ヘルタ・ヘルツォークの肖像写真("What Do We Really Know About Herta Herzog"表紙からの引用)

メディア研究

ヘルタ・ヘルツォークの生涯と業績ージェンダーの視点から読み解くメディア研究史

1.はじめに

本稿は、実証的メディア研究の歴史において、創始者の一人として偉大な業績をあげたヘルタ・ヘルツォークの生涯と業績を概観し、ジェンダーの視点から、メディア研究史における位置付けを再検討するとともに、彼女の研究が現代のメディア・コミュニケーション研究およびメディア実践に及ぼした影響の総合的評価を試みるものである(1)

本論文を執筆するにあたっては、主として、ヘルタが逝去した2010年以降に出版された記念論文、レビュー論文、アメリカのマス・コミュニケーション研究史専門家による研究論文を参考にさせていただいた。また、冒頭のカバー写真として、記念論文集(2) What Do We Really Know About Herta Herzog? (2016 New York: Peter Lang)表紙の一部を使わせていただいたことをお断りしたい。

2. ウィーン時代

ラザースフェルドとの出会い

ヘルタ・ヘルツォーク (Herta Herzog) は1910年ウィーンの同化派ユダヤ人家庭に生まれた。父親は弁護士だった。学校時代、ヘルタは余暇にヴァイオリンを弾くのが好きで、特にピアニストの父とデュエットをするのが好きだった。1928年にウィーン大学に入学した彼女は、在学初年度にシャルロッテおよびカール・ビューラー夫妻による心理学講義を受講することとなった。彼らは1923年にウィーン大学心理学研究所を創設しており、シャルロッテは児童発達に、カールは思考心理学に関して重要な貢献を行っていた。同研究所には数名の優秀な助手が所属しており、その中には数学者であり、統計学を社会心理学に応用していたパウル・ラザースフェルドの姿もあった。ラザースフェルドは水曜夜に「心理学実習」を主催しており、学生が研究成果を発表するほか、ジャン・ピアジェやコンラート・ローレンツといった著名な学者の講演も行われていた。

「声とパーソナリティ」博士論文の執筆

博士論文として、ヘルツォークは新興メディアだったラジオを研究対象とし、ラザースフェルドの勧めにより、英国の研究に倣って、ラジオアナウンサーの声と人格が聴取者に与える影響を調査した。彼女は1933年、『声とパーソナリティ(Die Stimme und Persönlichkeit)』と題した博士論文でPh.D.を取得した。この研究では、2,700人の聴取者が、スピーカーから受けた印象、それぞれのパーソナリティをどのように想像しているか、信頼しているか、などの質問に答えた。この研究でヘルツォークは初めて、声のトーンと話し手の想定される特徴との間に関係が存在し、性別がその解釈に重要な役割を果たしていることを証明した 。しかし、1931年の夏、論文執筆中にヘルツォークはポリオ性脊髄炎にかかった。彼女の右腕は一生麻痺したままだった。その結果、ヘルツォークは大好きだったヴァイオリン演奏を諦め、左手で字を書くことを学ばなければならなかった。

ラザースフェルドとヘルツォークの渡米

ウィーン大学を卒業後、ヘルツォークは 経済心理学研究所の助手になった。当時、ラザースフェルドは妻のサセックス大学教授マリー・ヤホダ、シカゴ大学教授のハンス・ツァイゼルとともに、マリエンタールというウィーン南部の村での失業者に関する共同研究を行なっていたが、この研究がロックフェラー財団パリ代表部の目にとまり、アメリカでの海外研究費を得ることになり、1933年に渡米が実現した。ポールが渡米中、ヘルタは彼の授業を引き継ぎ、博士課程の学生の指導に当たった。研究員としての滞在期限が切れる1935年、ラザースフェルドはウィーンでのユダヤ人迫害が強まったため、アメリカに留まる決意を固めた(Lazarsfeld, 1973)。その前年にはマリーと離婚していたこともあり、ラザースフェルドと恋愛関係にあったヘルタは彼と一緒に生きる道を選び、1935年に渡米し、二人はすぐに結婚した。

ラジオ調査局 (ORR)での活動

1937年になると、ロックフェラー財団が、ラジオがアメリカ社会に与える影響に関する大がかりな研究プロジェクトの本部を、ラジオ研究で実績のあるハドリー・キャントリルのいるプリンストン大学に設置した(1)。キャントリルの要請によって、ラザースフェルドがフランク・スタントンと共に「ラジオ調査局」the Office of Radio Research (ORR) の局長に任命され、ヘルツォークも創設メンバーの一人として入局し、ラザースフェルドとともにラジオの影響に関する調査研究に従事することになった。ORRでの当初のヘルツォークの研究は、主にラジオのリスナーに焦点を当てたものが多かったが、次第に市場調査の分野でも指導的役割を果たすようになり、特にフォーカス・インタビューや内容分析などの方法論に関する専門知識を深めていった。ORRにいる間、ヘルツォークは19本の論文を発表し、合計652ページに達したが、13本は未発表に終わった (Klaus, 2016)。

ORRは1939年にはニューヨークのコロンビア大学に移管され、「応用社会調査研究所」Bureau of Applied Social Research (BASR)と改名された。ラザースフェルドとヘルツォークも同大学に移り、ヘルツォークも副所長になった (Klaus, 2016; Lazarsfeld, 1973)。しかし、ヘルツォークはラザースフェルドの妻だったこともあり、必ずしも主任研究員として正当な扱いを受けることができず、報酬も低かったと言われている (Klaus, 2016, P.22)。

ヘルツォークがORRに勤めていた1937年から1943年までの間にあげた業績は多岐にわたるが、その代表的なものを挙げると、「火星人来襲ドラマパニック」に関する調査研究、「プロフェッサークイズ」ラジオ番組のリスナーに対する調査研究、「昼間の連続ラジオドラマ(ソープオペラ)」のリスナーに対する調査研究、フォーカス・インタビュー法の開発と改良などがある。以下で、それぞれについて詳しく考察する。

5.「火星人襲来ドラマ」の影響に関する調査研究

プリンストン大学教授だったキャントリルの著作とされる『火星からの侵略』が、実際にはプリンストン・ラジオラジオ研究室(ORR)による共同作業の産物であったことが、ロックフェラー財団のアーカイブを詳しく分析したPooleyとSocolofの研究によって明らかになった(Pooley and Socolof, 2013)。ロックフェラー財団の資金によって運営されたORRは、ラザースフェルドが率いており、後のBASRの直接的な制度的前身であった。ラザースフェルドや、ORRの主要メンバー(特にヘルタ・ヘルツォーク)は、「火星人襲来ドラマ」パニックの初期調査と後の執筆において中心的な役割を果たしていた。同書は、「魔法の弾丸」(magic bullet)というレッテルが示唆するような単純な強力メディア論ではなく、ラジオ・メディアがはるかに複雑な影響を及ぼしていたことを提示している。むしろ「火星人来襲ドラマ」パニック放送に関する研究は、ORRおよび後のBASRによるメディア効果の複雑化を目指す長期的な研究(限定効果論)の初期段階として――すなわちその継続的一環として――読むべきだとPooleyらは主張している。Pooleyのこの指摘は、マスメディア効果論研究の歴史を根本から見直す契機になるかもしれない。後述するように、「火星人襲来ドラマ」の影響に関する研究において、ヘルツォークとゴーデットは、キャントリルに先んじて詳細なインタビュー調査を実施しており、そのデータを分析する中で、少なからぬリスナーがオーソンウェルズのラジオ番組を聞いて、そのまま信じ込むのではなく、何らかの内在的、外在的なチェック(情報確認行動)をとることによって、番組がフィクションドラマであることを見抜き、冷静な対応行動をとったという事実を明らかにした。これは、リスナーの「批判能力」(先有傾向)や「情報確認」などの媒介的要因がラジオの影響を規定する重要な要因となっていることを初めて示したものであり、1940年の「ピープルズ・チョイス」での限定効果論を先取りしたものと言える。その点で言えば、ヘルツォークやゴーデットなどORRの女性研究者たちは、マスメディア効果研究の歴史において、「限定効果論」の生みの親 (Founding Mothers)だったと言っても過言ではない

調査開始のきっかけは、1938年10月30日(日)の夜、ORRの共同局長だったフランク・スタントンの行動だった(Pooley & Socolow, 2013)。

夜遅く、フランク・スタントンと妻ルースは、CBS本社のある52丁目角のビルに向かってマディソン・アベニューを急いで車を走らせていた。車中のラジオでは、ちょうど「宇宙戦争」放送のクライマックスが流れていた。スタントンはその放送の最中に、世間に広がりつつあった興奮とパニックの報を耳にし、これはラジオ史上屈指の絶好の研究機会であると即座に認識した。

CBS本社に到着すると、彼は車を停め、エレベーターで自室へ向かい、番組の影響を測定するための質問票を、可能なかぎり迅速かつ正確に作成した。その後、ラザースフェルドに電話をかけて短く相談し、さらにジョージア州アトランタのフーパー・ホームズ社に連絡を取った。同社は保険業界向けに対面調査を専門とする企業で、電話調査に依存していなかった点が決定的に重要であった。スタントンは、経済階層や都市・農村別などの属性に応じて、必要なサンプル構成を綿密に確認し、翌朝には調査が開始された(Buxton & Acland, 2001, pp. 212–216;Stanton, 1991–1996, session 3, pp. 115–117)。

ただし、CBSでの過重な業務のため、スタントンはその後の調査資金確保に向けた11月の緊急活動には助言的役割にとどまった。パニック放送の直後から、ヘルツォークは、不安に駆られたリスナーたちへの詳細な聞き取り調査を実施した。この調査にもとづき、ハーツォーク(1938)は初期の分析メモを作成したが、その中に含まれていたテーマの多くは、のちにキャントリルの『火星からの侵略』において驚くほど忠実に反映されている。にもかかわらず、彼女の貢献――そしてプロジェクトメンバーのヘイゼル・ゴーデットの貢献もまた――出版物においてはほとんど認識されなかった。

ハーツォークの分析メモの中心的洞察は、「チェックアップ(情報確認行動)」に関する詳細な考察であった。この概念は、彼女が独自に考案したものだとみられる(1938, pp. 9–11, 14)。実際、『火星からの侵略』報告書において最も注目された発見は、リスナーの「批判能力」と、放送内容のフィクション性を他の証拠によって確認しようとする傾向との関連性であった。ヘルツォークは、この初期メモの段階ではチェックアップと教育や批判能力を直接結びつけてはいなかったが、確認行動が後続の研究において極めて重要であるという本質的な洞察を、メモの段階で明確に示していたのである(Pooley & Socolow, 2013)。

ラザースフェルドとキャントリルは、11月にロックフェラーの一般教育委員会に対する研究助成の申請の準備を始めた。キャントリルは、ロックフェラー財団への提案書を起草し、おそらく財団側の助言によって、この提案書をロックフェラー財団の姉妹基金である「一般教育委員会(General Education Board, GEB)」に提出した。提案書の中で、調査結果はプリンストン・プロジェクトによって出版されるとし、同プロジェクトのディレクターたちは「いずれもラジオに関心を持つ訓練された心理学者であり、すでに30件のインタビューをスタッフに実施させている」と述べている。この記述により、ヘルツォークの重要な貢献はここでも無視されてしまった。

エリザベス・クラウスによれば、「火星人襲来ドラマ」に関するリスナー調査をいち早く行なったのは、ヘルツォークだった(Klaus, 2016)。

「プリンストン大学のラジオ研究プロジェクトの副ディレクターであり、CBSのメディア・リサーチの責任者でもあったフランク・スタントンの依頼で、ヘルツォークは1938年10月30日にウェルズ原作のラジオドラマ『宇宙戦争』が放送された翌朝、30人の集中インタビューを行った。彼女はその結果を、"なぜ人々は「火星からの侵略」を信じたのか?"と題する調査報告書として発表した。この報告書は、ヘルツォークがハドリー・キャントリル、ヘイゼル・ゴーデットとともに行った有名な研究の基礎となった。」(Klaus, 2016, p.147)

この頃から、キャントリルは、「火星人襲来ドラマ」調査研究における自身の主導的役割を喧伝するようになり、ラザースフェルドとの対立が深まった。放送の直後から、カントリルはプリンストン大学の報道機関に、自身がこの研究を率いているという話を繰り返し流していた。1939年1月中旬の『プリンストン・アラムナイ・ウィークリー』紙に掲載された記事「Psychologists to Study Martian Hysteria」の中では、CBSドラマに関する研究が「キャントリル博士の研究」とされており、「プリンストン・ラジオ・プロジェクトでのキャントリル博士のこれまでの研究が大いに寄与する」と記述されていた。記事中にラザースフェルドの名前は一切登場せず、これに激怒した彼はキャントリルに抗議の書簡を送ったという (Pooley & Socolow, 2013)。

この共同研究の成果は、1940年3月、『The Invasion from Mars: A Study in the Psychology of Panic(火星からの侵略――パニックの心理学に関する研究)』として出版された。著者としては、キャントリルが単独で記載され、ヘルツォークについては、「序」の中で、次のような簡単な謝辞が触れられているだけだった。

「ヘルタ・ヘルツォークは本研究の実施以前に、パニックについての独自の調査を行なっていた。彼女の経験と洞察に基づいて、本研究における面接調査を準備することができた。彼女は聴取者の試みた確認について初期研究を行い、第8章で報告されている事例研究を分析した。」(Cantril, 1940)

大衆向けの文体と目を引く主題が功を奏し、同書はすぐさま売上げを伸ばし、大衆市場向けペーパーバック版としても再発行された。メディア研究史においては、本書は一貫してキャントリル単独の業績と見なされており、大半の書誌的参照では「協力によって」というクレジットすら省略されている。ラザースフェルドをはじめ、ヘルツォーク、ゴーデット、スタントンとの関わりも、すでに長らく忘れ去られている。

6.「利用と満足」研究の創始者として

「利用と満足」研究創始者としてのヘルツォーク

おそらくメディア受容研究者としてヘルタ・ヘルツォークの名を広く知らしめたのは、彼女がORR、BASR時代に実施した「利用と満足」調査だろう。中でも、ラジオの「プロフェッサークイズ」および「昼の連続ドラマ」ラジオ番組のリスナを対象として実施した詳細なインタビュー調査による研究は、ラザースフェルドらの「ピープルズ・チョイス」調査研究とともに、実証的マス・コミュニケーション研究の黎明期における代表的な独創的研究として長く記憶されることだろう。

ただし、ここであらかじめ注意しておきたいのは、ヘルツォークが創始した「利用と満足」研究が、しばしばラザースフェルドの功績であるかのように紹介されることがあるという点である。例えば、我が国において「利用と満足」研究を初めて詳しく紹介した藤竹暁は、『マス・コミュニケーションの社会学』の中で、「ラザースフェルドの研究は「プロフェッサー・クイズ」というクイズ番組の分析であり、この調査分析には後に紹介する昼間の連続ラジオドラマの分析を行なったH. ヘルツォークがあたっている。」と間違って紹介している(藤竹 , 1973, p.62.)。また、この調査報告が掲載された『ラジオと印刷物』(Radio and Printed Pages)という書籍についても、ラザースフェルドが著者であるかのような紹介をしている。実際には、この本はORRでの調査報告を取りまとめたもので、ラザースフェルドは(単著の体裁をとってはいるが)実際には編者に過ぎない。また、ラザースフェルドは、プロフェッサークイズの調査研究には直接関わっておらず、ヘルツォーク単独の業績だったのである。

「プロフェッサー・クイズ」の研究

調査が行われたころ、アメリカではラジオのクイズ番組がドラマと並んで人気だった。当初ラジオに期待されていた教育的役割は、シリアス(真面目)な番組の低調さから見て、期待はずれという認識が広がっていた。しかし、一見娯楽的で低俗な内容だと思われがちなラジオの娯楽番組であっても、よく調べれば教育的機能を果たしているのではないか、というのがORRの研究者たちの見解だった。竹内(1976)は次のように指摘する。

『ラジオと印刷物(Radio and the Printed Page)』と題されたこの報告書は、当時全米の八割以上の家庭に普及したラジオの社会的影響を、印刷媒体との比較のうえで明らかにしようと試みたものである。それによると、印刷物による知識の伝達の独占状態を破って登場したラジオに期待された啓蒙的、教育的な役割が、少なくとも社会問題や文化を扱ったシリアス番組の聴取実態から見るかぎり、決して十分に果たされてはいないことがわかった。つまり、従来印刷物の恩恵に浴することの少なかった層の人びとは、ラジオ番組一般にはよく接触してはいるものの、彼らの好む番組は、コメディ、ヴァラエティ・ショウ、連続ドラマ、クイズなどの娯楽番組にかたよっており、シリアス番組には背を向ける傾向が顕著だったのである。

しかしながら、「この一見否定的な知見は、大衆に対する理念の伝達という面で、ラジオが重要性をもちえない媒体であるということを、必ずしも意味するものではない」と、報告書の執筆者たちは考えた。その理由のひとつは、娯楽番組の聴取行動を仔細に分析してみれば、シリアス番組におとらない重要な教育的機能が発見されるかもしれないと思われたからである。たとえば、「あなたにとってためになる(you can learn something) 番組」をあげるようにいわれた100人の女性のうち22人がクイズ番組を指摘し、それに比肩できる番組はほかになかったことや、745人の高校生があげた「ためになる番組」のうち3分の1がドラマであり、4分の1がクイズだったことなどが、そうした予想の根拠となった(竹内, 1976, p.153)。

そこで、ラジオのクイズ番組に注目して、リスナーの番組受容の実態を詳しく調査したのがヘルツォークだった。調査の概要は次のとおりである。

(1)調査の概要
実施主体:プリンストン大学ラジオ調査室(およびコロンビア大学応用社会調査研究所)
主たる研究者:Herta Herzog
調査対象:低所得層から選ばれた20歳〜60歳の男女11名
調査方法:クイズ番組のリスナー(男性3名、女性8名)に対する詳細なインタビュー
調査対象ラジオ番組:プロフェッサークイズ。平均聴取率が13%と高く、人気のクイ番組。多くのリスナーから「教育的」だとの評価を得ている番組。

(2)調査の結果

このクイズ番組は、リスナーに対し、4つのアピールを持っていた。

1. 競争のアピール
第1に、番組に出演している回答者とリスナーの間の競争を楽しむという充足があった。第2は、一緒に聞いている共同リスナーとの間で競争を楽しむという充足だった。第3は、一緒に聞いているオーディエンスの前で褒めてもらうことによる自己顕示のアピールである。
2. 教育的アピール
インタビュー対象者のほぼ全員が「教育的要素」の魅力を挙げ、多くの人がそれを最も重要な点として強調した。20人中15人だけが競技そのものが楽しみを増すと答えたが、全員がこの番組を「教育的」と見なしていた。クイズ番組で得られる知識が断片的で多様なものであることを自覚していたが、「クイズ番組から学ぶことは価値がある、知識を増やすことは良いことだ」と感じていた。というのは、クイズ番組を通じて知識の幅を広げることは、日常生活での会話に役立つからだと答えていた。クイズ番組はまた、読書の代替手段としての機能も果たしていることが分かった。
3. 自己評価のアピール
クイズ番組はまた、自分について知る手段として役立っていた。例えば次のような回答があった。「自分がどれだけ愚かなのか分かった」「自分は予想以上に知識があると分かって嬉しくなる」「多くの質問に答えられることに驚くことがよくある」「他の人に勝つことよりも、自分が何を知っているのかを知ることの方が私にとって重要です。自分が思っていた以上に知識があることに気づきます」など。
4. スポーツのアピール
これは、スポーツ番組を見ているときと似た充足タイプである。全体で8人が競技そのものを楽しんでいると答えた。

番組を他人同士の競争として見る場合、主に次の3つの関心が挙げられる。

1)勝ちそうな競技者を選ぶことで、自分が優れた審判であることを示すことができる。
2)勝ちそうな競技者が、自分が勝ってほしいと思う人物像の象徴となる場合がある。
3)競技者が質問に答える際の失敗を楽しむことができる。

「プロフェッサー・クイズ」に関する「利用と満足」研究は、一見娯楽的な内容だと思われがちなクイズ番組であっても、リスナーが日常的に引き出している充足は多様であり、なかでも教育的アピールが最も高く、クイズ番組を聴くことがリスナーの知識の幅を広げ、日常の会話場面で役立てられていると同時に、読書の代替手段としての機能も果たしているという意外な知見が得られたという点で、きわめて意義深い成果だった。1960年代以降、欧米において量的な統計分析手法を用いて行われた各種のオーディエンス研究(McQuail, Blumler & Brown, 1972など)においても、ヘルツォークの発見した「教育的アピール」の機能が確認されており、ヘルツォークの分析と洞察の鋭さが裏付けられている(三上, 2014)。

昼の連続ドラマ(ソープオペラ)の「利用と満足」研究

ヘルツォークは、上記と同じ問題意識に立って、当時のアメリカ女性に圧倒的人気の高かったラジオの連続ドラマ(ソープオペラ)を取り上げ、クイズ番組と同じようなリスナーの受容調査を行った。この調査の結果について、ヘルツォークは1941年と1948年に、次のような別個の論文を発表している。

1. Herzog, Herta. (1941). On borrowed experience: An analysis of listening to daytime sketches. Studies in Philosophy and Social Science, 9 (1), 65–95. (Reprinted in M. Horkheimer (Ed.), Zeitschrift für Sozialforschung/, mit Gesamtregister, München: Deutscher Taschenbuch Verlag, (1980).
2. Herzog, Herta (1948). "What Do We Really Know about Day-time Serial Listners?", in Lazarsfeld, Paul F. and Frank N. Stanton (Eds.), Communications Research 1948 - 1949. Harper & Brothers: New York.

今日、本研究の成果に関して一番よく知られている論文は、1948年にラザースフェルドとスタントンの編集で出版されたBASRの報告書「Communications Research」に掲載された「我々は昼間の連続ドラマ聴取者について何を知っているか?」と題する論文である。この中で、調査の概要及び聴取者の「利用と満足」の部分を要約すると、次のようになる。

(1) 調査の概要
実施の主体:コロンビア大学応用社会調査研究所 (BASR)
主たる研究者:Herta Herzog
調査の目的:アメリカで最大の女性聴取者を持つラジオの連続ドラマの影響を詳細に研究すること。
調査方法:ラジオの連続ドラマの内容分析、ドラマのリスナーと非リスナーの比較、リスナーが連続ドラマから得ている充足についての詳細なインタビュー
インタビュー調査:100人の女性リスナーに対する詳細な面接調査

(2)調査の結果
100人の女性リスナーに対する詳細なインタビューの結果、彼らは昼間の連続ドラマから、3種類のタイプの充足を得ていることが分かった。
1. 情緒的解放 (emotional release)
彼らは、ドラマが提供する「泣く機会」を好み、「驚きや、幸せや悲しさ」を楽しんでいた。また、攻撃性を表現する機会も満足感の源になっていた。自分で問題を抱えているリスナーは、「他の人も問題を抱えていることを知って気が楽になる」と述べていた。ドラマの登場人物の悲しみは、リスナー自身の抱える悩みへの補償として受けとめられた。
2. 願望充足としての充足(wishful thinking)
2番目の充足タイプは、リスナーがドラマを通じて代理的な願望充足 (wishful thinking)を得ることだった。あるリスナーは、ドラマの物語に没頭して自分の悩みを忘れるために番組を聴いていた。一方、自分の人生の欠落を補うためや、自身の犯した失敗をドラマでの成功物語によって補償するために聴いている人もいた。例えば、自分の娘が家を出て結婚したり、夫が週5日間家を空けたりする女性は、『ゴールドバーグ一家』や『オニール家』のような幸せな家庭生活を描いたドラマをお気に入りに挙げていた。
3. 生活上の助言と忠告の源泉(日常生活の教科書)としての利用
3番目の充足タイプは、昼間の連続ドラマを日常生活の助言(advice)の源として利用するものだった。「これらの番組を聴いていると、自分の人生で何か問題が起こったときにどうすればよいかが分かる」というのが典型的な回答だった。アイオワ州で実施した関連調査によると、教育水準が低い女性ほど、連続ラジオドラマを「役立つ」と考える傾向が強いことが確認された。これは、教育歴の低い女性が「人と親しくなり、影響力を持つ方法」を学ぶ他の手段を持たず、昼間の連続ドラマにより依存している可能性が高いことを裏付けるものだった。具体的に連続ドラマから得られた助言の例を示すと、次のようになる。
・他者とうまく付き合う方法を教えられた
・夫やボーイフレンドを「扱う」方法を教えられた
・子供を「育てる」方法について助けられた
・特定の状況で自分自身をどのように表現すればよいかを学んだ
・自分の老いや戦争に行く息子を受け入れる方法を学んだ
Klapper(1960)は、これまでのマス・コミュニケーションの効果論を集約する中で、Herzogの研究を詳しく紹介しているが、「助言と忠告の源泉としての利用」のことを「日常生活の教科書としての機能」と呼んでいる。的確なネーミングと言える。連続ドラマに関するHerzogのU&G研究の意義は、クイズ番組の研究の場合と同様に、本来は娯楽的、逃避的なコンテンツとして、「情緒的解放」の充足だけがもっぱら注目されていたにもかかわらず、「日常生活の教科書としての機能」という予想外の教育的な充足、機能を発見した点にあったということができる。

フランクフルト学派との連携

ヘルツォークは、この報告書を執筆するより7年も前に、調査結果についての詳しい考察をStudies in Philosophy and Social Scienceという学術誌に投稿していた。この雑誌は、1926年に労働史家カール・グリュンベルクによって創設された「フランクフルト社会研究所」の機関誌である。このグループの中核をなしていたのは、マックス・ホルクハイマーとフリードリヒ・ポロックであり、さらにヘルベルト・マルクーゼ、レオ・レーヴェンタール、テオドール・アドルノ、フランツ・ノイマン、エーリッヒ・フロム、カール・フリードリヒ・ヴィットフォーゲルといった人物がこれに加わっていた。彼らは皆、20世紀初頭に生まれた人物で、同化主義的ユダヤ人家庭の出身であった。彼らは『社会研究雑誌(Zeitschrift für Sozialforschung)』を創刊し、「批判理論」と称される資本主義社会に対するマルクス主義的文化批評の展開を目指し、「フランクフルト学派」と呼ばれるようになった。1931年にナチスが国会を掌握すると、彼らユダヤ系知識人たちは、自らを「内なる亡命者(internal exiles)」と見なし、ドイツからの脱出戦略を準備し始めた。その計画には、ジュネーヴに支部研究所を設置すること、研究所の資金の大部分をオランダに移すこと、そしてアメリカにおける提携先を探すことが含まれていた。彼らのアメリカ移住は、ポロックの助手であったアメリカ人ジュリアン・ガンパーツの推薦によって実現し、コロンビア大学がフランクフルトにおける制度的関係に類する緩やかな所属先を提供した

1938年にプリンストン・ラジオ調査局(ORR)の研究者たちは、プロジェクトに対して重要な質的分析を加えることのできる戦略的な協力者を探し始めた。そして、連邦通信委員会(FCC)がFRECコンソーシアムのために教育放送研究を実施するよう命じたことこそが、ロックフェラー財団のジョン・マーシャルによってテオドール・アドルノがアメリカに招かれる直接的な要因であったことが、シェパードの研究によって明らかにされた (Shepperd, 2021)。

しかし、フランクフルト学派の旗印である批判的研究(critial research)とは相容れないはずの行政的研究(adinistrative research)を推進したラザースフェルドが、なぜフランクフルト学派の中心人物であるアドルノを研究員としてORRに招聘したのであろうか?このてんに関して、ラザースフェルドは自伝的論文(Lazarsfeld, 1973)の中で、次のように述べている。

私はそれまで一貫して音楽に関心を抱いてきたので、プリンストン・プロジェクトの主任になると直ちに特別に音楽部門をつくった。(中略)すでに私はT・W・アドルノの音楽社会学に関する研究を知っていた。現在、彼はドイツ社会学界の重鎮の一人であり、かつ、しばしば批判社会学と実証主義社会学として名高い二つの立場のあいだで果しなくたたかわされる論争で一方の旗手をつとめている・私はアドルノのこの研究がこうした論争の特徴を備えていることは承知していたが、現代社会において音楽が果す「矛盾した」 役割に関する彼の著作に関心をそそられた。私はアドルノを説いて、彼の思想を経験的調査に結びつけさせることができるか否かみてみるのもやり甲斐のあることだと考えた。その上、私はアドルノが一員であった、マックス・ホルクハイマーの辛いるフランクフルト・グループに恩義を感じていた。私は彼らにアドルノをこの国に呼びよせる希望があるのを知っていた。そこで私は彼を招いてわれわれのプロジェクトの音楽部門の非常勤主任になってもらうことにした。経験的データに詳しい専門家を彼につけようとして私は同時に、以前、スタントンの学生であり、心理学博士号をもつ優秀なジャズ・ミュージシャンのガーハード・ウィーベも非常勤主任に任命した。彼とアドルノが一致協力して行なえばヨーロッパの理論とアメリカの経験主義との一体化を促進してくれるだろうと思ったのである。(中略)結局、1939年秋に更新されたロックフェラー財団からの研究費では音楽プロジェクトの予算継続は承認されなかった。 私はアドルノを招いてプロジェクトに参加してもらったことを一度も後悔したことはない。アドルノがプロジェクトから離れるとすぐホルクハイマー・グループは彼らの雑誌(社会研究雑誌:Zeitschrift für Sozialforschung)のある号で現代マスコミュニケーションの問題を取り上げた。この号には私も一文を寄稿して共感を抱きながら「批判的アプローチ」をアメリカの読者に説明しようと努めるとともにこの基本的立場を踏まえて、どのような方法をとれば新しい調査の構想を導き出すことができるかを明らかにした。さらに私はあえて「ある作業、すなわち批判的コミュニケーション調査をそこに分類しうるような作業」を詳述しようとさえ努めた。(中略)私はこの論文を次の文で締めくくった。

「ラジオ調査室」がこの特集号に協力してきたのも、調査課題に対するきわめて普遍的な把握こそ価値ある結果を生み出す唯一のものだと感じられたからである。・・•・行政調査の分野に関心ならびに職業上の義務とをもつ筆者は次のような自己の念を表明したいと考えた。すなわち、ここには、あるタイプのアプローチが存在しており、このアプローチはもしコミュニケーション調査の全体の流れに包摂されるならば、既知のデータの解釈と新たなデータの探索とに役立つさまざまな問題や新しい概念を提起するうえで、大きな貢献をなしうるであろう。」(Lazarsfeld, 1973, pp.250-255)

引用が長くなってしまったが、ここにはフランクフルト学派の批判的アプローチとの違いにもかかわらず、ラザースフェルドがなぜアドルノを研究員としてORRに招聘したのか、その理由がはっきりと書かれている。このような企てが失敗に終わったとはいえ、それが「利用と満足」研究における質的調査と量的調査の融合、さらにはのちのカルチュラル・スタディーズの質的オーディエンス研究や「ダラス」をめぐるリーベス (Liebes)らのオーディエンス研究に大きな影響を与うえたことは明らかであり、メディア効果論の歴史における重要な出来事だったと評価することができる。

実際、ラザースフェルドの後押しもあって、ヘルツォークはアドルノとともにラジオ聴取者の研究を共同で行うようになり、上述の『社会研究雑誌』特集号にラザースフェルドとともに単独論文を寄稿したのである。それが、「昼間の連続ドラマ」聴取者に関する調査結果の分析であった(5)。フランクフルト学派の機関誌であることを反映して、ヘルツォークの論文は、単なる実証的調査報告書の範囲を超えて、批判的視点を含む深い洞察を示すものであった。

ヘルツォークの論文「借り物の経験」 (On Borrowed Experience)

この論文は、1948年のBASR報告書の内容と基本的には共通するものであるが、聴取者の語った受容経験がより詳細に論じられており、かつ「現実からの逃避」といった批判的視点からの考察もより深く行われているので、それらの点を中心に、論文の内容を紹介することにしたい。

リスナーの3つの充足類型

連続ドラマに対するリスナーの反応は、大まかにいって三つに分類される。これらの反応は、機能的には同等であるが、経験様式として区別される。

1. 物語を聴くことは情緒的解放をもたらす。
2. 物語を聴くことは、リスナーの「単調な生活」を願望的に再構成(代替)する機会を与える。
3. 物語を聴くことは、現実問題への適応のための処方箋を提供する。

一部のリスナーは、主として感情を解放する手段として物語を楽しんでいる。別の者は、自らの生活に起こってほしい出来事を代わりに体験する場として楽しんでいる。また別の者は、より現実的に、物語から現在の生活に耐えるための指針を得るものとして楽しんでいる。

1.情緒的解放 (emotional release)
ドラマのストーリーの聴取は、さまざまなかたちで情緒的解放をもたらす。第一に、それは内に秘められた不安を発散させる「泣く機会」を提供する。リスナーが「泣ける」ことは、二つの理由から充足感をもたらしている。まず、多くの大人は、自分のことで泣く「権利」を自らに許していない。子ども時代のように母親の膝で泣くという慰め方を失ってしまっているのである。また、ドラマの物語は、リスナーが涙を流す理由を明示することなく泣くことを許してくれる。

第二に、連続ドラマは、性格的にあるいは現実の生活の性質ゆえに感情的刺激を得にくいリスナーに、驚いたり、感動したり、興奮する機会を与えてくれる。リスナーは、ドラマの中で「感動させられること」そのものに価値を見出している。彼女たちは物語を現実の代替として受け入れており、登場人物の内容と自己とを同一化し、ヒロインの成功を自分自身の成功の代理物として受け止めている。これらの物語は、短期間の擬似的なカタルシス(感情の浄化)を提供している。笑いや涙による一時的な感情の高まりは、物語が続いているあいだだけ、リスナーに心地よさをもたらすのである。リスナーたちは「新しい驚き」や「新しい泣く機会」を次々と求める。というのも、彼女たちは自らの現実の生活が望んでいるような感情的体験を与えてくれることはないと理解しているからである。

第三に、他者に対する攻撃を通じて、自身の困難を補償する手段を提供する場合がある。こうした攻撃性は、物語の中で「他人の不幸を楽しむ」ことで満たされることもあれば、現実の周囲にいる人々よりも優越感に浸るための手段となることもある。物語の登場人物たちとの「被害者同盟」を築くことで、リスナーは周囲の人々に対して軽蔑的かつ攻撃的になっていく。一般的には、リスナーは他人の不幸を楽しむことで、自らの苦しみを他者への攻撃性を通じて補償している。物語は、攻撃対象となる人物を提供するのである。登場人物への攻撃性が、自らの苦悩を補償する願望とどれほど密接に結びついているかは、次のリスナーの発言に如実に表れている。彼女は、夫の死後に子どもたちを育て上げるのに苦労してきた。彼女は、自己犠牲的な女性をヒロインとする番組を好んで聴いている。ドラマ『ヒルトップ・ハウス』について、彼女はこう語る。

「あの女性は、いつも子どもたちのために尽くしている……結婚するかしらね。でも孤児院をやめてまで結婚するのは正しくないかもしれない。彼女はすごいことをしているんだもの。私は結婚すべきじゃないと思うわ。」

このリスナーは、自身の不遇を補償するかのように、お気に入りのヒロインに対して、やや自分よりも悪い運命を望んでいるのである。彼女は、自分の夫を失った代わりに、ヒロインには最初から夫がいないことを望んでいる。彼女は自分の子どもたちのために犠牲となっているが、ヒロインにも孤児のために身を捧げることを期待しているのである。

2. 代理経験 (wishful thinking)

ここでは、リスナーは物語の中で起こっている出来事が自分に起こっていると想像し、登場人物に共感するというよりも、登場人物そのものになる。彼女は、物語を現実の代替物として受け入れ、それによって自らの生活を作り変える。このような経験では、「物語上の現実」と「実際の現実」との区別が、願望によって破壊されてしまうのである。

(1) 現実逃避
もっとも極端な同一化において、リスナーは意識的に物語の世界へと逃避する。彼女は、物語を利用して、自分の生活の上に、より望ましい生活を重ね合わせる。聴取は強力な麻薬のように作用し、物語中の出来事に集中することによって、自分の悩みを忘れることができる。あるリスナーはこう語っている。

「金曜から月曜まで、物語が再開するのが待ちきれないの。自分の悩みを忘れさせてくれるから。私の悩みはお金のことだけ。でも彼らは違う。もっと複雑で、でも面白い問題を抱えているし、解決もできる。たとえば、彼らはワシントンに行きたくなったらすぐ飛行機に乗るの。お金なんて関係ないみたい。物語の中には本当のロマンスがある。デイヴィッドがプロポーズするのをずっと待っているのよ。」

このリスナーにとって、物語は実体験と同じくらい「現実的」である。彼女はドラマの主人公のロマンスを、自らのものとして経験しているのである。

(2) 「幸福な経験」の助長
一部の回答者は、現実生活において自分が楽しんでいると主張するような経験を、ラジオ番組を通じてさらに得ようとしている。その一例が、「幸福な結婚」の物語を聴くことを好む若い既婚女性である。彼女は次のように語っている。

「ああいう番組を聴くのが本当に好きなの。ブレント医師は、私にとって“二人目の夫”のような存在。結局、結婚は一度しかできないのよね。でも、他にも夫がいたらいいのに、と思ってるわ。」

物語の中のブレント医師は、彼女の実際の夫の代替物だと明言されているわけではないが、おそらく彼女の結婚生活に対する欲求は、その現実の満足度よりも大きく、ブレント医師を「第二の夫」として聴くことによって、その不足を補おうとしているのだろう。リスナーは物語を利用して、すでに持っているものを追体験しようとする欲望を持っている。増幅された「幸福な経験」は、おそらく現実生活において不足している「経験の強度」を代替的に満たすものとして機能しているのである。
(3) 欠けた部分をドラマで埋める
自分の生活において欠けていると自覚している要素を補うためにラジオ番組を利用するリスナーもいる。その一例は、病弱な夫と暮らしているが、彼を深く愛している女性である。彼女のお気に入りの番組は『ヴィックとセイド』であり、なかでも「面白いエピソード」が好きだという。

「夫が病気になってから、あまり楽しいことがないの。『ヴィックとセイド』を聴くのが大好き。あの二人は私たちに似てるのよ。ヴィックはうちの夫にそっくり。いろんな面白いことが起こるの。いつも夫にその話をしてあげるの。」

彼女が最も気に入ったエピソードは、セイドが友人宅のパーティで靴を取り違えて帰宅し、一方は自分の靴、もう一方は他人の靴だったという話である。おそらくこのリスナーは、現在、忠誠心を基盤とする単調な結婚に縛られている自分に不満を感じているのだろう。彼女が夫に語って聞かせる「面白いエピソード」は、実際には存在しないが、理想として求める「楽しい出来事」の代替となっているのである。

(4) ドラマによって過ぎ去った過去の思い出をを甦らせる
一部のリスナーは、すでに過ぎ去ってしまった思い出をよみがえらせるために、ラジオドラマを利用している。物語がもたらす連想が、彼女たちをかつての、より楽しかった時代へと連れ戻すのである。たとえば、ある女性は小さな町で育ち、その町を懐かしく思っているが、『デイヴィッド・ハーラム』を聴くことで、かつて知っていた小さな町での暮らしに戻る機会を得ている。彼女はこう語る。

「『デイヴィッド・ハーラム』と彼の素朴な人生哲学を聴くのが好き。あれは小さな町が舞台なの。私も小さな町で育って、大好きだったわ。」

こうした「過去との連想」が番組から得られる主たる喜びとなるのは、それによって呼び起こされる記憶が、現在の望ましくない状況に対して適切な代替物となる場合である。次のリスナーの発言が、その典型である。

「『ヘレン・トレント』を聴くのが好き。彼女のロマンスは、私のそれに似ている。夫はいつも愛情深くて優しかったし、口論なんてしたことがない。私たちは本当に幸せだったし、今もそうよ。この物語は、19年前の私のロマンスを思い出させてくれるの。」

彼女は「今も幸せ」と述べているが、彼女の語りがすべて過去形である点に、おそらく本人は気づいていない。この「今も幸せ」という言葉は、まさに彼女がラジオドラマから得ている充足感を体現しているのである。実際には、彼女と夫のあいだには以前よりも「口論」が増えている可能性がある。彼女は『ヘレン・トレント』を聴くことによって、19年前の恋愛体験を再現し、それが今も続いていると想像するのである。

(5)登場人物の成功への同一化による失敗の補償
あるリスナーは、家庭関係において失敗を経験しているようである。彼女の娘は駆け落ちし、夫については「週に五日は家にいない」と語っている。彼女は『ゴールドバーグ家』や『オニール家』といった、「成功した母親や妻」が描かれる番組を好んで聴いている。彼女はこう語っている。

「『オニール家』が好き。調和を重視していて、それでいて家族の個性も描かれているの。」

しかし彼女は、ママ・オニールについて、次のような批判もしている。

「あんなに神々しくて、理想を長く保てる女性なんて、いるわけがないでしょ。」

このように、彼女は一方では理想像を楽しみながらも、同時にその理想を現実的には否定しているのである。理想の登場人物を愛しながら、その成功によって自らの失敗を補う一方で、「そんな人物は実在しない」と断じることで、自分を慰めているのである。

このように、ヘルツォークは、第二の充足類型を論じるに当たって、それが「代理満足」を通じて、リスナーの現実生活からの逃避という望ましくない潜在的逆機能を果たしているという批判的な見解を示している。

3. 現実適応の処方箋としての機能(recipes for adjustment)

一方、ヘルツォークがこの「利用と満足」研究で見出した第三の充足類型は、「ラジオの連続ドラマ」という娯楽的コンテンツから、リスナーが「日常生活の現実問題に適応するための処方箋(recipes for adjustment)を得ている」という発見だった。

(1) 退屈なだけに見える世界に意味を与える
多くのリスナーが、「物語が空虚な生活を満たしてくれた」と主張している。毎日、何かが予定されているという事実そのものが、彼女たちの日々の単調な生活に「冒険性」を加えているのである。人生は、一日15分ずつのラジオ放送という連続の流れとして意味を持つようになる。このようなリスナーにとって、物語がなければ、今日から明日へと希望をつなぐものが存在しなくなってしまう。物語は、その継続的な性質ゆえに、さもなければ空虚で無意味な生活に対する適応を可能にしているのである。
(2)ドラマの物語から助言を得る
リスナーの現実生活への適応に資するもう一つの聴取形態は、物語から「助言」を得ることである。多くの回答者は、物語が「自分にとって役立つ」「どう行動すべきかを教えてくれる」ために好んで聴いていると、自発的に語った。以下はその一例である。

「私は、番組から何か得られるかどうかで聴いてるの。『アント・ジェニー』では、毎回ちゃんと問題が解決するし、その方法が私の生活でも役に立つかもしれないのよ。」

「こういう番組を聴いておけば、自分の身に何か起きたとき、どう対処すればいいかわかるの。」

「『マ・ゴールドバーグ』がどうやって問題を解決するかを見るのが好き。縫い物をしながら考えるのにちょうどいいの。彼女はどうすればいいかを教えてくれるわ。」

このように、リスナーたちの物語に対する要求は、「学びたい」という欲求と、「逃避したい」という欲求との間で揺れ動いている。学ぶためには、物語が「現実を描いている」必要があり、逃避するためには、「より良き世界」を描いていなければならない。これら二つの要求は、表面的には矛盾しているように見えるが、実のところ、どちらもリスナーの不安感という共通の根から生じているのである。

このように、ヘルツォークは、同じ「ラジオドラマ」という娯楽的番組から、リスナーたちが多様な充足を引き出しており、それがときには「代理満足」という逃避的な負の機能をもたらすこともあれば、「現実適応の処方箋」というプラスの教育的機能を果たすこともあるという両義的な意味を持つことを初めて明らかにしたのである。

 

7.フォーカス・インタビューの創始者

ヘルタの業績はこれにとどまらなかった。彼女の学術的な貢献として最も大きく、彼女自身がのちに「人生で最高の業績」だったと振り返ったのは、フォーカス・インタビューの手法を開発し、メディア研究やマーケティング調査の分野で広く普及させたことである。フォーカス・インタビューは、現代でもマーケティング調査の領域では広く使われている調査手法である。

プログラム・アナライザーの開発と初期のグループインタビュー

フォーカス・インタビューの始まりは、1937年にORRでプログラム・アナライザーが開発された時にまで遡る。プログラム・アナライザーとは、「聴取者や視聴者が番組を見聞きしてい る時に感じる気持ち(「おもしろい」「お もしろくない」「好き」「嫌い」「わかる」「わ からない」など)の変化を,番組の流れに応じ て,連続的に記録する装置」(小平, 2016)だった。 プログラム・アナライザーはラジオ番組に対する聴衆の反応を秒単位で記録・分析することが可能だった。10~20名の被験者を一列に並べ、「好意的な反応」の際は緑のボタンを、「否定的な反応」の際は赤のボタンを押させることによって、磁気ペンがラジオ番組の秒単位の反応曲線を描き出した。プログラム・アナライザーの考案者はポール・ラザースフェルドとフランク・スタントンで ある。ヘルツォークは、開発当初からプログラム・アナライザーによる番組分析および放送後の質的インタビューの学術的、商業的活用において高い専門性を備えた人物であった。このインタビューは、フォーカスグループ・インタビューにおける「集団要素」を含んでおり、フォーカス・インタビューの先駆けという性格を備えていた。したがって、ヘルツォークはこの時点で、フォーカス・インタビューの創始者としての役割を果たしていたといってもいいだろう(Rowland, Allison L.. and Peter Simonson , 2014).。

しかしながら、1943年、ヘルツォークがマッキャン・エリクソン社に「プログラム・アナライザー部門」の責任者として迎え入れられると同時に、同社はプログラム・アナライザーの独占使用権を取得した。彼女はこの技術をイギリスおよび南米に広め、プログラム・アナライザーの国際的商業展開に貢献した。「リトル・アニー(Little Annie)」と呼ばれたこの分析装置は、ヘルツォークにフォーカスグループの専門性を要求し、同時に彼女を学術界から引き離す力としても作用することになり、後述するように、フォーカス・グループの創始者としての功績をマートンに奪われる結果となったのである(Rowland, Allison L.. and Peter Simonson , 2014)。

フォーカス・グループ

しかるに、今日では、フォーカス・インタビューの創始者は、社会学者のボブ(ロバート・K・マートン)だとされている。この重大な事実誤認は、実は、ボブと彼の弟子(ポールの後妻)パトリシア(ケンドール)の作為的な共謀の結果だったことが、シモンソンらによって明らかにされている。ボブとパトリシアは、彼らの発表したいくつかの論文を通して、フォーカス・インタビューにおけるヘルタの創始的業績を巧妙に「抹殺」してしまったのである。

 

8.マーケティング調査業界における活躍

 

 

9.ヨーロッパに戻る:オーディエンス研究への復帰

 

 

10.ヘルタ・ヘルツォークの遺産

 

 

 

注:

(1) ヘルツォーク自身は、Perseにあてた手紙の中で、フェミニストではなく、またジェンダー的な視点から自ら性差別の対象になったという意識を持ったことはない、と否定している。

(2)ヘルツォークが2010年に99歳で逝去した直後から、ヘルツォークの優れた研究業績を再評価しようという動きが活発になり、シンポジウムの開催、記念論文集の出版などの企画が相次いだ。

(3)キャントリルは、ゴードン・オルポートと共に、1935年に『ラジオの心理学』という本を出しており、ラジオが印刷物よりも強い政治的影響力を持つ可能性を示唆していた。ロックフェラー財団はこの研究に注目していた。

(4) ソープオペラという呼称は、アメリカで連続ドラマに使われる愛称である。

(5) ラザースフェルドがこの特集号で寄稿した論文は、行政的研究と批判的研究に関する論考であった。

 

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