リュクサンブール公園 Photo by Shunji Mikami

ヨーロッパ聖地巡礼

パリ聖地巡礼『レ・ミゼラブル』(準備編)

ヴィクトル・ユーゴー著『レ・ミゼラブル』は、全5巻からなる壮大なスケールの大河小説である。舞台は、ナポレオン1世没落後のフランス。元徒刑囚のジャン・ヴァルジャン(以下、ヴァルジャンと略記)の半生をドラマティックに描いている。19世紀前半のフランス社会が背景として描かれている。

ヴァルジャンが実際にパリでの生活を始めるのは、コゼットをテナルディエから引き取った後からである。そこで、以下では、ヴァルジャンがコゼットとともに、パリに到着してからの、パリでの動きを追いながら、パリ「聖地巡礼」の旅に出たいと思う。

(テナルディエの宿屋でこき使われる少女コゼット
Illustration by Émile Bayard)

第2部 コゼット

ゴルボー屋敷

ヴァルジャンは、コゼットを連れて、ある日の夕暮れ頃、モンソーの市門からパリに入った。そして、オピタル通り50番地の、通称「ボルボー屋敷」に最初の居を定める。そこは、市門に近く、当時はいかにも目立たない、寂しいところだった。 家の1階には、大家のお婆さんが住み、ヴァルジャンとコゼットは2階で目立たないように暮らしていた。それは、警視ジャヴェールの追跡を逃れるためだった。

サン・メダール教会

ヴァルジャンとコゼットはサン・メダール教会によく行った、と小説には書いている。

ヴァルジャンとコゼットの逃亡劇

やがて、ヴァルジャンは、ジャヴェールの追跡を察知して、オピタル通りの住居を引き払い、夜の闇に紛れて、コゼットとともに、追っ手の追跡を逃れようと、小さな街路をジグザグに辿りながら、オーステルリッツ橋に到達する。そこに至るまでには、サンシェ街、コポー街、バトアール・サン・ヴィクトル街、ブュイ・レルミット街、サン・テティエンヌ・デュ・モン教会堂、ポントアーズ街、エペ・ド・ボア街、アルバレート街、ポスト街と、実に多くの通りを渡り歩いている。ポスト街は、ヌーヴ・サント・ジュヌヴィエーヴ街と交差していたが、その四つ辻に身を潜めたヴァルジャンは、ジャヴェールの顔をはっきりと認めた。

オーステルリツ橋を渡る

このあと、ヴァルジャンとコゼットは、植物園の横を通ってセーヌ川に達し、オーステルリッツ橋を渡る。セーヌ川右岸を東の方向に逃げ、「プチ・ピキュピュス」(Petit-Picpus)と呼ばれる小路にたどり着くが、ここで警察に取り囲まれる形となり、逃げ場を失う。

「プチ・ピクピュス」というのは、現代の地図にはなく、ユーゴーが創作したものと考えられている。Picpusという街区は、ナシオン広場の近くにあり、ユーゴーはおそらくこの地区内のどこかを想定して書いたものと思われる。『レ・ミゼラブル』では、次のように記述されている。

三百歩ばかり行った時、ジャン・ヴァルジャンは街路の分岐点に達した。いずれも斜めに右と左との二筋に分かれていた。彼の前にはちょうどYの二本の枝のような通りがあった。いずれを選ぶべきか?

彼は躊躇しなかった、右を選んだ。

(中略)

「彼は一つの壁に行き当たった。
けれどもその壁は行き止まりにはなっていなかった。それは、今彼が歩いてきた街路に続いてる横通りの壁だった。
そこでまた彼は心を決めなければならなかった、右へ行くか、左へ行くかに。」

豊島与志雄訳『レ・ミゼラブル』第2部「コゼット」より)

この分岐点はY字型をしていた。ヴァルジャンは、一方の道の先に追っ手の影を認めた。もう一つの道は行き止まりになっていた。彼は窮地に陥ったのである。

「プティー・ピクプュスの一郭のうちでわれわれが街路のY形と呼んだところのものは、シュマン・ヴェール・サン・タントアーヌ街の二つの枝からできていて、左の方のをピクプュス小路といい、右の方のをポロンソー街と言っていた。Yの二本の枝はその頂がいわば一つの棒で結ばれていた。その棒をドロア・ムュール街と言っていた。」

鹿島茂氏は、『レ・ミゼラブル百六景』の中で、この地形を次のように説明している。

『レ・ミゼラブル』 の原型である『 レ・ミゼール』 では、ジャン・ヴァルジャンの逃亡劇はムフタール界隈(セーヌ川左岸)に 限られ、しかも実在の通りの名を使って描かれている。 ところが、一八六〇年に手を加えた際、ユゴーはさまざまな配慮から、ジャン・ヴァルジャンにオステルリッツ橋を渡らせ、架空の街区を逃げ回らせることにした。
(鹿島 茂『レ・ミゼラブル百六景』 より)

袋小路に追い詰められたヴァルジャンは、目にとまった上りやすそうな壁を登り、ロープを使ってコゼットを引き上げ、見知らぬ宅地に降り立った。脱獄を繰り返した経験のあるヴァルジャンには、高い壁を登るのはたやすいことだった。間一髪でジャヴェールらの追跡を逃れることができた二人だった。

入り込んだ庭は、実はプチ=ピクピュス62番地にある修道院だった。そして、偶然にも、かつてマドレーヌ市長だった頃に世話をしてやったフォーシュルアン老人が、ここの庭師をしていたのだった。フォーシュルヴァン老人は、恩人であるヴァルジャンをかくまってくれることになった。

この修道院の所在地は、原作では「サン・タントワーヌ街区」(quartier Saint-Antoine)なっているが、これはパリには実在せず、ユーゴーの創作である。ただし、この修道院のモデルになった施設はパリ市内にある。前述の鹿島氏によれば、

ユゴーが一章をさいて詳しい説明を加えているこの修道院もプチ=ピクピュス小路同様実在しない。といっても、ユゴーは 無から有を作り出したわけではなく、プチ=ピクピュス修道院は前述のヌーヴ=サント=ジュヌヴィエーヴ通り十八番地に実在 す聖体永久礼拝ベネディクト女子修道会をモデルにしたものである。ユゴーはこの修道院の寄宿学校のことを書くにあたって、愛人のビヤール夫人から提供された資料のほか、愛人のジュリエット・ドゥルーエが書いたサン=ミッシェル修道院の思い出も参考にしている。
(鹿島 茂.「レ・ミゼラブル」百六景より)

Neuve-Sainte-Geneviève通りというのは、実在するものの、それはパリからかなり離れたところにある。結局、ヴァルジャンとコゼットが一時期隠れ住んだ修道院は、セーヌ右岸の「ピクピュス」街区のどこかだということしか分からない。

さて、フォーシュルヴァンがヴァルジャンとコゼットをかくまうには、いったん二人が外に出なければならなかった。フォーシュルヴァンは一計を案じ、ちょうど空のまま墓地に運び出されることになっていた棺桶にヴァルジャンを入れ、墓地まで運び、そこで何とかヴァルジャンを救い出し、改めて修道院に連れて行き、「仕事を手伝う自分の弟」という名目で修道院に住まわせることに成功した。コゼットは修道院長の面接を受け、寄宿生となった。ここで、二人は5年半の修道院生活を送ることになった。

第3部 マリユス

物語は、ここからもう一人の主人公マリユスに移る。そして、舞台はセーヌ川左岸に戻る。

マリユスは、ブルジョアの家系に生まれ、父はワーテルローの戦いで武勲を立てた元軍人で、マリウスは男爵位を受け継ぐ資格を与えられていた。しかし、祖父と父の対立に巻き込まれ、家を出て自活するようになった。

マリユスとカフェ・ミューザン

ヴァルジャンとコゼットが一時身を隠していた、オピタル通りの「ゴルボー屋敷」には、浮浪少年ガウロッシュの両親と、貧しい青年マリユスが住んでいた。マリユスは、当初は叔母の影響を受け、王党派だったが、図書館に通ううちに次第にナポレオンに心酔するようになり、共和主義者へと変身していった。作者ユーゴーの思想的遍歴とも一致している。マリユスは、ユーゴー自身をモデルとしているといわれる。

当時のパリには、いくつもの秘密結社があった。「ABC(アーベーセー)の友」は、その中の一つである。ABCとはAbaissé(アベッセ)(民衆のこと)に引っかけてつくられたのもので、「民衆を引き上げること」を目標にしていた。彼らは小規模な結社で、パリ市内の2箇所で集会を開いていた。そのうちのひとつは、セーヌ左岸のサン・ミシェル広場(現:エドモン・ロスタン広場)にある「ミューザン」(le Café Musain)である。

(カフェ・ミューザンの一室で議論する「ABCの友」のメンバー達
Illustration by by Émile Bayard )

このカフェの奥にある一室で、ABCの秘密会が開かれていた。ボスは、金持ちの息子アンジョーラ、リーダーはコンブフェールだった。マリユスも、友人からの誘いを受けて、ミューザンの会合に参加するようになった。しかし、議論を繰り返すうちに、ナポレオンに対する評価をめぐってアンジョーラ達と対立し、嫌気がさしたマリユスはミューザンに行くのをやめてしまった。

リュクサンブール公園でのコゼットとの出会いと恋

マリウスは20歳になっていた。「当時のマリユスは、中背の美しい青年で、まっ黒な濃い髪、高い利発らしい額、うち開いた熱情的な小鼻、まじめな落ち着いた様子、そしてその顔には、矜らかで思索的で潔白な言い知れぬ趣が漂っていた。」(豊島与志雄訳『レ・ミゼラブル』第3部「マリユス」より)。

マリウスは、いつの頃からか、自宅からほど遠くないところにあるリュクサンブール公園の散歩を日課とするようになっていた。ある日、公園の片隅で、60歳くらいの男性と少女がベンチに座っているところを通りかかった。

(リュクサンブール公園のベンチに座るヴァルジャンとコゼット
Illustration by by Émile Bayard

「もう一年以上も前からマリユスは、リュクサンブールの園のある寂しい道で、苗木栽培地の胸壁に沿った道で、ひとりの男とごく若い娘とを見かけた。ふたりはウエスト街の方に寄った最も寂しい道の片端に、いつも同じベンチの上に並んで腰掛けていた。自分の心のうちに目を向けて散歩している人によくあるように、別に何の気もなくほとんど毎日のように、マリユスはその道に歩み込んだ、そしてはいつもそこにふたりを見いだした。男は六十歳くらいかとも思われ、悲しそうなまじめな顔つきをしていて、退職の軍人かとも見える頑丈なしかも疲れ切った様子をしていた。」

そのときはまだ、少女はマリユスの注意をそれほど引くような女性ではなかった。

「彼に連れられてきて、二人で自分のものときめたようなそのベンチに初めて腰掛けた時、娘の方はまだ十三、四歳であって、醜いまでにやせており、ぎごちなく、別に取りどころもなかったが、目だけはやがてかなり美しくなりそうな様子だった。けれどもただ、不快に思われるほどの厚かましさでいつもその目を上げていた」

それからは、しばらくの間、マリユスは二人の座っているベンチのある小径をしばしば散歩するようになり、二人の名前を勝手に推測したりしたが、挨拶などもしないでいた。

その後、半年ほど、マリウスのリュクサンブール公園への散歩は中断したのだが、最初の出会いから2年目のある日、マリウスが久しぶりにリュクサンブール公園に行ってみると、いつものように二人はベンチに座っていたが、娘は見違えるような美しい女性に成長しており、マリウスの心を捉えた。

「老人の方は同じ人だったが、娘の方は人が変わってるように思えた。今彼の目の前にあるのは、背の高い美しい女で、大きくなりながらまだ幼時の最も無邪気な優美さをそなえてる時期であり、ただ十五歳という短い語によってのみ伝え得るとらえ難い純潔な時期であって、ちょうどその年頃の女の最も魅力ある姿をすべてそなえていた。金色の線でぼかされたみごとな栗色の髪、大理石でできてるような額、薔薇の花弁でできてるような頬、青白い赤味、目ざめるような白さ、閃光のように微笑がもれ音楽のように言葉がほとばしり出る美妙な口、ラファエロが聖母マリアに与えたろうと思われるような頭と、その下にはジャン・グージョンがヴィーナスに与えたろうと思われるような首筋。そしてその愛くるしい顔立ちをなお完全ならしむるためには、鼻がまた美しいというよりもかわいい“ものだった。まっすぐでもなく、曲がってるでもなく、イタリー式でもギリシャ式でもなく、パリー式の鼻だった。言い換えれば何となく怜悧そうで繊細で不規則で純潔であって、画家を困らせ詩人を喜ばせる類の鼻だった。

彼女のそばを通った時、彼はその目を見ることができなかった。その目はいつも下に向けられていた。影と貞純とのあふれてる長い栗色の睫毛だけが、彼の目にはいった。

それでもなおこの麗わしい娘は、自分に話しかける白髪の男に耳を傾けながらほほえんでいた。目を伏せながら浮かべるあざやかなその微笑ほど、愛くるしいものは世になかった。」
(豊島与志雄訳『レ・ミゼラブル』第3巻「マリユス」より)

それから何回か散歩を重ねたある日のこと、

「空気の温暖なある日、リュクサンブールの園は影と光とにあふれ、空はその朝天使らによって洗われたかのように清らかであり、マロニエの木立ちの中では雀が小さな声を立てていた。マリユスはその自然に対して心をうち開き、何事も考えず、ただ生きて呼吸を続けてるのみで、あのベンチのそばを通った。その時あの若い娘は彼の方へ目を上げ、ふたりの視線が出会った。

こんどは若い娘の視線の中に何があったか? マリユスもそれを言うことはできなかったであろう。そこには何物もなかった、またすべてがあった。それは不思議な閃光であった。”

(中略)

「その一瞥の落ちる所から深い夢が生まれないことは、きわめてまれである。あらゆる純潔とあらゆる熱情とは、その聖き致命的な輝きのうちに集まっており、婀娜な女の十分に仕組んだ秋波よりもなお強い魔力を有していて、かおりと毒とに満ちたほの暗いいわゆる恋と呼ばるる花を、人の心の奥ににわかに開かせる。」
(豊島与志雄訳『レ・ミゼラブル』第3巻「マリユス」より)

こうして、花咲き乱れるリュクサンブール公園の一角で、マリウスとコゼットは一瞬にして恋に落ちたのだった。

Le Jardin du Luxembourg: Photo by Shunji Mikami

しばしの別れ

しかし、言葉を交わすこともなく、ただ燃えるような眼差しと仕草だけで交わされる二人の恋は、すぐに実ることはなかった。ヴァルジャンがそれとなく気づき、マリユスがウェスト街の住居まで後をつけて行ったことから、ほどなくヴァルジャンとコゼットが転居してしまったからである(当時のウェスト街は、今ではアッサス街と名前を変えている。)転居先も分からず、悲しみに打ちひしがれるマリユスだった。

(1864年当時のパリの古地図:
リュクサンブール公園南西の通りは "Rue de l'Ouest"となっている)

【Link: Paris Map 1864

ゴルボー屋敷での再会

マリユスは、相変わらずオピタル通りのゴルボー屋敷に住んでいた。同居人は、隣部屋のジョンドレッド一家だけだった。

ある朝、マリユスの部屋の扉を叩く者があった。開けると、うら若い娘が立っていた。彼女はマリウスに金銭的援助を求める手紙を渡した。マリユスは、それを読み、隣人のジョンドレッドが娘を使って篤志家の慈善を求めることを生業としていることを知った。このとき、マリユスはまだ、ジョンドレッドがヴァルジャンにコゼットを引き渡したテナルディであり、娘がテナルディの娘エポニーヌであることをまだ知らなかった。彼らは、それほどまでに困窮し、落ちぶれていたのだった。

マリユスは彼女とジョンドレッドに同情の念を抱いたが、同時に好奇心にも駆られた。隣室との間の壁をじっと見つめていたマリユスは、偶然、壁の上のほうに小さな穴が空いているのを見つけ、戸棚に上って、その「のぞき穴」から、隣室の模様を観察することにした。それは、悲惨な家族の汚れた室内だった。

しばらくすると、さきほどの娘が戻ってきて、父親に「サンジャック会堂の慈善家の旦那が来るよ」と告げた。やがて、その慈善家が現れたが、一緒に訪れた女性の姿を見て、マリユスは、喜びのあまり、目もくらむような衝撃を受けた。その女性こそは、リュクサンブール公園で秘かに愛を交わした彼女だったからである。

ヴァルジャンはジョンドレッドに衣類を渡そうとするが、ジョンドレッドは家賃を滞納している窮状を訴えた。ヴァルジャンは「6時に60フラン持ってくる」と言い残し、ゴルボー屋敷を後にした。マリユスはヴァルジャンを追跡しようとするが、またも見失ってしまった。その一方、マリユスの部屋に忍び込んできたエポニーヌに、ヴァルジャン親子の住所を探してくれるよう頼み、エポニーヌも、きっと探すと約束した。

このあと、ジョンドレッド(テナルディ)は、この慈善家がヴァルジャンであることに気づき、仲間と共謀して監禁する計画を家族に打ち明けるが、それをのぞき穴から見ていたマリユスは、ヴァルジャン父娘に危機が迫っていることを察知し、警察に通報する。6時にヴァルジャンが部屋に戻ると、ジョンドレッドは、自分がテナルディエであることを告げ、手配した仲間とともにヴァルジャンをベッドの脚に縛り付け、20万フランを要求した。しかし、ヴァルジャンはその要求には応じず、強靱な腕力で縄を振りほどいた。テナルディエが外に警察がいることに気づいたとき、ジャヴェールを先頭に部屋に踏み込んできた。ジャヴェールは、テナルディエら一味を逮捕したが、そのとき、ヴァルジャンの姿はなかった。

第4部 プリュメー街の恋歌とサン・ドゥニ街の戦歌

この事件に嫌気がさしたマリユスは、翌日、ゴルボー屋敷を引き払って、友人クールフェーラックの家に移り住んだ。心は、リュクサンブール公園で出会った愛する女性への想いで満たされていた。

そんなある日のこと、マリユスの行方を捜していたエポニーヌがマリユスを見つけ出し、ヴァルジャン父娘の住所を突き止めたことを知らせる。そして、見つけたら何でもあげるという約束を思い出させる。マリユスがお礼に5フラン貨幣を渡そうとすると、エポニーヌはそれを払い落とし、暗い顔つきで「あなたのお金なんかほしいんじゃないの」と言った。このとき、エポニーヌもまた、マリユスに淡い恋心を抱いていたのだった。

(マリユスにコゼットの住所を伝えるエポニーヌ
Illustration by by Émile Bayard

プリュメー街の隠れ家

ヴァルジャンとコゼットが秘かに移り住んだ所は、サン・ジェルマン郊外のプリュメー街にある二階建ての古い家屋だった。

それまで、ヴァルジャンとコゼットは、プチピクピュスの修道院で暮らしていた。しかし、大切なコゼットの将来のことを考え、修道院を去ることを決心した。フォーシュルヴァン爺さんが亡くなったのを機会に、修道院長に5000フランの寄付を申し出てコゼットとともに、修道院を後にしたのである。

その後、プリュメ−街に居を定め、「ユルティーム・フォーシュルヴァン」を名乗って、新しい生活を始めた。同時に、用心のため、ウェスト街とオンム・アルメ街にも部屋を借り受けた。マリウスがリュクサンブール公園で見つけた住居は、このウェスト街の借り家だったのである。

プリュメ−街の新居で、ヴァルジャンはコゼットを誘って、毎日のように散策に出た。

リュクサンブールの園の最も人の少ない道に彼女を伴い、また日曜日には、ごく遠いのを好都合としていつもサン・ジャック・デュ・オー・パ会堂の弥撒に連れて行った。そこはきわめて貧しい町だったので、彼はたくさんの施与をして、会堂の中では不幸な人々に取り巻かれた。そのために、サン・ジャック・デュ・オー・パ会堂の慈悲深き紳士殿というテナルディエの手紙をもらうに至ったのである。彼はまたコゼットを連れて好んで貧乏人や病人の家を見舞った。

(豊島与志雄訳『レ・ミゼラブル ー 第四部 叙情詩と叙事詩 プリューメ街の恋歌とサン・ドゥニ街の戦歌』より)

14歳で修道院を出てから2年が経ち、コゼットは見違えるように美しい女性に成長した。マリユスがリュクサンブール公園で彼女を見初めたのも、ちょうどその頃だった。

その日、コゼットの一瞥はマリユスを狂気させ、マリユスの一瞥はコゼットを震えさした。マリユスは信念を得て帰ってゆき、コゼットは不安をいだいて帰っていった。その日以来、彼らは互いに景慕し合った。

コゼットが最初に感じたものは、漠然とした深い憂愁だった。直ちに自分の心がまっくらになったような気がした。もう自分で自分の心がわからなくなった。年若い娘の心の白さは、冷淡と快活とから成ってるもので雪に似ている。その心は恋にとける、恋はその太陽である。

(豊島与志雄訳『レ・ミゼラブル ー 第四部 叙情詩と叙事詩 プリューメ街の恋歌とサン・ドゥニ街の戦歌』より)

 

愛の手紙

エポニーヌからコゼットの住所を聞いたマリユスは、彼女への愛の手紙をしたため、プリュメ−街の裏庭の鉄門の下に大きな石を置き、その下に手紙を入れておいた。

石の下にマリユスからの手紙を見つけるコゼット
Illustration by Émile Bayard

それは4月のある夕方、ヴァルジャンが外出していたときのことだった。コゼットは石の腰掛けのところへやってきた。そして、腰をおろそうとしたとき、そこに見慣れない大きな石があるのに気づいた。翌朝、彼女がその石を持ち上げてみると、封筒に入った手紙があった。彼女が読んだことは、次のとおりだった(長文のため、一部だけを転載する)。

「宇宙をただひとりに縮め、ただひとりを神にまでひろげること、それがすなわち愛である。
————————————————
愛、それは星に対する天使の祝辞である。
————————————————
愛のために魂が悲しむ時、その悲しみのいかに深いかよ!
————————————————
何物も愛に如くものはない。人は幸福を得れば楽園を望み、楽園を得れば天国を望む。おお愛する汝よ、すべてそれらは愛のうちにある。それを見いだす術を知れ。愛のうちには、天国と同じき静観があり、天国に優ったる喜悦がある。
————————————————
彼女はまだリュクサンブールへきますか。——いいえ。——彼女が弥撒を聞きに来るのはこの会堂へではありませんか。——もうきません。——彼女はまだこの家に住んでいますか。——移転しました。——どこへ行きましたか。——何とも言ってゆきませんでした。自分の魂とする人がどこにいるかを知らないことは、いかに痛ましいことであるか。
————————————————
愛には子供らしいところがある。他の情にはそれぞれ卑しいところがある。人を卑小ならしむる情は皆恥ずべきかな。人を子供たらしむる愛は讃むべきかな!

(豊島与志雄訳『レ・ミゼラブル ー 第四部 叙情詩と叙事詩 プリューメ街の恋歌とサン・ドゥニ街の戦歌』より)

この手紙を読んで、彼女の恋心は再び燃え上がった。

その十五ページの手記は、彼女に突然やさしく示してくれた、すべての愛や、悲哀や、宿命や、人生や、永遠や、始めや、終わりやを。それはちょうど、突然開いて一握の光輝を投げ与えてくれる手のようなものだった。彼女はそれらの行のうちに感じた、情に燃えた熱烈な豊饒な正直な性質を、聖い意志を、大なる悲哀と大なる希望を、思いもだえる心を、また恍惚たる喜びの発揚を。

(豊島与志雄訳『レ・ミゼラブル ー 第四部 叙情詩と叙事詩 プリューメ街の恋歌とサン・ドゥニ街の戦歌』より)

そして、手紙の主が公園で会った彼であることを確信した。晩になってジャン・ヴァルジャンは出かけた。コゼットは服装を整えた。そして、石のあった腰掛けで彼が来るのを待った。

と突然彼女は、だれかが後ろに立ってるのを目には見ないでもそれと感ぜらるる、一種の言い難い感じを受けた。
彼女はふり向いて、立ち上がった。
それは彼であった。
彼は帽子もかぶっていなかった。色は青ざめやせ細ってるようだった。

(中略)

彼女は倒れかかった。彼はそれを腕に抱き取った。彼は何をしてるか自ら知らないで彼女をひしと抱きしめた。自らよろめきながら彼女をささえた。頭には煙がいっぱい満ちたかのようだった。閃光が睫毛の間にちらついた。あらゆる考えは消えてしまった。ある敬虔な行ないをしてるようにも思われ、ある冒涜なことを犯してるようにも思われた。その上彼は、自分の胸に感ずるその麗わしい婦人の身体に対して、少しの情欲をもいだいていなかった。彼はただ愛に我を忘れていた。

彼女は彼の手を取り、それを自分の胸に押しあてた。彼はそこに自分の手記があるのを感じた。彼は口ごもりながら言った。

「では私を愛して下さいますか。」

彼女はわずかに聞き取れる息のような低い声で答えた。

「そんなことを! 御存じなのに!」

そして彼女はそのまっかな頬を、崇高な熱狂せる青年の胸に埋めた。

彼は腰掛けの上に身を落とした。彼女はそのそばにすわった。彼らはもはや言うべき言葉もなかった。空の星は輝き出した。いかにしてか、二人の脣は合わさった。いかにしてか、小鳥は歌い、雪はとけ、薔薇の花は開き、五月は輝きいで、黒い木立ちのかなたうち震う丘の頂には曙の色が白んでくる。

一つの脣づけ、そしてそれはすべてであった。

(豊島与志雄訳『レ・ミゼラブル ー 第四部 叙情詩と叙事詩 プリューメ街の恋歌とサン・ドゥニ街の戦歌』より)

それは、若い二人の愛が成就した瞬間であった。

二つの魂が溶け合い、すべてを語り終えたあと、二人は初めて互いの名前を交わした。

彼らは既にもうこの上進むを得ない極度の親密さのうちに、最も深い最も秘密なものまでも互いに打ち明け合った。幻のうちに率直な信念をいだいて、愛や青春やまだ残っている子供心などが、彼らの頭のうちにもたらすすべてのものを、互いに語り合った。二つの心は互いにとけ合って、一時間とたつうちに、青年は若い娘の魂を得、若い娘は青年の魂を得た。彼らは互いに心の底の底にはいり込み、互いに魅せられ、互いに眩惑した。

すべてすんだ時、すべてを語り合った時、彼女は彼の肩に頭をもたして、そして尋ねた。

「あなたのお名は?」

「マリユスです。」と彼は言った。「そしてあなたは?」

「コゼットといいますの。」

(豊島与志雄訳『レ・ミゼラブル』第4部より)

 

ガヴローシュ

1823年以来、テナルディエ夫婦の営む宿屋は次第に落ちぶれ、生活は苦しくなる一方だった。女の子2人、男の子3人を抱えていたが、男の子2人をマニョンという女に引き渡し、厄介払いをした。

一方、長男のガヴローシュは、万引きをしたりして、半ば浮浪生活を送っていた。ある日、泣きながら路地を歩いている5,6歳くらいの男の子2人を見かけ、彼らに声をかけると、自分のねぐらであるバスティーユ広場の一角にあるゾウの記念物に連れて行った。

同じ頃、父親のテナルディエら監禁されていたフォルス監獄では、脱獄の計画が企まれていた。首謀者はバベとブリュジョンらで、モンパルナスは外部から助ける役回りだった。ちょうどその時、屋根職人らが監獄の屋根の一部を作りかえ漆喰をぬりかえているところだったので、はしごを伝って屋根から逃げることができた。彼らは、煙筒の壁に穴をあけ、その中をよじ上り、上の口をふさいでる金網をつき破り、屋根の上に出た。しかし、最後に逃げることになったテナルディエは、綱が短く、路地に降り立つことができず、4階の屋上で立ち往生してしまった。

先に逃げた3人は、テナルディエを見捨てるわけにも行かず、一計を案じて、バスティーユにいる少年ガヴローシュを連れてきた。そして、ガヴローシュに細い管を伝ってテナルディエのいる所まで登らせ、無事救出することに成功した。テナルディエは、自分を助けた少年が我が子であることも分からなかった。

歓喜と憂苦

プリューメ街の庭でマリユスとコゼットが互いの愛を告白して以来、マリユスは毎晩コゼットのもとを訪れ、愛の交歓に浸った。彼らは幸福の絶頂にいたのである。しかし、それは、あくまでも清らかで純潔な愛であった。

「1832年5月の毎夜、その荒れはてたわずかな庭のうちに、日ごとにかおりは高まり茂みは深くなるその藪の下に、あらゆる貞節と無垢とでできてるふたりの者、天の恵みに満ちあふれ、人間によりも天使に近い、純潔で正直で恍惚として光り輝いてるふたりの者が、暗闇のうちに互いに照らし合っていた。コゼットにとってはマリユスが王冠をいただいてるかと思われ、マリユスにとってはコゼットが円光に包まれてるかと思われた。彼らは互いに相触れ互いに見合わし、互いに手を取り合い、互いに相接していた。しかしそこには彼らが越えることをしない一つの距離があった。それははばかるところあってではなくて、それを知らないからであった。マリユスは一つの障壁すなわちコゼットの純潔を感じており、コゼットは一つの支柱すなわちマリユスの誠実を感じていた。最初の脣づけはまた最後のものであった。」
(豊島与志雄訳『レ・ミゼラブル』第4部より)

(愛を語らうマリユスとコゼット)
Illustration by Émile Bayard


“Tant que dura le mois de mai de cette année 1832, il y eut là, toutes les nuits, dans ce pauvre jardin sauvage, sous cette broussaille chaque jour plus odorante et plus épaissie, deux êtres composés de toutes les chastetés et de toutes les innocences, débordant de toutes les félicités du ciel, plus voisins des archanges que des hommes, purs, honnêtes, enivrés, rayonnants, qui resplendissaient l'un pour l'autre dans les ténèbres. Il semblait à Cosette que Marius avait une couronne et à Marius que Cosette avait un nimbe. Ils se touchaient, ils se regardaient, ils se prenaient les mains, ils se serraient l'un contre l'autre; mais il y avait une distance qu'ils ne franchissaient pas. Non qu'ils la respectassent; ils l'ignoraient. Marius sentait une barrière, la pureté de Cosette, et Cosette sentait un appui, la loyauté de Marius. Le premier baiser avait été aussi le dernier. ”

二人は、互いの身の上を語り合った。

「マリユスはコゼットに語った、自分は孤児であること、マリユス・ポンメルシーという者であること、弁護士であること、本屋のために物を書いて生活してること、父は大佐であり、勇士であったこと、自分は金持ちの祖父と仲を違えたこと。彼はまた自分が男爵であることをもそれとなく語ったが、それはコゼットに何の感じをも与えなかった。男爵マリユス? 彼女は理解しなかった。それが何の意味であるかわからなかった。否マリユスはただマリユスであった。彼女の方でもまた彼に打ち明けた、自分はプティー・ピクプュスの修道院で育てられたこと、自分の方も母が亡いこと、父はフォーシュルヴァン氏という名であること、父は至って親切で、貧しい人々に多くの施与をしてること、けれども彼自身は貧乏であること、そして娘の自分には少しも“不自由をさせないが、彼自身はきわめて乏しい生活をしていること。」
(豊島与志雄訳『レ・ミゼラブル』第4部より)

愛は盲目である。至上の幸福に満たされながら、彼らは、自分たちがどこに向かおうとしているのか、知るすべもなかったのである。

忍び寄る影

それは1832年6月3日のことだった。マリユスと街で出会ったエポニーヌは、別れたあとも、そのままマリウスの跡をつけていった。マリユスがプリュメ−街の鉄門の中に入ると、エポニーヌは、その前で思案に暮れた様子で1時間ほど、番でもするように腰をかけていた。夜の10時頃、6,7人の男が鉄門の前に来て門を開けようとした。彼らは、テナルディエ、グールメル、ブリュジョン、バベ、モンパルナスら、フォルシュ監獄から脱獄した悪党一味だった。

「その時突然影の中から一本の手が出て、男の腕を払いのけた。それから男は激しく胸のまんなかを押し戻され、低いつぶれた声を聞いた。

「犬がいるよ。」

同時に男は、色の青いひとりの娘が自分の前に立ってるのを見た。

男は意外事から受ける一種の動乱を感じた。彼は恐ろしく身の毛を逆立てた。およそ不安を感じてる猛獣ほど見るに恐ろしいものはない。おびえてる猛獣の様子はまた人を脅かすものである。男は後ろに退ってつぶやいた。

「なんだ、この女は?」

「お前の娘だよ。」

実際それは、エポニーヌがテナルディエに口をきいているのだった。」

エポニーヌは、彼らに、この家に押し込んでも無駄なことをさんざん聞かせ、警察を呼ぶとも言った。彼女は邸内にいるマリユスを守ろうと必死だったのである。

“彼女は、亡霊のような血走った眸で盗賊らの方を見回して、言い続けた。「父さんの棒で打ち殺されて、明日プリューメ街の舗石の上で身体を拾われようとさ、また一年たって、サン・クルーの川の中かシーニュの島かで、古い腐った芥かおぼれた犬の死骸かの中で拾われようとさ、それが何だね。」

そこで彼女はやむなく言葉を切った。乾燥した咳がこみ上げてき、狭い虚弱な胸から息が死人のあえぎのように出てきた。

彼女はまた言った。

「あたしが一声上げさえすりゃあ、人はどしどしやって来る。お前さんたちは六人だが、あたしの方には世界中がついてるんだ。

男達は、エポニーヌの剣幕に気おされ、最後はとうとう強盗の計画をあきらめることに決め、その場を立ち去っていった。エポニーヌはこうして、秘かに愛するマリユスを悪の牙から守り抜いたのだった。マリユスは、そのことを知るはずもなかった。しかし、同時に、マリユスとコゼットの前途には暗雲がさし始めていた。

「人間の顔をした番犬が鉄門をまもり、六人の盗賊らがひとりの娘の前から退却していった間、マリユスはコゼットのそばにいた。

“かつてこれほど、空は星をちりばめて美しく、樹木はうち震い、草のかおりは濃まやかな時はなかった。かつてこれほど、小鳥はやさしい音を立てて木の葉の間に眠ってることはなかった。かつてこれほど、宇宙の朗らかな諧音は内心の愛の調べによく調子を合わしてることはなかった。かつてこれほど、マリユスは心を奪われ幸福で恍惚たることはなかった。しかるに彼はコゼットが悲しい様子をしてるのを見て取った。コゼットは泣いたのだった。彼女の目は赤くなっていた。」
(豊島与志雄訳『レ・ミゼラブル』第4部より)

マリユスが涙の訳を聞くと、コゼットは答えた。

「今朝お父さんが私におっしゃったのよ、細かいものを皆整えて用意をするようにって。そして鞄の中に入れるシャツを下すったの。旅をしなければならないんですって。いっしょに行くんですって。私には大きい鞄がいるし、お父さんには小さい鞄がいるのよ。そして今から一週間のうちに支度をするのよ。おおかたイギリスに行くだろうとおっしゃったわ。」

「ひどい!」とマリユスは叫んだ。
(豊島与志雄訳『レ・ミゼラブル』第4部より)

コゼットは、マリユスにも、一緒にイギリスに出立することを求めた。しかし、今のマリユスにはそのようなお金はなかった。コゼットは、悲しみのため泣き続けていた。そして、たとえ一時的に別れようとも、変わらぬ愛を確かめようとしていた。

「あなたは私を愛して下すって?」と彼女は言った。
彼は彼女の手を取った。

コゼット、私はだれにもまだ誓いの言葉を言ったことはない。誓いの言葉は恐ろしいから。私はいつも父が自分のそばに立ってるような気がする。でも私は今一番神聖な誓いの言葉をあなたに言おう。ねえ、あなたが私のもとを去れば、私は死んでしまう。」
(豊島与志雄訳『レ・ミゼラブル』第4部より)

そこで、マリユスは思い立ち、万一のために、コゼットに自分の住所を知らせることにした。「私はクールフェーラックという友人の所に住んでるんだよ。ヴェールリー街十六番地。彼はポケットの中を探って、 ナイフを取り出し、その刃で壁の漆喰の上に「ヴェールリー街18番地」という文字を彫りつけた。

翌日、マリユスは久しく会っていない、91歳になる祖父のジルノンマン氏を訪ね、コゼットとの結婚の許しを乞うた。ジルノンマン氏は、マリユスに2000フランを渡そうとするが、「ばかだね、情婦にするんだ」という言葉を聞いたマリユスは激高し、その場を立ち去るのだった。

「五年前にあなたは私の父を侮辱しました。今日はまた私の妻を侮辱しました。もう何もお願いしません。お別れします。」

ジルノルマン老人は、あきれ返り、口を開き、腕を差し出し、立ち上がろうとした。しかし彼に一言を発するすきも与えないで、扉は再び閉ざされ、マリユスの姿は消えた。
(豊島与志雄訳『レ・ミゼラブル』第4部より)

 

(ジルノルマン老人が住んでいたマレ地区)

1832年6月5日の暴動

ナポレオンの下で戦った英雄の一人、ラマルク将軍の葬儀が6月6日に執り行われることになり、パリの民衆はこれを契機に一斉に蜂起した。街の各所でバリケードが造られ、民衆と軍隊が対峙した。

(パリ市内で蜂起した民衆 Illustration by Emile Bayard )

葬列に加わつていたアンジョラスら「ABCの友」会員たちも蜂起に加わり、バリケードに入った。少年ガヴローシュもそこにいた。ガヴローシュは、得意げにピストルを振りまわし、マルセイエーズを歌いながら、意気揚々と行進の先頭を歩いた。

コラント亭とバリケードの構築

市場(レ・アル)からランビュトー街に入った右手に、「コラント亭」という居酒屋があった。6月5日、ここでABC会員のグランテールやレーグルら数名がワインを飲みながら歓談していた。そこへ、ガヴローシュの友達だという少年が伝言を携えて入ってきた。そして、グランテールらに「ABC」という伝言だけを伝えた。グランテールらは、それがアンジョーラからの召集の合図だと察知したが、そのまま飲み続けていた。

(コラント亭 Illustration by Émile Bayard )

すると、窓の前を銃を持ったアンジョーラや剣をもったクーフェラックらが通りかかった。クーフェラックに「どこへ行くんだ?」と聞くと、「防塞作りに」という。「じゃあここへこい。適当な場所だ。 ここに作れ。」「そうだ。」ということで、一隊はシャンブリー街へ入り込み、そこでバリケードを築くことになった。それは防塞には格好の場所だったのである。

実際そこはこの上もない場所であって、街路の入り口は広く、奥は狭まって行き止まりになり、コラント亭はその喉を扼し、モンデトゥール街は 左右とも容易にふさぐことができ、攻撃することのできる口はただ、何ら 掩蔽物のない正面のサン・ドゥニ街からだけだった。酔っ払っていたボシュエは、食を断って専念するハンニバルにも劣らぬ慧眼を有していたわけである。
(豊島与志雄訳『レ・ミゼラブル』第4部より)

アンジョーラの指揮のもと、あっという間に、シャンヴルリー街の2箇所にバリケードが築かれた。アンジョーラやガブローシュらバリケードの一隊は意気盛んだった。彼らは敵(軍隊)がやってくるのをじっと待つのだった。

 

沸騰

パリの暴動は、さまざまな風説、流言飛語を伴って、あっという間に市内各地に広がり、「ラマルクをパンテオンに!」「ラファイエットを市庁舎へ!」「武器を取れ!」などのかけ声とともに、赤旗を立てたバリケードが次々に築かれた。レ・アル街区だけでも27のバリケードが作られたという。パリの3分の1は暴動の渦中にあった。

シャンヴァルリー街のバリケードでは、若者達が銃に弾を詰めたり、見張りをしたりしていたが、居酒屋でのんびりと談笑する姿もあった。

「アンジョーラは見張りの者らを監視していたが、その間に、コンブフェール、クールフェーラック、ジャン・プルーヴェール、フイイー、ボシュエ、ジョリー、バオレル、および他の数名の者らは、互いに学生間でむだ話にふける平常の時のように、いっしょに寄り集まり、窖と変化した居酒屋の片すみ、築かれた角面堡から二、三歩の所で、装薬し実弾をこめたカラビン銃を椅子の背に立てかけて、愉快なる青年らではないか、危急のまぎわにありながら恋の詩を吟じ始めた。」
(豊島与志雄訳『レ・ミゼラブル』第4部より)

夜に入ると、一人の見知らぬ男が部屋に入ってきた。ガヴローシュがそれを目ざとく見つけ、アンジョーラに「あいつは回し者だ」と告げた。アンジョーラは男に近づき、詰問した。

「その時アンジョーラは、男に近づいていって尋ねた。

「君はだれだ?」

その突然の問いに、男ははっとして顔を上げた。彼はアンジョーラの澄み切った瞳の奥をのぞき込んで、その考えを読み取ったらしかった。そして世に最も人を見下げた力強い決然たる微笑を浮かべて、昂然としたいかめしい調子で答えた。

「わかってる……そのとおりだ!」

「君は間諜なのか。」

「政府の役人だ。」

「名前は?」

「ジャヴェル。」

アンジョーラは四人の者に合い図をした。するとたちまちのうちに、振り返る間もなくジャヴェルは、首筋をつかまれ、投げ倒され、縛り上げられ、身体を検査された。」

所持品を調べると、「警視ジャヴェルは、その政治上の任務を果たしたる上は直ちに、特殊の監視を行ないて、セーヌ右岸イエナ橋付近の汀における悪漢どもの挙動を確かむべし」と書かれた紙が見つかった。

こいつは間諜だ。」とアンジョーラは言った。
そして彼はジャヴェルの方へ向いた。
「防寨が陥る十分前に君を銃殺してやる。」
ジャヴェルはその最も傲然たる調子で言い返した。
「なぜすぐにしない?」
「火薬を倹約するためだ。」
(豊島与志雄訳『レ・ミゼラブル』第4部より)

 

バリケードに身を投じるマリユス

一方。コゼットを慕うマリユスは、プリュメー街を訪れたが、コゼットの姿はなかった。絶望していたとき、誰かの声が聞こえた。「マリユスサン・シュルピスn。お友達がシャンヴルリー街のバリケードでお待ちですよ」。それはエポニーヌの声に似ていたが、人影は若い男のように見えた。マリユスは死に場所を見つけたような気持ちでバリケードに向かうのだった。

シャンヴルリー街の防寨へマリユスを呼んだ薄暗がりの中の声は、彼にはあたかも宿命の声かと思われた。彼は死を望んでいたが、その機会が今与えられたのである。彼は墳墓の扉をたたいていたが、闇の中の手が今や彼にその鍵を与えたのである。絶望の前に暗黒のうちに開かれる痛ましい戸口は、常に人の心を誘う。マリユスは幾度となく自分を通してくれた鉄門の棒をはずし、庭から出て、そして言った、「行こう!」
(豊島与志雄訳『レ・ミゼラブル』第4部より)

いくつもの通りを越え、シャンヴァルリー街の入口に達したとき、マリユスの脳裏にはさまざまな思いが去来し、しばしの間逡巡した。戦場で祖国のために勇敢に戦った父のこと、コゼットのこと、内乱の持つ意味、など。

そしてマリユスは苦い涙を流し始めた。

それは実にたまらないことであった。しかしどうしたらいいのか。コゼットなしに生きることは、彼にはとうていできなかった。彼女が出発した今となっては、彼はもう死ぬよりほかはなかったのである。自分は死ぬであろうと彼女に明言したではないか。彼女はそれを知りつつ出発した。それはマリユスが死ぬのを好んだからに違いない。そしてまた、彼女がもう彼を愛していないことは明らかだった。なぜならば、彼の住所を知りながら、ことわりもなく、一言の言葉もなく、一つの手紙も贈らず、そのまま出発したからである。今や、生も何の役に立つか、また何ゆえの生であるか! しかもここまでやってきながらまた後ろにさがろうとするのか、危険に近づきながら逃げようとするのか、防寨の中をのぞき込みながら身を隠そうとするのか。
(豊島与志雄訳『レ・ミゼラブル』第4部より)

(バリケードを前に逡巡するマリユス
Illustration by Émile Bayard)

マリユスは、しばらくモンデトゥール街の角に隠れて、戦いの最初の光景を見ながら、なお決断しかねて身を震わしていた。けれども、深淵の呼び声とも言うべき神秘な荘厳な眩惑に、彼は長く抵抗することができなかった。切迫してる危機、悲愴な謎たるマブーフ氏の死、殺されたバオレル、「きてくれ!」と叫んでるクールフェーラック、追いつめられてる少年、それを助けあるいはその讐を報ぜんとしている友人ら、それらを眼前に見ては、あらゆる躊躇の情も消え失せてしまい、二梃のピストルを手にして混戦のうちにおどり込んだ。そして第一発でガヴローシュを助け、第二発でクールフェーラックを救ったのである。

バリケードの攻防戦とエポニーヌの死

マリユスはピストルを発射し終えて、それを投げ出した。次の武器を探して居酒屋の入口にあった火薬の樽の方に背を向けようとしたとき、一人の兵士が彼を狙った。

しかしいよいよ、マリユスの上にねらいを定めた時、一本の手がその銃口を押さえてふさいだ。それは飛び出してきたひとりの者の仕業で、ビロードのズボンをはいたあの年若い労働者だった。弾は発射され、その手を貫き、また労働者が倒れたところをみるとその他の個所をも貫いたらしかったが、しかしマリユスにはあたらなかった。

このとき、身を挺してマリユスを救ったのは、労働者に変装したエポニーヌだった。そのあと、両軍の間に激しい銃撃戦が展開されたが、やがてしばしの静寂が訪れた。マリユスが視察を終えて引き上げようとしたそのとき、

闇の中から自分の名を呼ぶ弱々しい声が聞こえた。
「マリユスさん!」
彼は身を震わした。それは聞き覚えのある声で、二時間前にプリューメ街の鉄門から呼ばわった声であった。
豆ランプの光にすかし見ると、だぶだぶの上衣と裂けた粗未なビロードのズボンと、靴もはいていない足と、血潮のたまりみたいなものとが、“にはいった。ようやく認めらるる青白い顔が彼の方へ伸び上がって言った。
「あなたあたしがわかりますか。」
「いいや。」
「エポニーヌですよ。」
マリユスは急に身をかがめた。実際それはあの不幸な娘だった。彼女は男の姿を装っていた。
「どうしてここへきたんだ? 何をしていた?」
「あたしもう死にます。」と彼女は言った。

マリユスは彼女を抱き起こした。エポニーヌは続けて言った。

弾は手を突き通して、背中へぬけたのよ。ここからあたしを外へ連れてってもだめ。あたしほんとは、お医者よりあなたの看護の方がいいの。あたしの傍にこの石の上にすわって下さいな。」
彼はその言葉に従った。彼女は彼の膝の上に頭をのせ、その顔から目をそらして言った。
「ああ、ありがたい。ほんとによくなった。もうこれであたし苦しかない。」
彼女はちょっと口をつぐんだ。それからようやくに顔をめぐらしてマリユスをながめた。
(中略)
ねえ、あなたはもう助からない! 今となってはだれも防寨から出られはしないわ。あなたをここへ呼んだのはあたしよ。あなたはどうせ間もなく死ぬにきまってるわ。あたしそれをちゃんと知ってるの。だけど、人があなたをねらうのを見た時、あたしはその鉄砲の口に手をあてたわ。ほんとに変ね。でもあなたより先に死にたかったからよ。弾を受けた時、あたしはここまではってきたの。だれにも見つからず、だれからも助けられなかった。あたしあなたを待ってたわ。きなさらないのかしら、とも思ったの。あああたしは、上衣をかみしめたり、どんなに苦しんだでしょう。でも今はもう何ともない。あなたは覚えていて? あたしがあなたの室にはいって鏡に顔を映してみたあの日のこと、それからまた、日雇い女たちのそばで大通りであなたに会った日のことも。小鳥が歌ってたわ。そう長い前のことでもないわ。あなたはあたしに百スー(五フラン)下すったわね。あなたのお金なんかほしいんじゃない、とあたしは言ったでしょう。

Elle continua:


“Voyez-vous, vous êtes perdu! Maintenant personne ne sortira de la barricade. C'est moi qui vous ai amené ici, tiens! Vous allez mourir. J'y compte bien. Et pourtant, quand j'ai vu qu'on vous visait, j'ai mis la main sur la bouche du canon de fusil. Comme c'est drôle! Mais c'est que je voulais mourir avant vous. Quand j'ai reçu cette balle, je me suis traînée ici, on ne m'a pas vue, on ne m'a pas ramassée. Je vous attendais, je disais: Il ne viendra donc pas? Oh! si vous saviez, je mordais ma blouse, je souffrais tant! Maintenant je suis bien. Vous rappelez-vous le jour où je suis entrée dans votre chambre et où je me suis mirée dans votre miroir, et le jour où je vous ai rencontré sur le boulevard près des femmes en journée? Comme les oiseaux chantaient! Il n'y a pas bien longtemps. Vous m'avez donné cent sous, et je vous ai dit: Je ne veux pas de votre argent. Avez-vous ramassé votre pièce au moins? Vous n'êtes pas riche. Je n'ai pas pensé à vous dire de la ramasser. Il faisait beau soleil, on n'avait pas froid. Vous souvenez-vous, monsieur Marius? Oh! je suis heureuse! Tout le monde va mourir.”

彼女はいま死に瀕していた。そして、最後の力を振り絞ってこう言った。

聞いて下さいな、あたしあなたをだますのはきらいだから。ポケットの中に、あなたあての手紙を持ってるのよ。昨日からよ。郵便箱に入れてくれと頼まれたのを、取って置いたのよ。あなたに届くのがいやだったから。だけど、あとでまた会う時、あなたから怒られるかも知れないと思ったの。また会えるのね。あの世で。手紙を取って下さいな。

マリユスが手紙を受け取ると、エポニーヌは安心し、マリユスに最後の言葉を投げかけた。

「約束して下さい!」
「ああ約束する。」
「あたしが死んだら、あたしの額に接吻してやると、約束して下さい。……死んでもわかるでしょうから。」

彼女はまた頭をマリユスの膝の上に落とし、眼瞼を閉じた。彼はもうそのあわれな魂が去ったと思った。エポニーヌはじっと動かなかった。すると突然、もう永久に眠ったのだとマリユスが思った瞬間、彼女は静かに、死の深い影が宿ってる目を見開いた。そして他界から来るかと思われるようなやさしい調子で彼に言った。
「そして、ねえ、マリユスさん、あたしいくらかあなたを慕ってたように思うの。」
彼女はも一度ほほえもうとした。そして息絶えた。

マリユスは約束通り、彼女の青ざめた額にそつと唇をあてた。


エポニーヌの死 Illustration by Émile Bayard

エポニーヌから受け取った手紙は、コゼットからのものだった。それは次のような内容だった:

いとしき御方、悲しくも父はすぐに出発すると申します。私どもは今晩、オンム・アルメ街七番地に参ります。一週間すればもうロンドンへ行っておりますでしょう。——6月4日、コゼット。

彼女はまだ自分を愛していたのだ。ではもう死ななくてもいいのか! 一瞬そう思ったものの、こう思い直した。「彼女は行ってしまうのだ。父に連れられてイギリスにゆくし、私の祖父は結婚を承諾しない。悲しい運命はやはり同じことだ。」

死の決意は変わらなかった。いまやマリユスに残された最後の義務は、コゼットに最後の別れを告げることと、テナルディエの子でありエポニーヌの弟であるガヴローシュを破滅の縁から救うことだった。

「私は死ぬ。私はあなたを愛する。これをあなたが読む頃には、私の魂はあなたの傍にあって、あなたにほほえんでいるでしょう。」という手紙をしたためたマリユスは、ガヴローシュを呼び、すぐにバリケードを出て、翌朝オンム・アルメ街七番地のフォーシュルヴァン氏方コゼット嬢に届けてくれ、と頼んだ。ガヴローシュは一瞬とまどったが、「いまから手紙を届ければ昼のうちに戻ってくれるだろいう」と考え、すぐにバリケードを飛び出していった。

鏡の中に見た真実

ヴァルジャンは、コゼットっともにアルム街の住居に移り住み、ほっと一息ついていた。これで愛するコゼットとともに安穏な生活が送れるだろう。そして、ロンドン行きの計画を思い巡らせていた。そして、静かに室内を歩き回っていたとき、突然、食器棚の上に立てかけた鏡の中に異様なものを発見した。

ヴァルジャンが鏡の中に見たものは?
Illustration by Émile Bayard

食器棚の上に斜めに立ててある鏡の中に、次の数行を彼は正面に認めて、明らかにその文字を読んだのである。

いとしき御方、悲しくも父はすぐに出発すると申します。私どもは今晩、オンム・アルメ街七番地に参ります。一週間すればもうロンドンへ行っておりますでしょう。——六月四日、コゼット。

ジャン・ヴァルジャンははっとして立ち止まった。

コゼットはこの家に着いて、吸い取り紙を食器棚の上の鏡の前に置いたまま、煩悶のうちに沈み込んでそれを忘れてしまっていた。前日プリューメ街を通る若い労働者に頼んだあの数行の文句を自らしたためてかわかすために押しあてた、ちょうどその面が開いているのも、そのままにして気づかなかった。文字はすっかり吸い取り紙の上に残っていた。

鏡はそれを映し出していた。

ヴァルジャンは、いま自分が心から愛し、唯一の生きがいでもあるコゼットが、一人の若者のもとへと去ろうとしていることをはっきりと悟り、深い苦悩に陥った。

かくて今、すべてがまさしく終わったのを見、彼女が自分の手から離れ脱し逃げ出したのを見、万事は雲のごとく水のごときものであったのを見た時、そして眼前に、「彼女の心は他の男に向いている、彼女の生涯の希望は他の男にある、他に恋人があって自分はただ父に過ぎない、自分はもはや存在しない、」という痛ましい証拠を見た時、そして今はもはや疑う余地もなくなった時、そして、「彼女は自分の外に逃げ出している、」と自ら言った時、彼が感じた悲しみはほとんどたえ難いものであった。
(豊島与志雄訳『レ・ミゼラブル』第4部より)

長い沈思黙考の後、ヴァルジャンは意を決したように立ち上がり、街路に出た。そこでバリケードからやってきたガヴローシュと出くわした。ヴァルジャンは、少年がコゼットの住所を尋ねたので、とっさにマリユスからの手紙を言付かってきたことを察し、自分が渡すからと言って、5フランと引き替えにガヴローシュからその手紙を受け取った。

家に戻り、マリユスからの手紙を読んだヴァルジャンは、「私は死ぬ...」というマリユスの言葉に驚喜した。

今はただ万事をその成り行きに任せるばかりだ。あの男はとうてい脱れることはできない。まだ死んでいないにしても、やがて死ぬことは確かだ。何という幸福だろう!

そう思ったヴァルジャンだったが、やがて陰鬱になり、しばらくした後、軍服に着替え、銃で武装し、バリケードのある市場町へと向かったのである。

 

第5部 ジャン・ヴァルジャン

アンジョーラの演説

市街戦が激しくなる中、リーダーのアンジョーラは、まだ生き残っている同志たちに向かって、蕩々と演説をぶった。それは、作者ユーゴーの思想を体現したものでもあった。

「諸君、諸君は未来を心に描いてみたか。 市街は光に満ち、戸口には緑の木が茂り、諸国民は同胞のごとくなり、人は正しく、老人は子供をいつくしみ、過去は現在を愛し、思想家は全き自由を得、信仰者は全く平等となり、天は宗教となり、神は直接の牧師となり、人本心は祭壇となり、憎悪は消え失せ、工場にも学校にも友愛の情があふれ、賞罰は明白となり、万人に仕事があり、万人のために権利があり、万人の上に平和が あり、血を流すこともなく、戦争もなく、母たる者は喜び楽しむのだ。
(中略)
諸君、われわれがいる現在の時代は、 僕が諸君に語っているこの時代は、陰惨なる時代である。 しかしそれは未来を購うべき恐ろしい代金である。 革命は一つの税金である。 ああかくて人類は、解放され高められ慰めらるるであろう! われわれはこの防寨の上において、 それを人類に向かって断言する。」

 

勇敢な少年ガヴローシュの死

やがて、ヴァルジャンがバリケードに来て、アンジョーラらの応援に加わった。彼は自らの軍服を脱ぎ、家族のいる同志の脱出を助け、要塞に必要な資材を調達し、攻めてくる国民兵のヘルメットを打ち抜いて退散させた。しかし、敵兵を殺すことはせず、アンジョーラらに不審を抱かせた。

だが、バリケードは次々に圧倒的な国民兵の戦力に破れ、わずか数個の防塞が残るのみとなってしまった。シャンヴルリーの防塞も、砲撃にさらされ、最後を迎えようとしていた。バリケード側の弾薬も尽きかけていた。

(バリケード上で三色旗を振る自由の女神と銃を持つ少年
Illustration by Émile Bayard)

そのとき、ガヴローシュが籠を持って防塞から外に出て、殺された国民兵らの弾薬盒から弾薬を抜き取って籠の中に入れ始めた。「危ないから戻ってこい!」というクールフェーラックの呼びかけにもかかわらず、ガヴローシュは弾薬集めをやめず、街路に向かって飛び出していった。やがてこれに気づいた国民兵側から銃火を浴びながらも、歌を口ずさみながら、弾薬を拾い続けた。

しかし、ついに一発の弾が少年をとらえた。

ついに一発の弾は、他のよりねらいがよかったのかあるいは狡猾だったのか、鬼火のようなその少年をとらえた。見ると、ガヴローシュはよろめいて、それからぐたりと倒れた。....偉大なる少年の魂は飛び去った のである。

マリユスは防寨から外に飛び出した。コンブフェールもそのあとに続いた。 しかしもう間に合わなかった。 ガヴローシュは死んでいた。コンブフェールは弾薬の籠を持ち帰り、マリユスはガヴローシュの死体を持ち帰った。

ジャヴェルの「処刑」

バリケード戦もいよいよ終盤を迎えていた。スパイ容疑者のジャヴェールを処刑する時が刻々と近づいていた。フィイはジャヴェールの方を向いて、「きさまのことも忘れやしない。」と言った。そしてテーブルの上に一梃のピストルを置いて、彼は言い添えた。「ここから最後に出る者が、このスパイの頭を打ちぬくんだ。」

そこにジャン・ヴァルジャンが出てきて、アンジョーラに言った。

「君は指揮者ですか。」
「そうだ。」
「君はさっき私に礼を言いましたね。」
「共和の名において。防寨はふたりの救い主を持っている、マリユス・ポンメルシーと君だ。」
「私には報酬を求める資格があると思いますか。」
「確かにある。」
「ではそれを一つ求めます。」
「何を?」
「その男を自分で射殺することです。」

ジャヴェルは頭を上げ、ジャン・ヴァルジャンの姿を見、目につかぬくらいの身動きをして、そして言った。
「正当だ。」

アンジョーラは自分のカラビン銃に弾をこめ始めていた。彼は周囲の者を見回した。
「異議はないか?」
それから彼はジャン・ヴァルジャンの方を向いた。
「スパイは君にあげる。」

ジャン・ヴァルジャンはジャヴェルとふたりきりになった時、捕虜の身体のまんなかを縛ってテーブルの下で結んである繩なわを解いた。それから立てという合い図をした。ジャヴェルはそれに従った。

うバルジャンは繩を取って、ジャヴェルを引き立て、自分のうしろに引き連れながら、居酒屋の外に出た。誰にも見られない小路まで来たとき、二人は向き合った。

ジャン・ヴァルジャンはピストルを小わきにはさみ、ジャヴェルを見つめた。その目つきの意味は言葉にせずとも明らかだった。「ジャヴェル、私だ、」という意味だった。
ジャヴェルは答えた。
「復讐するがいい。」
ジャン・ヴァルジャンは内隠しからナイフを取り出して、それを開いた。
「どすか?」とジャヴェルは叫んだ。「もっともだ。貴様にはその方が適当だ。」
ジャン・ヴァルジャンはジャヴェルの首についてる鞅縛むながいしばりを切り、次にその手首の繩なわを切り、次に身をかがめて、足の綱を切った。そして立ち上がりながら言った。
「これで君は自由だ。」
ジャヴェルは容易に驚く人間ではなかった。けれども、我を取り失いはしなかったが一種の動乱をおさえることができなかった。彼は茫然ぼうぜんと口を開いたまま立ちすくんだ。
ジャン・ヴァルジャンは言い続けた。
「私はここから出られようとは思っていない。しかし万一の機会に出られるようなことがあったら、オンム・アルメ街七番地にフォーシュルヴァンという名前で住んでいる。」

殺される覚悟を決めていたジャヴェルだったが、思いがけない解放に戸惑い、ヴァルジャンに対する憎しみと蔑みの感情も消えたようだった。いつの間にか敬称でこう叫んだ。

「君は俺の心を苦しめる。むしろ殺してくれ。」

ジャヴェルはジャン・ヴァルジャンに向かってもうきさまと言っていないのを自ら知らなかった。
「行くがいい。」とジャン・ヴァルジャンは言った。
ジャヴェルはゆるい足取りで遠ざかっていった。やがて彼はプレーシュール街の角かどを曲がった。
ジャヴェルの姿が見えなくなった時、ジャン・ヴァルジャンは空中にピストルを発射した。
それから彼は防寨の中に戻って言った。
「済んだ。」

 

戦いの終焉

国民兵軍の攻撃は激しさを増し、バリケード側は窮地に追い詰められて行った。生き残っているリーダーはアンジョーラとマリユスの2人だけとなった。それでも、彼らの志気は衰えてはいなかった。ユーモア精神も健在だった。

クールフェーラックは帽子をかぶっていなかった。
「帽子をいったいどうした。」とボシュエは彼に尋ねた。
クールフェーラックは答えた。
「奴らが大砲の弾で飛ばしてしまった。」

マリユスはなおも戦っていたが、全身傷におおわれ、ことに頭部がはなはだしく、顔は血潮の下に見えなくなり、あたかも真っ赤なハンカチを顔にかぶせたがようだった。ひとりアンジョーラだけは、どこにも傷を受けていなかった。

アンジョーラは、防塞内部の中庭に籠もって抵抗を続けていた。マリユスは外に残されていたが、ついに一発の銃弾を鎖骨に受け、気を失った。そのとき、誰かによって強い力で抱きとめられるのを感じた。「捕虜になった、銃殺されるのだ」という考えがよぎった。

居酒屋に逃げ込んで最後の抵抗を試みたアンジョーラだったが、襲撃者たちは居酒屋に侵入し、アンジョーラのいる二階の広間になだれ込んできた。そこにいたのは、アンジョーラただ一人だった。

「撃て」とアンジョーラは言った。そして、銃を捨て、胸を差し出した。この潔さに打たれて、室内は静まりかえった。

12人の者が、アンジョーラと反対の一隅に並び、沈黙のうちに銃を整えた。
それから一人の軍曹が叫んだ、「ねらえ。」
ひとりの将校がそれをさえぎった。
「待て。」
そして将校はアンジョーラに言葉をかけた。
「目を隠すことは望まないか。」
「いや。」
「砲兵軍曹を殺したのは君か。」
「そうだ。」

その少し前、玉突き台の下で酩酊状態にあったグランテールが目を覚まし、最後の戦闘に参加すべく、アンジョーラのもとに駆け寄った。

彼は「共和万歳!」と繰り返し、しっかりした足取りで部屋を横ぎり、アンジョーラの傍に立って銃口の前に身を置いた。

「一打ちでわれわれふたりを倒してみろ。」と彼は言った。
そして静かにアンジョーラの方を向いて言った。
「承知してくれるか。」
アンジョーラは微笑しながら彼の手を握った。
その微笑が終わらぬうちに、発射の音が響いた。
アンジョーラは8発の弾に貫かれ、あたかも弾で釘付くぎづけにされたかのように壁によりかかったままだった。ただ頭をたれた。
グランテールは雷に打たれたようになって、その足下に倒れた。

こうして、壮絶な市街戦は終焉を迎えたのである。

 

下水道からの脱出

最後の死闘が繰り広げられている間、ヴァルジャンは戦いには加わらず、負傷者の救出にあたっていた。ただ、その間もマリユスの動きをしっかりと見守っていた。

一発の弾がマリユスを倒した時、ジャン・ヴァルジャンは虎のごとく敏活に飛んでゆき、獲物につかみかかるように彼の上に飛びかかり、そして彼を運び去った。

その時襲撃の旋風は、アンジョーラと居酒屋の戸口とを中心として猛烈をきわめていたので、気を失ってるマリユスを腕にかかえ、防寨の中の舗石のない空地を横ぎり、コラント亭の角の向こうに身を隠したジャン・ヴァルジャンの姿を、目に止めた者はひとりもなかった。
(豊島与志雄訳『レ・ミゼラブル』第5部より)

周囲を兵士の群れが取り囲んでいた。どこにも逃げ場がないように思われた。周囲を見渡し、必死に逃げ道を探しているうちに、ヴァルジャンは、敷石の一部にはめ込まれた鉄格子を見つけた。

ジャン・ヴァルジャンは飛んでいった。昔の脱走の知識が、電光のように彼の頭に上がってきた。上に重なってる舗石をはねのけ、鉄格子を引き上げ、死体のようにぐったりとなっているマリユスを肩にかつぎ、背中にその重荷をつけたまま、肱と膝との力によって、幸いにもあまり深くない井戸のようなその穴の中におりてゆき、頭の上に重い鉄の蓋をおろし、その上にまた揺らいでる舗石を自然にくずれ落ちてこさせ、地下3メートルの所にある舗石の面に足をおろすこと、それだけのことを彼は、あたかも狂乱のうちになすかのように、巨人の力と鷲の迅速さとをもってなし遂げた。わずかに数分間を費やしたのみだった。
(豊島与志雄訳『レ・ミゼラブル』第5部より)

マリユスを抱えてヴァルジャンが降り立った所は、闇に眠る巨大な下水道だった。

(下水道に降りるヴァルジャンとマリユス
Illustration by Émile Bayard)

暗黒の下水道は、まるで巨大な迷宮のようだった。分岐点に差し掛かるたびに、ヴァルジャンは決断を迫られた。地上の通りを想像しながら、傾斜を手がかりに、ヴァルジャンはセーヌ川の出口をめざして、ゆっくりと歩を進めた。

(迷宮のような巨大な地下水道
Illustration by Émile Bayard)

30分ほど歩いたとき、突然前方に人影があらわれた。捜索中の警察隊だった。幸い、そのときは察知されずに済んだ。しばらく歩いたあと、マドレーヌの分岐らしい一つの横道から少し先まで行ったとき、彼は疲労で立ち止まり、マリユスを地面に下ろし、手当のために服を開いた。すると、ポケットに紙ばさみがあり、第1行にマリユスと思われる筆跡で、次のような文が記されていた。

予はマリユス・ポンメルシーという者なり。マレーのフィーユ・デュ・カルヴェール街6番地に住む予が祖父ジルノルマン氏のもとに、予の死骸を送れ。

ヴァルジャンは、そのメモを頭に刻みつけ、再びマリユスを背負って下水道を進み始めた。ときには、泥水に足をとられて、沈みそうになることもあった。そのような死の苦しみを経た後、ヴァルジャンの前に突然日の光が差し込んだ。出口に着いたのだった。

出口には着いたものの、門は鉄格子で閉ざされていた。しかも、二重の錠前がかかっていた。万事休すかと思われたそのとき、何者かの手がヴァルジャンの肩に置かれ、低く話しかけた。「山分けにしようぜ」。

一人の男が彼の前に立っていた。ヴァルジャンは、一目で、それがテナルディエであることを見抜いた。しかし、テナルディエの方では、ヴァルジャンであることに気がつかなかった。ヴァルジャンには、テナルディエのいう「山分け」の意味が分からなかった。

「お前はその男をやっつけたんだろう。よろしい。ところで俺の方に鍵かぎがあるんだ。」
テナルディエはマリユスをさし示した。彼は続けて言った。
「俺はお前を知らねえ、だが少し手伝おうというんだ。おだやかに話をつけようじゃねえか。」
ジャン・ヴァルジャンは了解しはじめた。テナルディエは彼を人殺しだと思ってるのだった。テナルディエはまた言った。
「まあ聞けよ、お前はそいつの懐中を見届けずにやっつけたんじゃあるめえ。半分俺によこせ。扉を開いてやらあね。」
そして穴だらけの上衣の下から大きな鍵かぎを半ば引き出しながら、彼は言い添えた。
「自由な身になる鍵がどんなものか、見てえなら見せてやる。これだ。」
(豊島与志雄訳『レ・ミゼラブル』第5部より)

ヴァルジャンは唖然となったが、テナルディエの言うままに、手持ちの30フランを差し出した。テナルディは「安っぽくやっつけたもんだな」といいながら、30フランを全部取り上げた上で、鍵を開け、扉を開いた。こうして、ヴァルジャンとマリユスは地上に出ることができたのである。

出た所は、シャンゼリゼに近いセーヌ河畔だった。ヴァルジャンは、川から水をすくってマリユスの顔にふりかけてやった。それから再び手を水に入れようとしたとき、背後に背の高い男が立っているのに気づいた。ヴァルジャンは、それがジャヴェルであることを見て取った。ジャン・ヴァルジャンは一つの暗礁から他の暗礁へぶつかったのである。

(セーヌ河畔で一息つくヴァルジャンと背後に立つジャヴェル
Illustration by Émile Bayard)

 

パリの下水道とジャン・ヴァルジャンの逃走経路についての考察は、次の本に詳説されています。いずれ、この本の記述をもとに、WP Google Mapsで再現してみたいと思います。

ジャヴェルの最期

彼は両腕を組んだまま、目につかないくらいの動作で棍棒こんぼうを握りしめてみて、それから簡明な落ち着いた声で言った。
「何者だ。」
「私だ。」
「いったいだれだ?」
「ジャン・ヴァルジャン。」

ジャヴェルは、近寄ってヴァルジャンをのぞき込み、はじめてそれと知った。ジャヴェルの目つきは恐ろしかった。

「君はここに何をしてるんだ、そしてその男は何者だ。」
彼はもうジャン・ヴァルジャンをきさまと呼んではいなかった。
ジャン・ヴァルジャンは答えたが、その声の響きにジャヴェルは始めて我に返った。
「私が君に話したいのもちょうどこの男のことだ。私の身は君の勝手にしてほしい。だがまずこの男をその自宅に運ぶのを手伝ってもらいたい。願いというのはそれだけだ。」
(中略)
「この男の住所は、マレーのフィーユ・デュ・カルヴェール街で、その祖父……名前を忘れてしまった。」
ジャン・ヴァルジャンはマリユスの上衣を探り、紙ばさみを取り出し、マリユスが鉛筆で走り書きしたページを開き、それをジャヴェルに差し出した。

ジャヴェルは、待機していた辻馬車を呼び、彼らはフィーユ・デュ・カルヴェール街六番地のジルノルマン氏宅へと向かった。

マリユスをジルノルマン氏に引き渡し、再び辻馬車に乗ったとき、ヴァルジャンはジャヴェルに向かって言った。

「ジャヴェル警視、」とジャン・ヴァルジャンは言った、「も一つ許してもらいたい。」
「何だ?」とジャヴェルは荒々しく尋ねた。
「ちょっと自宅に戻るのを許してほしい。それからあとは君の存分にしてもらおう。」
ジャヴェルは上衣のえりに頤あごを埋め、しばらく黙り込んでいたが、それから前の小窓を開いた。
「御者、」と彼は言った、「オンム・アルメ街七番地へやれ。」

ヴァルジャンの自宅に着いたとき、ジャヴェルは「よろしい、上って行くがいい」「私はここで君を待っている」と言った。ヴァルジャンは家に入り、階段を2階へ上っていった。

 二階にきて彼は立ち止まった。あらゆる悲しみの道にも足を休むべき場所がある。階段の上の窓は、揚げ戸窓になっていたが、いっぱい開かれていた。古い家には多く見受けられるとおり、その階段も外から明りが取られていて、街路が見えるようになっていた。ちょうど正面にある街路の光が少し階段に差して灯火あかりの倹約となっていた。
ジャン・ヴァルジャンは息をつくためかあるいはただ機械的にか、その窓から頭を出した。そして街路の上に身をかがめてみた。街路は短くて、端から端まで明るく街灯に照らされていた。ジャン・ヴァルジャンは惘然ぼうぜんとして我を忘れた。そこにはもうだれもいなかったのである。
ジャヴェルは立ち去っていた。

ジャヴェルはヴァルジャンを放免したのだった。ジャヴェルは、頭を垂れ、両手をうしろにまわして、アルメ街をゆっくりと立ち去っていった。

彼はセーヌ川に達する最も近い道をたどり、オルム川岸にいで、その川岸通りに沿い、グレーヴを通り越し、そしてシャートレー広場の衛舎からわずか離れた所、ノートル・ダーム橋の角かどに立ち止まった。セーヌ川はそこで、一方ノートル・ダーム橋とポン・トー・シャンジュの橋とにはさまれ、他方メジスリー川岸とフルール川岸とにはさまれて、まんなかに急流を通しながら四角な湖水みたようになっていた。
(豊島与志雄訳『レ・ミゼラブル』第5部より)

ジャヴェルは恐ろしい苦悶に捕らえられていた。彼は、ヴァルジャンを赦した自分に驚いていた。

彼は自分のなしてきた事柄に戦慄した。彼ジャヴェルは、警察のあらゆる規則に反し、社会上および司法上の組織に反し、法典全部に反し、自らよしとして罪人を放免したのである。それは彼一個には至当であった。しかし彼は私事のために公務を犠牲にした。それは何とも名状し難いことではなかったか。自ら犯したその名義の立たない行為に顔を向けるたびごとに、彼は頭から足先までふるえ上がった。いかなる決心を取るべきであるか。今はただ一つの手段きり残っていなかった。急いでオンム・アルメ街に戻りジャン・ヴァルジャンを下獄させること、それこそ明らかに彼がなさなければならないことだった。しかし彼はなし得なかった。
(豊島与志雄訳『レ・ミゼラブル』第5部より)

彼にとって、いまや法を超えた存在となったヴァルジャンであった。

慈善を施す悪人、あわれみの念が強く、やさしく、救助を事とし、寛大で、悪に報ゆるに善をもってし、憎悪に報ゆるに許容をもってし、復讐よりも憐愍を取り、敵を滅ぼすよりも身を滅ぼすことを好み、おのれを打った者を救い、徳の高所にあってひざまずき、人間よりも天使に近い徒刑囚、そういう怪物が世に存在することを、ジャヴェルは自認するの余儀なきに至った。
(豊島与志雄訳『レ・ミゼラブル』第5部より)

それは、彼の全生涯を支えてきた定理が崩れ去ることを意味していた。彼に残された唯一の道は、「神に辞表を提出すること」であった。ジャヴェールは、シャトル広場の派出所で事務所類をしたためたあと、もとのセーヌ河畔に戻った。

ジャヴェルは頭をかがめてながめ入った。すべてはまっくらで、何物も見分けられなかった。泡立あわだつ激流の音は聞こえていたが、川の面は見えなかった。おりおり、目が眩くらむばかりのその深みの中に、一条の明るみが現われて茫漠たるうねりをなした。水には一種の力があって、最も深い闇夜のうちにも、どこからともなく光を取ってきてそれを蛇の形になすものである。が、再びその明るみも消え、すべてはまたおぼろになった。広大無限なるものがそこに口を開いてるかと思われた。下にあるものは水ではなく、深淵であった。川岸の壁は、切り立ち、入り組み、霧にぼかされ、たちまちに隠れて、無窮なるものの懸崖けんがいのようだった。
何物も見えなかったが、水の敵意ある冷たさとぬれた石の無味なにおいとは感ぜられた。荒々しい息吹いぶきがその淵ふちから立ち上っていた。目には見えないがそれと知らるる増水、波の悲壮なささやき、橋弧の気味悪い大きさ、頭に浮かんでくるその陰惨な空洞中への墜落、すべてそれらの暗影は人を慄然りつぜんたらしむるものに満たされていた。 ジャヴェルはその暗黒の口をながめながら、しばらくじっとたたずんでいた。専心に似た注視で目に見えないものを見守っていた。水は音を立てて流れていた。すると突然、彼は帽子をぬぎ、それを川岸縁に置いた。一瞬間の後には、帰りおくれた通行人が遠くから見たならば幽霊と思ったかも知れないような黒い高い人影が、胸壁の上にすっくと立ち現われ、セーヌ川の方へ身をかがめ、それからまた直立して、暗黒の中にまっすぐに落ちていった。鈍い水音が聞こえた。そして水中に没したその暗い姿の痙攣の秘密は、ただ影のみが知るところだった。
豊島与志雄訳『レ・ミゼラブル』第5部より)

(セーヌに身を投げるジャヴェル
Illustration by Émile Bayard)

警視ジャヴェルが最後に訪れた場所は下に示すとおりである。

 

(ジャヴェルの最期)

マリユスとコゼットの結婚

ヴァルジャンとジャヴェルによって、ジルノルマン氏宅に運ばれてきたとき、マリユスはまだ生死の境をさまようほどの重体だったが、ジルノルマン氏の家族、医者の治療、コゼット、ヴァルジャンの支援のおかげで、ようやく回復に向かうことになった。

病状が回復するにつれて、マリユスはコゼットを想う気持ちが強まり、なんとかしてジルノルマン氏を説得してコゼットとの結婚を認めてもらおうと、そのタイミングを伺っていた。

ある日、ジルノルマン氏が枕元に来て、「ねえマリユス、わしがもしお前だったら、もう魚さかなより肉の方を食べるがね。ひらめのフライも回復期のはじめには結構だが、病人が立って歩けるようになるには、上等の脇肉を食べるに限るよ。」と言ったとき、マリユスは思い切って切り出した。

「そうおっしゃれば一つ申したいことがあります。」
「何かね?」
「私は結婚したいのです。」
「そんなことなら前からわかっている。」と祖父は言った。そして笑い出した。
「何ですって、わかっていますって?」
「うむ、わかっているよ。あの娘をもらうがいい。」
「そうだ、あのきれいなかわいい娘をもらうがいい。あの娘は毎日、老人を代わりによこしてお前の様子を尋ねさしている。お前が負傷してからというもの、いつも泣きながら綿撒糸めんざんしをこしらえてばかりいる。わしはよく知ってる。オンム・アルメ街七番地に今住んでいる。ああいいとも。好きならもらうがいい豊島与志雄訳『レ・ミゼラブル』第5部より)

思いがけない祖父の承諾に、一瞬とまどいながらも、マリユスは歓喜した。

その日のうちに、コゼットがヴァルジャンを伴って現れた。久しぶりの再会だった。そのときの二人の感激は、とても描写しきれないほどのものだった。

コゼットがはいってきた時には、バスクやニコレットをも加えて一家の者が皆マリユスの室へやに集まっていた。

彼女は閾の上に現われた。その姿はあたかも円光に包まれてるかと思われた。
ちょうどその時祖父は鼻をかもうとしていた。彼はそれを急にやめ、ハンカチで鼻を押さえたまま、その上からコゼットをながめた。
「みごとな娘だ!」と彼は叫んだ。
それから彼は大きな音を立てて鼻をかんだ。
コゼットは、酔い、喜び、おびえ、天に上ったような心地になっていた。彼女はおよそ幸福が与え得るだけの恐怖を感じていた。彼女は口ごもり、まっさおになり、またまっかになり、マリユスの腕に身を投じたく思いながらあえてなし得なかった。大勢の人前で愛するのをはずかしがったのである。

後から入ってきたフォーシュルヴァン氏(ヴァルジャン)は、微笑を浮かべつつも、やや悲痛な表情であった。彼はジルノンマン氏とともに、マリユスとコゼットの結婚を祝福した。そして、ジルノンマン氏は、サン・ポール教会で二人が結婚式をあげるよう許しを得ると約束した。

しかし、とジルノンマン氏は続けた。「一つ悲しいことがある。それがわしの気がかりだ。わしの財産の半分以上は終身年金になっている。わしが生きてる間はいいが、わしが死んだら、もう20年もしたら、かわいそうだが、お前たちは一文なしになる。男爵夫人たるこのまっ白な美しい手も、食うために働かなくてはならないことになるだろう。」

そのとき、ヴァルジャンが落ち着いた声で言った。「ウューフラジー・フォーシュルヴァン嬢は、60万フランの金を持っています。」 そして彼は包みをテーブルの上に置いた。ジャン・ヴァルジャンは自ら包みを開いた。それは一束の紙幣だった。人々はそれをひろげて数えてみた。千フランが500枚と500フランが168枚入っていて、全部で58万4000フランあった。その金は彼がモントルイュ・スュール・メールで市長をしていたときに稼いだものだった。

ヴァルジャンは、コゼットのために、フォーシュルヴァン氏の娘だという証明書をつくり、自分は後見人になることになった。マリユスにとって、ヴァルジャンは謎の人物だった。自分をバリケードから地下水道をかついで救出してくれた人物を必死に探したが、その手がかりはまったくつかめなかった。まさかフォーシュルヴァン氏が自分の命の恩人であるとは夢にも思わなかったのである。

1833年2月16日から17日にかけて、マリユスとコゼットの結婚の祝宴が開かれた。当時のしきたりに従って、結婚式はジルノンマン氏の自宅で行われた。16日はちょうど謝肉祭末日の火曜日だった。

マリユスとコゼットは、ジルノンマン氏の居宅で新婚生活を送ることになり、ヴァルジャンにも一室が提供された。

しかし、結婚式の当日、ヴァルジャンは右手を負傷したために、結婚式を欠席した。

結婚式を終えた新郎と新婦は、馬車に乗って、フィーユ・デュ・カルヴェール街からサン・ポール教会へと向かった。しかし、途中サン・ルイ街の北端で道路工事が行われていたため、大通りを迂回することになった。途中、仮装行列にも巻き込まれるなど、区役所と教会に着くまでにかなり時間がかかった。

区役所では区長と牧師の前で誓いの言葉を述べ、サン・ポール教会で指輪を交換し、晴れて夫婦となった。

彼らふたりは光り輝いていた。彼らは、再び来ることのない見いだそうとて見いだせない瞬間にあり、あらゆる青春と喜悦とのまばゆい交差点にあった。彼らはジャン・プルーヴェールの詩を実現していた。ふたりの年齢を合わしても四十歳に満たなかった。精気のような結婚であって、そのふたりの若者は二つの百合の花であった。彼らは互いに見ることをせず、しかも互いに見とれ合っていた。コゼットはマリユスを光栄の中にながめ、マリユスはコゼットを祭壇の上にながめていた。そしてその祭壇の上とその光栄の中とに、ふたりは共に神となって相交わり、その奥に、コゼットにとっては霞のうしろに、マリユスにとっては炎の中に、ある理想的なものが、現実的なものが、くちづけと夢との会合が、婚姻の枕が、横たわってるのだった。

フランス語原文:

Ces deux êtres resplendissaient. Ils étaient à la minute irrévocable et introuvable, à l’éblouissant point d’intersection de toute la jeunesse et de toute la joie. Ils réalisaient le vers de Jean Prouvaire ; à eux deux, ils n’avaient pas quarante ans. C’était le mariage sublimé ; ces deux enfants étaient deux lys. Ils ne se voyaient pas, ils se contemplaient. Cosette apercevait Marius dans une gloire ; Marius apercevait Cosette sur un autel. Et sur cet autel et dans cette gloire, les deux apothéoses se mêlant, au fond, on ne sait comment, derrière un nuage pour Cosette, dans un flamboiement pour Marius, il y avait la chose idéale, la chose réelle, le rendez-vous du baiser et du songe, l’oreiller nuptial.

マリユスとコゼットの結婚式が行われたのは、ジルノルマン氏宅、婚礼の儀はサン・ポール教会で行われた。

結婚式のあと、ジルノルマン氏宅で華やかに祝宴が開かれた。フォーシュルヴァン氏(ヴァルジャン)は、花嫁の隣に座るようしつらえられていた。しかし、ヴァルジャンは、いつの間にか姿を消していた。コゼットはヴァルジャンの不在を悲しんだが、やがてマリユスがその座席につくと、ついには満足するようになった。

祝宴が終え、二人は結婚の夜を迎えた。そこにはひとりの天使が立っていて、微笑みながら口に指をあて、天国からの光明を送っていた。

愛は男女の融合が行なわれる崇高な坩堝である。一体と三体と極体と、人間の三位一体がそれから出てくる。かく二つの魂が一つとなって生まれ出ることは、影にとっては感動すべきことに違いない。愛する男はひとりの牧師である。歓喜せる処女はびっくりする。かかる喜悦のあるものは神のもとまで達する。真に結婚がある所には、すなわち恋愛がある所には、理想もそれに交じってくる。結婚の床は、暗闇の中の一隅に曙を作り出す。もし上界の恐るべきまた麗しいかたちを肉眼で見得るものとするならば、夜の形象が、翼のある見知らぬ者らが、目に見えない境を過よぎりゆく青色の者らが、身をかがめて、輝く人家のまわりに暗い頭を寄せ集め、満足し祝福しつつ、処女の新婦を互いにさし示し、やさしい驚きの様子をして、その聖きよい顔の上に人間の至福の反映を浮かべているのを、おそらく人は見るであろう。もしその極致の瞬間に、歓喜に眩惑せるふたりの者が、他にだれもいないと信じつつも耳を澄ますならば、飛びかわす翼の音を室の中に聞くであろう。完全なる幸福は、天使をも参与させるものである。その小さな暗い寝所は、全天空を天井としている。愛に聖められた二つのくちびるが、創造のために相接する時、その得も言えぬくちづけの上には、星辰の広漠たる神秘のうちに、必ずや一つの震えが起こるに相違ない。

 それらの幸福こそ真正なるものである。それらの喜悦を外にしては真の喜悦は存しない。愛、そこにこそ唯一の恍惚たる喜びがある。他のすべては皆嘆きである。
 愛しもしくは愛した、それで充分である。更に求むることをやめよ。人生の暗いひだのうちに見いだされ得る真珠は、ただそれのみである。愛することは成就することである。
(豊島与志雄訳『レ・ミゼラブル』第5部より)

フランス語原文:

L'amour, c'est le creuset sublime où se fait la fusion de l'homme et de la femme; l'être un, l'être triple, l'être final, la trinité humaine en soit. Cette naissance de deux âmes en une doit être une émotion pour l'ombre. L'amant est prêtre; la vierge ravie s'épouvante. Quelque chose de cette joie va à Dieu. Là où il y a vraiment mariage, c'est-à-dire où il y a amour, l'idéal s'en mêle. Un lit nuptial fait dans les ténèbres un coin d'aurore. S'il était donné à la prunelle de chair de percevoir les visions redoutables et charmantes de la vie supérieure, il est probable qu'on verrait les formes de la nuit, les inconnus ailés, les passants bleus de l'invisible, se pencher, foule de têtes sombres, autour de la maison lumineuse, satisfaits, bénissants, se montrant les uns aux autres la vierge épouse, doucement effarés, et ayant le reflet de la félicité humaine sur leurs visages divins. Si, à cette heure suprême, les époux éblouis de volupté, et qui se croient seuls, écoutaient, ils entendraient dans leur chambre un bruissement d'ailes confuses. Le bonheur parfait implique la solidarité des anges. Cette petite alcôve obscure a pour plafond tout le ciel. Quand deux bouches, devenues sacrées par l'amour, se rapprochent pour créer, il est impossible qu'au-dessus de ce baiser ineffable il n'y ait pas un tressaillement dans l'immense mystère des étoiles.

Ces félicités sont les vraies. Pas de joie hors de ces joies-là. L'amour, c'est là l'unique extase. Tout le reste pleure.

Aimer ou avoir aimé, cela suffit. Ne demandez rien ensuite. On n'a pas d'autre perle à trouver dans les plis ténébreux de la vie. Aimer est un accomplissement.

 

悲嘆にくれるジャン・ヴァルジャン

ヴァルジャンは、だれにも気づかれることなく、オンム・アルメ街の自宅に戻った。いまはコゼットも女中のトゥーサンもいない家に入り、階段を上り、自分の部屋に入ると、テーブルの上に燭台を置いた。そして、小卓の所へ行き、鞄を開いた。その中から、10年前コゼットがモンフェルメイユを去るときにつけていた衣装を静かに取り出した。黒い喪服、黒い襟巻き、子供靴、靴下などを寝床の上に並べて、昔のことを思い起こしていた。

冬で、ごく寒い十二月のことだった。彼女はぼろを着て半ば裸のまま震えていた。そのあわれな小さな足は木靴をはいてまっかになっていた。彼ジャン・ヴァルジャンは、それらの破れ物を脱がせて、この喪服をつけさしてやった。彼女の母も、彼女が自分のために喪服をつけるのを見、ことに相当な服装をして暖かにしてるのを見ては、墓の中できっと喜んだに違いなかった。また彼はモンフェルメイュの森のことを思い出していた。コゼットと彼とはふたりいっしょにその森を通っていった。天気のこと、葉の落ちた樹木のこと、小鳥のいない木立ちのこと、太陽の見えない空のこと、それでもなお楽しかったこと、などが皆思い出された。そして今彼はそれらの小さな衣類を寝床の上に並べ、襟巻えりまきを裳衣のそばに置き、靴足袋を靴のそばに置き、下着を長衣のそばに置き、それらを一つ一つながめた。あの時彼女はまだごく小さかった。大きな人形を腕に抱き、ルイ金貨をこの胸掛けのポケットに入れ、そして笑っていた。ふたりは手を取り合って歩いた。彼女が頼りとする者は、世にただ彼ひとりだった。

 そこまで考えた時、ジャン・ヴァルジャンの敬すべき白髪の頭は寝床の上にたれ、その堅忍な老いた心は張り裂け、その顔はコゼットの衣裳の中に埋ってしまった。もしその時階段を通る者があったら、激しいすすり泣きの声が耳に聞こえたであろう。
(豊島与志雄訳『レ・ミゼラブル』第5部より)

フランス語原文:

C'était en hiver, un mois de décembre très froid, elle grelottait à demi nue dans des guenilles, ses pauvres petits pieds tout rouges dans des sabots. Lui Jean Valjean, il lui avait fait quitter ces haillons pour lui faire mettre cet habillement de deuil. La mère avait dû être contente dans sa tombe de voir sa fille porter son deuil, et surtout de voir qu'elle était vêtue et qu'elle avait chaud. Il pensait à cette forêt de Montfermeil; ils l'avaient traversée ensemble, Cosette et lui; il pensait au temps qu'il faisait, aux arbres sans feuilles, au bois sans oiseaux, au ciel sans soleil; c'est égal, c'était charmant. Il rangea les petites nippes sur le lit, le fichu près du jupon, les bas à côté des souliers, la brassière à côté de la robe, et il les regarda l'une après l'autre. Elle n'était pas plus haute que cela, elle avait sa grande poupée dans ses bras, elle avait mis son louis d'or dans la poche de ce tablier, elle riait, ils marchaient tous les deux se tenant par la main, elle n'avait que lui au monde.

Alors sa vénérable tête blanche tomba sur le lit, ce vieux cœur stoïque se brisa, sa face s'abîma pour ainsi dire dans les vêtements de Cosette, et si quelqu'un eût passé dans l'escalier en ce moment, on eût entendu d'effrayants sanglots.

(幸福なマリユスとコゼット、悲嘆にくれるヴァルジャン
Illustration by Émile Bayard)

ジャン・ヴァルジャンの告白

翌朝、ヴァルジャンはマリユスを訪問した。前夜眠らなかったため、顔は青ざめていた。やがて、マリユスが輝いた顔つきで部屋に入ってきた。そして、ヴァルジャンに引っ越してくれるよう懇願した。それに対して、ヴァルジャンは思いがけない告白をした。

「私は、」とジャン・ヴァルジャンは言った、「あなたに一つ話したいことがあるんです。私はもと徒刑囚だった身の上です。」

 およそ鋭い音は、耳に対すると同じく精神に対しても、知覚の範囲を越すことがある。フォーシュルヴァン氏の口から出た「私はもと徒刑囚だった身の上です」という言葉は、マリユスの耳に響きはしたが、まとまった意味の範囲を越えたものだった。マリユスは了解しなかった。ただ何か言われたように思えたが、何であるかわからなかった。彼はぼんやりしてしまった。

 その時彼は、相手が恐ろしい様子をしてるのに気づいた。彼は自分の喜びに夢中になって、相手のひどく青ざめてるのがそれまで目にはいらなかった。
 ジャン・ヴァルジャンは右腕をつっていた黒布を解き、手に巻いていた包帯をはずし、親指を出して、それをマリユスに示した。
「手はなんともなっていません。」と彼は言った。
 マリユスはその親指をながめた。
「初めからなんともなかったのです。」とジャン・ヴァルジャンはまた言った。
 実際何らの傷痕きずあともなかった。
 ジャン・ヴァルジャンは言い続けた。
「私はあなたの結婚の席にいない方がよかったのです。できるだけ出席しないようにつとめました。私は偽証をしないために、結婚の契約書に無効なものをはさまないために、署名することをのがれるために、怪我をしたと嘘を言いました。」
(豊島与志雄訳『レ・ミゼラブル』第5部より)

マリユスがその理由を聞くと、ヴァルジャンは、自分が19年間徒刑場にいたこと、今では脱走の上であることを告白した。マリユスは戦慄を覚えたが、「あなたはコゼットの父ですね」と叫んだ。ヴァルジャンはそれをも否定して言った。

「……私の言葉を信じて下さい。コゼットの父は私ですと! 神に誓って否と言います。ポンメルシー男爵、私はファヴロールの田舎者です。樹木の枝切りをして生活していた者です。名前もフォーシュルヴァンではなく、ジャン・ヴァルジャンと言います。コゼットとは何の縁故もありません。御安心下さい。」

 マリユスはつぶやいた。
「だれが証明してくれましょう……。」
「私がです。私がそう言う以上は。」

では、なぜヴァルジャンはあえて沈黙を破る決心をしたのか? 

なるほどあなたの言われるのは道理です、私はばかです。このまま黙ってここにいればいいわけです。あなたは私に室を一つ与えて下さるし、ポンメルシー夫人は私を愛して、あの人をいたわっておくれと安楽椅子に言って下さるし、あなたのお祖父様は私がここにいさえすればよろしいとおっしゃるし、私がそのお相手となり、皆いっしょに住みいっしょに食事をし、私はコゼット……いやごめん下さい、つい口癖になってるものですから、で私はポンメルシー夫人に腕を貸し、皆同じ屋根、同じ食卓、同じ火、冬には暖炉の同じ片すみに集まり、夏にはいっしょに散歩をする。実に喜ばしいことで、実に楽しいことで、それ以上のことはありません。そして一家族のように暮らしてゆく、一家族のように!」

 その言葉を発して、ジャン・ヴァルジャンはにわかに荒々しくなった。彼は両腕を組み、あたかもそこに深い穴でも掘ろうとしてるように足下の床ゆかをにらみつけ、声は急に激しくなった。
「一家族! いや。私には家族はない。私はあなたの家族のひとりではありません。およそ人間の家族にはいるべき者でありません。人が自分の家とする所では、どこへ行っても私はよけいな者となるのです。世にはたくさんの家庭があるが、私が加わり得る家庭はありません。私は不幸な者です。社会の外にほうり出されてる人間です。父母があったとさえも思えないくらいです。私があの娘さんを結婚さした日、私のすべては終わりました。彼女が幸福であること、愛する人といっしょにいること、親切な御老人がおらるること、ふたりの天使の家庭ができたこと、家中喜びに満ちてること、万事よくいってること、それを私は見て、自分で言いました、汝は入るべからずと、実際私は、嘘うそをつくこともでき、あなた方皆を欺くこともでき、フォーシュルヴァン氏となってることもできました。そして彼女のためである間は嘘もつきました。しかし今は私のためである以上、嘘をついてはいけないのです。」
(豊島与志雄訳『『レ・ミゼラブル』第5部より)

ヴァルジャンは、この告白によって、すべてを失ってしまった。マリユスは、このことはマリユスの胸にだけしまい、コゼットには絶対話してくれるな、というヴァルジャンの頼みに承諾し、「ときどきコゼットに会いに来たい」という懇願を受け入れたが、ヴァルジャンに対して嫌悪の情を抱くようになった。

(マリユスにすべてを告白し、泣き崩れるヴァルジャン
Illustration by Émile Bayard)

翌日の夜、ヴァルジャンはコゼットに会うためにジルノルマン家を訪れた。彼が通されたのは1階の薄暗い、じめじめした部屋だった。コゼットがうれしそうに入ってきたが、彼女の頬に接吻することもせず、「お父様」と呼ぶコゼットに「もう私を父と呼んではいけない」「私をジャンさんと呼ばなければいけない」と言い放った。その後も、ヴァルジャンは毎日訪問を口返したが、マリユスはいつも外出するようにして、ヴァルジャンを避け続けた。また、ヴァルジャンから贈られた60万フランについても、何か不正な手段で得られたものではないかとの疑念から、手をつけずにいた。

(薄暗い部屋に通されるジャン・ヴァルジャン
Illustration by Émile Bayard)

あるとき、ヴァルジャンがコゼットを訪ねると、部屋にはいつもの肘掛けイスがなくなっていた。ヴァルジャンは自分が排斥されていると感じた。翌日から、ヴァルジャンはコゼットを訪問することはなくなってしまった。マリユスは、コゼットをしだいにジャン・ヴァルジャンから遠ざけるように仕向けた。コゼットはなされるままになっていた。

ヴァルジャンは、次第に外出をしなくなり、部屋にこもり、食事もとらなくなった。そのうちに、寝たきりの状態になってしまった。医者が来て、ヴァルジャンと話をした。門番の女が容態を聞くと、医者はこう答えた。

「病人はだいぶ悪いようだ。」
「どこが悪いんでございましょうか。」
「どこと言って悪い所もないが、全体がよくない。見たところどうも大事な人でも失ったように思われる。そんなことで死ぬ場合もあるものだ。」
「あの人はあなたに何と言いましたか。」
「病気ではないと言っていた。」
「またあなたにきていただけますでしょうか。」
「よろしい。」と医者は答えた。「だが私よりもほかの人にきてもらわなければなるまい。」

ヴァルジャンは、マリユスとコゼットが結婚する前はようやく50歳になるかならないかくらいに思えたが、いまでは80歳になるかと思われるほど年老いてしまっていた。

(豊島与志雄訳『レ・ミゼラブル』第5部より)

 

ついに明かされる真実

それより少し前、マリユスの自宅に「テナル」と名乗る男が訪問した。男はマリユスに「実は買っていただきたい秘密を手にしている」と切り出した。「秘密とはどういうことか?」とマリユスが尋ねると、男は「閣下、あなたはお邸に盗賊と殺人犯をお入れになっています」と言った。「その本名をお知らせ申しましょう。それは、ジャン・ヴァルジャンという名でございます。」

「それは知っています。」

「元は徒刑囚だった身の上です。」

「それも知っています。」

男は、もっと秘密を知っており、2万フランで買い取ってほしいと言った。

「その秘密というのも、他の秘密と同様に私は知っています。」とマリユスは答えた。

「僕も君の非常な秘密を知っています。君の名前はテナルディエだろう。」

テナルディエは、ワーテルローの戦いで、父ポンメルシー大佐の命を救った恩人だった。テナルディエがたとえ悪人だったとしても、マリユスにとってはその恩に報いるいい機会だった。同時に、コゼットの財産の出所を明らかにするいい機会のようにも思われた。

マリユスは沈黙を破った。

「テナルディエ、僕は君の名前を言ってやった。そして今また、君のいわゆる秘密、君が僕に知らせようと思ってきたものを、僕から言ってもらいたいのか? 僕もいろいろ知ってることがある。君よりもくわしく知ってるかも知れない。ジャン・ヴァルジャンは、君が言うとおり、人殺しで盗人だ。マドレーヌ氏という富有な工場主を破滅さしてその金を盗んだから、盗人である。警官ジャヴェルを殺害したから、人殺しである。」
(豊島与志雄訳『レ・ミゼラブル』第5部より)

テナルディエは厳然たる一瞥をマリユスに投げかけた。そして、再び攻勢に転じた。

男爵も打ち明けて言われましたから、私の方でも打ち明けて申しましょう。何よりもまず真実と正義とが第一です。私は不正な罪を被ってる者を見るのを好みません。男爵、ジャン・ヴァルジャンはマドレーヌ氏のものを盗んではいません。ジャン・ヴァルジャンはジャヴェルを殺してはいません。」

「何だと! それはどうしてだ?」
「二つの理由からです。」
「どういう理由だ? 言ってみなさい。」
「第一はこうです。彼はマドレーヌ氏のものを盗んだというわけにはなりません、ジャン・ヴァルジャン自身がマドレーヌ氏であるからには。」
「何を言うんだ。」
「そして第二はこうです。彼はジャヴェルを殺したはずはありません、ジャヴェルを殺したのはジャヴェル自身であるからには。」
「と言うと?」
「ジャヴェルは自殺したのです。」

「証拠があるか、証拠が!」とマリユスは我を忘れて叫んだ。

テナルディエは、確たる証拠となる新聞記事2つをマリユスに見せた。ジャン・ヴァルジャンの無実は明白だった。ジャン・ヴァルジャンはにわかに偉大なものとなって、雲の中から現われてきた。マリユスは喜びの叫びを自らおさえることができなかった。

「それでは、あのあわれむべき男は、驚くべきりっぱな人物だったのか! あの財産はまったく彼自身のものだったのか! 一地方全体の守護神たるマドレーヌであり、ジャヴェルの救い主たるジャン・ヴァルジャンであるとは! 実に英雄だ、聖者だ!」

「いえあの男は、聖者でも英雄でもありません。」とテナルディエは言った。「人殺しで盗賊です。」

そして、テナルディエは驚くべき事実を話し出したのである。

「男爵、今からおおよそ一年ばかり前、1832年6月6日、あの暴動のありました日、パリーの大下水道の中に、アンヴァリード橋とイエナ橋との間のセーヌ川への出口の所に、ひとりの男がいました。」

 マリユスはにわかに自分の椅子を、テナルディエの椅子に近寄せた。

その日の晩の8時頃、その男は下水道の中に物音を聞き、待ち受けたところ、元徒刑囚が死体をかついで来た。つまり、この男は殺害犯であり、窃盗犯だった。死体は若い男で、立派な服装をしていたが、顔は血だらけで人相はよく分からなかった。犯罪の証拠にするために、死体の上着の端を裂き取った。死体を担いでいた元徒刑囚とはジャン・ヴァルジャンであり、外で待ち受けていたのは、話している本人テナルディエだった、というのだ。

そして、テナルディエは、一面に黒ずんだ汚点のついている引き裂けた黒ラシャの一片をポケットから取り出し、マリユスの目の前に広げた。マリユスは驚いて立ち上がり、戸棚を開いた。テナルディエは話し続けた。

「男爵、その殺された青年は、ジャン・ヴァルジャンの罠にかかったどこかの金持ちで、大金を所持していたものだと思える理由が、いくらもあります。」

「その青年は僕だ、その上衣はこれだ!」とマリユスは叫んだ。そして血に染んだ古い黒の上衣を床の上に投げ出した。

 彼はテナルディエの手から布片を引ったくり、上衣の上に身をかがめ、裂き取られた一片を裂けてる据の所へあててみた。裂け目はきっかり合って、その布片のために上衣は完全なものとなった。

 テナルディエは茫然とした。「こいつはやられたかな、」と彼は考えた。

 マリユスは身を震わし、絶望し、また驚喜して、すっくとつっ立った。
 彼はポケットの中を探り、恐ろしい様子でテナルディエの方へ進み寄り、500フランと1000フランとの紙幣をいっぱい握りつめた拳こぶしを差し出し、彼の顔につきつけた。

「君は恥知らずだ! 君は嘘つきで、中傷家で、悪党だ! 君はあの人に罪を着せるためにやってきて、かえってあの人を公明なものにした。あの人を破滅させようとして、かえってあの人をりっぱな者にした。そして君こそ盗賊だ。君こそ人殺しだ。おいテナルディエ・ジョンドレット、君がオピタル大通りのあばらやにいた所を、僕は見て知っている。君を徒刑場へ送るだけの材料を、いやそれよりもっと以上の所へ送るだけの材料を、僕は握っている。さあ、悪者の君に、1000フランだけ恵んでやる。」

 そして彼は一枚の1000フラン紙幣をテナルディエへ投げつけた。
(豊島与志雄訳『レ・ミゼラブル』第5部より)

いまや真実が明らかになった。ジャン・ヴァルジャンは、マリユスにとってかけがいのない命の恩人だったのだ。テナルディエを追い出したあと、マリユスはコゼットを探して庭に出た。

「コゼット! コゼット!」と彼は叫んだ。「おいで、早くおいで! すぐに行くのだ。バスク、辻馬車を一つ呼んでこい。コゼット、おいで。ああ、僕の命を救ってくれたのはあの人だった。一刻も遅らしてはいけない。すぐ肩掛けをつけるんだ。」

 コゼットは彼が気でも狂ったのかと思ったが、その言葉どおりにした。
 彼は息もつけないで、胸に手をあてて動悸を押ししずめようとしていた。彼は大胯に歩き回った。コゼットを抱いて言った。
「ああ、コゼット、僕は実にあわれむべき人間だ!」
 マリユスは熱狂していた。彼はジャン・ヴァルジャンのうちに、高いほの暗い言い知れぬ姿を認め始めた。非凡な徳操の姿が彼に現われてきた。最高にしてしかもやさしい徳であり、広大なるためにかえって謙譲なる徳であった。徒刑囚の姿はキリストの姿と変わった。マリユスはその異変に眩惑した。彼は自分の今ながめているものがただ偉大であるというほか、何にもはっきりとわからなかった。

 間もなく一台の辻馬車が門前にやってきた。
 マリユスはそれにコゼットを乗せ、次に自分も飛び乗った。
「御者、」と彼は言った、「オンム・アルメ街七番地だ。」
 馬車は出かけた。
「まあうれしいこと!」とコゼットは言った、「オンム・アルメ街なのね。私は今まで言い出しかねていましたのよ。私たちはジャンさんに会いに行くんですわね。」

「お前のお父さんだ、コゼット、今こそお前のお父さんだ。コゼット、僕にはもうすっかりのみ込めた。お前はガヴローシュに持たしてやった僕の手紙を受け取らなかったと言ったね。きっとあの人の手に落ちたに違いない。それで僕を救いに防寨へきて下すったのだ。そして、天使となるのがあの人の務めでもあるように、ついでに他の人たちをも救われたのだ。ジャヴェルをも救われた。僕をお前に与えるために、あの深淵の中から僕を引き出して下すった。僕を背中にかついで、あの恐ろしい下水道を通られた。ああ僕は実に恐ろしい恩知らずだ。コゼット、あの人はお前の守り神だった後、僕の守り神になられた。まあ考えてもごらん、恐ろしい泥あながあったのだ、必ずおぼれてしまうような所が、泥の中におぼれてしまうような所が、コゼット、それをあの人は僕をつれて渡られた。僕は気を失っていた。何にも見えず、何にも聞こえず、自分がどんなことになってるか知ることができなかったのだ。僕たちはあの人を連れ戻し、否でも応でも家に引き取り、もう決して離すことではない。ああ家にいて下さればいいが、すぐ会えればいいが! 僕はこれから一生あの人を敬い通そう。そうだ、そうしなければいけない、そうだろう、コゼット。ガヴローシュが僕の手紙を渡したのは、あの人へだったに違いない。それですっかりわかる。お前にもわかったろう。」

 コゼットには一言ひとこともわからなかった。
「おっしゃる通りですわ。」と彼女は言った。

(豊島与志雄訳『レ・ミゼラブル』第5部より)

 

ジャン・ヴァルジャンの死

ヴァルジャンの家に着き、扉をたたくと、「おはいり」という弱々しい声が聞こえた。部屋に飛び込んだコゼットは、感動のあまりジャン・ヴァルジャンの胸に飛び込んだ。「お父様!」と彼女は言った。ジャン・ヴァルジャンは「おまえだったか!ああ!では私を許してくれるんだね。」と叫んだ。「こうしてあなたも来てくださったのですね、ポンメルシーさん、あなたも私を許して下さるのですね!」

マリウスは、心にたまっていたものを一気に吐き出すようにして言った。

「コゼット、聞いたか、この方はいつもこうだ、いつも僕に許しを求めなさる。しかも僕にどんなことをして下すったか、お前は知ってるか、コゼット。この方は僕の命を救って下すった。いやそれ以上をして下すった。お前を僕に与えて下すった。そして、僕を救って下すった後、お前を僕に与えて下すった後、コゼット、自分をどうされたか? 自分の身を犠牲にされたのだ。実にりっぱな方だ。しかも、その恩知らずの僕に、忘れっぽい僕に、無慈悲な僕に、罪人の僕に、ありがとうと言われる。コゼット、僕は一生涯この方の足下にひざまずいても、なお足りないのだ。あの防さい、下水道、熱火の中、汚水の中、それを通ってこられたのだ、僕のために、お前のために、コゼット! あの死ぬばかりの所を通って僕を運んできて下すった。僕を死から助け出し、しかも御自分は甘んじて生命を危険にさらされた。あらゆる勇気、あらゆる徳、あらゆる勇壮、あらゆる高潔、それらをすべて持っていられる。コゼット、この方こそ実に天使だ!」

マリユスは、明日にもヴァルジャンを自宅につれて行く、と言った。しかし、ヴァルジャンは「明日は、私はここにもういないし、あなたの家にもいないだろう」と言った。死が近づいていることを、彼は悟っていたのである。

コゼットは、父が家に戻ってからの、これからの楽しく幸せな生活を語って聞かせた。

この頃はまあどんなに庭がきれいになったでしょう! つつじが大変みごとになりました。道には川砂を敷きましたし、菫色の小さな貝殻も交じっています。私の苺も食べていただきましょう。私がそれに水をやっていますのよ。そしてもう、奥さんというのもやめ、ジャンさんというのもやめ、私どもは共和政治になり、みんなお前と言うことにしましょう、ねえ、マリユス。番付けが変わったのよ。それからお父様、私はほんとに悲しいことがありましたの。壁の穴の中にこまどりが一匹巣をこしらえていましたが、それを恐ろしい猫が食べてしまいました。巣の窓から頭を差し出していつも私を見てくれた、ほんとにかわいい小さな駒鳥でしたのに! 私泣きましたわ。猫を殺してやりたいほどでしたの。でもこれからは、もうだれも泣かないことにしましょう。みんな笑うんですわ、みんな幸福になるんですわ。

ヴァルジャンは、コゼットの話をぼんやりと耳にしていたが、こう言った。

「いっしょに住むのは楽しいことに違いない。木には小鳥がいっぱいいる。私はコゼットと共に散歩する。毎日あいさつをかわし、庭で呼び合う、いきいきした人たちの仲間にはいる、それは快いことだろう。朝から互いに顔を合わせる。めいめい庭の片すみを耕す、彼女はその苺を私に食べさせ、私は自分の薔薇ばらを彼女につんでやる。楽しいことだろう。ただ……。」

コゼットがヴァルジャンの手をとると、それは冷たくなっていた。

「ただ、何ですの?」
「私はもうじきに死ぬ。」
 コゼットとマリユスとは震え上がった。
「死ぬ!」とマリユスは叫んだ。
「ええ、しかしそれは何でもありません。」とジャン・ヴァルジャンは言った。
 彼は息をつき、ほほえみ、そしてまた言った。
「コゼット、お前は私に話をしていたね。続けておくれ。もっと話しておくれ。お前のかわいい駒鳥が死んだと、それから、さあお前の声を私に聞かしておくれ!」
 マリユスは石のようになって、老人をながめていた。
 コゼットは張り裂けるような声を上げた。
「お父様、私のお父様! あなたは生きておいでになります。ずっと生きられます、私が生かしてあげます、ねえお父様!」
 ジャン・ヴァルジャンはかわいくてたまらないような様子で彼女の方へ頭を上げた。
「そう、私を死なないようにしておくれ。あるいはお前の言うとおりになるかも知れない。お前たちがきた時私は死にかかっていた。ところがお前たちがきたのでそのままになっている。何だか生き返ったような気もする。」
(豊島与志雄訳『レ・ミゼラブル』第5部より)

やがて、医者が入ってきた。そして、病人の脈をとった。

「ああ御病人に必要なのはあなた方でした。」と彼はコゼットとマリユスとをながめながらつぶやいた。
 そして彼はマリユスの耳元に身をかがめてごく低く言い添えた。
「もう手おくれです。」

門番の女が上がって来て尋ねた。
「牧師様をお呼びしましょうか。」
「牧師様はひとりおられる。」ジャン・ヴァルジャンは答えた。
 そして彼は指で、頭の上の一点を指し示すようなふうをした。おそらく彼の目には、そこに何者かの姿を見ていたのであろう。
 実際、ミリエル司教がその臨終に立ち会っていたのかもしれなかった。

いよいよ臨終の時を迎えて、ジャン・ヴァルジャンは、コゼットとマリユスを枕元に呼び寄せ、静かに最後の言葉を語った。

「近くにおいで、ふたりとも近くにおいで。私はお前たちふたりを深く愛する。ああ、こうして死ぬのは結構なことだ。コゼット、お前もまた私を愛してくれるね。私は、お前がいつもお前の老人に愛情を持っていてくれたことを、よく知っていた。私の腰の下にこの括り蒲団を入れてくれるとは、何というやさしいことだろう。お前は私の死を、少しは泣いてくれるだろうね。あまり泣いてはいけない。私はお前がほんとに悲しむことを望まない。お前たちふたりはたくさん楽しまなければいけない。それから私は、あの締金のない金環で何よりもよく儲かったことを、言い忘れていた。十二ダース入りの大包みが十フランでできるのに、六十フランにも売れた。まったくよい商売だった。だから、ポンメルシーさん、あの六十万フランも驚く程のことではありません。正直な金です。安心して金持ちになってよろしいのです。馬車も備え、時々は芝居の桟敷も買い、コゼットは美しい夜会服も買うがいいし、それから友人たちにごちそうもし、楽しく暮らすがいい。私はさっきコゼットに手紙を書いておいた。どこかにあるはずだ。それから私は、暖炉の上にある二つの燭台を、コゼットにあげる。銀であるが、私にとっては、金でできてると言ってもいいし、金剛石でできてるといってもいい品である。立てられた蝋燭を聖きよい大蝋燭に変える力のある燭台だ。私にあれを下すった人が、果たして私のことを天から満足の目で見て下さるかどうかは、私にもわからない。ただ私は自分でできるだけのことはした。お前たちはふたりとも、私が貧しい者であるということを忘れないで、どこかの片すみに私を葬って、ただその場所を示すだけの石を上に立てて下さい。それが私の遺言である。石には名前を刻んではいけない。もしコゼットが時々きてくれるなら、私は大変喜ぶだろう。あなたもきて下さい、ポンメルシーさん。私は今白状しなければなりませんが、私はいつもあなたを愛したというわけではなかった。それは許して下さい。けれど今は、彼女とあなたとは、私にとってただひとりの者です。私はあなたに深く感謝しています。私はあなたがコゼットを幸福にして下さることをはっきり感じています。....ふたりとも泣くにはおよばない。私はごく遠くへ行くのではない。向こうからお前たちの方を見ていよう。お前たちは夜になってただながめさえすればよい、私がほほえんでいるのがわかるだろう。コゼット、お前はモンフェルメイュを覚えていますか。お前は森の中にいて、大変恐がっていた。私が水桶の柄を持ってやった時のことを、まだ覚えていますか。私がお前の小さな手に触ったのは、それが始めてだった。ほんとに冷たい手だった。ああ、その頃、その手はまっかだったが、今では大変白くなっている。それから大きな人形、あれも覚えていますか。お前はあれにカトリーヌという名前をつけていた。あれを修道院に持っていかなかったことを、お前は残念がっていたものだ。お前は幾度私を笑わしたことだろう。雨が降ると、溝の中に藁屑くずを浮かべて、それが流れてゆくのを見ていた。ある時私は、柳編みの羽子板と、黄や青や緑の羽毛のついた羽子とを、お前に買ってやったことがある。お前はもう忘れているでしょう。お前はごく小さい時はほんとにいたずらだった。いろんなわるさをしていた。自分の耳に桜ん坊を入れてしまったこともある。しかしそれはみな過去のことだ。人形を抱いて通った森、歩き回った木立ちの中、身を隠した修道院、いろんな遊びごと、他愛もない大笑い、それらはみな影にすぎなくなっている。私はそういうものがみな自分のものだと思っていた。しかし私のばかげた考えだった。またあのテナルディエ一家の者は、みな悪者だった。しかしそれは許してやらなければいけない。コゼット、今ちょうどお前の母親の名前を言ってきかせる時がきた。お前の母親は、ファンティーヌという名前である。その名前をよく覚えておきなさい、ファンティーヌだ。それを口にするたびごとにひざまずかなくてはいけない。あの人は非常に難儀をした。お前を大変かわいがっていた。お前が幸福な目にあったのと、ちょうど同じくらい不幸な目に会った。それが神の配剤である。神は天にあって、われわれ皆の者を見られ、大きな星の間にあって自分の仕業しわざを知っていられる。私はもう逝ってしまう。ふたりとも、常によく愛し合いなさい。世の中には、愛し合うということよりほかにはほとんど何もない。 ......光が見える。もっと近くにおいで。私は楽しく死ねる。お前たちのかわいい頭をかして、その上にこの手を置かして下さい。」

 コゼットとマリユスとは、そこにひざまずき、我を忘れ、涙にむせび、ジャン・ヴァルジャンの両手に各々すがりついた。そのおごそかな手はもはや動かなかった。

 彼はあおむけに倒れた。二つの燭台から来る光が彼を照らしていた。その白い顔は天の方をながめ、その両手はコゼットとマリユスとのくちづけのままになっていた。彼は死んでいた。

 夜は星もなく、深い暗さだった。必ずやその影の中には、ある広大なる天使が、魂を待ちながら翼をひろげて立っていたであろう。

(豊島与志雄訳『レ・ミゼラブル』第5部より)

 

Illustration by Émile Bayard)

フランス語の原文:

Approche, approchez tous deux. Je vous aime bien. Oh! c'est bon de mourir comme cela! Toi aussi, tu m'aimes, ma Cosette. Je savais bien que tu avais toujours de l'amitié pour ton vieux bonhomme. Comme tu es gentille de m'avoir mis ce coussin sous les reins! Tu me pleureras un peu, n'est-ce pas? Pas trop. Je ne veux pas que tu aies de vrais chagrins. Il faudra vous amuser beaucoup, mes enfants. J'ai oublié de vous dire que sur les boucles sans ardillons on gagnait encore plus que sur tout le reste. La grosse, les douze douzaines, revenait à dix francs, et se vendait soixante. C'était vraiment un bon commerce. Il ne faut donc pas s'étonner des six cent mille francs, monsieur Pontmercy. C'est de l'argent honnête. Vous pouvez être riches tranquillement. Il faudra avoir une voiture, de temps en temps une loge aux théâtres, de belles toilettes de bal, ma Cosette, et puis donner de bons dîners à vos amis, être très heureux. J'écrivais tout à l'heure à Cosette. Elle trouvera ma lettre. C'est à elle que je lègue les deux chandeliers qui sont sur la cheminée. Ils sont en argent; mais pour moi ils sont en or, ils sont en diamant; ils changent les chandelles qu'on y met, en cierges. Je ne sais pas si celui qui me les a donnés est content de moi là-haut. J'ai fait ce que j'ai pu. Mes enfants, vous n'oublierez pas que je suis un pauvre, vous me ferez enterrer dans le premier coin de terre venu sous une pierre pour marquer l'endroit. C'est là ma volonté. Pas de nom sur la pierre. Si Cosette veut venir un peu quelquefois, cela me fera plaisir. Vous aussi, monsieur Pontmercy. Il faut que je vous avoue que je ne vous ai pas toujours aimé; je vous en demande pardon. Maintenant, elle et vous, vous n'êtes qu'un pour moi. Je vous suis très reconnaissant. Je sens que vous rendez Cosette heureuse.  ...... Mes enfants, ne pleurez pas, je ne vais pas très loin. Je vous verrai de là. Vous n'aurez qu'à regarder quand il fera nuit, vous me verrez sourire. Cosette, te rappelles-tu Montfermeil? Tu étais dans le bois, tu avais bien peur; te rappelles-tu quand j'ai pris l'anse du seau d'eau? C'est la première fois que j'ai touché ta pauvre petite main. Elle était si froide! Ah! vous aviez les mains rouges dans ce temps-là, mademoiselle, vous les avez bien blanches maintenant. et la grande poupée! te rappelles-tu? Tu la nommais Catherine. Tu regrettais de ne pas l'avoir emmenée au couvent! Comme tu m'as fait rire des fois, mon doux ange! Quand il avait plu, tu embarquais sur les ruisseaux des brins de paille, et tu les regardais aller. Un jour, je t'ai donné une raquette en osier, et un volant avec des plumes jaunes, bleues, vertes. Tu l'as oublié, toi. Tu étais si espiègle toute petite! Tu jouais. Tu te mettais des cerises aux oreilles. Ce sont là des choses du passé. Les forêts où l'on a passé avec son enfant, les arbres où l'on s'est promené, les couvents où l'on s'est caché, les jeux, les bons rires de l'enfance, c'est de l'ombre. Je m'étais imaginé que tout cela m'appartenait. Voilà où était ma bêtise. Ces Thénardier ont été méchants. Il faut leur pardonner. Cosette, voici le moment venu de te dire le nom de ta mère. Elle s'appelait Fantine. Retiens ce nom-là:—Fantine. Mets-toi à genoux toutes les fois que tu le prononceras. Elle a bien souffert. Elle t'a bien aimée. Elle a eu en malheur tout ce que tu as en bonheur. Ce sont les partages de Dieu. Il est là-haut, il nous voit tous, et il sait ce qu'il fait au milieu de ses grandes étoiles. Je vais donc m'en aller, mes enfants. Aimez-vous bien toujours. Il n'y a guère autre chose que cela dans le monde: s'aimer. ..... Je ne sais pas ce que j'ai, je vois de la lumière. Approchez encore. Je meurs heureux. Donnez-moi vos chères têtes bien-aimées, que je mette mes mains dessus.

Cosette et Marius tombèrent à genoux, éperdus, étouffés de larmes, chacun sur une des mains de Jean Valjean. Ces mains augustes ne remuaient plus.

Il était renversé en arrière, la lueur des deux chandeliers l'éclairait; sa face blanche regardait le ciel, il laissait Cosette et Marius couvrir ses mains de baisers; il était mort.

La nuit était sans étoiles et profondément obscure. Sans doute, dans l'ombre, quelque ange immense était debout, les ailes déployées, attendant l'âme.

ペール・ラシェーズ墓地の共同埋葬所のほとりに、一基の石がある。その石には何も刻まれていない。ただ、すでにもう何年か前に、だれかが4行の詩を鉛筆で書きつけていた。その句は次のとおりであった。

彼は眠る。数奇なる運命にも生きし彼、
己が天使を失いし時に死したり。
さあそれもみな自然の数ぞ、
昼去りて夜の来るがごとくに。

フランス語の原文:

Il dort. Quoique le sort fût pour lui bien étrange,
Il vivait. Il mourut quand il n'eut plus son ange,
La chose simplement d'elle-même arriva,
Comme la nuit se fait lorsque le jour s'en va.

 

(ペール・ラシェーズ墓地のほとりにひっそりと眠るジャン・ヴァルジャン)

 

ジャン・ヴァルジャンが亡くなった場所と、葬られた墓地の位置は、次に示すとおりである。

本ブログを制作するにあたって、パブリックドメインになった、次の著作を引用させていただきました。

・豊島与志雄訳『レ・ミゼラブル』全5巻
・Victor Hugo , Les Misérables, Tome I〜V
Illustrations by Émile Bayard

また、『レ・ミゼラブル』関連地図の作成にあたっては、次のサイトを参考にさせていただきました。

-ヨーロッパ聖地巡礼