メディア研究

「利己的な遺伝子」と情報(2012年1月28日:再録)

 今回は、高名な動物行動学者であるリチャード・ドーキンスの『利己的な遺伝子』(1976)を読みながら、情報あるいはメディアというものの本質を探ってみたい。ここでの情報は、ヒトや動物の遺伝子レベルの情報であり、それが「身体」というメディアを通していかに生存を確保する役割を演じているかが考察の対象となっている。以下では、本書の中でとくに情報と関連の深いと思われる章を読みながら、それを情報史観の観点から再解釈してゆきたいと思う。

1 人はなぜいるのか

 この本の主張するところは、われわれおよびその他のあらゆる動物が遺伝子によって作り出された機械にほかならないというものである。成功したシカゴのギャングと同様に、われわれの遺伝子は競争の激しい世界を場合によっては何百万年を生き抜いてきた。このことは、われわれの遺伝子に何らかの特質があることをものがたっている。私がこれから述べるのは、成功した遺伝子に期待される特質のうちでもっとも重要なのは無情な利己主義である、ということである。ふつう、この遺伝子の利己主義は、個体の行動における利己主義を生みだす。しかし、いずれ述べるように、遺伝子が個体レベルにおけるある限られた形の利他主義を助長することによって、もっともよく自分自身の利己的な目標を達成できるような特別な状況も存在するのである。

2 自己複製子

 ドーキンスは、地球上に生命が誕生した経緯を次のように推論する。

 あるとき偶然に、とびきりきわだった分子が生じた。それを自己複製子とよぶことにしよう。それは必ずしももっとも大きな分子でも、もっとも複雑な分子でもなかったであろうが、自らの複製を作れるという驚くべき特性をそなえていた。(中略) 自己複製子は生まれるとまもなく、そのコピーを海洋じゅうに広げたにちがいない。
 このようにして、同じもののコピーがたくさんできたと考えられる。しかしここで、どんな複製過程にもつきまとう重要な特性について述べておかねばならない。それは、この過程が完全ではないということである。誤りがおこることがあるのだ。(中略)
 誤ったコピーがなされてそれが広まってゆくと、原始のスープは、すべてが同じコピーの個体群ではなくて、「祖先」は同じだが、タイプを異にしたいくつかの変種自己複製子で占められるようになった。あるタイプは本来的に他の種類よりも安定であったに違いない。このようなタイプのものは、(原始)スープの中に比較的多くなっていたはずである。
 ある自己複製子には、個体群内に広がってゆく上でさらに重要であったに違いないもう一つの特性があった。それは複製の速度、すなわち「多産性」である。選ばれてきた自己複製分子の第三の特徴は、コピーの正確さである。
 この議論における次の重要な要素は、ダーウィン自身が強調した競争である。自己複製子が増えてくると、構成要素の分子はかなりの速度でつかい果たされてゆき、数少ない、貴重な資源になってきたにちがいない。そしてその資源をめぐって、自己複製子のいろいろな変種ないし系統が、競争をくりひろげたことであろう。 (中略)おそらくある自己複製子は、化学的手段を講じるか、あるいは身のまわりにタンパク質の物理的な壁をもうけるかして、身をまもる術を編みだした。こうして最初の生きた細胞が出現したのではなかろうか。自己複製子は存在をはじめただけでなく、自らのいれもの、つまり存在し続けるための場所をもつくりはじめたのである。生き残った自己複製子は、自分が住む生存機械を築いたものたちであった。

 少し引用が長くなったが、これが生命体誕生の経緯の推論である。ここで、「細胞」というのは、遺伝子という記号の入れ物という意味では、最初の「メディア」といってもよいかもしれない。この細胞からやがてさまざまな器官が生まれ、人間の身体や心を生みだしたのだろう。その意味では、ヒトもまた、遺伝子たちの「生存機械」なのだ、とドーキンスは述べている。

彼らはあなたの中にも私の中にもいる。彼らはわれわれを、体と心を生みだした。そして彼らの維持ということこそ、われわれの存在の最終的な論拠なのだ。彼らはかの自己複製子として長い道のりを歩んできた。今や彼らは遺伝子という名で歩き続けている。そしてわれわれは彼らの生存機械なのである。

3 不滅のコイル

 「生存機械」説は、ここでもさらに続く。

われわれは生存機械である。だが、ここでいう「われわれ」とは人間だけをさしているのではない。あらゆる動植物、バクテリア、ウィルスが含まれている。 (中略) われわれはすべて同一種類の自己複製子、すなわちDNAとよばれる分子のための生存機械であるが、世界には種々さまざまな生活のしかたがあり、自己複製子は多種多様な機械を築いて、それらを利用している。サルは樹上で遺伝しを維持する機械であり、魚は水中で遺伝子を維持する機械である。

 ここで、「生存機械」とよばれるものは、「身体メディア」と呼び変えてもいいのではないかと思う。遺伝子(DNA)が記号であるとすれば、遺伝子記号にとって、「生存機械」は、その「乗り物」にすぎないからである。

 DNA分子という記号は、さまざまな働きをしている。

DNA分子は二つの重要なことをおこなっている。その一つは複製である。つまり、DNA分子は自らのコピーをつくる。人間は、おとなでは10の15乗個の細胞からできているが、はじめて胎内に宿ったときには、設計図のマスター・コピー一つを受け取った。たった一個の細胞である。この細胞は二つに分裂し、その二つの細胞はそれぞれもとの細胞の設計図のコピーを受け取った、さらに分裂が続き、細胞数は、4,8,16,32と増えていき、数兆になった。(中略)ここで、DNAのおこなっている第二の重要なことへと話が移る。DNAは別の種類の分子であるタンパク質の製造を間接的に支配している、4文字のヌクレオチド・アルファベットで書かれた、暗号化されたDNAのメッセージは、単純な機械的な方法で別のアルファベットに翻訳される。それは、タンパク質分子をつづっているアミノ酸のアルファベットである。(P.46)

 DNA遺伝子記号は、さらに複雑で専門分化した身体メディア、すなわち、目や耳、口、手などの器官を作り出すことにも成功した。その結果、人間をはじめとする生物は、外部の環境との間でさまざまな情報をやりとりしたり情報処理する能力をもつに至ったと考えることができる。それでは、DNA遺伝子は、なぜ「利己的」とよばれるのだろうか?

個々の細部にとらわれずに、あらゆるすぐれた(つまり長命の)遺伝子に共通するなんらかの普遍的な特性を考えることができるだろうか?こうした普遍的な特性はいくつかあるかもしれないが、この本にとくに関係のふかい特性がある。すなわち、遺伝子レベルでは、利他主義は悪であり、利己主義が善である。利己主義と利他主義のわれわれの定義からしてこうなることは避けられない。遺伝子は生存中その対立遺伝子と直接競い合っている。遺伝子プール内の対立遺伝子は、未来の世代の染色体上の位置に関するライバルだからである。対立遺伝子の犠牲のうえに遺伝子プール内で自己の生存のチャンスをふやすようにふるまう遺伝子は、どれも、その定義からして、生きのびる傾向がある。遺伝子は利己主義の基本単位なのだ。(p.65)

4 遺伝子機械

 メディアとしての身体を考えるとき重要なのは、「脳神経系」だろう。生物が情報伝達、情報処理を行う器官だからだ。これについて、ドーキンスはどのように説明しているだろうか。

 生物コンピュータの基本単位である神経細胞、すなわちニューロンは、その内部作用がトランジスターとはすこしも似ていない。たしかに、ニューロンからニューロンへ伝えられる信号はディジタル型コンピュータのパルス信号といくぶん似ているように思われる。だが、個々のニューロンには、他の成分との連絡がわずか3つではなく、数万もついている。ニューロンはトランジスターよりも情報処理のスピードは遅いが、過去20年間エレクトロニクス業界が追求してきた小型化という点では、はるかに進んでいる。これは、人間の脳には数十億のニューロンがあるが、一個の頭骨にはわずか数百個のトランジスターしか詰め込めないことを考えれば、よくわかる。

 神経系は現代社会でいえば、電話ケーブルなどの情報通信ネットワークに相当するが、生物の場合は、ニューロンという細胞を基本単位としている。その集合体が、神経ネットワークとなって、行動の場合には、筋収縮の制御・調整を司っているのである。それが、生物の生存にとって不可欠なものであることはいうまでもない。

 脳が生存機械の成功に貢献する方法として重要なものに、筋収縮の制御・調整がある。脳がこれをおこなうには、筋肉に通じるケーブルが必要である。それが運動神経である。しかし、筋収縮の制御・調整が遺伝子の保存につながるのは、筋収縮のタイミングが外界のできごとのタイミングとなんらかの関係があるときだけである。

 それでは、生物相互間のコミュニケーションというのは、遺伝子進化論の立場からは、どのように説明されるだろうか。ドーキンスは次のように言う。

 ある生存機械が別の生存機械の行動ないし神経系の状態に影響を及ぼすとき、その生存機械はその相手とコミュニケーションしたということができよう。影響というのは、直接の因果的影響をさす。コミュニケーションの例は無数にある。鳥やカエルやコオロギの鳴き声、イヌの尾を振る動作や毛を逆立てる行動、チンパンジーの歯をむき出すしぐさ、人間の身ぶりやことばなど、生存機械の数々の動作は、他の生存機械の行動に影響をおよぼすことによって間接的に自分の遺伝子の繁栄をうながす。動物たちはこのコミュニケーションを効果的にするために骨身を惜しまない。

 こうしたコミュニケーションは、情報を伝える働きをしている、とドーキンスは述べている。

 望むならば(ほんとうは必要ないのだが)、この鳴き声をある意味をもったもの、つまり情報(この場合には「迷子になったよ」という情報)を伝えるものと考えることができる。この情報を受け取りそれに従って行動する動物は利益をうける。したがって、この情報は真実だといえる。(中略) 動物のコミュニケーション信号はもともと互いの利益をはぐくむために進化したものであって、その後意地の悪い連中にあくようされるようになったのだと信じるのも、やはり単純すぎる。動物のあらゆるコミュニケーションには、そもそも最初からだますという要素が含まれているのではなかろうか。なぜなら、動物のすべての相互作用には少なくともなんらかの利害衝突が含まれているからだ。

 さて、以下の数章はとばして、次に、「ミーム」という、ドーキンスが発明した概念についての説明をみることにしよう。これは、人間の文化という特異な特性を扱ったものであり、人間というメディアに特有の記号単位(遺伝子)をあらわす概念だからである。

11 ミーム - 新登場の自己複製子 -

 人間をめぐる特異性は、「文化」という一つの言葉にほぼようやくできる。もちろん、私は、この言葉を通俗的な意味でではなく、科学者が用いる際の意味で使用しているのだ。基本的には保守的でありながら、ある種の進化を生じうる点で、文化的伝達は遺伝的伝達と類似している。(中略) 言語は、非遺伝的な手段によって「進化」するように思われ、しかも、その速度は、遺伝的進化より格段に速いのである。
 言語は、その多くの側面にすぎない。衣服や食物の様式、儀式・習慣、芸術/建築、技術・工芸、これらすべては、歴史を通じてあたかもきわめて速度の速い遺伝的進化のような様式で進化するが、もちろん実際には遺伝的進化などとはまったく関係がない。(p.303)

 そこで、このような別種の「遺伝子」を、ドーキンスは「ミーム」と名づけたのである。

 (DNAとは)別種の自己複製子と、その必然的産物である別種の進化を見つけるためには、はるか遠方jの世界へ出かける必要はあるのだろうか。私の考えるところでは、新種の自己複製子が最近まさにこの惑星上に登場しているのである。(中略) 新登場の(遺伝子)スープは、人間の文化というスープである。新登場の自己複製子にも名前が必要だ。文化伝達の単位、あるいは模倣の単位という概念を伝える名詞である。模倣に相当するギリシア語の語根をとれば<mimeme>ということになるが、私のほしいのは、<ジーン(遺伝子)>という言葉と発音の似ている単音節の単語だ。そこで、上記のギリシア語の語根を<ミーム(meme)>と縮めてしまうことにする。

 こうして、かの有名な「ミーム」という言葉が登場したのである。 それでは、ミームとは具体的にどのようなものであり、どのような働きをするのだろうか。これについて、ドーキンスは次のように解説している。

 楽曲や、思想、標語、衣服の様式、壺の作り方、あるいはアーチの建造法などはいずれもミームの例である。精子や卵子を担体として体から体へと飛びまわるのと同様に、ミームがミームプール内で繁殖する際には、広い意味で模倣と呼びうる過程を媒介として、脳から脳へと渡り歩くのである。
 広義の意味での模倣が、ミームの自己複製を可能にする手段である。しかし自己複製しうる遺伝子のすべてが成功を収めることができるわけではないのとまったく同様に、一部のミームはミーム・プール中で他のミーム以上の成功を収める。これは自然淘汰と相似な過程である。ミームに生存値を付与するような特性については、すでにいくつか特殊な例をあげた。しかし、一般化して考えると、、その特性は、第二章で自己複製子に関して論じられたものと同じものになるはずである。すなわち、寿命、多産性、そして複製の正確さの三つである。ミームのコピーが示す寿命は、遺伝子の場合に比べると、さほど重要ではなさそうだ。私の頭の中にある楽曲の旋律は、私の余命の間しか生きながらえないだろう。しかし、それでも、同じ旋律のコピーは、紙に印刷され、人々の頭に刻まれて、今後幾百年にもわたって存在し続けるだろうと私は考えている。遺伝子の場合と同様、ここでも特定のコピーの寿命より、多産性のほうがはるかに重要なのである。歌謡曲というミームの場合、ミーム・プールの中での繁殖の程度は、その曲を口笛でふきながら町をゆく人の数で測れるかもしれない。
 続いて、自己複製子が成功するための第三の一般的性質、すなわり複製の正確さの問題がある。この点に関して私は、私の議論の土台がやや頼りないことを認めねばならない。一見したところ、ミームという自己複製子は、複製上の高度の正確さをまったく欠いているように見えるからである。

 最後の部分については、近年のデジタル化革命によって、ミームの複製も、いっそう正確に行われるようになている、という解釈をつけ加えておきたい。ミームは、脳内でつくられ、伝播すると考えられる。

人間の脳は、ミームの住みつくコンピュータである。そこでは、時間が、おそらくは貯蔵容量より重要な制限要因となっており、激しい競争の大勝となっていよう。人間の脳と、その制御下にある体は、同時に一つあるいは数種類以上の仕事をこなすわけにはゆかないからである。あるミームがある人間の脳の注目を独占しているとすれば、「ライバル」のミームが犠牲になあっているに違いないのである。ミームが競争の対象とする必需品は他にもある、たとえば、ラジオ、テレビの放送時間、掲示板のスペース、新聞記事の長さ、そして図書館の棚のスペース等々。

 少々引用が長くなったが、これでミームという「文化的遺伝子」のもつ重要性、意義がおわかりいただけたかと思う。そして、ミームの伝播において、人間の外部にあるさまざまなメディアが重要な役割を果たしているのである。インターネット時代の今日、ミームが広がる場は、大幅に拡張され、また多様化しつつあるということができるだろう。

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