ヨーロッパ聖地巡礼

ロンドン聖地巡礼「シャーロック・ホームズ」(準備編・目次入り)

コナン・ドイルと「シャーロック・ホームズ」

困窮の中で育ったコナン・ドイル

アーサー・コナン・ドイルは、1859年5月22日スコットランドのエディンバラで、ジョン・ドイルの末子として生まれました。ジョンはマンガの始祖ともいうべき人で、ロンドンで高名を馳せました。けれども、収入は少なく、ドイル一家は貧しい生活を余儀なくされました。アーサー少年は、両親からスパルタ式の厳しい教育を受けて育ちました。

ベル教授との出会い

1976年、アーサーはエディンバラ大学の医学部に進み、医学の他に、植物学、化学、解剖学、生理学、その他多くの科目を履修しました。アーサーが教えを受けた数多くの教授の中で、もっとも大きな影響を受けたのは、ジョゼフ・ベル博士でした。この人はエディンバラ診療所の医師で、心身ともに非凡な人でした。

やせっぽちで眼や髪が黒ずんでおり、鼻が高くて顔つきが鋭く、やせた肩をいからせてひょいひょいと飛ぶように歩いた。声は高くて調子はずれだった。きわめて熟練した医師で、強みの診断は病状ばかりでなく患者の職業や性格のことにまで及んだ。
(コナン・ドイル『わが思い出と冒険』より)

このベル博士は、のちに「シャーロックホームズ」の中で、ホームズのモデルになりました。ベル博士の下した鋭い診断について、ドイルは次のような逸話を紹介しています。

もっともよい実例では一市民患者に先生がたずねる。
「ははあ、君は軍隊にいましたね?」
「そうです。」
「近ごろ除隊になったね?」
「そうです」
「高地連隊だね?」
「そうです。」
「下士官だったね?」
「そうです。」
「バルバドス駐屯隊だね?」
「そうです。」
「さて諸君、これはまじめで卑しからぬ人なのに、はいってきても帽子をとらない 軍隊ではそうするのが普通であるが、これは除隊してまがない から、一般市民の風になれるひまがなかった。見たところ威力があるし、明らかにスコットランド人だ。バルバドスといったのは、この人の訴えて いる病苦は象皮病であるが、この病気は西インド地方のもので、イギリスにはない。」 説明を聞くまでは多くのワトスンたちには不思議でならないが、聞いてみれば至極なんでもないことだ。そういう人の特性を研究した私が、後年科学的探偵を書くようになったとき、これを強化応用した のに不思議はあるまい。
(コナン・ドイル『わが思い出と冒険』より)

医者になったドイル

1880年、ドイルが21歳のとき、彼は7ヶ月間、捕鯨船に乗り組み、北極洋を航海しました。このあたりは、日本の作家、北杜夫と共通したところがあります。どちらも後日、痛快な冒険談を書くことになります。

航海から戻ったドイルは体格堂々とした成人になっていました。1881年には卒業試験にパスし、開業医の資格を得ました。とはいっても、すぐに開業したわけではなく、1881年には船医として、再び3ヶ月間の航海に出ています。

航海からイギリスに戻ると、ドイルはポーツマス郊外のサウスシーという町で開業医としての仕事を始めました。同時に、この頃から文学の創作活動を始めました。当初は匿名で雑誌に発表するだけで、無名のままでした。やがて、少年時代から尊敬する探偵小説家のポーのデュパンのような人物を主人公とする小説を書けないだろうかと思うようになり、ベル博士をモデルとした科学探偵を構想するに至ります。

この思いつきは私を喜ばせた。その男の名を何としよう?  私は今でもノートの一葉を持っているが、それにはあれかこれか、いろんな名が書い てある。名前というものはある程度その人物の性格を暗示するという基本的性質があって調和がむずかしい。初めはシャープズ氏かそれともファーリッツ氏かとも思ったが シャーリングフォード・ホームズ にきめ、それからシャーロック・ホームズに改めた。
(コナン・ドイル『わが思い出と冒険』より)

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