大学に合併し、帝国大学の分科大学として農科大学が創設された。
1919年(大正8年)帝国大学令の改正により、各分科大学はそれぞれ学部となり、農科大学も東京帝国大学農学部となった。
1935年(昭和10年)第一高等学校との敷地交換により、農学校以来の所在地である駒場から現在の文京区向丘キャンパスに移転した

移転の経緯については、農学部を東京大学本部のある本郷の近くに移転したほしいという上野教授のたっての願いを古在学長が斟酌したと言われています。

というわけで、上野教授が東京帝国大学農学部に勤務していた頃、農学部のキャンパスは、文京区ではなく、まだ駒場にあったのです。したがって、ハチが上野教授と一緒に毎日、朝夕一緒に歩いたのは、渋谷にある自宅から駒場にある大学までの約15分の道のりだったということになります。

東京帝国大学では、旧制一高に駒場キャンパスを明け渡す際に、内田祥三氏設計による建物をいくつか新築しました。今も現役で活躍している1号館(時計台)、101号館、現博物館などです。

1号館(内田祥三氏設計)

現・駒場博物館(内田祥三氏設計)

101号館(内田祥三氏設計)

残念ながら、農学部時代の建物は、戦災ですべて失われ、現在は残っていないそうです。そのかわり、駒場キャンパスの一角に、「駒場農学碑」が立てられています(昭和11年)。記念碑のある場所は、900番教室の南側です。せっかくなので行ってみましたが、笹藪の奥の方にひっそりと佇んでいて、探すのに苦労しました。

駒馬農学碑

当然のことながら、現在の「正門」は、農学部時代のものではなく、1号館が建てられた時に、それに合わせて新設されたもののようです。また、正門前にある井の頭線の「駒場東大前」駅も、上野教授がいた頃はまだ線路すらなく、この駅自体も、1965年(昭和40年)7月11日、駒場駅と東大前駅を統合して新設されたものだそうです。上野教授がこの電車で通勤していたことも、もちろんありません。上野教授は自宅から徒歩で通っていたのです。

それでは、上野教授が渋谷の自宅から徒歩で通勤に利用していたはずの農学部の正門(通用門)はどこにあったのでしょうか?

これについては、田村隆「駒馬ハチ公物語」HPに次のような記事があります。

「ハチ公が博士を送り迎えした場所についてもう一つ注意すべきは、当時の農学部正門は今の駒場キャンパス正門の場所にはなかったという点である。炊事門を出て渋谷方面に歩く途中、松濤二丁目交差点の手前に、三田用水の暗渠をまたぐ箇所がある。デジタル公開されている大正十一年四月一日現在の「東京帝国大学農学部建物位置図」や、日本地図センターのアプリ「東京時層地図」で確認すると、この辺りに当時の正門があったようである。手元の絵葉書を見ると、正門の前に橋の欄干が写っており、ここが三田用水とおぼしい。ハチ公はこの辺りまで博士の送り迎えをしていたのだろう。」

私もこの「東京帝国大学農学部建物位置図」を見たのですが、この地図だけでは正門の場所を特定することはできませんでした。上の記述だと当時の正門は炊事門の外にあったかのように書かれていますが、キャンパスの境界が変更されたとは考えにくいので、他の情報と合わせて考えると、断定はできませんが、現在の「炊事門」が農学部時代の「正門」だったのではないかという気がしました。現在、炊事門は工事中で下の写真のように仮の柵で覆われています。

しかし、東京大学編「東大農学部の歴史」HPを見ると、「明治36年、正門は、現在の駒場キャンパスの炊事門よりさらに東側、山手通りに出る手前のところに移った。(三田用水は、上の開校当時の正門付近でいったん北寄りに方向を変えるが、再び、駒場キャンパスの北側に沿って流れ、このあたりでは、新正門の前を流れていた。現在、三田用水の跡は、目黒区と渋谷区の区界の小道になっている。)」という記述がありました。また、「このあたりは、かつては大学の敷地であった。」とも記されています。したがって、私の想像とは違って、農学部時代は、炊事門の先まで大学の敷地があって、その先に正門があったということのようです。

ということは、下の地図に示すように、右側の赤マークの地点にかつて東大農学部の正門があったことになります(左側の緑マークは、炊事門)。正門の前をかつては三田用水が流れており、現在、「三田用水の跡は目黒区と渋谷区の区界の小道になっている」とのことなので、下の地図でほぼ赤マークの地点に正門があったと確定できるかと思います。次回のウォークでこの点を再確認しようと思っています。ここに謹んで訂正させていただきます。

三田用水跡の小道

ただし、田村氏が言及する「三田用水」は、現在ではすべて暗渠になっているのか、その跡すら見つけることができませんでした。その代わり、Googleマップで「三田用水跡」とマークされている箇所に行ってみたところ、なんと東大の裏門がありました。「東大裏」のバス停があるところです。この裏門を入ってみると、昔農学部の校舎が並んでいたキャンパス中心部にすぐアクセスできる通用門であることがわかりました(上記の古地図でも裏門らしき突き当たりの道路が描かれています)。きっと、上野教授もこの裏門を利用していたことでしょう。しかし、ハチが見送ったのはこの裏門ではなく、正門(炊事門の先)だったようです。そのことは、斎藤弘吉氏の回想録でも触れられています。

区間2 東大農学部正門跡〜松濤1丁目上野邸跡

歩行距離: 1.62km
歩数:2539steps
カロリー:76kcal
平均速度:4.1km/h

上野邸のあった松濤1丁目付近

ではいよいよ、ハチが毎日上野教授を送り迎えしたルートを歩いて見ましょう。と言っても、正確な「住所が特定できないことと、当時といまでは街並みが大幅に変わってしまったので、大雑把にこの辺を二人が楽しそうに歩いただろうと想像しながらの散歩となります。

東大裏門から通りを渡って渋谷方面へ行くと、松濤2丁目に入り、しばらく行くと松濤1丁目になります。史料によれば、上野教授の自宅は、現在の松濤1丁目にありました。当時の正確な住所は「東京府豊多摩郡渋谷町大字中渋谷字大向834番地」だったそうです。この地番は、現在はBunkamuraのビルが建っており、個人の住宅はないようです。林正春編『ハチ公文献集』によると、ハチ公がいた当時の渋谷周辺の地図は、下のようになっているとのことです。上野博士宅の位置もはっきりと示されています。これを見ると、上野博士の自宅は、今のBunkamura、旧小学校の北隣りにあったようです。

林正春編『ハチ公文献集』所収の地図

ということで、松濤1丁目をBunkamuraに向かって歩いて行きました。上野教授とハチの幸せそうな姿が目に浮かんでくるようです。この日本屈指の豪勢な高級住宅街を歩いている住民の人たちもどこか幸せそうです。というか、羨ましい。

 

やがて、正面にBunkamuraのモダンな建物が見えてきました。

松濤1丁目の通り。正面に見えるのがBunkamura

Bunkamuraは現在、改装のため休館中。この敷地の一角に上野邸があった。

Bunkamuraの建物。

上野邸は敷地が約200坪もあったそうで、たいそう裕福な暮らしをしていたことがわかります。住み込みのお手伝いさんや書生さんもいたそうですね。ハチはここで上野教授や妻の八重子さんに可愛がられて、幸せな日々を送ったのでした。

区間3 上野邸跡〜渋谷駅ハチ公前広場

歩行距離: 0.57km
歩数:889steps
カロリー:32kcal
平均速度:2.6km/h

しかし、幸せな日々は主人の突然の死で終わりを告げます。1925年5月21日、上野教授は東京帝国大学で教授会のあと、同僚の吉川教授の部屋に入った直後、急性動脈瘤破傷により急死します。映画「ハチ公物語やそのリメイク版である「HACHI: 約束の犬」では、大学で講義中に倒れたことになっていますが、これは事実ではないようです。

ともあれ、上野教授の急死を知る由もないハチは、この日も農学部の正門前で主人が来るのを待っていたはずです。けれども、いつまで待っても主人は現れず、ハチはすごすごと家に帰ったのでした。それから三日間、ハチは物置に篭ってしまったそうです。

上野教授が亡くなったあと、八重子夫人は正式の婚姻関係になかったため、遺産を相続することもできず、養女夫婦とともに、神仙の小さな家に引っ越しました。しかし、ハチを連れて行くことはできず、ハチは一時浅草に預けられることになりました。けれども、ハチはこの新しい主人に慣れず、最後は長年上野家で植木職人をしていた小林菊三郎さんと弟の友吉さんが面倒を見ることになります。

小林さんの自宅は、渋谷区富ヶ谷にあり、上野教授宅からも渋谷駅からも歩いていける距離にあり、これが、ハチの「渋谷駅」通いのきっかけになりました。ハチが小林さん宅に引き取られたのは上野教授が亡くなった年の8月頃だったと推測されています。

この頃から、ハチが日中、渋谷駅付近をうろついている姿が人々の目に触れるようになります。友吉さんはハチをいつも散歩させていましたが、綱を離すと、ハチはすぐに渋谷駅の方に行ってしまったそうです。上野教授を探しに行くためでした。

ハチはなぜ上野教授に会いに渋谷駅に行ったのか?

それでは、ハチ公はいつも上野教授を見送りに行った農学部の駒場キャンパスではなく、なぜ反対方向にある渋谷駅まで主を求めて10年間も通い続けたのでしょうか?映画「ハチ公物語」(仲代達矢主演)や、リメイク版「HACHI:約束の犬」(リチャード・ギア主演)では、教授は毎日電車で通勤し、ハチは朝主人を駅まで見送り、夕方再び駅まで行って主人を迎えたという設定になっています。けれども、すでに指摘した通り、上野教授の勤め先は、自宅から徒歩15分の農学部駒場キャンパスであり、上野教授とハチは毎日農学部正門まで一緒に歩いて通ったのでした。上野教授が亡くなった日もそれは同じ。もしハチが日頃の習慣から教授の帰りを待つとすれば、渋谷駅ではなく、農学部正門前のはずです。

これには、深いわけがありました。実は、上野教授は先に経歴で紹介したように、駒場にある農学部の他に、文京区西ヶ原にある農商務省農事試験場などを頻繁に往復したり、耕地整理の指導などで全国各地を飛び回るなど、多忙な生活を送っていました。そのため、農事試験場通いや長期出張の折には省線(今のJR山手線)をよく利用していたのです。そんな時、ハチは上野教授を渋谷駅まで送ったあと、もしかすると、帰宅までの数日間、毎日のように渋谷まで迎えに通ったのかもしれません。そんなことから、上野教授が帰らぬ人となった日、いつまで経っても上野教授が姿を見せないことから、長期出張に出た渋谷駅のことを思い出し、上野教授が帰ってくるとすれば渋谷駅だと思い、これ以降は農学部ではなく、渋谷駅を迎え先に変えて主人の帰りをいつまでも待ち続けたのではないでしょうか。ハチの研究を続ける国際政治学者・伊東真弓さんも、著書『ハチ公:生誕100周年記念』(2023)の中で、「ハチ公は、上野教授が、(出張などで)長期間にわたって帰ってこない時は、教授は渋谷駅に帰ってきたことを覚えていたのではないだろうか」と述べています。

この時から、本当の忠犬ハチ公物語が始ります。ハチは毎朝9時過ぎに富ヶ谷にある小林さんの家を出ると、道玄坂を通って渋谷駅に行き、改札前で座ったり、辺りをぶらついたりして、上野教授を探しました。また、夕方は4時頃になると、また小林さん宅を出て渋谷駅へ行き、5時か6時頃に帰宅するという生活を続けていたようです。夕方遅くなってもハチが帰らない時は、小林さんか妻のトメさんが駅まで迎えに行ったということです。

斉藤弘吉さんとハチの運命の出会い

雨の日も、風の日も、ハチの渋谷駅通いは何年も続きました。ある時、愛犬家で日本犬の保存に力を入れている斉藤弘吉さんは、たまたま帰宅途中のバスの中でハチの姿を見つけ、その立派な姿に魅せられ、ハチの後を追いかけます。後をついていくと、小林さん宅に入って行きました。斉藤さんは小林さんからハチの身の上話を聞きました。斉藤さんは、この後渋谷駅へ行くと、駅からうなだれた様子で帰るハチを見て心打たれました。

そのころ、ハチはまだ忠犬として讃えられるわけでもなく、駅員や乗客などからいじめられるなど、惨めな状況にありました。こうしたハチの窮状を不憫に思った斉藤さんは、「ハチの窮状を救うためには、広く世間に訴えることが必要」だと考え、かわいそうなハチの身の上を訴える投書を東京朝日新聞に投稿しました。これを見た朝日新聞記者が、十分なファクトチェック取材もせずに、斉藤さんの投書をもとに、ハチの悲しくもけなげな身の上をハチの写真と一緒に新聞記事として掲載したのです(1932年10月4日付)。

「大正15年の3月に、大切な育て親だった駒場農大の故上野教授に逝かれてから、在りし日の慣しを続けて、雨の日、雪の日の7年間を、今は、かすむ老いの目を見張って、帰らぬ主人をこの駅で待ち続けている。」といった内容でした。

東京朝日新聞1932年10月4日付の紙面(朝日新聞デジタルより)

この記事が大反響を呼び、ハチ公は一気に国民的な人気者になりました。これを機に、渋谷駅でのハチの待遇が一気によくなり、ついには、まだ生きているにも関わらず、ハチ公の銅像が建てられるという空前のハチ公ブームが巻き起こります。ただし、ハチ公人気にあやかって、これを商売に利用したり悪用する人たちも現れます。例えば、当時の渋谷駅長は、それまでの冷たいあしらいから一転して、手のひらを返したようにハチに取り入るようになり、銅像に自分の名前を刻んでもらおうと画策までしたとも言われています。1934年春になると、文部省が「恩を忘れるな」という題名でハチ公の美談を修身の教科書に採用することを決定しました。教科書に載ったハチの話は、「ハチが毎日駅に来て、亡き飼い主を待ち続けている」という単純なストーリーでしたが、それがのちに誤解されて「忠君愛国」「天皇への忠誠心」を煽るためのプロパガンダとして利用されたかのように批判されることにもなりました。実際には、ハチ公の物語はそのような政治色のあるものではまったくなかったのです。当時の政治家や軍国主義者たちが、ハチ公物語を「忠君愛国」の手本に祭り上げて悪用しただけのことです。

斉藤弘吉さんは、いち早く日本犬保存会を立ち上げて、秋田犬や芝犬など全国各地の日本犬の保存と動物愛護活動に尽くした方で、秋田犬や芝犬などを絶滅の危機から救った恩人とも言える方です。その斉藤さんに対して中傷誹謗するような記事を書く人もいたようです。ハチ公の美談を商売や政治に利用する人、悪用する人、ハチ公や秋田犬の恩人をけなす人、ハチ公物語が軍国主義に利用された、「忠犬」という名前はけしからんなどといってハチ公をネガティブに捉える人、ハチ公をめぐる「イヌ話」が東大アカデミズムを堕落させた、明確な根拠もなく斉藤さんは軍国主義思想の持ち主だったと誹謗中傷する東大教員など、世の中は善人ばかりではないようですね。嘆かわしいことです。ハチ公物語の真実はただ一つ、イヌとヒトとの間の固い絆と、終生変わることのない純粋な愛と誠の物語なのです。

海外にも大きな反響を呼んだハチ公の美談

ハチ公の美談は国内だけはなく、海外にも大きな反響を呼びました。愛犬家のヘレン・ケラー女史は、アメリカでハチ公の話を聞いて感動し、1937年に来日した時には秋田市を訪れ、秋田犬を所望しました。地元ではこれに応えて、秋田犬の神風号をケラー女史に寄贈、ケラー女史はアメリカに連れて帰り、可愛がりますが、生後7ヶ月で病死してしまいました。ケラー女史は大変悲しみましたが、翌年、2匹目の秋田犬がケラー女史に贈られることになりました。今回は剣山号という2歳の成犬でした。剣山号はアメリカでは「ゴーゴー」と呼ばれ、生涯ケラー女史の魂の伴侶として片時も離れず暮らしたそうです。

ハチ公の物語は、戦後何回か映画やドラマにもなって取り上げられ、大きな反響を呼びました。1987年には、松竹の製作・配給で新藤兼人監督の原作・脚本、仲代達矢主演、八千草薫他共演の「ハチ公物語」が公開され、大ヒットを記録しました。そして、2009年には、アメリカでラッセ・ハルストレム監督、リチャード・ギア主演のリメイク映画「Hachi: A Dog's Tale」(邦題:「HACHI 約束の犬」)が公開されました。この映画では、舞台を日本からアメリカの東海岸に移し替え、渋谷駅をベッドリッジ駅に置き換えて、リチャード・ギア演じる音楽教授とHACHIの心温まる愛情物語と教授の急逝の後、HACHIが駅で主人の帰りを死ぬまで待ち続ける話が展開されます。この映画では、教授の孫が学校でHACHIの健気な行いをloyalty(忠誠心)という表現で讃え、「HACHIは僕のヒーローだ」という言葉で締めくくります。秋田犬の示す主人への忠誠心というものが世界的に大きな感動と呼び、世界中の観光客が渋谷駅のハチ公広場へ「ハチ公参り」をするようになる一つのきっかけとなりました。ちなみに、この映画のラストでは、日本での忠犬ハチ公の実話と渋谷駅前のハチ公の像が写真入りで紹介されています。

(Hachi : A Dog's Tale best Scenes  YouTube)

さて、渋谷道玄坂を降りて、駅前のスクランブル交差点の前に出ました。相変わらず、大勢の人たちが交差点を渡っています。

 

 

交差点を渡った先にハチ公前広場があります。ここで、やっとハチ公の銅像とご対面です。その前に、銅像の周りに群がる外国人観光客の多いことにびっくり。もちろん彼らのお目当てはハチ公です。次から次へと入れ替わりにハチ公の銅像の前で記念写真を撮ってもらう外国人観光客は、みんな嬉しそうです。

ハチ公の銅像を囲んで笑顔で記念写真を撮ってもらう外国人観光客のグループ

かなりの人が、ハチ公の足をさすっています。そのため、ハチ公の足の部分の胴は剥き出しになり、光っています。これを見て、昔イタリアのヴェローナの「ジュリエットの家」の前で、ジュリエットの銅像の胸を自分がさすったことを思い出しました。なんでも、ジュリエットの胸に触ると、いい人に巡り会えるという言い伝えがあるとのことでした。もっとも、私の場合、その夢は叶いませんでしたが、、、

きっと、ハチ公の足をさするといいことがあるという言い伝えが観光客の間にもあるんでしょうね。ハチ公と一緒に記念写真を撮る日本人がほとんどいないのは残念なことです。

ハチ公の像の周りに群がる外国人観光客

区間4 ハチ公前広場〜青山墓地ハチ公記念碑、上野英三郎墓

歩行距離: 1.59km
歩数:2058steps
カロリー:93kcal
平均速度:2.9km/h

最後に向かったのは、青山墓地にある上野教授夫妻の墓とハチ公記念碑です。時間がなくなったので、渋谷から歩いて行くのは諦め、銀座線で外苑前まで行き、そこから青山墓地まで歩きました。

青山墓地の上野教授のお墓は、上野教授の死後、弟子たちがお金を出し合って購入したものです。ハチ公が亡くなった後、このお墓の横に「忠犬ハチ公の碑」が立てられました。これで、ようやく上野教授とハチ公は天国で再び一緒になることができたのです。

 

ただ、奥さんの八重子さんは、上野家が一緒に墓に入ることを許してくれませんでしたが、長い年月の末、2016年5月、上野教授の命日を前に、ようやく上野教授の墓に並んで入ることが認められ、晴れて3人が仲良く天国で一緒になれる日を迎えました。本当に良かったね!

私も、このお墓の前に立ち、ハチ公とご家族のご冥福をお祈りしました。

参考文献:
林正春編『ハチ公文献集』(1991 非売品 渋谷区中央図書館蔵)
斉藤弘吉著『日本の犬と狼』(1964 雪華社)
伊東真弓著『ハチ公:生誕100周年記念』(2023)
一ノ瀬正樹・正木春彦編『東大ハチ公物語』(2015 東大出版会)
飯田操著『忠犬はいかに生まれるか』(2013 世界思想社)

-史跡・旧跡