松陰神社

世田谷区 寺社教会

世田谷線沿線を歩く:豪徳寺から松陰神社まで

 3,099 total views,  13 views today

散歩の記録

日時:2023年8月28日(月)
天候:曇り
行程:
7:30 世田谷線・三軒茶屋駅
7:45 宮之阪駅
8:15 豪徳寺
9:00 松陰神社
9:30 世田谷線・松陰神社前

ウォーキングマップ

フォトアルバム

世田谷線

世田谷線・三軒茶屋駅

東急世田谷線は、東京都世田谷区の三軒茶屋駅と下高井戸駅を結ぶ東急電鉄の軌道線です。都電荒川線とともに、都内では珍しい軌道線で、約5kmに10駅あります。世田谷区内を都心へ向かう3つの私鉄路線(東急田園都市線、小田急線、京王線)を結び、貴重な交通手段を提供しています。

現在の世田谷線の区間は、1925年(大正14年)1月18日に三軒茶屋駅 - 世田谷駅間が玉川電気鉄道(玉電)の支線の下高井戸線として開業したのに始まります。同年5月1日には残りの世田谷駅 - 下高井戸駅間が開業しました。1938年(昭和13年)3月10日、玉川電気鉄道は東京横浜電鉄(現在の東急の前身)に合併され、玉川線となります。そのため、現在でも玉川電気鉄道の略称、玉川線の愛称であった「玉電」と呼ばれることがあります。玉電だった頃の世田谷線の車両は、黄緑色の車体がトレードマークでした。当時の車両は、宮の坂駅横に保存されています。

宮之阪駅に保存されている玉電の車両

豪徳寺

宮の坂駅を下車して、東に約5分ほど歩いていくと、豪徳寺があります。豪徳寺は、曹洞宗の寺院です。彦根藩主・井伊家の江戸における菩提寺で、井伊家ゆかりの文化財が数多く所蔵されています。寛永10年(1633年)、彦根藩主・井伊直孝が井伊家の菩提寺として伽藍を創建し整備したのが始まりです。

鷹狩りを終えた井伊直孝が寺の門前にいた猫に招き入れられ、雷雨を避けることができた上、和尚の法談を聞くことができたことを大いに喜び、後に井伊家御菩提所とし、豪徳寺が再興したという言い伝えがあります。その後、豪徳寺では「招福猫児(まねきねこ)」と称し、招猫観音を祀る「招猫殿」を建てました。招猫殿の横には、願が成就したお礼として、数多くの招福猫児が奉納されています。

奉納された招福猫児

奉納された招き猫

豪徳寺

豪徳寺・法堂

梵鐘

地蔵堂

仏殿

世田谷城址公園

豪徳寺の参道を出て左折すると、やがて左に世田谷城址公園があります。ここは、昔「世田谷城」があったところです。世田谷城は、清和源氏・足利氏の一族である吉良氏の居城として知られています。貞治5年(1366年)に吉良治家によって築城されたと言われています。土塁と空堀の一部が残されています。

世田谷城址公園

松陰神社

世田谷城址公園から、住宅街を北東方向に30分ほど歩くと、松陰神社に着きます。この地にはかつて長州藩主の別邸があありました。吉田松陰が安政の大獄で刑死した4年後の1863年(文久3年)、高杉晋作、伊藤博文など松陰の門人によって小塚原の回向院にあった松陰の墓が当地に改葬されました。そして、1882年(明治15年)11月21日、門下の人々によって墓の側に松陰を祀る神社が創建されました。祭神は吉田松陰。現在の社殿は1927年から1928年にかけて造営されたものです。近年は、学問の神として崇敬を集め、参拝者は全国各地に及んでいます。

吉田松陰の生涯

吉田松陰像
(世田谷デジタルミュージアムより)

文政13年8月4日(1830年9月20日)、長州萩城下松本村(現在の山口県萩市)で長州藩士・杉百合之助の次男として生まれた。11歳のとき、藩主・毛利慶親への御前講義の出来栄えが見事であったことにより、その才能が認められた。

安政4年(1857年)に叔父が主宰していた松下村塾の名を引き継ぎ、杉家の敷地に松下村塾を開塾する。この松下村塾において松陰は久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、吉田稔麿、入江九一、前原一誠、品川弥二郎、山田顕義、野村靖、渡辺蒿蔵、河北義次郎などの面々を教育していった(山縣有朋、桂小五郎は松陰が明倫館時代の弟子であり、松下村塾には入塾していない)。なお、松陰の松下村塾は一方的に師匠が弟子に教えるものではなく、松陰が弟子と一緒に意見を交わしたり、文学だけでなく登山や水泳なども行うという「生きた学問」だったといわれる。

安政5年(1858年)、幕府が無勅許で日米修好通商条約を締結したことを知って激怒し、間部要撃策を提言する。間部要撃策とは、老中首座間部詮勝が孝明天皇への弁明のために上洛するのをとらえて条約破棄と攘夷の実行を迫り、それが受け入れられなければ討ち取るという策である。松陰は計画を実行するため、大砲などの武器弾薬の借用を藩に願い出るも拒絶される。次に伏見にて、大原重徳と参勤交代で伏見を通る毛利敬親を待ち受け、京に入る伏見要駕策への参加を計画した。 松陰は幕府が日本最大の障害になっていると批判し、倒幕をも持ちかけている。結果、長州藩に危険視され、再度、野山獄に幽囚される。

安政6年(1859年)、梅田雲浜が幕府に捕縛されると、雲浜が萩に滞在した際に面会していることと、伏見要駕策を立案した大高又次郎と平島武次郎が雲浜の門下生であった関係で、安政の大獄に連座し、江戸に檻送されて伝馬町牢屋敷に投獄された。評定所で幕府が松陰に問いただしたのは、雲浜が萩に滞在した際の会話内容などの確認であったが、松陰は老中暗殺計画である間部詮勝要撃策を自ら進んで告白してしまう。この結果、死刑を宣告され、安政6年10月27日(1859年11月21日)、伝馬町牢屋敷で執行された。享年30。(Wikipediaより)

萩から江戸へ護送される際、萩の町が見納めとなる坂の上での句(安政6年):

かえらじと思い定めし旅なればひとしほぬるる涙松かな

辞世の句:

親思ふ心にまさる親心けふのおとづれ何ときくらん
身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂

松陰神社大鳥居

手水舎

御社殿

模造・松下村塾

松陰神社社殿の右に、松下村塾の模造が作られています。この模造松下村塾は、昭和13年12月に、隣接する国士舘校内に松陰先生顕常のため建築されたものです。当時、すべての建築材料を萩で集め、東京へ移送して建築され、木材、瓦などは幕末期の毛利落代官屋敷の古材が使用されました。その後、昭和16年に国士館から当神社に寄贈され、境内の鳥居脇へ移築されました。平成8年に境内整備のため、現在の場所に移築されました。

松下村塾について

松陰の叔父である長州落士の玉木文之進が、天保13年(1842) 萩に寺子屋を開き、松下村塾の看板をかけたのが村塾の名の起こり。玉木氏が公務多忙の為、塾は自然消滅したが、その後、久保五郎左衛門(松陰の外叔父)が塾主となり復活し、安政4年(1857)まで引き継いだ。更に、松陰が再投獄されるまで引き継ぎ、さらに玉木氏や兄の杉梅太郎らによって断続的ながら明治25年(1892)頃まで続いた。

松陰は、安政2年(1855)26歳の冬に出獄(米艦に乗船を企て投獄されていた)してから、実家である杉家で親戚の子弟等に教育をはじめ、翌年の夏頃には親戚以外の者も通ってくるようになった。次第に塾生が増えたため、安政4年(1857) 11月5日には杉家内の小屋を補修した八畳一間の塾舎が完成。松陰は塾に起居し、塾生に対し師弟同行の実践的教育を行った。さらに塾生が増加して手狭になったので、安政5年(1858)3月、十畳半の増築がおこなわれた。

松蔭が塾生に教育を施したのは、僅か2年半程だったが、薫陶をうけた総勢9 0名程の塾生からは、久坂玄瑞、高杉晋作、山縣有朋、品川弥二郎、伊藤博文、野村靖など、明治維新を通し近代日本の原動力となった多くの逸材が育っていった。(松陰神社内の説明文より)。

松下村塾の横には、松蔭像が立てられています。

模造・松下村塾の横に建てられた松蔭像

守札授与所でお守りを買う息子

購入した松陰神社の「志守」

せっかく学問の神様である吉田松陰の神社に参拝したので、記念にお守りを買うことにしました。息子は今年東大に合格したので、「勝守」はもう必要ないので、これからの人生に向けて大きな志を持ってもらうために、「志守」(1,000円)を購入しました。これは松陰先生直筆の「志」の文字をいただいたお守りで、松陰先生のように初志を忘れず困難に立ち向かえますようにとの願いが込められています。

吉田松陰の墓

吉田松陰の墓

文久三年(1863)正月、高杉晋作、伊藤博文、山尾庸三、白井小助、赤根武人等は、松蔭の亡骸を千住小塚原回向院よりこの世田谷若林大夫山の楓(紅葉)の木の下に改葬し、松蔭の御霊の安住の所としました。

松陰神社門前にある「松蔭塾」は、神社とは無関係

松陰神社を出ると、左手角に「松陰塾」世田谷若林校という建物がありました。ただの私塾みたいで、松陰神社とはいっさい関係ないようです。紛らわしいですね。通りをゆっくり南下していくと、10分足らずで世田谷線の「松陰神社前」に着きます。

世田谷線・松陰神社前

このようにして、今朝は2時間ほどの行程で、世田谷線の沿線にある2つの特色ある寺社をゆっくり歩くことができました。

-世田谷区, 寺社教会