本論文の目的は、過去50年にわたる研究生活を振り返り、特にメディア効果論に関わる実証的研究に、私自身がどのような問題意識をもって取り組んできたかという視点から回顧的に総括することにある。私自身は特定のメディア効果論だけを専門的に研究してきたわけではなく、複数のメディア効果論の研究に積極的に関わり、日本におけるメディア効果論の発展に一定の貢献をすることができたのではないかと考えている。ただし、当然のことながら、すべての効果論に関わったわけではないので、以下の総括的議論も、メディア効果論の包括的なレビューになっているわけではなく、私自身が特に深い思い入れをもって取り組んできた理論に限定したことをあらかじめお断りしたいと思う。
なお、本稿は、2024年12月7日に東京大学情報学環大学院関谷直也ゼミで予定されている勉強会のために準備したものである。
著者:三上俊治(東洋大学名誉教授)
メディア・コミュニケーション論、社会心理学
第1部 強力効果論 VS 限定効果論
メディア効果論は、その最初から、「認知面の効果」「行動面の効果」という2つの軸で展開していたことに注目する必要がある。その出発点はリップマンの「世論」とキャントリルの「火星からの侵入」に見出される。すなわち、認知面では「擬似環境」(環境イメージの形成、小文字の世論)「ステレオタイプ」、行動面では「大文字の世論」「プロパガンダ」「パニック」という視点から論じられていた。
ただし、リップマンに欠けていた視点が一つあった。それは、オーディエンス(大衆)が本来持つ「情報リテラシー」である。そのことをデューイは同時代にあって鋭く批判していた。また、「火星人襲来パニック」を研究したHerzogが、いち早く「批判能力」の発揮という視点から証明した。現在では、フェイクニュースに対する「情報リテラシー」の必要性という形で、多くの研究者が指摘するところである。「認知バイアス」の検知と克服においても、情報リテラシーが重要な役割を発揮するであろう。
もう一つ大切な視点は、メディア効果論の歴史の中で、それぞれの創始者が「どのような思い」で新しい理論をつくりあげたのか、という背景や経歴を常に考えてみるということである。例えば、リップマンの場合は、ジャーナリストやPR専門家としての活動、経歴、背景を知ること、LazarsfeldやHerzogの場合は、実証的な社会調査の手法を開発、推進したという経歴である。Gerbnerもまた、ジャーナリストという経歴を経て、培養理論を構想したという経歴があった。
メディア効果論の歴史的展開は、それぞれの理論が登場する「時代背景」「メディア環境」「研究者の経歴」という3つの大きな背景から必然的に生まれたことを忘れてはならない。
- 「余震情報パニック」から始まった筆者のメディア効果研究
- 「火星からの侵入」事件の調査と再評価
- マートン「大衆説得」
- 「24時間テレビ」の効果分析(三上, 1987)
- 限定効果説の実像
- 限定効果論を代表する3つの研究
- 「利用と満足」研究の展開:能動的オーディエンス像の検証
- マスメディアの現実構成機能
- 培養理論
- マスメディアの議題設定機能
「余震情報パニック」から始まった筆者のメディア効果研究
私にとってのメディア効果論研究は、1978年1月18日に起こった「余震情報パニック」事件に始まったと言ってもいいだろう。1月19日の朝、満員の小田急線に乗っていた私は、読売新聞朝刊1面の「余震情報でパニック」という大見出しを見てびっくりし、「これこそ私が今研究すべきテーマだ」と直感した。早速、新聞研の大学院同級生の水野博介さん(現・埼玉大学名誉教授)と連絡をとり、一緒に研究することで合意した。すぐに、地震予知研究会代表の岡部慶三教授の研究室に行き、ぜひ研究会として調査研究したいと申し出たのだった。
岡部教授はこの提案に全面的に賛同してくださり、「調査費用については任せておけ」とおっしゃり、こうして、新聞研究所チームによる余震情報調査プロジェクト(「地震と情報」研究班)がスタートしたのだった。
ちょうど同じ頃、民間シンクタンクの未来工学研究所でも、吉井博明主任研究員をリーダーとして、静岡県協力の下、余震情報調査研究の準備が進められていた。そこで、両者がバッティングすることは好ましくないと言うことで、両者の間で研究の調整が行われ、筆者ら新聞研のチームが未来研の調査員として協力する代わりに、静岡県沼津市、下田市における新聞研の調査研究は東大新聞研チームが独自に実施、発表することになった。このような分業の結果、静岡県の発表した余震情報がどのようなルートを経て「地震予知情報ないし警報」という流言に変容していったのか、という「地震警報流言」調査の全容は未来研が発表し、余震情報に対する住民の反応を中心とする調査結果は、新聞研が独自に発表することになったのである。
メディア効果論に関わる実証研究は、新聞研チームの沼津調査、下田調査において実施されることになり、これが実際にはメディア効果論の領域で大きな成果を生むことになったのである。
当初は、新聞で大きく報道されたこともあり、「余震情報によって住民の間に大きなパニックが起こった」と信じられていた。しかし、我々が行った調査の結果、実際にはパニックはほとんど起こっていなかったことが明らかになった。また、キャントリルが「火星からの侵入」で明らかにした、住民の「批判能力」(情報確認行動)が余震情報パニックでもはっきりと確認された。これは、メディアの「強力効果」という神話を根本から突き崩すものであった。
以下、「余震情報パニック」沼津調査、下田調査で明らかになったことを述べる。
1. 余震情報発表、伝達の経緯
1978年1月14日に伊豆大島近海地震(M7.0)が発生したが、その4日後の1月18日に、静岡県災害対策本部より、最悪の場合、M6程度の余震が起きる可能性があるという「余震情報」が発表された。この余震情報は、同日1時30分に、災害対策本部より防災行政無線を通じて、県下市町村に伝えられた。また、午後1時40分には災害対策本部長の山本県知事が記者会見して余震情報を発表し、静岡放送(SBS)では午後2時17分に、テレビとラジオでニュース速報を流した。さらに、午後2時頃に、静岡県災害対策本部より県消防防災課を経由して、プロパンガス協会など民間事業者団体の電話連絡網を通じて、余震情報が県の全域に伝えられた。このうち、事業者団体のルートから伝えられた余震情報は、伝達過程で「2〜4時間以内に震度6の大地震が起きる」などの「地震予知情報」ないし「地震警報」の流言となって、わずか数時間のうちに一般住民の間に広がることになった。
2. 「余震情報パニック」報道の実態
翌1月19日、主要全国紙と地元静岡県の新聞は、いっせいに「余震情報でパニックが生じた」と報じた。例えば、読売新聞は朝刊の1面トップで「余震情報」でパニック / テレビ速報→デマ走る / 住民が避難騒ぎ、という見出しで次のように伝えた。
(1978年1月19日『読売新聞』朝刊1面)
(1978年1月19日『朝日新聞』朝刊社会面)
読売新聞は、朝刊の1面トップで次のような記事を掲載した。
「余震情報」が地元民間放送のテレビのテロップや関係市町村の広報車、有線放送で流されたため、住民の不安心理が増幅され、「2時間以内に大地震が起きる」というデマ津波となって広がり、県や各市町村の災害対策本部や警察に問い合わせの電話が殺到、被災地の河津町などでは住民が一斉に外へ飛び出して避難するというパニック状態となった。騒ぎは夕方には収まったが、「余震情報」でパニックが起きたのは、初めてである。
また23面には、次のような関連記事を掲載した。
18日午後、静岡県災害対策本部が流した「余震情報」は、地震におびえていた地元の伊豆半島中南部ばかりか、県内の他市町村の住民まで騒ぎに巻き込んだ。県の災害対策本部、県警本部、国鉄静岡鉄道管理局は、すさまじい問い合わせの電話ラッシュ。被災地の河津町では家財道具を持ってどっと避難するなど、初の余震情報が不安と誤解をからませて、巨大なパニックに膨れ上がった。
河津町谷津、峰地区などでは、住民が家財道具を自動車に積んで広場やたんぼに避難、下田信用金庫河津支店では、午後2時過ぎ閉店した。町の中央にあるスーパーは、客も店員も避難して、店内はもぬけのカラ。ほとんどの住民が家を飛び出して毛布や食糧を手に右往左往するばかり。
他の新聞も似たり寄ったりで、余震情報が住民の間にパニックを引き起こしたという内容の記事がほとんどだった。こうした報道は、約40年前にアメリカでオーソン・ウェルズ演出によるラジオ・ドラマが「火星人来襲 (Invasion from Mars)」という虚報となって全米をパニック状態に陥れたと報じられた事件を彷彿とさせるものであった。筆者が思い浮かべたのもこの出来事であり、ぜひ調査したいと考えた理由も、その共通性にあったのである。
3. 沼津、下田市民調査の概要
沼津と下田を調査対象地にしたのは、未来工学研究所との間で取り決めた役割分担の結果であり、それ以上の意味はない。
調査方法:
1. 1978年1月に実施した世帯留置調査
沼津市 | 下田市 | |
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調査方法 | 調査票個別配布 | 郵送回収 |
調査対象 | 香貫地区の200世帯 | 旧市街地区の300世帯 |
調査票配布時期 | 1978年1月24日 | 1978年1月23日 |
調査票回収数 | 97 | 162 |
回収率 | 48.5% | 54.0% |
2. 1978年002月に実施した個人面接調査
調査時期 | 1978年2月10日〜19日 |
---|---|
調査対象者 | 沼津市香貫地区の5自治会区に在住する全世帯の主婦またはそれに準ずる者714名 |
調査方法 | 個人面接法 |
有効回収数 | 520(回収率72.8%) |
4. パニック反応の有無
「余震情報パニック」騒ぎがあった直後に沼津市及び下田市で実施した住民調査の結果は、マスコミ各社の報道とは全く異なるものであった。筆者らの調査チームが事件直後に、静岡県に入って、住民への聞き取り調査を行った結果を見ると、当日、情報を聞いてパニック状態に陥ったことを示す事例はほとんど見つからなかった。また、余震情報や地震予知流言に接触した住民の対応行動についてアンケート調査を実施したところ、「パニック」状態に陥って、適切な対応行動がとれなかったと思われる「混乱(状態)」にあった人は、下田と沼津でそれぞれ1人いたにすぎないことがわかった。多くの人は、「食料や水などを準備した」など避難準備をしたという程度にとどまっていた。実際に避難したという人も、下田で3人いただけだった。このように、行動レベルでパニックやそれに近い極端な行動をとった人はほとんどいなかった。これらは、社会学者N.スメルサーの定義する「ヒステリー的信念に基づく集合的逃走」とは程遠いものだった。
「火星からの侵入」事件の調査と再評価
1. 事件の概要
「余震情報パニック」報道で想起した40年前の「火星人襲来パニック」は、マスコミの「強大効果」の証拠として、メディア効果論において、しばしば言及されてきた。
1938年10月30日(日)午後8時、アメリカ3大ネットワークの一つ、CBSラジオでは、毎週恒例の「マーキュリー劇場」の放送が始まった。今回は、H.G.Wells原作の『宇宙戦争』(The War of the Worlds)のラジオドラマ脚色版を取り上げることになっていた。 しかし、この脚色は、ハロウィーン前夜にふさわしい、一風変わったストーリーに仕立てられていた。通常の番組にみせかけて、音楽や天気予報を流している間に、「臨時ニュース」を流し、あたかも火星人が地球に来襲し、アメリカ中心部に攻め込んできたかのような、実況中継を繰り返し流すという趣向のドラマだったのである。 主演および演出を務めたのは、当時23歳、売りだし中の若きオーソン・ウェルズ(Orson Welles)であった。
番組の冒頭、ウェルズはおごそかな口調で次のようなセリフから始めた。「20世紀前半の今日、われわれの世界は人類よりも頭脳明晰な生命から監視されているのです」(We know now that in the early years of the twentieth century this world was being watched closely by intelligences greater than man's and yet as mortal as his own.)。続いて、ドラマが始まるのだが、それは通常のラジオ番組のような雰囲気であった。天気予報が読み上げられたあと、アナウンサーが「それではみなさんをニューヨークのダウンタウンにあるホテル・パークプラザのメリディアン・ルームにご案内します。Ramon Raquelloと彼のオーケストラをお楽しみいただきましょう」と語りかけた。 しばらく後、通常の番組とは違った臨時ニュースが挿入された。「みなさん、ここでダンス音楽を中断して、「インターコンチネンタルラジオニュース(Intercontinental Radio News)からの臨時ニュースをお伝えします。8時20分前、イリノイ州シカゴにあるジェニングス山天文台のファレル教授が、火星で高温ガスが連続的に爆発しているとのレポートを発表しました」。このあと、番組はもとのダンス音楽の演奏に戻った。 その後、音楽はしばしば臨時ニュースによって中断されるようになり、火星の異常現象についての最新情報が次々と放送された。ニュースレポートは、プリンストン天文台に移り、「カール・フィリップ記者」が「リチャード・ピアソン教授」と、不可思議な天文学上の異常現象について語り合った。通常番組に戻ってからしばらくして、再び「インターコンチネンタルラジオニュース」が入り、アナウンサーがこう告げた。「みなさん、最新ニュースをお伝えします。午後8時50分、ニュージャージー州トレントンから22キロ離れたグローヴァーズミル(Grover's Mill)近郊の農場に、隕石と思われる巨大な燃える物体が落下しました。・・・」(Ladies and gentlemen, here is the latest bulletin from the Intercontinental Radio News. Toronto, Canada: Professor Morse of Macmillan University reports observing a total of three explosions on the planet Mars, between the hours of 7:45 p.m. and 9:20 p.m., eastern standard time. This confirms earlier reports received from American observatories. Now, nearer home, comes a special announcement from Trenton, New Jersey. It is reported that at 8:50 p.m. a huge, flaming object, believed to be a meteorite, fell on a farm in the neighborhood of Grovers Mill, New Jersey, twenty-two miles from Trenton) 再び通常の音楽が続いたあと、隕石墜落現場からの臨時ニュースが入ってきた。「隕石」と思われた物体は、「金属製の円筒型物体」と分かり、アナウンサーは、この金属物体から巨大な足が伸び、中から火星人と思われる異様な生物が現れ、光線銃から火炎放射を浴びせ始め、これに抵抗する人々を殺戮する様子を、効果音などを使って、緊迫感をもって伝えた。さらに、グローヴァーズミルの現場(ウィルマス農場)付近で、州兵6名を含む少なくとも40名が死亡したと伝え、さらなる惨事を次々に伝え続けた。「臨時ニュース」はますますエスカレートしていった。現場のアナウンサーは、ついに火星人の来襲を告げる。
火星からの侵入者は、次第にニューヨークへと向かい、多数の金属円筒型兵器が地上に落下し、米軍の攻撃を退けて、ニュージャージーだけではなく、バッファローやシカゴ、セントルイスなどにも進攻していることが報告された。火星人と州兵の激しい戦闘状況が、刻々と緊迫感をもって伝えられた。 この頃には、番組をドラマではなく、実際の臨時ニュースと勘違いした少なからぬリスナーが、これに驚き、車で避難したり、なかには自殺をはかった者もいたという。この放送の反響について、のちに詳しい実態調査を行ったキャントリルは、次のように表現している。
この放送が終了するずっと前から、合衆国中の人びとは、狂ったように祈ったり、泣き叫んだり、火星人による死から逃れようと逃げ惑ったりしていた。ある者は愛する者を救おうと駆け出し、ある人びとは電話で別れを告げたり、危険を知らせたりしていた。近所の人びとに知らせたり、新聞社や放送局から情報を得ようとしたり、救急車や警察のクルマを呼んだりしていた人びともあった。少なくとも6百万人がこの報道を聞き、そのなかで少なくとも百万人がおびえたり、不安に陥ったりしていた。(『火星からの侵入』邦訳47ページ)
LONG before the broadcast had ended, people all over the United States were praying, crying, fleeing frantically to escape death from the Mar-tians. Some ran to rescue loved ones. Others telephoned farewells or warnings, hurried to inform neighbors, sought information from newspapers or radio stations, summoned ambulances and police cars. At least six million people heard the broadcast. At least a million of them were frightened or disturbed. (The Invasion from Mars, p.47)
しかし、キャントリルによるこの表現は、かなり誇張したもので、ラジオドラマの及ぼした影響は、後述するように、パニックとはかけ離れたものだった。詳しくは、三上(2017)、佐藤 (2019)などを参考のこと。
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「火星からの侵入:パニックの社会心理学」再考 - ITと共生する、デジタルシニア
今年も、ハロウィーンが近づいてきました。今から81年前のハロウィーン前夜にアメリカで起こった「パニック」騒ぎについての考察です。この記事は、2014年11月8日に、「メディア・リサーチ」ブログに掲載し
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2. 新聞による「パニック」報道
翌日(10月31日)の新聞各紙は、CBSラジオドラマが引き起こした「パニック」について、センセーショナルに報道した。
たとえば、『ニューヨーク・タイムズ』紙は、翌日の朝刊で、「Radio Listeners in Panic,Taking War Drama as Fact (ラジオ聴取者がパニックに:戦争ドラマを事実と勘違いして)」と題して、1面で大きく伝えた。
「昨夜午後8時15分から9時30分の間に、H.G.WellesのSF小説『宇宙戦争』のドラマ化が放送されたとき、何千人ものラジオ聴取者がマス・ヒステリー状態に陥った。何千人もの人々が、侵略した火星人との宇宙間戦争に巻き込まれ、彼らのまき散らす致死性ガスでニュージャージー州とニューヨークを破壊しつくしていると信じた。 家庭を混乱に陥れ、宗教礼拝を妨げ、交通渋滞を引き起こし、通信障害を招いたこの番組は、オーソン・ウェルズによって制作されたものである。今回の放送によって、少なくとも数十名の成人がショックとヒステリー症状で治療を受けることになった。 ニューアークでは、20以上の家族がウェットハンカチとタオルを顔にかけて家を飛び出し、毒ガス攻撃を受けたと思い込んだ地域から逃亡をはかった。家事道具を持ちだした者もいた。ニューヨーク中で多くの家族が家を後にし、近くの公園に避難した者もいた。数千人が警察や新聞社やラジオ局に電話をかけ、アメリカの他の都市やカナダでも、ガス攻撃への対策にアドバイスを求める人々が相次いだ。」
しかし、アメリカの新聞各社は、主にAP通信の伝える誇張された内容の報道を後追いしたもので、十分な取材をもとに製作してされたものではなかった。アメリカン大学教授のCambellは、全米の新聞36紙を詳細に分析した結果、「放送が大規模なパニックやヒステリーを引き起こしたとする主張は大きく誇張されていたことを発見した。新聞が広範なパニックやヒステリーとして描写していたものが、実際にはごく少数の、恐怖や動揺を感じた人々に関する逸話的なケースに基づいていることが明らかになった。これらの逸話は大規模なものではなく、個人やその家族、隣人の間で見られた興奮や奇妙な行動について述べものにすぎなかった。
Cambellによる分析の結果をまとめると、「パニック報道」の実態は、次のようなものだった(Cambell, 2017)。
- 「パニック」を煽るような新聞報道は、当時新興メディアとして広告の競争相手だったラジオを叩くための絶好の機会だと捉えた新聞業界の対抗策だった。そのために、新聞はラジオドラマが引き起こした「パニック」を誇張して報道したのである。
- ラジオドラマの舞台となったニューヨーク大都市圏やニュージャージー北部では、番組への反応が最も顕著だったため、多くの小規模な記録が新聞に掲載されたが、それらを合わせても、数万人または数十万人のリスナーが恐怖に陥ったりパニック状態になったという主張を裏付けるような記事ではなかった。
- その夜に大規模なパニックやヒステリーがなかったことは、続報が少なかったことによっても示唆されている。もし本当に全国的なパニックやヒステリーが発生していたなら、その後数日、さらには数週間にわたって、この異例な出来事の規模や影響についての詳細な報道が行われたはずである。しかし、ほとんどの新聞では、放送後1日か2日で報道は終息してしまった。ニューヨーク・タイムズ、ワシントン・ポスト、ロサンゼルス・タイムズなどの大新聞も、放送後2日間一面で取り上げただけだった。
- ニューヨークでは、「パニック」が最も詳細に報じられたが、個別的な事例を取り上げたにとどまり、全国的にパニックが広がったという証拠には言及されていなかった。例えば、タイムズの報道では、ブロンクスのルイス・ウィンクラーのような恐怖に陥った人々の個別のエピソードが強調されており、彼は番組を聴きながら「ほとんど心臓発作を起こしかけた」と語っていた。ショックを受けたものの、ウィンクラーは「他の多くの人と共に通りに飛び出し、あらゆる方向に人々が走っているのを見た」と述べた。また、ニューヨークの対岸にあるジャージーシティーの警察に「ガスマスクを分けてもらえないか」と問い合わせた人がいたことも報じられた。さらにタイムズは、マンハッタン北端のワシントンハイツの警察署に「敵の飛行機がハドソン川を越えている」と叫びながら駆け込んできた「恐怖で真っ白になった男」の話も伝えられた。一方で、同じ地域では、通りの角に集まって「空の『戦闘』を見ようと」期待する人々の集まりも報じられ、好奇心がパニックを上回っていた様子も伺えた。ニューヨークの警察署に通報してきた何人かは、「爆弾の煙が街に漂ってくるのを見た」と主張していた。ニューアークのスター・イーグル紙は「戦争の恐怖が全国、特にニュージャージー州の数十万人に襲いかかった」と放送について伝えたが、この大々的な主張を裏付ける証拠として、数人以上が関わった具体的な事例はわずか6件ほどしか挙げていなかった。
- 「宇宙戦争」ドラマがが放送されたのは東部標準時の日曜夜遅くで、ほとんどの新聞社の編集室にはスタッフが少ない時間帯だった。特に締め切りが深夜に設定されている朝刊に間に合うように放送の反応を取材することは、新聞社にとっては大きな問題だった。時間と人員が限られているため、多くの新聞社ではAP通信などの通信社に頼ることが不可欠となった。この依存がAP通信社から配信された広範なパニックの概念を広め、強化する結果となったのである。その夜のAP通信の報道は、基本的に全米各地のAP支局から集めた反応をまとめたものだった。通常、これらのまとめ記事は、詳細や深みよりも、各地からの簡潔で印象的な逸話的な報告に重きを置いていた。これらの逸話は概して簡略で浅薄、そして小規模なものだったものの、その広範な取り上げ方がその夜にパニックが広がっていたかのような印象を与えた。新聞が通信社のまとめ記事に依存していたため、放送が大規模なパニックを引き起こしたという共通認識が生まれたのである。
3. Cantrilらによる調査研究
ラジオドラマの「現場」からほど近くにある、プリンストン大学では、1937年からロックフェラー財団の助成により、Paul Lazarsfeldを主任とし、Frank StantonおよびHadley Cantrilを副主任として「ラジオ研究施設」が設立され、ラジオが聴取者に果たす役割についての調査研究が行われていた。この「ラジオ・パニック」事件は、当時ニューメディアであったラジオの及ぼす影響力を研究するための絶好のテーマと受け取られ、プリンストン・ラジオ・プロジェクトの一環として、キャントリルを中心に研究を進めることが決まった。その裏には、研究の影の推進役となったLazarsfeldの存在があったといわれる。
調査研究は、Cantrilを中心に行われ、1940年に、『火星からの侵入?パニックの心理学に関する研究』(The Invasion from Mars : A Study in the Psychology of Panic)として出版され、大きな反響を呼んだ(Cantril, 。ある意味で、オーソン・ウェルズの『火星からの侵入』ラジオ放送が全米にパニックを引き起こしたとする「通説」は、翌日の新聞でセンセーショナルに伝えられたが、Cantrilらの調査研究によってデータ的な裏付けを与えられ、定着したといえるかもしれない。
4. 世論調査からみたパニックの有無
しかし、このラジオ放送は本当に全米に一大パニックを引き起こしたのだろうか?これについては、『火星からの侵入』で強調されたキャントリルらの知見とは違って、パニックは起きていなかったとする有力なデータがある。
1) どのくらいの人がラジオ放送を聞いていたか?
キャントリル『火星からの侵入』では、放送の6週間後に実施された米国世論調査所(AIPO)の全国調査での「あなたはオーソン・ウェルズの火星からの侵入という番組を聞きましたか?」という質問に対して、「はい」と答えた人が12%いたことから、この数字をもって、番組の聴取率としている。しかし、事件から6週間後というと、アメリカ人のほとんどがパニック騒ぎについて知っていたと推定されるから、実際よりもかなり多くの人が「放送を聞いた」と誤認していたとしても不思議ではない。実際、放送が行われた夜、C.E.フーパーのレーティングサービスが5,000世帯に電話をかけて全国的な視聴率調査を行っているが、「どの番組を聞いていますか?」という質問に対し、「ドラマ」や「オーソン・ウェルズの番組」、またはCBSの番組と答えた人は、わずか2%にすぎなかった。言い換えれば、調査対象の98%は、他の番組を聞いていたか、あるいは何も聞いていなかったのである。このように視聴率がわずか2%と低かったのは不思議ではない。ウェルズの番組は、当時最も人気のあった全国番組の一つ、腹話術師エドガー・バーゲンの「チェイス・アンド・サンボーン・アワー」というコメディバラエティ番組と同じ時間帯に放送されていたからである。(Pooley and Socolow, 2013)。
1930年の国勢調査によると、当時のアメリカの成人人口は約7500万人だったので、視聴率2%というのは、150万人に相当する。
2)どのくらいの人がパニック状態になったか?
それでは、Wellsの放送を聞いた150万人のうち、どれくらいがこれを本当のニュースと勘違いしたのだろうか?同じくAIPOの調査で「あなたが番組を聴いた時、この放送が単なるラジオドラマだと思ったか、それとも実際のニュース放送だと思ったか?」という質問に対しては、28%が「ニュースだと思った」と答えていた。これは数字に直すと、42万人に相当する。キャントリルの著書では、ニュースだと思った人のうち70%(約29万人)が「恐怖に駆られて、狼狽した」と答えたことになっているが、これは、心理的反応の一つであり、逃走行動を伴う「パニック」とは明らかに異なっている。実際にパニック的な逃走反応を示した人は、29万人の中のごく一部に過ぎなかったと推測されるのである。
Cantrilの『火星からの侵入』の第2章「パニックの性質と範囲」では、新聞報道と調査チームの収集した市民の反応を、エピソード的に紹介している。そのほとんどは、パニック状態で逃げ出したり、家族を守ろうとする行動をとった極端なケースであった。次の証言は、その典型的なものである。
ジョスリン夫人は大都市のスラム街に住み、その夫は日雇い労働者だが、次のように語った。「私はとても恐ろしかった。荷物をまとめて、子供を抱き抱えて、友達に声をかけ、自動車に乗り込み、できる限り北に向かおうとしました。でも、私が実際にしたことといえば、窓辺に座って、祈り、神の言葉に耳を傾け、恐怖で身がすくみ、夫ははなをすすり、人々が逃げ出していないか外を眺めていました。するとアナウンサーが『街から避難してください』と言ったので、私は駆け出して、アパートの住民に呼びかけ、子供を抱えて、階段を大慌てで降りて行きました。
このような、ごく少数の極端な証言を多数掲載することによって、Cantrilの『火星からの侵略』は、一般読者に「大規模なパニックが起きた」とする誤ったイメージを植え付けることになってしまったと思われるのである。このことが、メディア効果論の歴史において、「火星人襲来」放送の影響力に対する過大な評価を生み、いわゆる「魔法の弾丸(丸薬)」あるいは「(皮下)注射針」的な強大効果説の代表的研究事例として祭り上げられることになったと推測される。
5. 「火星からの侵略」研究におけるラザースフェルド、ヘルツォーク、ゴーデットの貢献
しかし、PooleyとSocolowが指摘するように、『火星からの侵略』報告書を生み出したプリンストン大学ラジオ研究プロジェクトは、1937年にハードレイ・キャントリルとフランク・スタントンの提案書をもとに、ロックフェラー財団の助成により設立されたラジオ研究施設だった。最初のディレクターは、スタントンがCBS に移籍したため、オーストリア出身の心理学者Paul Lazarsfeldに決まった。
1938年10月30日夜、CBSでウェルズのドラマが放送され、大きな混乱が起こったとき、当時CBSに所属していたStantonは、これがラジオ研究の絶好の機会になると直感した。
Frank Stantonと妻ルースは急いでマディソン・アベニューを走り、52丁目の角にあるCBS本社ビルへ向かった。車内のラジオで「宇宙戦争」のクライマックスを聞いた。『宇宙戦争』ドラマのクライマックスを耳にしたスタントンは、リスナーの間に興奮とパニックが広がり始めていることが、ラジオ史上最も幸運な研究機会であると気づいた。CBSの建物に到着後、スタントンは車を停め、オフィスに向かい、この番組の影響について迅速かつ正確に質問票を作成した。そして、ロックフェラー財団から資金を得ているプリンストン・ラジオ研究プロジェクトの責任者であるポール・ラザースフェルドに電話で相談し、次にジョージア州アトランタのフーパー・ホームズ社に連絡を取りました**。この会社は個別インタビューを専門としており、調査に電話だけでなく対面インタビューも行うことが可能だったのです。
Stantonは経済階層や都市・農村の居住区分といった要素に応じたサンプルの選定を慎重に行い、**翌朝には調査が開始されました**。
スタントンは、その時間の早い段階で、興奮とパニックの報道が流れ始めていることに気づき、これはラジオ史上でも最も幸運な研究機会の一つだと直感しました。CBSビルに到着すると、彼は車を停め、エレベーターでオフィスに向かい、番組の影響に関するアンケートをできる限り迅速かつ正確に作成しました。その後、Lazarsfeldに電話して短時間の相談を行い、次にジョージア州アトランタのフーパー・ホームズ社に電話しました。フーパー・ホームズ社は保険業界向けの個別インタビューを専門とし、特に電話だけに頼らない調査手法を採用していました。Stantonは、経済階層、田舎または都市部といったサンプルを慎重に選び、その他の人口統計的要素を考慮しました。翌朝にはフィールドワークが開始されました。
(Pooley and Socolow, 2017)
このフィールドワークで中心的な役割を担ったのは、Lazarsfeld、Cantril、Herzog、Godetの4人だった。なかでも、女性研究者だったHerzogとGodetは、インタビュー調査の結果を詳しく分析した結果、番組の信憑性をチェックするという「批判能力」(critical ability)がパニックを防止する上で重要な要因であることを突き止めたのだった。これは、もっぱら番組が大規模なパニックを引き起こしたとするCantrilがパニックの原因として「非暗示性」を強調したのとは対照的であった。
プリンストン・ラジオ研究プロジェクトの行った調査には、重大な問題点が含まれていた。それは、番組放送後2ヶ月間にインタビューを行った対象者135人のうち100人が、「ウェルズの放送を聞いて驚愕した」と答えた人から選ばれたということである。つまり、パニック的な反応を示した聴取者に偏ったサンプルが恣意的に選ばれた可能性が高いのである。このことは、135人の回答に基づく報告書の記述が、パニックを誇張するものになったことを裏付けている。
このように、調査サンプルに大きな偏りがあったとはいえ、HerzogやGodetが発見した、リスナーの「批判能力」の存在は、ラジオ番組が大衆にダイレクトに強大な影響力を発揮するという「注射針」あるいは「魔法の弾丸(丸薬)」モデルの代表例を提供しただけではなく、LazarsfeldやE.Katzらによる「限定効果」モデルの先駆的な業績を提示するものだったと言える。
このような再評価の背景には、『火星からの侵入』の出版と調査プロジェクトの主導権をめぐるCantrilとLazarsfeldの葛藤、「火星からの侵入」に関する新聞報道の詳細な分析、Herzogなど研究に精力的に関わった女性コミュニケーション研究者の貢献への注目など、最近のメディア史研究の成果がある(Rowland and Simonson, 2014)。
6. 批判能力とリスナーの反応
Cantrilらは、この番組の聴取者を次の4つに分類し、情報確認行動とパニック反応の関連を明らかにしようと試みた。
- 番組のなかに手がかりを見つけ出して、本当であるはずがないと考えた人びと(内在的チェックに成功したグループ)
- ドラマであることをチェックすることに成功した人びと(外在的チェックに成功したグループ)
- うまくチェックできず、ニュースだと信じつづけた人びと(チェックに失敗したグループ)
- 放送だから本当だと信じて調べようとしなかった人びと(チェックを試みなかったグループ)
この分類は主として135のインタビュー事例のもとづくものであり、一般化することは難しい。ともあれ、それぞれのグループに含まれる人びとは、どのように反応したのだろうか?
内在的チェックに成功した人びとの反応
このグループの約半数は、かれらが入手した情報をもとに、ドラマと見抜くことができた。なかには、ウェルズの『宇宙戦争』を読んでいて、それを思い出した人もいた。「・・・怪物が姿を現したとき、これはオーソン・ウェルズの番組だということが突然頭に浮かびました。そしてそれが『宇宙戦争』という番組であることを思い出したんです」。また、番組の内容自体に含まれる矛盾に気づいて、ドラマであることに気づいた人もいた。「・・・わたしはアナウンサーがニューヨークから放送しており、火星人がタイムズ・スクエアにあっているのを眺めながら、摩天楼と同じくらいの高さだといっているのを聴きました。それで十分でした。・・・ドラマに違いないと思ったんです」。
外在的チェックに成功した人びとの反応
このグループに属する人びとは、新聞のラジオ番組欄を調べたり、他のラジオ局にダイヤルを回したりして、チェックすることによって、ドラマであることを確認していた。また、友人を呼び出したりしてチェックした人もいた。「・・・本物のように聞こえましたが、WOR局にダイヤルをまわして、同じことが放送されているかどうか確かめました。そうでなかったのでつくり話だとわかりました」。
チェックに失敗した人びとの反応
このグループの人びとは、チェックを試みたものの、それがまったく信頼できるものではなかったという特徴をもっていた。もっともよく使われた方法は、窓から外をみるとか家の外に出てみるといったものであった。なかには、警察や新聞社に電話をかけた人もいた。しかし、他のラジオ局にダイヤルをまわしてみるとか、新聞のラジオ欄をみるなどの外在的チェックをとることには失敗していた。「僕らは窓から外を見ました。ワイオミング街は車でまっくろになっていました。みんな急いで逃げようとしているなど思いました」。「私はすぐに警察に電話して、何がおこっているのか聞きました。警察は、<あなたと同じことしか知りません。ラジオを続けて聞いてアナウンサーの忠告に従ってください>ていうんです。当然、電話をかけた後では前よりもいっそう恐ろしくなりました」。
チェックを試みなかった人びとの反応
このグループの半数以上は、驚きのあまりラジオを聞くのをやめて逆上して走り回ったか、麻痺状態におり言ったとしかいいようのない行動をとった。「わたしたちは聞くことに夢中で、他の中継を聞いてみようなどという考えは全く浮かびませんでした。わたしたちはこわくてしかたがなかったんです」。「あたしは天気予報のときにラジオをつけました。小さな息子といっしょでした。主人は映画に行っていましたから。わたしたちはもうだめだと思いました。子どもしっかり抱いて座りながら泣きました。こちらに向かってくると聞いたときは、もうがまんができなくなり、ラジオをとめて廊下へ走りでました。お隣の奥さんもそこで泣き叫んでいました」。 Cantrilらは、第4のグループの記述にいちばん大きなスペースを割いている。これは、なんらのチェックもせずに、パニック反応を示したグループをある意味では、パニック的反応を誇大に記述するという誤りを犯しているように思われる。そもそも、Cantrilがインタビューの対象者として選び出したのは、番組を聞いて「驚いた」という反応を示した人びとだったという点を、ここで思い出しておきたい。
批判能力の発揮
Cantrilらの研究で、その後もっとも有名になったのは、番組を聞いてパニックに陥った人びとが、総じて「批判能力」を欠いた人びとであり、それが「学歴」などのデモグラフィックな指標と結びついていたという指摘であった。その根拠となっよたデータは、主にCBSが行った調査である。データを分析した結果、「より高い教育を受けた人びとはより多くの人がこの番組をドラマであると考えた」ことがわかった、としている。また、番組をチェックしてドラマだとわかった人は、学歴の高い人に多かったという調査結果も明らかにしている。ただし、教育程度の高い人びとのすべてが冷静であったり、チェックに成功したわけではないし、教育程度の低い人びとの中にも番組がドラマであることをすぐに理解した者もいた、と注釈している。 批判能力というのは、個人が生得的にもっている心理的特性ではなく、特定の環境の影響の結果として生じたものである。批判能力を発揮させなかった条件を明らかにしなければならない、として、Cantrilは「個人的感受性」と「聴取状況」という二つの要因をあげている。 感受性とは、放送番組からの影響を受けやすくしているパーソナリティの一般的特性であり、Lazarsfeldに(1)不安定感、(2)恐怖症、(3)悩みの量、(4)自信の欠如、(5)宿命論、(6)信心深さ、(7)教会へ行く回数の7つによって測定されている。放送に対してうまく適応できた者は、暗示に対する感受性が低いという傾向がみられた。 聴取状況は、人びとの番組に対する反応に一定の影響を与えていた。第一に、他人の行動の補強的効果と他人の恐怖の感染が考えられる。親しい者から聞いたり、ラジオをつけるようにいわれた者は、驚く傾向が強くみられた。「姉さんが電話をかけてきて、あたしはすぐにおびえてしまったの。ヒザがガクガクしました」。ある場合には、ビックリした人々を目撃したり、その声をきいたりしたことが、そうでなければ比較的冷静な者の感情的緊張をまし、その結果、批判能力を低下させてしまった。「電話ボックスから出た時には、店の中はだいぶヒステリックになった人たちでいっぱいでした。僕はこわくなっていましたが、そうした人たちをみて、何か起こったのだなと確信しました」。調査データによると、他人からラジオを聞くようにいわれた人びとは、そうでない人々よりも非合理的な行動をとる率が高いという傾向がみられた。また、CBSの全国調査の結果をみると、ニュージャージーのグローバーズミルの「現場」から離れている人ほど、驚きの程、度が低くなっていた。 このように、一般に、「批判能力」だけではパニック状態に陥るのを防ぐことはできず、個人のもつ感受性や異常な聴取状況が批判能力を低下させることがあることも明らかにされている。
マートン「大衆説得」
Mertonとマス・コミュニケーション研究
Tarcott Parsonsと並んで、構造機能主義社会学の大御所といわれた、Robert Merton。彼は一時期、マス・コミュニケーション研究にも手を染めていたことがある。初期のマスメディア効果論の代表作の一つ『大衆説得』(Mass Persuasion)は、Mertonが主導して行った調査研究であった。その過程では、Paul Lazarsfeldが深くかかわっていた。
Mertonとマス・コミュニケーション研究の関わりは、戦時中の一時期に限られている。そのきっかけは、1941年に彼がコロンビア大学に籍を置くようになり、Lazarsfeldの同僚となったことにあった。彼は、1942年から71年にかけて、Lazarsfeldの創設した応用社会学研究所(Bureau of Applied Social Research)の所長を務め、多くの社会学的な業績を残した。かの有名な「大衆説得」研究は、彼の所長時代に行われたものである。そのきっかけは、Lazarsfeldの着想にあった。Lazarsfeldは、戦時債権の募集キャンペーンのためのマラソン放送が、短時間のうちにきわめて大きな影響を及ぼしたことに注目し、これを類まれな「メディア・イベント」として研究することを提案した。実際の事例研究はMertonをリーダーとして実施され、『大衆説得』(Mass Persuasion)という書物に結実することになった(Merton, 1946)。
ケイト・スミスとマラソン放送
研究対象となったマラソン放送とは、1943年9月にCBSラジオで放送された、18時間連続のキャンペーン番組である。番組のホストを務めたケイト・スミスは、アメリカの生んだ国民的な歌手であり、当代随一の人気を誇るラジオ・タレントであった。
放送当時、彼女は30代で、その人柄から国民から広く親しまれていた。1938年には「God Bless America」を録音し、それはアメリカ賛歌としての地位を確立したのであった。翌年にはホワイトハウスに招かれて、初来米した英国のエリザベス女王の前で歌を披露するという栄誉にあずかったほどである。ルーズウェルト大統領は席上、ケイト・スミスを「これがケイト・スミスです。これがアメリカです」と紹介したという。
第二次大戦中、ケイトは2つのラジオ番組に定期出演し、1000万人もの聴取者の人気を博した。こうした文脈の中で、CBSは戦時債権募集のキャンペーン放送のホスト役として、ケイト・スミスに白羽の矢を立てたのであった。
アメリカの戦時債権は、1945年末までに1850億ドルもの売り上げを記録し、戦争遂行に大きな役割を果たした。アメリカ政府や企業は、各種の広告を通じて債権の販売促進を行ったが、それに加えて、ラジオのキャンペーン放送を通じて、さらに戦時債権の募集を行った。最初のキャンペーン放送は1942年11月に開始され、第3回のキャンペーンは1943年9月に実施された。9月8日にルーズヴェルト大統領の演説が行われたあと、2週間後にCBSラジオはケイト・スミスとともに、聴取者に直接訴えかけるキャンペーン放送を行ったのである。それは、スミスとCBSにとっては3回目のラジオ債権キャンペーンであった。しかし、今回は18時間にわたって、スミスが15分ごとに生出演するという「マラソン放送」であった。彼女の努力によって、多くのリスナーがラジオ局に直接電話をかけたり、手紙を書いたりして、戦時債権を積極的に購入し、4000万ドルもの売り上げを記録したのであった。
「大衆説得」研究の概要
Lazarsfeldはこの放送を一大メディア・イベントとして捉え、ラジオの影響力を示す格好の出来事として、Mertonを説得して、調査研究に取り組むよう進言した。最初はあまり乗り気ではなかった学究肌のMertonではあったが、結局この研究に引き込まれ、フォーカス・グループ調査など先駆的な手法を駆使した独創的な研究を展開することになったのである。この研究は、(1)ケイト・スミスの放送に関する内容分析、(2)放送を聞いた約100名のリスナーに対するインテンシブなフォーカスグループ・インタビュー、(3)約1000名を対象とする世論調査、の3つから成っていた。
内容分析は、放送の客観的な特性を明らかにしてくれた。インタビューは、具体的に説得がどのように行われたかを明らかにするものだった。そして世論調査は、インテンシブなインタビューの結果をクロスチェックする素材を提供してくれた。方法論的にみても、この研究調査は、実証的なマス・コミュニケーション社会学におけるお手本を示すものとなったのである。
このマラソン放送の「時間的な構造」を明らかにすることを通じて、Mertonは、なぜこの番組がかくも多くのリスナーを最後までひきつけ、債権購入に至らせたのかという、巨大なメディア効果を明らかにしたのであった。その中で、ケイト・スミスは、まさにマラソン競争の選手のように、最初から最後までリスナーとともに走り続け、リスナーを番組の虜にしたのであった。
テーマ分析の結果
放送内容を分析した結果、スミスが語ったことの約50%は戦時の犠牲に関するものであり、それが当時のアメリカ人に大きな影響を与えたことがわかった。犠牲を払っていたのは、戦場の兵士、一般市民、そしてケイト・スミス自身の三者であった。
残りの50%のうち3つは、戦争の努力に対する集合的参加、戦争によって引き裂かれた家族、前2回のキャンペーン放送の達成額を超えること、というテーマに当てられた。これらは、内容や行動に関連するものであった。その他の2つのテーマはこれとは違っていた。「パーソナルなテーマ」と「簡便さのテーマ」は関係性あるいはメディア志向的なものだつた。パーソナルなテーマは、このイベントが会話的な特徴を帯びていたことを反映していた。スミスはリスナーに向って、「あなた」「私」という親密なフレーズで語りかけたのである。「簡便性」とは、電話一本で債券を申し込むことができ、放送局の回線はいつでもオープンだということを強調したことである。多くのリスナーは、直接スミスと話すことができると期待して電話機をとったのである。電話は、ケイトースミスとリスナーをパーソナルに結びつける役割も果たしたのである。
それでは、何故この放送はかくも大きな説得力を発揮し得たのだろうか。その最大の要因は、スミスのパーソナリテイと、番組に取り組む真摯な姿勢であった。しかし、それは戦争債券を売り込むという搾取的な目的とは相反するもののように思われる。Mertonは、擬似的ゲマインシャフトという用語を用いて、このパラドクシカルな状況を説明している。放送局の送り手は、ケイト・スミスという国民的なアイコンを利用して、受け手の感情に巧みに訴えかけ、莫大な債券を受り込むことに成功したのである。マートンは、背景にある搾取的な戦時体制のディレンマにも批判的な目を向けたのであった。
「24時間テレビ」の効果分析(三上, 1987)
マス・コミュニケーションの3機能 (Merton & Lazarsfeld)
LazarsfeldとMertonは、同じ大学の同僚として、緊密な関係を続けたが、その間、マス・コミュニケーションの機能に関する重要な論文を共同で執筆している。それは、Lyndon Bryson編集のThe Communication of Ideas (1948)という書物に収録された、「マス・コミュニケーション、大衆の趣味、組織的な社会的行動」 と題する論文である。そのきっかけは、Mertonが『大衆説得』を出版してから数年後、思想のコミュニケーションに関するセミナーでLazarsfeldが発表したメモをMertonが出版することに同意したことにある。Lazarsfeldは、Mertonがまとめた論文に、自分の発表内容に加えて、「マスメディアのいくつかの機能」に関するMerton独自の論考によるページが新たに加えられていることを知り、2人の共同執筆論文として発表することになったのである。この論文は、現代社会におけるマスメディアの影響力について、批判的な視点から分析したものであった。
なかでも、後に有名になったのは、マスメディアのもつ3つの機能に関する部分である。Mertonは今後研究されるべきマスメディアの機能として、次の3つをあげた。
- 地位付与の機能
- 社会的規範の強制
- 麻酔的逆機能
第一に、メディアは公的争点、人物、組織、社会運動などに地位を付与することによって、正当化のエージェントとして作用する。もしこれらが公認され、メディアによって取り上げられると、それは重要な事柄だと認知されるようになり、取り上げられないと、認知されずに終わる。これは、のちに現れる「議題設定機能」とも符合する考え方であった。第二に、メディアは既存の社会的態度や価値観を、規範から逸脱する考え方に否定的な宣伝を行うことによって強制するという機能を有する。これによって、個人的な態度と公的な道徳との間の乖離が縮小する。以上2つがプラスの社会的機能だとすれば、麻酔的逆機能はマイナスの機能といえる。Mertonによればマスメディアは大衆に対し、民主的なプロセスに参加できるという幻想を創り上げることを通じて、政治的無関心を助長し、民主主義をかえって減退させている。擬似的な世論が形成され、それが民主的な意思決定過程への参加を妨げている、というのである。
このように、MertonはLazarsfeldとの共同論文の中で、のちの大きな影響を及ぼすことになる、マス・コミュニケーションの機能に関する卓越した洞察力を示したのであった。
限定効果説の実像
メディア効果論では、「強力効果説」から「限定効果説」への転換、その後、再び「強力効果説」の復活、という流れが一般に受容されている。このような捉え方は、必ずしも間違っているとは言えないが、例えば、「火星からの侵入」の事例を詳しく再検討すると、「火星からの侵入」放送のインパクトが、必ずしも「強力効果」を裏付けるものではなかったことは、すでに述べたとおりである。むしろ、ラジオがリスナーの行動に及ぼした影響はごく限定的であり、むしろリスナーの発揮した「批判能力」や「情報確認行動」がメディア効果を抑える役割を果たしたという点では、この研究はメディアの限定効果を浮き彫りにするものだったとも言えるのである。
一方、メディアがオーディエンスの「認知」面(現実構成、擬似環境の形成)に及ぼす効果という視点からメディア効果論の展開を振り返ってみると、1920年代のリップマンによる「擬似環境」や「ステレオタイプ」などオーディエンスの頭の中の映像(環境イメージ、小文字の世論)が、主として新聞などのマスメディアによって造成されたものだとする強力効果論は、1950年代以降の現実構成論、議題設定効果、培養効果、沈黙の螺旋理論においても引き継がれており、メディアの認知的効果において「限定効果」「最小効果」に置き換えられた訳ではなかった。それは、ニューメディア時代のSNSにおいても、「フィルターバブル」「エコチェンバー」「フェイクニュース」などがオーディエンスの現実構成を大きく歪める可能性が指摘されているように、メディアの認知面での効果、影響が大きいことを示すものである。
限定効果論を代表する3つの研究
いわゆる「魔法の弾丸(丸薬)」または「皮下注射針」モデルから「限定効果」モデルへのパラダイム・シフトを決定づけた3つの代表的な研究として、「ピープルズ・チョイス」「パーソナル・インフルエンス」「クラッパーの一般化」を若干検討してみよう。
ピープルズ・チョイス(Lazarsfeld, Berelson and Gaudet)
本書は、ラザースフェルド、ベレルソン、ゴーデットという、コロンビア大学応用社会調査研究所のメンバーが、1940年5月から11月までの7ヶ月間、オハイオ州エリー郡で実施したパネル調査の報告書である。調査の目的は、大統領選挙のキャンペーンが有権者の投票行動に与えた影響、特にマスメディアの果たした役割を実証的に明らかにすることにあった。本調査研究を通じて、以下に述べるような新しい調査手法の発明、メディア効果論における新しい発見が行われた。
パネル調査の開発
マス・コミュニケーションの効果を実証的に研究する上で大きな役割を果たしたのは、ラザースフェルドが開発した「パネル調査」という調査手法だった。パネル調査とは、同一の人々に対して繰り返し面接調査を実施する調査手法である。具体的には、1940年5月にオハイオ州エリー郡を代表する3000人の住民をサンプルとして選び、この名簿から層化抽出法で4組各600名を選び出し、このうち3つのグループに対し、7月に1グループ、8月に1グループ、10月に1グループと面接調査を1回だけ実施し、これらを統制群として用いた。4番目のグループに対しては、5月から11月にかけて毎月1回の面接調査(パネル調査)を実施した。この6ヶ月間には、パネル調査を通じて民主・共和両党の党大会と投票があり、大統領選キャンペーンの影響を長期にわたって測定することが可能であった。調査では、投票意図、各種メディアへの接触状況、回答者の特性、政治意識、対人関係などを詳しく質問した。
パネル調査が本研究で役に立ったのは、次のような点だった。
(1) キャンペーンの期間中に誰が投票意図を変更したのかを見定め、彼らの特性を研究することが可能になった。
(2) ある面接調査から次の面接調査までのキャンペーン情報への接触状況の変化を調べることができる。
(3) 2回の面接調査の間に回答者が投票意図を変更すれば、彼の意見を変化の過程の中で把握できる。
(4) 繰り返し面接調査を行うことによって、キャンペーンの効果を統計的に追跡することができる。例えば、ある面接調査時点では投票意図が未定だったが、その次の面接調査時点には意見を持つようになった人々を研究できる。
マスメディアの補強効果
パネル調査の結果、6ヶ月間の選挙キャンペーンを通じて、マスメディアは投票行動にはほとんど影響を与えない代わりに、有権者の投票意図を「補強する」という効果を及ぼしたことが明らかになった。5月(党大会前)と10月(投票直前)に投票意図を調査した約600人の回答者のうち半数の人々は、選挙運動への数ヶ月にわたる接触によって、それ以前の投票意図を変えなかったことがわかった。ただし、選挙キャンペーンが人々に何の影響も与えなかったわけではなかった。人々にとって、選挙キャンペーンは、投票行動を変える代わりに、以前の決定をずっと持ち続けるという重要な目的に役立ったのである。つまり、有権者に対して、当初の投票意図を補強する効果があったのである。(Lazarsfeld et.al, 1944, 邦訳p.148)。
先有傾向と選択的接触
一方、パネル調査の結果、人々は先有傾向によって、自分のこれまでの立場を支持する情報源を選択する傾向があることがわかった。例えば、民主党支持者よりも共和党支持者にウィルキー候補(共和党)に耳を傾ける者が多く、共和党支持者よりも民主党支持者にルーズヴェルト候補(民主党)の話に耳を傾ける者 が多かった。党派色の強い人ほど、自分の応援する政党のキャンペーンに接触する傾向が強く見られた。他方、キャンペーンの主唱者が標的としていた投票意図未確定の有権者は、その選挙関心の低さゆえに、マスメディアの政治的な内容にはあまり接触しないことがわかった。パネル調査の結果によると、5月から10月の間に一貫した投票意図を持っていた回答者のうち約3分の2が自分の側を支持するプロパガンダに主に接触し他のに対し、他方のプロパガンダに主に接触したのは4分の1未満だった。このような傾向は、「選択的接触」と呼ばれるもので、Lazarsfeldらのパネル調査で初めて明らかにされたものである。マスメディアが改変効果よりも補強効果を強くもたらした原因の一つは、有権者による選択的接触があったと推測される。
選択的接触がメディア・キャンペーンの補強効果をもたらすという知見は、これ以降も、いくつかの研究で実証されている。
2段階の流れとオピニオンリーダーの発見
マスメディアの限定効果をさらに明確に示す知見は、投票の意思決定過程における「オピニオン・リーダー」の重要な役割と、「コミュニケーションの2段階の流れ」の発見であり、パーソナルな接触(パーソナル・インフルエンス)は、投票の意思決定において、マスメディアよりも効果的だという発見だった。Lazarsfeldらは、選挙運動の期間中に投票意図を変えた人びとに対し、投票意図を決める上で決定的に影響力を持ったのは何だったかを尋ねたところ、「他の人びと」という回答がいちばん多いという結果を得た。つまり、パーソナルな影響力が一番大きかったのである。このような人びとを、彼らは「オピニオン・リーダー」と呼んだ。しかも、これらのオピニオン・リーダーは、すべての社会階層に広く分散しており、彼らはラジオ、新聞、雑誌などのメディアによく接触していることを発見した。このことから、Lazarsfeldらは、「観念はしばしば、ラジオや印刷物からオピニオン・リーダーに流れ、そしてオピニオン・リーダーからより能動性の低い層に流れる」という仮説を定式化したのであった。この「コミュニケーションの2段階の流れ」仮説は、1955年の『パーソナル・インフルエンス』において、より広い意思決定領域において立証されることになった(Katz & Lazarsfeld, 1955)。
エリー郡調査の問題点
ラザースフェルドらは、投票を一種の消費者の意思決定と捉え、選挙後の調査で、投票行動の決定に影響を与えた情報源や最も重要な情報源について質問した。その結果、3分の2以上が新聞またはラジオを「有益な」情報源として挙げ、半分以下が親戚、仕事の関係者、友人、隣人などの個人的な情報源を挙げた。半数以上がラジオまたは新聞を最も重要な情報源として挙げたが、重要な個人的情報源を挙げたのは4分の1未満だった。このように、メディアの影響を示す証拠が豊富であるにもかかわらず、著者たちは「他人が他人を動かすことが何よりも重要である」と結論づけました。Lazarsfeldらによるこうした結論は、彼らの関心がもっぱら「投票意図」という行動ないし態度のレベルでの影響にあったからだと思われる。実際には、情報取得や認識というではマスメディアは大きな影響を持っていたにかかわらず、Lazarsfeldらはこれを無視し。もっぱら行動面での「限定効果」だけに焦点を当てた可能性がある(Chaffee, and Hochheimer. 1985)。
パーソナル・インフルエンス(Katz & Lazarsfeld)
調査の概要
KatzとLazarsfeldは、「ピープルズチョイス」で発見された「コミュニケーションの2段階の流れ」仮説を検証するために、ごく日常的な意思決定の事例におけるマスメディアの影響とパーソナルの・インフルエンスについて調査研究することにした。ここでのポイントは、意思決定(意見形成)におけるオピニオン・リーダーの析出と、マスメディアの影響力の大きさの調査であった。調査の概要は次のとおりである:
調査地域:アメリカ中西部(イリノイ州)ディケーター
調査対象:各層を代表する800人の女性(16歳以上)
調査方法:面接調査
調査対象領域:買い物、流行、社会的・政治的問題、映画の観覧
質問票の内容:
1. それぞれの領域における意思決定(意見形成)について
2. その決定に際しての影響源の役割について
3. 回答者が考える影響者についての質問
4. 読書、ラジオ聴取習慣について
5. 回答者自身のオピニオン・リーダーシップの測定
6. 回答者の社会的属性(社会的地位、社交性など)
7. 回答者の態度特性
追跡面接:
回答者に対する面接調査の中で質問した「影響源」をもとに、影響者(回答者が何らかの意思決定を行なった際に、彼らが影響を受けた相手)つまりオピニオン・リーダーに対して、追跡面接を実施した。
オピニオン・リーダーの特性、役割
(1) 日用品の買い物行動におけるリーダー
調査の結果、買い物リーダーは、測定した3つの社会地位レベルのすべてにほぼ均等な割合で出現しているということがわかった。追跡面接の結果を見ても、買い物という行動場面での影響の授受が、地位を異にした女性の間で行われることは少なく、影響の方向は上昇的な場合も下降的な場合も同じようにあることがわかった。年齢に関しては、年長層から若年層へという下降的な影響の流れが宇川れる。
(2) 流行に関するリーダー
調査対象者の約3分の2は、化粧品や衣服などの流行に関して変更したことがあると回答した。そして、彼女たちの多くは、流行の変更に際して、オピニオンリーダーからのパーソナルな影響を受けていたことがわかった。流行のリーダーシップは、生活歴のタイプによって異なることがわかった。リーダーシップの大きさは、未婚女性>小世帯主婦>大世帯主婦>年配の夫人という順で減少する傾向が見られた。また、リーダーシップの大きい人ほど、流行に対する関心が高いことも明らかになった。さらに、社交性が高まるほど、流行のリーダーシップも強くなるという関連が見られた。
(3)社会的・政治的問題をめぐるリーダー
本調査における「社会的・政治的問題のリーダー」とは、「現在社会的・政治的領域で起こっている事柄をよく知っており、かつ、他の女性たちからそれについての情報や意見の相談を受けることの多い女性」と定義されている。調査の結果、この領域でのオピニオン・リーダーの数は非常に少ないということが明らかになった。また、社会的・政治的問題に関するリーダーシップは、社会的地位の高い女性ほど多いという結果が得られた。これは、買い物リーダー、流行リーダーとは異なる結果である。
(4) 映画観覧におけるリーダー
最後に、映画観覧におけるオピニオンリーダーの特性を見ると、映画のリーダーシップは未婚女性に集中する傾向が見られた。年齢が若いこと、および未婚であることが、映画館に足を運び、さらには映画のリーダーになるチャンスと結びついている一方、それぞれの年齢層グループ内部において、しばしば映画を見に行く人はあまり行かない人に比べてリーダーになりやすいことがわかった。映画を見に行くという行動は、多くの場合、誰かと一緒に映画を見に行くということである。したがって、この領域における影響の流れの多くは、一緒に映画を見に行く同年齢層の仲間たちの間で生じていると考えられる。
コミュニケーションの2段の流れ
すでに見たように、『ピープルズ・チョイス』の研究において、「コミュニケーションの2段階の流れ」仮説が初めて定式化された。すなわち、「いろいろな観念はラジオや印刷物からオピニオン・リーダーに流れ、さらにオピニオン・リーダーから活動性の比較的少ない人びとに流れることが多い」というものである。しかし、この仮説は選挙運動(政治コミュニケーション)という単一の分野で立証されたに過ぎない。そこで、ディケーター調査では、この仮説が他のさまざまな分野でも成り立つものかどうかを検証することになった。具体的には、(1)「ピープルズ・チョイス」の場合と同様に、オピニオン・リーダーは、ラジオ、新聞、雑誌などのメディアによく接触しているか、(2) オピニオン・リーダーが非リーダーよりもマス・メディアから強く影響を受けているかどうか、(3) オピニオン・リーダーはすべての社会階層に広く分散しており、フォロワーに対して水平的な影響を及ぼしているかどうか、という点をデータによって検証したのである。
まず、雑誌への接触度について見ると、どの分野においても、オピニオン・リーダーは非リーダーよりも多くの雑誌を読んでおり、またよく本を読んでいることがわかった。このような関係は学歴を統制しても変わらなかった。また、オピニオン・リーダーは非リーダーよりも全国雑誌(コスモポリタン的な内容)を読む比率が高いこともわかった。次に、流行を変改した人に、影響源を聞いたところ、オピニオン・リーダーは非リーダーに比べ、マス・メディアから影響を受けたと答える割合が高かった。ただし、買い物、映画観覧、社会的・政治的問題の領域については、このような関連は見られなかった。
このように、すべての領域ではないが、「コミュニケーションの2段階の流れ」仮説がある程度立証されたということができる。
クラッパーの一般化(1960年)
1960年に刊行された、J. T. Klapperの著書『マス・コミュニケーションの効果』は、それまでのマスメディア効果論の成果を総合的に検討し、いわゆる「限定効果論」として総括したもので、マス・コミュニケーション効果論の歴史において、重要な業績として評価されるものだった。1920年代に始まる初期のマスメディア効果論を「皮下注射」アプローチとして位置付け、1940年以降の実証的な効果研究を「現象論」的アプローチとして対比させ、限定効果を強調する現象論的アプローチが今後のマス・コミュニケーション研究において主流になると論じた (Klapper, 1960)。
Klapperによれば、これまでの研究を総括すると、説得的マス・コミュニケーションは、受け手を変改させるよりも、補強(reinforcement)の作用因として機能することが多いという。すなわち、受け手に対する支配的な効果として見出されるのは、補強ないし意見の固定性である。第二に、一般的な効果として見られるのは、意見の強化といった小さな変化である。そして、変改という大きな影響は滅多に見られないとしている。このようなマスメディアの補強効果が支配的だとする根拠として、Klapperは、1940年行われたLazarsfeldらのエリー郡での投票研究(Lazsfeld et. al, 1944)と、1948年に行われたBerelsonらのエルミラ郡での投票研究 (Berelson et. al, 1954)を挙げている。例えば、エルミラ郡でのパネル調査では、有権者に対して「補強効果」が最も多く見られたと、次のように述べている。
補強、修正、そして変改は1940年の研究と同じ割合で生じたことが発見された。六月と八月の結果を対比すると、760人の回答者パネルの66%は、六月の政党支持の立場を維持していた。17%はある政党への支持から「中立」、あるいは「中立」からある政党への支持とゆれ動いた。そして実際に変改を示したものはわずか八%にすぎなかった。選挙運動期間の後半にあたる8月と10月のあいだでは、補強の割合はほとんど変らず(68%)、変改の割合は低下した(3%)。さらに、より多く選挙運動に接触したものは、その接触に関して、より選択的であること、そして選挙運動への接触の度合がそれほど高くない人よりも、変改を経験する傾向が少ないことが発見された。ベレルソン、ラザースフェルドおよびマックフィーは、いく分か控え目に、「接触は変改を作り出すよりも結晶と補強の方向に働く」と結論づけた。(Klapper, 1960, 邦訳p.34)
このように、マス・コミュニケーションの影響力が変改ではなく補強の方向に働く原因として、次の5つの媒介的諸要因を指摘した。
(1) 先有傾向 (predispositions)および選択的接触 (selective exposure)、選択的知覚 (selective perception)、選択的記憶 (selective retention)の過程
(2) 個々の受け手が属している集団と集団規範
(3) コミュニケーションの内容の個人相互間の伝播
(4) オピニオン・リーダーシップの行使
(5) 自由企業社会におけるマスメディアの性質
このうち、Klapperの業績として注目される点として、(1)と(2)について説明を加えておきたい。
先有傾向と選択的接触
人々の既存の意見と関心、より一般的には、彼らの先有傾向はマス・コミュニケーションに対する彼らの行動と、このコミュニケーションが彼らに与える効果に対して、非常に大きな影響を与えることが明らかになった。一般に、人々は彼らの既存の態度と関心に一致したマス・コミュニケーションに接触する傾向がある。逆に、既存の態度や関心に沿わないコミュニケーションを、彼らは避ける。また、共鳴しない内容に接触せざるをえない場合には、彼らはしばしばその内容を知覚しないか、あるいは彼らの既存の見解に適合するように内容を作り直し、解釈するか(選択的知覚)、あるいは彼らが共鳴する内容を忘れる度合いよりももっと簡単に忘れる(選択的記憶)。選択的接触は、1940年のLazarsfeldらの投票調査で見られた他、国連のキャンペーンに関するStarとHugの研究においてもはっきりと見られた。この研究によれば、国連に関する情報の増大と国連に対する態度の改善を目的としたメディア・キャンペーンに接触した人々は、もともと国連に関心を持ち、国連を高く評価している人々から主として構成されていたという。
集団と集団規範
KatzとLazarsfeldはによれば、個人の意見や態度と考えられているものは、しばしば彼が属している集団の規範であり、それがマス・コミュニケーションの補強効果の作用因として作用する。人々は自分の意見と適合する意見を持つ集団に所属する傾向があり、集団内討議を通じて、そうした態度や意見は強化される。集団への所属は、補強を促進し、選択的接触を強化することで、変改を阻止する傾向が見られる。集団はまた、対人的な影響力とオピニオン・リーダーシップの行使の舞台を提供することによって、共鳴的なマス・コミュニケーションに潜在する補強力を強化するのに役に立つ。
わら人形としての「魔法の弾丸」「注射針」モデル
このように、Klapperの一般化を通じて、プロパガンダ研究や「火星人襲来パニック」の研究など、マスメディアの及ぼす巨大な影響力に関する研究は、1940年代以降の調査研究で明らかにされた「限定効果」論に対して、「魔法の弾丸(特効薬)」モデルとして、否定されるようになった。
しかし、この「魔法の弾丸」ないし「皮下注射」といった呼称は、メディア効果論において、「限定効果論」の重要性や目新しさを強調するために、袋叩きにするための「標的=わら人形」として捏造されたのではないか、という指摘がその後なされるようになった。例えば、Chaffee and Hochheimer.( 1985)は、「皮下注射針」(hypodermic needle)や「魔法の弾丸(特効薬)」(magic bullet)のイメージは、医療から借用された比喩の誤解であり、後年に限定効果モデルと対比させ、相手の弱点を叩くためにわざと作られた「わら人形」(straw men)に過ぎない、と指摘している。Chaffeeらによると、1920年代後半にペイン基金が後援した若者への映画の影響に関する初期のマスコミ研究は、メディア効果の線形モデルに基づいてはいたものの、その理論の複雑さにおいて非常に洗練されていた。同じ映画でも、子供の年齢、性別、予備的な傾向、知覚、社会環境、過去の経験、親の影響によって子供への影響が異なることが示された。その後の1930年代および1940年代のメディア効果研究者で、メディアの内容が大衆によって直接受け入れられ行動に移されるという単純な直接効果モデルを提案した者は誰もいなかったという。つまり、「魔法の弾丸」モデルとされた1930年代以前の初期の研究においても、マスメディアの直接的な強大効果とは異なる結果が得られていたのである。
Lubken (2008)によれば、「注射器」の比喩を用いて脆弱な聴衆に対するメディアの強力な影響を表現した最も早いマス・コミュニケーション研究者による使用例は、1953年にコロンビア大学の応用社会調査研究所(BASR)のレポートにある。当時、大学院生だったElich Katzがテレビに関する実施委員会のために作成したものである。「誇張すれば、研究が当初持っていたキャンペーンのような説得過程の『モデル』は、巨大な注射器(a giant hypodermic needle)に似ていたと言えるだろう」とカッツは書いている。「非常に最近まで、メディアは全能であり、ほとんどすべての目と耳に影響を与えることができると広く信じられていたのだ。」カッツはそのモデルの構成を次のようにまとめている。「要するに、マス・コミュニケーションのプロセスのモデルはこのようなものだった:一方には強力なマスメディアがあり、メッセージを送り出し、他方には分子化した個人の大衆があり、直接的かつ即座に応答している、間には何も存在しない。」このように、「皮下注射針」モデルという言葉は、1950年代になって、限定効果論の初期の研究者によって作られたものであり、限定効果論の優位性を印象づけるために生み出された「わら人形」であった可能性が高いのである。しかし、「火星人の襲来」パニック研究や、1930年代の主要なマス・コミュニケーション研究に見られるように、初期の研究では、マスメディアの巨大な直接的効果が必ずしも強く主張されたわけではなかったのである。
むしろ、「火星からの侵入」に見られるように、ラジオ聴取者の「批判能力」が情報確認行動を通して、パニック的反応を抑える役割を果たしたという研究結果がしめさえており、これはマスメディアの「限定効果」を明らかにしたものであり、初期のマス・コミュニケーション研究と1940年代以降の研究との間に断絶よりも連続性があった証拠とも考えることができる。
しかしながら、1970年代以降になると、マス・コミュニケーションに関する標準的な教科書において、「魔法の弾丸(特効薬)」や「皮下注射針」という用語が、戦前のマスコミ効果論における「直接的」「巨大」効果の研究を象徴するモデルとして広く紹介されるようになり、アメリカ、日本、その他の国でも既定の事実であるかのように無批判に受け入れられてしまった。これは、後述するように、議題設定機能研究、培養分析、沈黙の螺旋理論、認知バイアス論などが、例えば戦前のLippmannなどの研究をさらに発展させたものであるという事実を隠すことになったと思われる。
「利用と満足」研究の展開:能動的オーディエンス像の検証
マス・コミュニケーションの実証的な効果研究は、1940年の「ピープルズ・チョイス」から始まったが、同じ頃、問題意識を若干異にする質的な効果研究が、同じ研究グループによって開始された。それが「利用と満足」研究(Uses and Gratification Research:以下、「U&G研究」と略記)と言われるものである。投票行動などキャンペーンの効果研究との違いは次の点にある。つまり、キャンペーン効果研究では、「メディアは人びとの態度や行動をどれだけ変化させることができるか」を問題としていたのに対し、U&G研究では「人びとは生活行動の中でマスメディアをどのように利用し、またマスメディアとの接触によってどのような充足を得ているか」を中心的な主題としている(竹内, 1982)。これは、キャンペーン研究では、マスメディアが主体でオーディエンスはあくまで客体であるのに対し、U&G研究では、オーディエンスが主体として位置付けられ、その能動性に焦点が当てられているという点で決定的な違いが見られるのである。これは効果研究における一種のパラダイム転換だったとも言える。また、オーディエンスの「欲求」「動機」がメディア接触による複合的な「充足」や「機能」と結びつけて研究されることによって、従来の受容理論における「単機能」という前提を超えて、新しい発見がもたらされた点に画期的な意義があった。
1940年代の質的U&G研究
1940年に始まったキャンペーン効果の研究は、世論調査の手法を用いた量的な調査によって行われたのに対し、同じ頃スタートしたU&G研究は、グループインタビューなどの質的調査手法を用いて行われた。その理由について、当時U&G研究を主導したH. Herzogは、「研究対象となる連続ドラマの推定される影響は、ゆっくりと蓄積されて生じるため、これらの影響を社会調査によって特定するのは難しく、継続的な観察と詳細なインタビュー、およびその慎重な解釈を通じて、多様な材料をつなぎ合わせることによって追跡することが可能になる」と述べている(Herzog, 1948)。ここでは、1940年代に、Herzogらコロンビア大学ラジオ研究室で行われた一連のU&G研究の中から、「プロフェッサークイズ」、「昼間の連続ラジオドラマ」「ストライキ中の新聞利用」に関する事例研究を紹介したおこう。
「プロフェッサークイズ」のU&G研究(Herzog)
(1)調査の概要
実施主体:コロンビア大学応用社会調査研究所
主たる研究者:Herta Herzog
調査対象:低所得層から選ばれた20歳〜60歳の男女11名
調査方法:クイズ番組のリスナー(男性3名、女性8名)に対する詳細なインタビュー
調査対象ラジオ番組:プロフェッサークイズ。平均聴取率が13%と高く、人気のクイ番組。多くのリスナーから「教育的」だとの評価を得ている番組。
(2)調査の結果
このクイズ番組は、リスナーに対し、4つのアピールを持っていた。
1. 競争のアピール
第1に、番組に出演している回答者とリスナーの間の競争を楽しむという充足があった。第2は、一緒に聞いている共同リスナーとの間で競争を楽しむという充足だった。第3は、一緒に聞いているオーディエンスの前で褒めてもらうことによる自己顕示のアピールである。
2. 教育的アピール
インタビュー対象者のほぼ全員が「教育的要素」の魅力を挙げ、多くの人がそれを最も重要な点として強調した。20人中15人だけが競技そのものが楽しみを増すと答えたが、全員がこの番組を「教育的」と見なしていた。クイズ番組で得られる知識が断片的で多様なものであることを自覚していたが、「クイズ番組から学ぶことは価値がある、知識を増やすことは良いことだ」と感じていた。というのは、クイズ番組を通じて知識の幅を広げることは、日常生活での会話に役立つからだと答えていた。クイズ番組はまた、読書の代替手段としての機能も果たしていることが分かった。
3. 自己評価のアピール
クイズ番組はまた、自分について知る手段として役立っていた。例えば次のような回答があった。「自分がどれだけ愚かなのか分かった」「自分は予想以上に知識があると分かって嬉しくなる」「多くの質問に答えられることに驚くことがよくある」「他の人に勝つことよりも、自分が何を知っているのかを知ることの方が私にとって重要です。自分が思っていた以上に知識があることに気づきます」など。
4. スポーツのアピール
これは、スポーツ番組を見ているときと似た充足タイプである。全体で8人が競技そのものを楽しんでいると答えた。
番組を他人同士の競争として見る場合、主に次の3つの関心が挙げられる。
1)勝ちそうな競技者を選ぶことで、自分が優れた審判であることを示すことができる。
2)勝ちそうな競技者が、自分が勝ってほしいと思う人物像の象徴となる場合がある。
3)競技者が質問に答える際の失敗を楽しむことができる。
「プロフェッサー・クイズ」に関するU&G研究は、一見娯楽的な内容だと思われがちなクイズ番組であっても、リスナーが日常的に引き出している充足は多様であり、なかでも教育的アピールが最も高く、クイズ番組を聴くことがリスナーの知識の幅を広げ、日常の会話場面で役立てられていると同時に、読書の代替手段としての機能も果たしているという意外な知見が得られたという点で、きわめて興味深い結果と言える。
「昼間の連続ラジオドラマ」のU&G研究(Herzog, 1948)
(1) 調査の概要
実施の主体:コロンビア大学応用社会調査研究所
主たる研究者:Herta Herzog
調査の目的:アメリカで最大の女性聴取者を持つラジオの連続ドラマの影響を詳細に研究すること。
調査方法:ラジオの連続ドラマの内容分析、ドラマのリスナーと非リスナーの比較、リスナーが連続ドラマから得ている充足についての詳細なインタビュー
インタビュー調査:100人の女性リスナーに対する詳細な面接調査
(2)調査の結果
100人の女性リスナーに対する詳細なインタビューの結果、彼らは昼間の連続ドラマから、3種類のタイプの充足を得ていることが分かった。
1. 情緒的解放 (emotional release)
彼らは、ドラマが提供する「泣く機会」を好み、「驚きや、幸せや悲しさ」を楽しんでいた。また、攻撃性を表現する機会も満足感の源になっていた。自分で問題を抱えているリスナーは、「他の人も問題を抱えていることを知って気が楽になる」と述べていた。ドラマの登場人物の悲しみは、リスナー自身の抱える悩みへの補償として受けとめられた。
2. 願望充足としての充足(wishful thinking)
2番目の充足タイプは、リスナーがドラマを通じて代理的な願望充足を得ることだった。あるリスナーは、ドラマの物語に没頭して自分の悩みを忘れるために番組を聴いていた。一方、自分の人生の欠落を補うためや、自身の犯した失敗をドラマでの成功物語によって補償するために聴いている人もいた。例えば、自分の娘が家を出て結婚したり、夫が週5日間家を空けたりする女性は、『ゴールドバーグ一家』や『オニール家』のような幸せな家庭生活を描いたドラマをお気に入りに挙げていた。
3. 生活上の助言と忠告の源泉(日常生活の教科書)としての利用
3番目の充足タイプは、昼間の連続ドラマを日常生活の助言の源として利用するものだった。「これらの番組を聴いていると、自分の人生で何か問題が起こったときにどうすればよいかが分かる」というのが典型的な回答だった。アイオワ州で実施した関連調査によると、教育水準が低い女性ほど、連続ラジオドラマを「役立つ」と考える傾向が強いことが確認された。これは、教育歴の低い女性が「人と親しくなり、影響力を持つ方法」を学ぶ他の手段を持たず、昼間の連続ドラマにより依存している可能性が高いことを裏付けるものだった。具体的に連続ドラマから得られた助言の例を示すと、次のようになる。
・他者とうまく付き合う方法を教えられた
・夫やボーイフレンドを「扱う」方法を教えられた
・子供を「育てる」方法について助けられた
・特定の状況で自分自身をどのように表現すればよいかを学んだ
・自分の老いや戦争に行く息子を受け入れる方法を学んだ
Klapper(1960)は、これまでのマス・コミュニケーションの効果論を集約する中で、Herzogの研究を詳しく紹介しているが、「助言と忠告の源泉としての利用」のことを「日常生活の教科書としての機能」と呼んでいる。的確なネーミングと言える。連続ドラマに関するHerzogのU&G研究の意義は、クイズ番組の研究の場合と同様に、本来は娯楽的、逃避的なコンテンツとして、「情緒的解放」の充足だけがもっぱら注目されていたにもかかわらず、「日常生活の教科書としての機能」という予想外の教育的な充足、機能を発見した点にあったということができる。
「新聞の機能に関するU&G研究」(Berelson, 1949)
(1) 調査の概要
調査の目的:
1945年6月30日土曜日の午後遅く、ニューヨーク市の主要な8つの新聞社の配達員がストライキを開始した。このストライキは2週間以上続き、その期間中、多くのニューヨーカーは通常読んでいる新聞をほとんど読むことができなくなった。彼らは新聞「PM」や一部の小規模で専門的な新聞をニューススタンドで購入したり、いくつかの新聞社の中央オフィスで店頭販売を利用したりすることはできたが、ほとんどの読者が好んで読んでいた新聞は17日間にわたって事実上入手不能だった。このように、新聞を利用できないこと(新聞ロス状態)が、ニューヨーク市民にとってどんな意味を持ち、どのような心理的影響を与えたのか、新聞が果たしている役割、機能を明らかにするために、質的なインタビュー調査を実施した。
主たる研究者:Bernard Berelson
調査方法:
ニューヨーク・マンハッタン地区の市民60名を対象とする詳細なインタビュー調査。新聞ストライキの最初の週の終わりに実施。
(2)調査の結果
インタビューの最初に、新聞がストライキによって読めなくなったことによる喪失感(missing the newspaper)つまり、「新聞ロス」について聞いたところ、多くの回答者は、ストライキによって新聞が読めなくなったことに「喪失感がある」(miss the newspaper)と答えていた。このように、日常生活の中で重要な役割を果たしている新聞について、具体的にどのような役割を果たしているかについて、詳しくインタビューした結果、6つの機能が発見された。
- 公共問題の解釈に役立つ情報入手のため
多くの人が、時事問題に関する解説(社説やコラム)に関心を持っており、それを自分の意見の基準として利用している。
回答例:「現在、詳細な情報が手元にないので、ただ結果だけがわかる状態です。それは、新聞の見出しだけを読んで、記事を追わないのとほとんど同じです。ニュースに至るまでの詳細や説明が懐かしい。背景やニュースに至るまでの展開を知りたい。」 - 日常生活の道具としての利用
一部の人々にとって新聞ストでロス感情を味わった理由は、それが日常生活における直接的な助けとして使われていたためだった。
回答例:多くの人々は、新聞に掲載されているラジオ番組表がないと、ラジオ番組をチェックするのが難しい、あるいは不可能だと感じた。また、映画を見に行こうと思っても、上映作品を調べるために電話したり歩き回ったりするのが面倒だと感じた人もいた。買い物に興味を持つ女性の中には、広告がないことで不便を感じた人もいた。死亡記事を定期的に読んでいた数人の女性は、知り合いが亡くなっても気づかないのではないかと不安を抱いていた。 - 気晴らしとしての利用
新聞は、日常生活の退屈さや単調さからの解放というニーズを満たすのに特に効果的である。その理由は、新聞が「人間味あふれる話題」を豊富に提供する多様性や内容の豊かさを持ち、また手軽に入手できることや低価格だからである。
回答例:「(ストライキ中は)仕事の合間にやることがなくて、ただ編み物をするしかありませんでした。でも、編み物だと新聞を読むことほど気が紛れません。」「どうしていいかわからなくなりました。気が滅入ってしまいました。時間をつぶすために読むものが何もなかったんです。でも、水曜日に新聞を手に入れたら、とても気分が良くなりました。」 - 社会的地位付与の機能
ある回答者たちは、新聞を読むことで社交の場で情報通であるように見せるために利用していた。新聞には会話における交換価値があった。読者は、何が起こったのかを知り、それを仲間に伝えるだけでなく、公共問題に関する議論で使える意見や解釈を新聞に見つけることもできる。このような新聞の利用が、読者の仲間内での地位を高める役割を果たしていたのである。
回答例:「他の人と会話を続けるためには読まなければなりません。ニュースを話題にする場で何も知らないのは恥ずかしいです。」 - 社会的接触のための利用
新聞の人間味あふれる記事、個人向けの相談欄、ゴシップ記事などは、一部の読者にとって単なる日常の悩みやルーティンからの解放以上のものを提供していた。これらは、社会における道徳の指針や他人の私生活への洞察を与えるとともに、それに対する間接的な参加の機会や、有名人との間接的な「個人的接触」機会を提供していた。
回答例:「ドリス・ブレイクのコラム(恋愛相談)を懐かしく思います。彼女のコラムには若い男女の意見が載っていて、それがとてもワクワクします。」「お気に入りのコラムニストを懐かしく思いました。彼らの記事、ニュース、さまざまな人々とのインタビュー、人々との交流が恋しいのです。」 - 「読むこと」自体の効用
Berelsonが発見した、新聞の持つもう一つの機能は、新聞の内容に関係なく、「読むこと」そのものが都市社会においては強く、満足感をもたらす行動になっているということだった。これは、現代ではメディアのもつ「コンサマトリー」な充足として知られる心理的満足のタイプである。これは、Berelsonの調査によって初めて発見された充足タイプであり、その後のU&G研究においても重要なテーマとなっている。こうしたコンサマトリーな充足を得るために、多くの人々は「とにかくなんでも読めればいい」ということで、他の代替手段を利用していた。
回答例:「家にあった古い雑誌を読みました。」「手元にあったもの、雑誌や本を読みました。」「家にある古い雑誌を読み漁りました。」
このように、Berelsonnの新聞ストライキ調査は、「新聞ロス」という思いがけない事態において、新聞が日頃、実に多様な機能を果たしていることを明らかにしたのであった。
テレビ時代の定量的U&G研究
テレビの充足タイポロジー(McQuail, Blumler & Brown, 1972)
1940年代のU&G研究は、主にラジオを中心に行われたが、1950年代に入ると、新たなマスメディアとして、テレビが登場し、1960年代以降のU&G研究はテレビを中心に行われるようになった。テレビ時代のU&G研究についての考察と新しい研究動向については、McQuailらの論文が重要である(McQuail, Blumler & Brown, 1972, 邦訳pp. 20- 57)。
マス・コミュニケーション効果に関する評論的な研究(Klapper, 1960)の中で、Klapperは、テレビの娯楽番組が提供する「現実と一致しない生活と世界の描写」を逃避的内容と認定し、U&G研究の対象を逃避的コンテンツとして考察した。Schramm、Lyle、Parker(1961)の子供とテレビに関する研究でも、子供のテレビ視聴の第一の動機が逃避的なものだと結論づけている:「楽しみを与えられるという受動的な娯楽、それは空想的な世界に住み、スリルに満ちたドラマに代理的に参加し、おもしろい魅力的な人びとと同一化し、現実生活の退屈さから逃避することである」。
しかしながら、テレビ番組が逃避的なコンテンツだけから構成されている訳ではないし、また、逃避的だとみなされているドラマやショー番組でも、それが視聴者(オーディエンス)によって、逃避的な目的や動機だけによって利用されているわけでもない。1940年代に蓄積されたU&G研究は、さまざまなメディアの娯楽的、逃避的コンテンツが、実際には教育的アピール、自己評定的アピールなど、複合的な機能を果たしていることを明らかにした。同じことは、テレビ番組についても言えるのではないか。McQuailらは、このような問題意識に基づいて、実証的、定量的な調査方法によって、視聴者がテレビ番組から得ている充足のタイポロジーを分析したのである。
(1)調査の概要
調査対象のテレビ番組:
連続テレビドラマ「コロネーション・ストリート」、連続ラジオドラマ「デールズ家の人びと」、テレビのクイズ番組、テレビのニュース番組、テレビの連続冒険ドラマ「若者」「セイント」
調査方法:
1. 少数の視聴者に対するグループ・インタビュー
2. インタビューに基づき、番組に対する態度、視聴動機、視聴による充足(視聴者の意見)のリストアップ
3. 視聴者の意見リストを提示して回答してもらう面接調査の実施(70から180人を対象)
4. 調査データのクラスター分析による充足タイプの析出
(2) 調査結果
1. テレビのクイズ番組の充足に関するクラスター分析の結果
視聴者がクイズ番組から得ている充足パターンが2段階の分析によって導出された。第一に、42×42の相関行列によって、すべての意見項目の関連性が説明された。第二に、クラスター分析によって、すべての意見項目は部分集合(クラスター)に再編成された。その結果、4つの主要クラスターが導出されるとともに、2、3の項目による6つの小さなクラスターが分離された。4つの主要クラスター(および命名したラベル)と、それに含まれる主な意見項目は、次のとおりである。
<クラスター1:自己評定のアピール>
・私は自分を専門家と比較することができる
・私は自分が番組に出演してうまく答えているのを想像するのが好きだ
このクラスターに属する視聴者は、クイズの問題に対する自分自身の答えを解答者の答えを比べる異によって、自分の能力を評価する傾向が見られた。また、どのチームが勝者になるかを当てることによって、自分の能力を評価する傾向が見られた。さらに、仮に自分が番組に出演していたらどうするだろうかと想像することによって、自自身を回答者に投影する傾向も見られた。視聴者の属性との関連を見ると、公営住宅に住む労働者階級の人々が、自分自身に関する事柄を学ぶために利用する傾向が見られた。
<クラスター2:社会的相互作用の基礎>
・私は他の人たちとその番組について話し合うのを楽しみにしている
・私は一緒に見ている人たちと競争するのが好きだ
このクラスターは、社会的相互作用に関連しており、クイズ番組が家族で分かち合う関心事を提供するという役割を果たしている。つまり、クイズ番組は、家族全員が回答について一緒に考えることができる。また、視聴者は正しい解答をめぐって競争しあうことができる。さらに、あとでそれを話題にして楽しむこともできる。クイズ番組は、いわば「交換の貨幣」 の機能を果たしているのである。このクラスターにおける高得点グループは、近隣に非常に多くの知人がいると答えた人に多かった。
<クラスター3:興奮のアピール>
・私は接戦に興奮するのが好きだ
・私は自分の心配の種をしばらうの間忘れたい
このクラスターに共通する特徴は、クイズ番組が引き起こす興奮である。クイズ番組は明らかに、だれが勝者になるかを当てたり、自分の予想の結果がどうなるかを判定するという競争そのものがもたらす興奮や、接戦を期待する気持ちを提供していた。これは「プロフェッサークイズ」に関するヘルツォーグのU&G研究で見出された「スポーツのアピール」に相当する。このクラスターで最も得点が高いグループは、社交性の指標が低く、多人数の家族の中で遅く生まれた労働者階級の人たちであった。
<クラスター4:教育的なアピール>
・私は自分が思っていたより多くのことを知っているのに気づく
・私は自分が向上したと感じる
このクラスターでは、クイズ番組の教育的アピールが検出された。クイズは単に思考を刺激するだけではなく、「自己向上」に役立ったり、自分じしんの知的能力への自信を取り戻すためにクイズ番組を利用するという傾向が見られる。これは、ヘルツォーグが「プロフェッサークイズ」から引き出した「教育的アピール」に対応する機能である。このクラスターと最も関連が強い属性は、「教育的背景」(学歴)である。つまり、クイズ番組の教育的アピールは、学校で学んだ経験がごく限られた人々に対して、最も強く作用していたのである。こうした関連は、ヘルツォーグのえた知見とも一致する。
2. 充足タイポロジーの要約から作成された4つのクラスター
上記の結果は、テレビのクイズ番組に関する充足タイポロジーだったが、McQuailらは、他の4つの番組をクラスター分析した結果を含めて、得られた共通の充足タイプ構造を次のようにまとめている。
1. 気晴らし (Diversion)
(a) 日常生活のさまざまな制約からの逃避
(b) 解決しなければならない諸問題の重荷からの逃避
(c) 情緒的な解放
2. 人間関係 (Personal Relationship)
(a) 登場人物への親近感
(b) 社会関係にとっての効用
3 自己確認 (Personal Identity)
(a) 個人についての準拠
(b) 現実への対処法の学習
(c) 価値の強化
4. 環境の監視
これらの充足タイポロジーは、複数のテレビ番組を対象として、事前のグループ・インタビューと、それに基づく面接調査によって得られたデータを多変量解析の手法を用いて分析した結果、統計的に得られたクラスターをもとに析出されたものであるが、そこで得られた充足タイプは、それ以前にラジオや新聞に関して行われたU&G研究の知見と非常によく似ている点は興味深い。本研究をきっかけとして、U&G研究は、テレビを中心とする新たなメディアを対象として、定量的なデータ分析を中心に実施されるようになった。次に紹介する日本の研究も、こうした流れに沿ったものであった。
日本の視聴者参加番組に関するU&G研究(竹内、飽戸、鈴木、田崎、児島、廣井、三上、水野, 1977)
McQuailらによる新たなU&G研究の登場に刺激されて、日本でも、1970年代以降、定量的な手法を使ったU&G研究に対する関心が高まり、テレビ番組の利用と満足に関する本格的な調査研究が行われるようになった。東京大学新聞研究所の竹内郁郎教授を代表とする「マスコミ受容過程研究会」が1974年度放送文化基金の助成を受けて実施したテレビ視聴者参加番組における「利用と満足」の実態に関する調査研究は、その代表的な事例である。研究会の参加メンバーは、竹内郁郎(代表)、飽戸弘、鈴木裕久、田崎篤郎、児島和人、廣井脩、三上俊治、水野博介の8名である。筆者は当時大学院生だったが、本研究会のメンバーとして、初めて実証的メディア効果研究に参加する機会を得た。
本調査研究の目的は、「人びとがテレビ番組を視聴することによっていかなる種類の満足を得ているか、また、日常生活にとってのいかなる効用を見出しているか」を、いくつかの具体的番組について明らかにしようとするものだった。研究のモデルとなったのは、上記のMcQuailらの先行的なU&G研究である。
(1)調査の概要
調査対象のテレビ番組:
1. NHKのど自慢
2. お国自慢にしひがし
3. 家族そろって歌合戦
4. がっちり買いましょう
5. アップダウンクイズ
6. ベルトクイズ Q&Q
7. クイズグランプリ
8. 日本一のおかあさん
9. 新婚さんいらっしゃい
10. 唄子・啓助のおもろい夫婦
調査対象:
静岡県沼津市在住の主婦800名
調査票の構成:
予備的なグループ・インタビュー結果、予想される充足タイプをに関する「充足態様に関するファセット」を作成し、これをもとに調査項目を作成。
調査実施:
1. 主婦6名を対象とするグループ・インタビューを実施
2. 主婦800名を対象とする郵送、訪問回収調査を実施(回収率86.8%)
(2)調査結果
分析の手続き:
各番組ジャンルごとに、、McQuittyの要素連関分析(ELA)、セントロイド法による因子分析、MDS(多次元尺度解析)の代表的手法であるクルスカルの方法とガットマンのSSAを用いて、充足タイポロジーを析出した。
分析結果:
ここでは、クイズ番組(アップダウンクイズ、ベルトクイズ Q&Q、クイズグランプリ)に関する充足タイポロジーだけに絞って、分析結果を紹介する。
まず、要素関連分析(ELA)の結果を見ると、「知識の習得やテスト、頭の訓練などの観点からクイズ番組を受容するクラスター」「クイズ番組によって味わうスリルや緊張感が楽しいという充足タイプ」「日常性からの一時的な逃避を示す項目」「クイズ番組の出場者の勝敗を予想したり、競争のスリルを楽しんだりする充足タイプ」「クイズ番組を視聴しながらそれに回答することが一種の自己確認の機能を果たし、それを通じて満足を味わう充足タイプ」「視聴者がクイズ番組に同一化し、自分もクイズ番組に参加している気分になって楽しむという充足タイプ」といった充足クラスターが検出された。いずれも、従来のU&G研究で得られた充足タイプと重なるところが大きいように思われる。すなわち、「教育的アピール」「日常生活からの逃避(気晴らし)」「競争のアピール」「自己確認」「代理参加」など。
次に、因子分析の結果を見ると、「学習への刺激」(第1因子)、「登場人物との擬似社会的な関係」(第2因子)、「緊張感」(第3因子)、「知的効用」(第4因子)、「競争を通じての自己確認」(第5因子)という5つの因子が析出された。これも、従来のU&G研究の知見と共通する結果と言える。
MDS分析は、異なる因子間の近接性を2次元空間上にマッピングして分析できる多次元尺度解析法である。クイズ番組に関する質問項目と因子間の関係をMDSで解析したところ、学習への刺激(I)が、知的効用(IV)と緊張感(III)とに隣接しており、知的効用は競争を通じての自己確認(V)につながり、緊張感の方は、登場人物との擬似社会的な関係へとつながっていき、最後に、この両者が近接し、I→IV→V →II→III→Iというサイクルをなしているという結果が得られた。このように、因子(充足タイプ)間の相互関係が2次元空間上で納得のいく形で表示されたことは、量的なU&G研究の有効性を示すものといえよう。
クイズ番組の充足タイプに関するMDS分析の結果(竹内他, 1977, P.127)
インターネット時代のU&G研究
1990年代以降、インターネット、ウェブ、ソーシャルメディアなど、いわゆる「ネット」上のコンテンツが爆発的に増加し、オーディエンスのメディア接触も、マスメディアからネットへとシフトしつつある。それにともなって、マスメディアに関するU&G研究は減少し、ネットメディアに関するU&G研究が増える傾向が見られる。以下では、Webサイト、インターネット、ソーシャルメディアに関する最近のU&G研究の事例を紹介しておきたい。
ウェブサイトの利用と満足(Ferguson and Perse, 2000)
ファーガソンとパース(Ferguson & Perse, 2000)は、インターネットのウェブサイト利用において も、テレビと同じような「利用と満足」の充足パターンがみられるかどうかを検証するために、テレ ビの場合と共通の充足設問を用いた調査を行った。その結果、①娯楽(entertainment)、②暇つぶし (pass time)、③リラクゼーション(relaxation)、④社会的相互作用(social information)に関して、ウェ ブ利用はテレビと同じような機能を果たしていることがわかった。ウェブサイトはとくに 気晴らし的に使われていることがわかった。一方、ウェブ利用は、テレビほどにはリラクゼーション 的な役割を果たしてはいないという結果も得られた。
調査の概要:
1. 調査対象:1997年10月から11月にかけて、アメリカの中西部と東海岸に位置する2つの大学の大学生250名を対象にオンライン調査を実施。
2. 調査方法:調査はHTML形式で作成され、コースのWebページにリンクされた。その後、学生たちはテレビ、ラジオ、印刷メディア、録音音声、ワールド・ワイド・ウェブを含むメディア利用に関する3日間の日記を記録した。日記はコースのWebサイトを通じて課題の一環として提出された。
調査結果:
Webサイトの利用動機に関する27の設問項目を因子分析にかけてみたところ、4つの主要な因子が検出された:
第1因子:娯楽 (Entertainment) : 刺激的な娯楽を求めるためにWWWを利用する
第2因子:暇つぶし(Pass time):空いた時間を埋めるためにWWWを利用する
第3因子:リラックス・逃避(Relaxation - Escape):仕事から離れてリラックスするためにWWWを利用する
第4因子:社会的情報の入手(Social information):学びや会話のきっかけとなる情報を見つけるための利用
本調査は、Webサイトがある程度テレビに対する機能的代替手段として利用されることを示すものと言える。同時に、ウェブの利用動機で「娯楽」が一番多いという知見が得られたが、これはウェブがテレビとある程度類似した利用お次の文章を日本語に訳してください。充足をもたらしていることを示唆している。
PCウェブと携帯ウェブの利用と満足(三上, 2002)
次に紹介するのは、Fergusonnらの調査を踏まえて、日本で行われたU&G研究である。この調査研究は、筆者が日本代表を務める「ワールドインターネットプロジェクト」(WIP)という国際共同研究の一環として実施されたものである。本調査の目的は、PCウェブや携帯ウェブの利用と満足の実態を明らかにすると同時に、テレビの利用 と満足についても同じ設問を用いて調査することによって、在来メディアであるテレビと新しいデジ タルメディアであるインターネットについて、利用と満足の構造がどのように異なるのか、あるいは 共通しているのかを解明することにあった。日本で実施されたインターネットのU&G研究としては最初のものである。
調査の概要:
1. 調査対象:全国の満12 歳以上75 歳以下の男女個人3,500人。
2. 調査期間:2002年10月〜11月
3. 調査方法:調査員による訪問留置訪問回収法
4. 調査項目:
PCウェブ、携帯ウェブ、テレビの3つについて、それぞれ12 項目の充足ないし効用 を設定し、そうした経験が「よくある」から「まったくない」まで4段階で答えてもらった。設定項目は、テレビに関する従来の研究結果やファーガソンとパースの研究などを参考に、「情緒的解放」「気晴らし」「習慣的視聴」「対人関係への効用」「擬似的相互作用(バーチャルリアリティ)」「日常生活か らの逃避」「環境監視(社会情報、趣味情報の入手)」など12 項目を選定した。
調査結果:
PCウェブの充足項目について、回答データを因子分析にかけたところ、次のような結果が得られた。
第1因子:バーチャルな世界での充足
・.情報発信者を親しい友達や相談相手のように感じる
・日常生活上の悩みや問題を解決する助けになる
・日常のわずらわしいことから一時的に逃れることができる
第2因子:娯楽、情緒的解放
・楽しいと感じる
・思わず興奮することがある
・見つけたことを友達と話題にできる
第3因子:社会的情報の入手
・いま世の中で起こっている出来事がわかる
・仕事や勉強に役立つ情報が手に入る
・趣味やレジャーに役立つ情報が手に入る
第4因子:暇つぶし、リラックス
・退屈なときの暇つぶしになる
・つい習慣でアクセスしてしまう
・くつろいだり、リラックスしたりできる
携帯ウェブとテレビについても、それぞれ因子分析した結果、PCウェブとまったく同一の4因子が抽出された。このことは、インターネットのウェブサイト利用に伴う利用と満足の構造が、在来マスメディアであるテレビの場合と共通していることを示すものであり、ウェブサイトの利用行動が、テレビ視聴行動を機能的に代替する可能性を強く示唆するものといえる。また、Fergusonらの調査結果ともかなり共通する因子構造が得られており、文化的な差異を超えたウェブの利用と満足のパターンが見出されたことは興味深い。
ソーシャルメディアのU&G研究 (Whiting and Williams, 2013)
2000年代に入ると、インターネット上でユーザーがコンテンツを作成、共有、交流できるプラットフォームが作られるようになった。これは「ソーシャルメディア」あるいはSNSと呼ばれるようになり、スマートフォンの普及とともに、ウェブと並んで一般個人がもっともよく利用するネットメディアとなった。それに伴い、ソーシャルメディアに関するU&G研究も行われるようになった。次に紹介するのは、そのうちの一つで、2013年に公開された研究である。本研究の目的は、ソーシャルメディアにおける「利用と満足」アプローチの重要性を示すことにあった。
調査の概要:
1. 調査対象:18歳から56歳までの25名(女性52%、男性48%)
2. 調査方法:詳細なインタビューを実施
3. 調査項目:
- なぜソーシャルメディアを利用するのか?
- なぜ友人はソーシャルメディアを利用するのか?
- ソーシャルメディアのどこが楽しいと感じるか?
- ソーシャルメディアをどのくらいの頻度で利用するか?
調査の結果:
得られた質的データについて、U&G研究の先行研究を参考にして、利用と満足のカテゴリーに分類。ディスカッションを重ねて分析した結果、10の利用と満足のテーマが導き出された。数字は、それぞれの充足タイプの回答率を示す。
(1) 社会的交流(Social interaction) 80%
(2) 情報探索(Information seeking) 80%
(3) 暇つぶし(Pass time) 76%
(4) 娯楽(Entertainment) 64%
(5) リラクセーション(Relaxation) 60%
(6) 意見表明(Expression of opinions) 56%
(7) コミュニケーションの効用(Communicatory utility) 56%
(8) 利便性の効用(Convenience utility) 52%
(9) 情報のシェア(Information sharing) 40%
(10) 監視 / 他者についての知識(Surveillance/knowledge about others) 20%
調査の結果は、ソーシャルメディアがユーザーに対して多様な充足を提供していることを示している点で興味深いが、調査の方法が、少数サンプルに対する質的インタビューだけで終わっているので、データとしての信頼性はあまり高くない。今後、ソーシャルメディアをテーマとした定量的なU&G研究が出てくることを期待したい。
「利用と満足」研究 2.0 (Sundar and Limperos, 2013)
これは、Sundar, S. S., & Limperos, A. M.が2013年に発表した論文である。従来のU&G研究では、すべての満足感がユーザー個人のニーズから生まれるという概念に基づいていたが、本研究では、メディア技術の特性(アフォーダンス)がユーザーのニーズを形成し、新しい独特の「満足」を生み出す可能性があると提案している。そして、新しい「満足」の具体例と測定方法についても提案している。
サンダーによれば、伝統的なマスメディアの技術特性と現代のニューメディアの技術特性は大きく変化しており、それはユーザーに多様な行動の可能性を提供している。伝統的なラジオ受信機では操作はダイヤルを回すだけ、テレビではリモコンを使った操作に限られていたが、現代のメディア技術(例: コンピューター)では、ユーザーに多様な行動の可能性を提供している。キーボードは入力を促し、マウスはポイントを示し、ハイパーリンクはクリックを誘発し、ジョイスティックはナビゲーションを可能にし、触覚センサーはスクロールを促す。このような「操作可能な特性」(actionable properties)を、ヒューマン・コンピューター相互作用の研究者ノーマン(Norman, 1999)は「アフォーダンス」(affordances)として概念化しており(Gibson, 1977)、ユーザーとメディアとの相互作用の性質を視覚的に示唆している。これらのアフォーダンスは、インターネット・ユーザーがメディアを新しい方法で体験するだけでなく、ユーザー生成コンテンツ(UGC)を基盤とするインターフェースやアプリケーションの増加により、自らのコンテンツを積極的に生成することも可能にしている。
そこでサンダーは、こうしたメディアをその構成要素であるアフォーダンス(例: インタラクティビティ)に分解し、それぞれから得られる利用と満足感を研究するほうが有益だと主張している。デジタル技術のアフォーダンスは、私たちを個人的な方法でコンテンツと関わるよう誘導することで、単に行動するだけでなく、意味を積極的に構築するよう促すだろう。そこから生まれるユーザーの満足はどのようなもので、どこから由来するものなのだろうか?Katz、Blumler、Gurevitch(1974)によれば、U&G研究の枠組みは次のようなものである。(1) 社会的および心理的起源を持つ (2) ニーズが、(3) 大衆メディアやその他の情報源に対する期待を生み出し、それが (4) メディアの利用パターン(または他の活動への関与)に影響を与え、(5) ニーズの満足感をもたらし、(6) 他の結果を生む。これらの結果の多くは意図されたものではない可能性が高い (P.20)。しかし、充足や満足がユーザーの個人的なニーズだけではなく、利用されるメディア(あるいは情報機器)のアフォーダンス特性からも生じると考えるならば、21世紀の新しいメディアの技術特性とともに大きく変化すると言う予想を立てることが理にかなっていると思われる。その意味では、現代のメディアが提供する数多くのアフォーダンスにより、それらを体系的に分類し、それぞれが特定の満足感にどのように寄与するかを研究する必要性が高まっているといえる。Sundar(2008)のMAINモデルは、デジタルメディアの4つの技術的アフォーダンス(モダリティ、エージェンシー、インタラクティビティ、ナビゲーション性)が心理的に重要な影響を持つことを示しており、これをU&G研究に適用することは有用だろう。
サンダーは、MAINモデルが特定した4つの技術的アフォーダンスに基づいて、新しいメディアの利用者が得る満足感の例を示している。
1. モダリティにもとづく満足
モダリティとは、メディアコンテンツの提示様式(例:音声、画像)のことで、人間の知覚システム(例:聴覚、視覚)の異なる側面に訴求する。インターネットがテキスト、画像、音声、動画といった複数のモダリティでコンテンツを提供できる能力は、それが「マルチメディア」と呼ばれる所以である。これまでの研究によれば、複数のモダリティで情報を提示することは、単なる利便性以上に、知覚的・認知的にも重要であることが示されている。例えば、テキスト情報の処理には多くの認知的労力が必要だが、音声と映像による情報提示は気晴らしになりやすいことが分かっている。
2. エージェンシーにもとづく満足
MAINモデルにおけるエージェンシーのアフォーダンスは、すべての人が情報の発信者または提供者としての役割を担えることを意味する。かつて、ゲートキーピング(情報管理)は特権的な少数者に限定されていたが、今ではインターネット上で誰もがコンテンツのゲートキーパーになれる。たとえば、ブログでは自分のコンテンツを自由に発信したり、他のウェブ上のコンテンツをフィルタリングすることができる。また、YouTubeやFacebookのようなプラットフォームにおけるユーザー生成コンテンツ(UGC)の普及は、送信者と受信者の関係を大きく変えただけでなく、新たな満足感を生み出している。
3. インタラクティビティにもとづく満足
インタラクティビティ(相互作用性)は、メディア内のコンテンツに対してリアルタイムで変更を加えることを可能にするアフォーダンスである。このアフォーダンスは、メディアとの直接的な相互作用を通じて利用者が積極的に関与できるという点で、視聴者の能動性の核心をなすものである。インタラクティブ・メディアの普及に伴い、多くの新たな満足感が生まれる可能性がある。たとえば、ユーザーはより高いレベルの活動性をメディア体験に求め、インターフェースが自分の行動に反応することを期待し、選択肢やコントロールの幅が広がることを望む。また、埋め込まれたハイパーリンクが増え、メディア体験の流れがスムーズになることを期待する。その結果、「活動性」「応答性」「選択」「コントロール」「流れ」といった要素が、インタラクティブメディアにおける次世代の満足感として注目されるだろう。
4. ナビゲーション性にもとづく満足
ナビゲーション性とは、ユーザーがメディア内を移動できるようにするアフォーダンスを指している。インターネットが単なる窓ではなく「空間」として存在しているため、メディアに建築やインテリアデザインの要素が組み込まれ、ナビゲーションがオンラインユーザー体験の重要な側面となっている。インターネット上で1つのサイトから別のサイトへ自由に移動し、さまざまなリンクを「チェックする」という一般的な行動は、「ブラウジング・ヒューリスティック」を引き起こすとされている。こうしたブラウジング行動は重要なプロセス満足感となっており、これが制限されると不満が生じる。つまり、ブラウジングは我々が期待する満足感の1つとなっているのである。
U&G研究の強みは、その柔軟性にある。本論文は、メディアの技術的アフォーダンスが、従来のU&G研究で取り上げられてこなかった21世紀の新しいタイプの「利用と満足」の発見をもたらすと主張するもので、U&G研究の未来に対する一つの明るい展望を示すものとして注目される。
参考文献(第1部)
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第2部 現実構成論の展開:擬似環境論からフェイクニュースまで
マスメディアの現実構成機能
リップマンの擬似環境論
「擬似環境」の発見
アメリカの20世紀最高のジャーナリストと言われるウォルター・リップマン (Waltr Lippmann)は、1922年に出版した主著『世論』(Pubic Opinion)の第1章で、擬似環境論を提唱した。リップマンは、次のように述べている (Lippmann, 1922)。
現実の環境はあまりにも広大で、あまりにも複雑で、あまりにも一瞬で変わってしまうため、直接知ることは不可能である。我々は、これほどの微妙さ、これほどの多様性、これほど多くの組み合わせや変形に対処する装備を持っていない。しかも、我々はその環境の中で行動しなければならないが、それを扱うためにはより単純なモデルに再構築する必要がある。人びとは、決して見ることも触れることも嗅ぐことも聞くことも記憶することもできない世界の広大な部分を、心で見ることを学んでいる。徐々に、人は手の届かない世界の信頼できるイメージを頭の中に作り上げていくのである。人と環境との間に挿入されているこの環境イメージを『擬似環境』という。その擬似環境に対して人々の行動が反応している。しかし、それが行動である以上、その結果は、行動が刺激を受けた擬似環境の中ではなく、現実の環境の中で作用する。
リップマンは、『世論』より前に出版した小著「自由とニュース』において、民主主義理論の中核的概念である「万能の市民」像に迫った。それによると、平均的市民は、事実にもとづいて、公共の諸問題に対し理性的判断を下すことができる、とされた。報道機関の仕事は、判断の基準たる事実を客観的に提供することにある (Lippmann, 1917)。しかし、第一次大戦中の自らの宣伝活動の体験を経て、市民に対するこのような楽観的な見方をリップマンは捨て去った。事実なるものがいかに歪曲され抑圧されるかを理解したリップマンは、この歪曲が実は人間の心のなかに本来的に内在しているのだということに気づいた。多くの人びとが外の世界について抱くイメージは、その感情、習性、偏見、ステレオタイプというプリズムを通してつくられているのである。ヴェニスの運河を見て、ある人は虹を見、別の人は水面に浮くごみくずを見る。人びとは見たいものを見、教育や経験によって見るべく訓練されたものを見る。「われわれは、まず見て、そのうえで定義するのではない。まず定義して、それから見るのである」とリップマンは書いている。誰もすべてのことを見ることができない以上、人は自分の経験に見合ったその人なりの現実(擬似環境)を頭の中でつくり出すのである。それによって、さもなければ混沌とした姿としてしかうつらない世界に一定の秩序を発見することができるのである。
「ステレオタイプ」概念の創出
リップマンは、『世論』の中で、擬似環境と並んで、「ステレオタイプ」という言葉を新たに作り出した。人間は現実環境、擬似環境、行動の三角形の中で活動しているが、この三角関係を方向付ける固定観念が、ステレオタイプと呼ばれるものである。ステレオタイプは複雑な現実環境から擬似環境を構成する時に、事実を恣意的に選別するフィルターとして作用する。
われわれは物事の意味を、ただでたらめに決めるのではなく、われわれの文化が命じる「ステレオタイプ」によって決めている。このステレオタイプは認識を限定するが、しかしまた、なくてはならないものである。人間はステレオタイプなしには生きられない。混沌とした世界にあって、これが安心感を与え、また「人間の自己尊厳を保証し、世界に我々自身の価値感覚を投射してくれる」からである。しかし、ステレオタイプによって、いかに見るかばかりでなく、何を見るかが決定されるのであれば、われわれの形づくる意見は、明らかに部分的な真理にしかすぎなくなる。「事実」とされるものは、実は事実ではなく、判断なのだ。この穏やかならざる指摘をリップマンは、次のようにも書き表わしている。「”問題”には常に二つの側面があることは誰しも認める。だが、”事実"とされているものにも二つの側面があるということを、誰もじようとはしない」(Steel, 1982)
リップマンが発明した「ステレオタイプ」の概念は、現代でも「認知バイアス」の一つとして、学問的にも広く応用されている。その意味では、リップマンは、認知バイアス理論の生みの親といってもいいかもしれない。
リップマンの論考は、実証的・科学的な研究にもとづくものではなかったが、ジャーナリストとしての経験に根差し、深い学識に裏付けられた独創的な理論であり、戦後におけるマスメディアの認知的効果論に大きな影響を与えることになった。
藤竹暁の擬似環境論
リップマンの擬似環境論に独自の解釈を加え、周期性と偏在性を持ったマス・コミュニケーションの働きによる「擬似環境の環境化」という新たな事態について論考を展開したのは、藤竹暁である(藤竹, 1968)。彼は人間の環境を「規定する」力という点に注目してマス・コミュニケーション活動を捉えた。ジャーナリズム活動の成立は、その活動によって提供される擬似環境が、自己転回をとげる過程の成立を意味している。リップマンによって、現実環境と人間との間に介在する「擬似環境」としてとらえられた環境イメージは、ジャーナリズム活動として提示されつづけることによって、(1)消費者にたいしてそれが日々休みなく提示される、という点で、(2)大量の消費者にたいして一様に同じものが提示されるという点で、「擬似」であるという性格を失いはじめ、「擬似環境の環境化」という事態が進行しはじめるとする。ジャーナリズム活動に依存する消費者においては、(1)この活動が周期性をもつことによって、活動の存在それ自体が消費者にとって、習慣化するという事態、(2)消費者は彼が行なうべき環境の確定作業を、ジャーナリズムの活動に全面的に依存するという事態が発生する。このようにして、ジャーナリズム活動は、人間にたいして環境を引きよせる環境把握力を発揮するだけに止まらず、環境を新たに造成するにいたるのである。ジャーナリズム活動が作りあげる擬似環境の環境化は、消費者の側における共有世界の確証の試み(インターパーソナルなコミュニケーション)によって裏付けられて、はじめて社会的な存在が可能となるものである。そしてジャーナリズムの次の活動は、こうして社会的な存在となった擬似環境を環境としてとらえることのなかから生まれる。これが擬似環境の自己転回にほかならない。
人間が外的諸条件との間にある一定の意味をもった関係を作りあげるときに、すなわち環境イメージによって「状況の定義づけ」を下すときに、外的諸条件は人間とある一定の関係を結ぶ(環境となる)ことになるのである。このことは、人間は外的諸条件と関係を結ぶことによって、自らを外的諸条件のなかに「延長」することを意味している。しかし、擬似環境が自己転回の運動を展開し、その結果として、環境の一部として自己を主張するようになるということは、他方では、人間が「現実環境」から疎外されることをも意味している。たしかに、擬似環境の自己転回によって人間は拡大する。しかしながら、人間にとっての環境の一部として、自らを編入することを企てる擬似環境は、その人間が自分の生存との関連においてそれを意味づけたことの結果として、環境化するのではなくて、すでにこの擬似環境は、人間に与えられたときにある一定の意味をもっている存在であることによって、環境化するのである。人間は自分で意味を選ぶ、あるいは意味づけるのではなくて、与えられた意味を学ぶ、あるいは受けとることになる(藤竹, 1968)。
藤竹は、「擬似環境の環境化」の概念を軸に、マス・コミュニケーションやジャーナリズムの活動や効果に関するさまざまな現象や事例を「現実定義」(環境造成、現実構成)の視点から整理し直しており、メディア効果論における重要な業績を次々と生み出すことになった。ただし、藤竹によるジャーナリズムの次の捉え方には、若干問題があるように思われる。
大量生産と大量消費のメカニズムを媒介にして、環境イメージと商品とが「擬似環境」を作りあげ、この「擬似環境」が環境化することによって、もともとの環境を代行するという仕組みが、もっとも組織的かつ日常的に再生産されているのが、ほかならぬジャーナリズムの世界なのである。擬似環境はあらかじめ一義的な意味が確定しているところに特徴がある。環境の主体によって意味が確定されるのでなく、すでに代理的にその意味は確定されているのである。この代理的な意味確定の作業を組織的かつ専門的に行なうのが、ジャーナリズムの活動にほかならない(藤竹, 1968, p.104)
環境の意味づけがジャーナリズムによって一義的に行われるという解釈は、能動的なオーディエンスに関する後のメディア効果論では否定されることになった。
「3つの現実」モデル(Adoni & Mane)
マス・メディアの役割について考察したアドーニとメインの論文(Adoni and Mane, 1984)は、シュッツからバーガーとルックマンへと引き継がれた現実構成論をマス・メディアの研究に適用しようとする試みである。彼らは、人びとが社会的相互作用によって構成する現実として、<客観的な社会的現実>(objective social reality)、<シンボリックな社会的現実)(symbolic social reality)、<主観的な社会的現実>(subjective social reality)の3種類を区別している。
まず、「客観的な社会的現実」とは、「厳然たる事実として個人の外部にあって、個人と対立する各観的な世界として経験されるもの」(Adoni and Mane, 1984.p. 325)をいう。これは、疑いをさしはさむ余地のない現実そのものとして受けとめられるもので、シュッツのいう「日常生活の世界」に相当する。
次に、「シンボリックな社会的現実」とは、「芸術、文学、マス・メディアの内容のように、客観的現実についてのシンボリックな表現形態をとるもの」(Adoni and Mane, 1984.p. 326)であり、シンボル体系によって複数のシンボル的な現実が存在する。シュッツのいう超越的現実に近いが、マス・メディアの内容を含めている点で、やや性格を異にしている。さらに、われわれは自分自身のなかに第三の現実、すなわち「主観的現実」を構成している。これは、客観的な現実とそのシンボリックな表現とをインプットとして、個人が意識のなかでつくり上げる独自の世界である。
アドーニらによれば、個人の主観的現実は、<関連性の領域>に沿って組織されており、それは個人の直接的な活動領域であるくいま>とくここ>(日常生活上の直接的経験)からの距離に応じて異なっている。これはもちろん、シュッツのいう<関連性の体系>にほぼ対応する概念である。アドーニらはさらに、バーガーとルックマン(Berger and Luckman, 1966, 邦訳pp.37-38)にならって、関連性の領域を<身近な>(close)領域と<疎遠な>(remote)領域の二つに区分している。個人が対面的な状況で日常的に経験する社会的事象や頻繁に相互作用し合う他者は、身近な>関連性の領域を構成する。一方、<疎遠な>関連性領域は、直接経験することのむずかしい、一般的で抽象度の高い社会的事象から成っている。アドーニらは、疎遠な関連性領域の例として、「世論」や「社会秩序」をあげている。
以上3つの<現実>は、それぞれ<身近な一疎遠な>という軸に沿って構成されるとして、アドーニらはこれを図1のようにモデル化している。
アドーニらは、マス・メディアと社会的現実構成に関する従来の研究を、これら3つの現実の相互関連性という観点から、大きく2つの流れに理している。一つは、シンボリックな現実と他の二つの現実との間の相互作用を別個に分析した研発である。もう一つは、3つの現実の間の相互作用を同時に分析する<全体的アプローチ>(holistic aproach)である。そこで、各々のアプローチについてアドーニらに従って簡単に紹介しておこう。
まず、シンボリックな現実と他の二つの現実との間の相互作用に関する研究であるが、これは(1)シンボリックな現実と客観的な現実の相互作用に関する研発と、(2) シンポリックな現実と主観的現実との間の相互作用に関する研究、の二つに分けられる。前者は、マス・メディアが客観的現実をどのように描写するか、そのような描写が社会の支配的なイデオロギーや価値観や階級構造をどの程度反映し、あるいは強化しているか、といった問題に焦点を当てている。具体的な研究例としてアドーニらがあげているのは、テレビ報道の内容分析を通じて、「マス・メディアが支配的イデオロギーを強化し、現行の社会体制を正当化し、その結果現状維持に貢献している」という結論を導きだす、ネオ・マルクス主義的な研究(Gitlin, 1979;Murdock, 1973;Hall,1977)、テレビのニュースが客観的現実をいかに歪めたものであるかを分析したグラスゴー大学メディア・グループの研究 (Glasgow University Media Group, 1976,1980)、メディアによる現実描写を規定する組織的な条件を追求した研究(Breed, 1955 ; Tunstall, 1971 ;Tuchman, 1978 ;Gans,1980他)、などである。後者は、マス・メディア内容が人びとの現実認知にどの程度影響を与えているか、という問題を扱った研究である。ガーブナーらを中心とする<培養分析>(cultivation analysis)(Gerbner et al., 1976, 1977 b, 1978 1979,1980 a1982,1986)や、<議題設定機能>研究(agenda-setting study)< McCombs and Shaw, 1972 ; Weaver et al., 1981)、<知識ギャップ>仮説(knowledge gap hypothesis)(Tichenor et al, 1970)に関する研究は、いずれもこの系列に属する研究といえよう。
ちなみに、アドーニら自身が提唱する「現実の社会的構成に対する全体的アプローチ」とはどのようなものか、簡単に紹介しておこう。これはひとことでいえば、客観的現実よびシンボリックな現実の分析から主観的な現実の構成までを、体系的かつ一貫した分析枠組にもとづいて実証的に研究しようとするものである。アドーニらによれば、社会過程の中で文化的コミュニケーションの果たす機能を分析したフランクフルト学派の研究は、初期の全体的アプローチの例だという。例えば、アドルノとホルクハイマーによれば、大衆文化の内容は、政治的権力によって支えられた文化産業によって生産されたものであり、その文化産業の役割は、現行の社会を雑持することにある。その結果、これらのシンボル内容において描写された社会的現実は、支配的イデオロギーに沿った歪んだものになりやすい。こうしたシンボル表現の果たす主要な機能は、個人を操作して、社会現象についての<虚偽意識>を醸成することにある、と彼らは指摘している(Adorno and Holkheimer, 1972)。より最近の研究としては、社会システム、メディア組織、個人の社会的現実の受容、の間の相互作用を分析したネオ・マルクス主義的な一連の研究(Gitlin, 1979, 1980 Hall, 1977; Miliband, 1969.Murdock and Golding, 1977:Althusser, 1971)があるが、彼らの分析は歴史的、イデオロギー的な理論構成にもとづいて行われており、思弁的考察に偏っている例が少なくない。一方にうした問題に実証的な方法論でアプローチしたグラスゴー大学メディアグループの研究は、前述したように、客観的現実と記号的現実との間の相互作用を分析するにとどまり、記号環境が個人の主観的現実の構成や行為に及ぼす影響にはほとんど注意を払っていない、とアドーニらは批判している。
客観的現実、シンポリックな現実、主観的現実の間の相互作用について、もっとも精力的に実証的研究を進めてきたのは、何といっても、ガーブナーを中心とする研究グループによる<文化指標>プロジェクト (cultural indicators project)であろう。彼らは、暴力的犯罪に関する統計のような客観的現実に関するデータと、テレビによって構成されたシンポリックな現実とを比較し、さらにこうしたメディア内容が受け手の構成する主観的現実に及ぼす<培養効果>について、実証的調査データに基づいて検証している。ガーブナーらの培養分析は、いくつかの批判すべき点を含んでいるとはいえ、大衆文化に対する全体的アプローチに基づく実証的研究の先駆的事例であるとし、アドーニらはこれを高く評価している。また、ノエル・ノイマンによる<沈黙のらせん的増幅>モデル(Noelle-Neumann, 1974, 1977)は、メディア内容が受け手の<意見の風土>認知に及ぼす長期的影響を実証的に研究しているという点で、ガーブナーらの培養分析に近いということができる。
以上のように、3つの現実の間の相互作用をめぐる従来の諸研究をレビューした上で、アドーニらは、現実の社会的構成におけるマス・メディアの役割をより包括的に理解するためには、ネオ・マルクス主義を基調とするヨーロッパ系統の批判的マスコミ研究とアメリカ系統の実証的メディア効果研究とを統合した<全体的アプローチ>が最も適している、と結論づけている。そして、両者を統合するための理論的基礎として、ドフルールとロキーチの提出した<メディア依存理論>(Ball-Rokeachand DeFleur, 1976)を適用すべきことを提案している。
マッカーサーデーの中継に関する研究(Lang夫妻)
古典的な擬似環境論は、メディアの提示する擬似環境がしばしば現実環境と異なることによって、きまざまな問題を引き起こすことを指摘したが、そうした議論は、リップマンにおけるように、個別的な事例についての記述的な分析をもとに展開されたものであり、科学的な方法論を欠いていた。
1950年代に入ると、客観的現実とメディアの提示する記号的現実との間の違いを実証的に研究する試みがいくつか現われた。その中で、もっとも有名なのは、ラング夫妻による<マッカーサーデー中継>に関する調査研究である(Lang and Lang, 1984,pp: 29-57)。この研究については、論文の日本語訳(Schramm, 1960;邦訳pp.318-338)が出ている他、藤竹(1975)、竹内(1984)などによる詳しい紹介があるので、改めて取り上げることには躊躇を感じないわけにはいかない。しかし、彼らが客観的現実と記号的現実との違いを解明するために用いた方法は、信頼性の面で若干の問題を含んでいたとはいえ、<3つの現実>の間の相互作用を実証的に研究する上で、現在もなお有効性を失っていないと思われるので、ここでは、調査手続きに焦点を当てながら、彼らの研究を紹介しておきたい。
1951年4月11日、アメリカのトルーマン大統領は、朝鮮戦争における政府の方針に従わなかったことを理由に、マッカーサー元帥の米国最高司令官としての地位を解任した。この突然の解任はアメリカ国民を憤激させ、マッカーサー支持の世論がいっせいにわき起こった。4月18日、マッカーサーはサンフランシスコ空港に到着し、続いてワシントンの上下両院合同会議の席上、「老兵は死なず、ただ消え去るのみ(Old soldier fade away・・・)」の一節を含む歴史的な演説を行った。
それから約1週間後の4月26日、シカゴ市の主催で、マッカーサー歓迎の一大イペントが行われた。" Macarthur Day"と呼ばれたこのイベントは、決のような一連のセレモニーから構成されていた。
(1)ミッドウェー空港での歓迎式典
(2)空港から市内までのパレード
(3)パレードの途中、バターン・コレビドール橋での戦没兵士への献花式典
(4) シカゴ目抜通りのパレード
(5)ソルジャー・フィールドでの献迎集会と演説
これら一連のイベントはすべてテレビ中継された。つまり、シカゴ市民は茶の間のテレビで歓迎式典に参加することができたのである。
ちょうどこのイベントが企画されていた頃、シカゴ大学社会学部では、タモツ・シブタニ数授の主催で「群衆行動に関する高等セミナー」が開かれており、ラング夫妻もこのセミナーに参加していた。このイベントに興味をもった夫妻は、マッカーサーデーになにが起こるかについての体系的な調査を提案したところ、参加者の賛同が得られたので、急遽実施ということになったのである。
調査は、バレード現場での参与観察および祝典への参加度を示す統計資料による客観的現実の記録、テレビ中継番組のモニターによる記号的現実の分析、そして、パレード現場で調査員自身および群来の受けた印象とテレビ視職時の印象の記録、という3種類のデータを収集することによって行われた。そのため、31人の学生をイベントの行われる空港やバレードの沿道43ヶ所に派遣し、観察者自身が式典をどう受け取ったか、また他の群来はこの式典をどう受けとめたか、という記録を細かくとらせた。これに加えて、2人の人間が、テレビ中継をモニターし、テレビ式典がどのように放映されたか、また、テレビを通してみた式典が視聴者にどのような印象を与えたかを記録した。これらのデータから、<3つの現実>がマッカーサーデーのイベントにおいてどのように構成されたかをある程度把握することができた、と考えられる。
調査の結果わかったのは、調査員および参加者を通してみた客観的現実と記号的現実との間に著しい食違いがある、ということだった。パレードの現場に集まってきた人びとの多くは、マッカーサーを熱狂的に歓迎する群衆とこれに応えるマッカーサーとの間でドラマチックな一大スペクタルが繰り広げられることを期待していた。しかし、彼らが実際に見たのは、むしろめた雰囲気の群衆であり、これに応えるマッカーサーの姿は、パレードが通過するほんの一解見えるか見えないかの程度であった。
一方、テレビ中継によって再現されたパレードの模様は、人びとがまさに期待していた通りのものだった。そこには、熱狂的に歓迎するシカゴの群衆と、これに笑顔で応えるマッカーサーの姿が生き生きと映し出されていたのである。
それでは、何故このようにパレード現場で調査員が観察した「客観的現実」とテレビに再現された「記号的現実」との間に大きな乖離が生じてしまったのか。この点について、ラング夫妻は、テレビによる中継番組の制作過程における3つの要因を指摘している。
第一は、テレビ制作上の技術的な歪曲である。テレビカメラは、クローズアップの手法を多用して、マッカーサーの表情や歓呼をあげる一部の群衆だけを画面一杯に映し出すことができる。一方、ドラマ的要素に欠ける部分はカットしてしまうことも可能である。このように、たとえ同時中継であっても、現実のごく一部を切り取ったにすぎない画面を組合せることによって、客観的現実とは似て非なる「記号的現実」を構成することができたのである。
第二に、アナウンサーのナレーションによる事件の構成、という要因がある。断片的な映像の組合せに連続性と一貫性を与えるのに、アナウンサーによる解説は重要な役割を果たす。とくに、パレードの治道で実況中継したアナウンサーは、あたかもこの歓迎イベントが全市をあげての歓迎一色の中でドラマチックに展開しているかのように解説してみせたという。例えば、目抜き通りの沿道に立つアナウンサーは、「わが市におけるいまだかつてないもっとも熱狂した群衆です。••・・・・このはりつめた雰囲気を感じていただけると思います。・・・・・群衆のどよめきが聞こえてきます」と解説した。ところが、同じ現場で観察していた調査員の印象はまったく違っていた。「すべての人びとはたしかに緊張していた。しかし、マッカーサーの顔をちらっとでもみた人は少ししかいなかった。彼が通り過ぎてしまってから数秒後、大部分の人たちは肩をすくめ、「これで終わりか」("That's all”)、「こういうことだったのか」(“That was it.”)、「さあ、これからどうしよう」(“What'll we do now?”)といった、きわめてクールな反応を示した」のである。(Lang and Lang, 1984,P.38)。
第三の要因は、「互恵的効果」(reciprocal effect)と彼らが呼んだものである。これは、テレビ制作者と群衆、テレビ制作者と視聴者との相互間で利害と期待が一致した結果、現実を歪める映像がつくられる結果になったという事実をさしている。まず、テレビ制作者は、熱狂的な歓迎のセレモニーを期待する視聴者の意向を敏感に察知し、先程述べた映像技術やナレーションのテクニックを駆使して、群衆が熱狂的にマッカーサーを歓迎したかのような番組を作り上げた。一方、パレードの現場でテレビカメラを向けられた群衆もまた、カメラを意識して自ら熱狂的な歓迎のポーズを演技してみせた。つまり、熱狂的な群菜の映像をとりたいテレビ制作者側と、テレビにカッコよく映りたい群衆との間に、暗黙の共謀関係が成立していたのである。
ラング夫妻はさらに、こうした客観的現実と記号的現実の乖離が受け手のイメージに及ぼす好ましくない影響についても言及している。もし、政治権力者が意図的に自分にとって都合のいい方向に歪んだ記号的現実を構成するならば、メディアによる大家操作の手段としてテレビが悪用される恐れがあることを、彼らは示唆したのである。
ラング夫妻のこの研究は、批判すべきいくつかの問題点を含んでいる。
第一に、バレードの沿道で調査員が観察した記録は、果たして各観的現実を表しているといえるだろうか、という疑問である。31人の調査員がたとえ冷静な目で現場を観察したとしても、彼らの観察し得る範囲はその視野の内に限られている。それを合成したとしても、それは当日の歓迎式典の真の客観的現実像であるとはいえないのではないか。たしかに、視聴者の目はテレビカメラほど現実をゆがめてとらえてはいないだろう。しかし、パレードの全体を見渡せる好位置で観察できるかどうか、という点から見れば、テレビカメラよりもはるかに劣っているに違いない。より正確にいえば、調査員の観察した記録は、沿道の群業と同じ位置とアングルからとらえた現実像だといえる。これをもって客観的現実の指標とすることには問題があろう。もっとも、ラング夫妻は観察記録の妥当性をチェックするために、当日のシカゴ市内の交通量や商店の売上げなどを調べている。その結果、これらの指標はいつもの日とほとんど変化ないことがわかった、という。しかし、これらの指標は、群衆の熱狂度の指標とはいえないから、妥当性を証明したことにはならない。
第二に、主観的現実の測定指標としては、(1)パレードの沿道での調査員の印象、(2)テレビ中継をモニターした記録の受けた印象、が用いられており、これらのデータの比較から、「客観的現実のみから構成された主観的現実」と「記号的現実のみから構成された主観的現実」との間の違いが見出された、としている。しかし、これらのデータはサンプルの代表性という点でかなり問題がある。沿道の群衆にしても、ランダムにサンプルを抽出しているとはいえない。また、主観的現実の測定内容についても、大ざっぱな印象を記録するにとどまり、その内容について体系的な測定は行われていない。
このように、ラング夫妻の調査研究においては、方法論上いくつかの欠陥が含まれてはいたが、同一の対象について構成されたく3つの現実>の間の相互作用を実証的に測定しようと試みた先駆的業績として評価することができよう。
藤竹暁氏は、『テレビメディアの社会力』において、この研究について次のようにコメントしている。
この報告は、オリジナルである「現実」と、テレビによって「再現された現実」とのあいだには、大きな開きのあったことを明らかにしている。テレビが作ったコピーは、最高度の機械技術を駆使したマスメディアによる構成化の産物であった。コピーはオリジナルの忠実な模写なのではなくて、テレビカメラという目を通して、オリジナルに加工をくわえた構成化の所産であった。パレード中継は、テレビ独自の視点で構成化された別の「現実」であった。しかし視聴者は、どうしてそれを「別の」現実として判断することができるであろうか。視聴者が知っている事件は、テレビによって見た事件なのであるから。(中略)現代人は、自分の五感でじかに検証することのできる現実環境において生活しつつ、他方では、こうしたテレビ的現実のなかで生活している。われわれが社会人として感じ、考え、そして行動するとき、テレビ的現実(マスコミ的現実)がたえずその姿をあらわし、影響を与えている。この膨大な象徴的環境の存在を抜きにしては現代人は社会的に生きてゆけないとすれば、現代人にとってはテレビ的現実(さらにはマスコミ的現実)の比重は重くなり、現実環境の比重は逆に軽くなってしまうであろう。現代人は、マスコミによって「構成化された事件」を環境として生きているのである。
社会現象の認知的歪みに及ぼすテレビの影響(TVメディア・バイアス)
本研究は、「コミュニケーション分析研究会」(三上俊治(代表),村松泰子、水野博介、仲田誠、竹下後郎,橋元良明,後藤将之、大畑裕)が、東京大学新聞研究所内研究費の助成を受けて行なった社会的現実の認識に及ぼすテレビの影響に関する実証的調査研究である(三上、水野、橋元 1989)。
調査の概要:
自然な視職状況におけるテレビの短期的効果を測定するのに適した「フィールド実験的調査」の手法を新たに開発し、1987年10月と1988年5月の2回にわたって実施した。具体的には、大学での授業中に、対象者である学生に対し、その週の指定した日時のニュース番組を必ず見るように指示し、翌週の授業時間にアンケート調査を実施するというものである。指定したニュースはVTRで録画し、その内容をもとに、それに関連した社会的現実の認知を測定するための設問を作成した。
調査の結果:
以下では、「テレビは社会現象の認知をどのように歪めるか」 というテーマで研究した水野博介の論文(水野, 1989)を紹介する。
仮説群:
本研究は、情報メディアは、人々がそこから情報を得れば得るほど、人々の知識を増し,社会現象の正確な認識に寄与するだろうという常識に反して、テレビに頼って世の中を知れば知るほど、ある種の歪みをもった現実認識をもってしまうのではないか、という問題意識に立って、一連の仮説を提示し、調査データによって実証を試みたものである。ここでは、メッセージにおけるバイアスのうち、メディアの特性に基づくものを「メディア・バイアス」と呼ぶ。特に、テレビによって現実を知る傾向のある(テレビ依存の強い)人々には、ての世の中が「変化」や「極端な事柄」に満ちたものと見え、また、「表層的」で「ステレオタイプ的」な単純化された構造をもつものと見える傾向がある。これが、ことで言う「TVメディア・バイアスの効果」である。具体的には、8つの仮説を立てている。
(1)「表層現象化(負のアジェンダ・セッティング機能)」仮説
テレビは,言うまでもなく、人々の視覚に訴えるメディアであるから、何らかの現象について伝える場合でも,映像として写しやすい部分をとりあげ、そうでない部分についてはとりあげないというバイアスがどうしても生じる。そして、映像で写しやすい部分というのは、どうしても現象の表面的な部分になりがちである。その結果、テレビを通じてある現象を認知する人々は、その現象について考える際に、表面的な目に見える部分にもとづいて判断する傾向があり、いわば表層的な現象に物事を矮小化する傾きがある。
(2) 「変化バイアス(加速視) 」仮説
テレビは、社会的な「変化」について、最も速く情報を送るメディアである。これは単に情報をリアルタイムで送ることができるという以上に、世の中のいつも変わらぬ様相よりは、変化の最先端(最新情報)を迅速にとらえて写しだす。という意味である。このようなメディアであるテレビに依存している人々は、逆にテレビが伝えてくる情報に対し、そのような特性をもっているととを無意識に期待し、そのような特性をもつ現象だと認知する傾向が強いのではないだろうか。
(3) 「特異現象化(カルガモ効果)」仮説
テレビは、世の中の珍しい事象や現象をとりあげることの多いメディアである。人々にはあまり知られていないが、しかし実際にはそれほど珍しくもない現象でも,一旦テレビがとりあげると、それがいかにも珍しい特異な現象と見えることがある。この数年間、初夏にくり返されてきた「カルガモ騒動」は、まさにその好例である。カルガモにふだん接していない都会の人間にとっては、テレビ(やその他のメディア)を通じて見るその鳥は、まさに珍鳥に近く感じられたであろう。
(4) 「普遍現象化(過大視効果)」仮説
逆に、人々が一応知っている比較的ありふれた現象がテレビで多くとりあげられると、それは社会の窓(縮図)としてのテレビに写しだされているということから、普遍的な現象として、実際以上に多く生じていると見なされることがある。
(5)「中心化(認知的再編Aタイプ)」仮説
これまで、あまりとりあげられなかった事象や人物でも,それが新たに頻繁にとりあげられると、しだいに認知の中心的な位置を占め、その結果、認知構造を再編するだろう。たとえば、新しい首相やタレントについて、このような効果が生じうる。
(6) 「脱中心化(認知的再編Bタイプ)」仮説
逆に、これまで、認知の中心にあったものでも,違う角度からとりあげられた場合に、それが客観化され相対化されて、中心的な位置からはずれるかもしれない。その結果,やはり認知構造の再編が生じるだろう。
(7) 「ステレオタイプ補強」効果
テレビは、大多数の人々にその場で理解される情報を提供するという機能特性から、しばしば「ステレオタイプ」に沿った現実描写を行いやすい。また、受け手もそれに対応して、情報を「ステレオタイプ」に沿って受け取る傾向がある。
(8) 「行動刺激」効果
テレビによる認知は、単に現象を認識させるだけで人々を満足させない。却って、テレビに依存すればするほど、テレビで見た新しい現象(変化の先端)に触れるよう刺激されよう。つまり、認知は認知にとどまらず、行動をも刺教し、喚起すると考えうる。
仮説の検証:
(1) 表層現象化」仮説
テレビ依存が中程度以上の人々で,総裁選出の手続きを問題点として指摘した人は非常に少なかった。仮説は支持された。
(2) 「変化バイアス仮説」
テレビ依存の強い人では、「円高が進む」と答える率が高いととを示していた。つまり、実際に円高になりつつある状況で、テレビ依存をしている人ほど一層その方向への変化を感じていた。仮説は支持された。
(3) 「特異現象化(カルガモ効果)」仮説
「カルガモ」それ自体については、第2回調査で全国での生息数と特性について質問した。その結果、テレビとそれ以外のメディアによって、稀少で「特異」な鳥として認知されていることがわかった。仮説は部分的に支持された。
(4) 「普遍現象化(過大視効果)」仮説
「東京の大学生の性体験者率」の推定についての質問をみると、東京の男子大学生の性体験者率についての推定は、回答者が「テレビ・雑誌の恋愛や性に関する番組・記事への接触」の高いほど、過大に見積もる傾向があったが、有意な相関ではなかった。しかし,女子の回答者による男子大学生の体験者率の推定については、低いが相関があった。仮説はある程度支持された。
(5) 「中心化」効果
仮説は支持されなかった。
(6) 「脱中心化」効果
(該当設問なし)
(7)「ステレオタイプ補強」効果
エイズは、初めて人々にその存在が知られたときから、同性愛とからめて報道されることが多かったが、次第に、より正確な報道がなされるようになり、日本ではアメリカから輸入される血液製剤に頼る血友病患者の間に多くの感染者がいることが、折りにふれ報道されるようになった。その結果,一般に正しい認識がもたれるようになりつつある。しかるに、テレビを多く見る人ほど、一般に以前のステレオタイプ、つまりエイズと同性愛とをからめる認知が多く見られた。仮説は支持された。
(8) 「行動刺激」効果
現在,評判になっている場所に行きたいかどうかを聞いた5つの質問項目すべてに関して、テレビ依存スケールとの強い相関が見られた。テレビ依存の最も強いグループ(スケール得点3)と最も弱いグループ:(同得点0)とを対比してみると、ブームになっている場所を実際に見たいと回答した者が、前者の方にずっと多い。テレビでの認知が行動を刺激すると考えられる。仮説を支持。
このように、仮説のうちのいくつかについては、それを支持すると考えうる結果が得られた。オーディエンスの現実認知に関して、映像的なインパクトの強いテレビメディアで、このようにメディア依存度の高い人ほどメディア・バイアスの影響を受けやすいことがある程度立証されたわけであり、本研究の意義は大きいといえよう。今後、認知バイアスに関する科学的な研究と連携して研究が発展して行くことを期待したい
擬似イベントからメディア・イベントへ
擬似イベント論 (Booastin, 1962)
ラング夫妻は、テレビ中継やニュース制作に際して生じる現実からの歪曲を、制作者の無意図的バイアスによるものと指摘したが、マス・メディアのニュースをむしろ意図的に合成されたイベントであると論じたのは、ブーアスティンである。ラング夫妻は、マッカーサーデーのテレビ中継が現実を「構成」したことを指摘した。ブーアスティンはこの点をさらに進めて、現代社会のあらゆる領域で擬似イベント(pseudo-event)が製造され続け、現実に変わってイメージが振りまかれていると主張した。ブーアスティンによれば、擬似イベントは、次のような特長を持った出来事である。
- 疑似イベントは自然発生的でなく、誰かがそれを計画し、たくらみ、あるいは扇動したために起こるものである。列車の転覆とか地裏ではなく、インタビューの類であるのを特色とする。
- 疑似イベントは、いつでもそうとは限らないが、本来、報道され、再現されるという直接の目的のために仕組まれたものである。それゆえ、疑似イベントの発生は、報道あるいは再現メディアのつごうのよいように準備される。疑似イベントの成功は、それがどれくらい広く報道されたかということによって測られる。疑似イベントにおける時間関係というものは仮定的、あるいは人工的であるのがふつうである。「何日何時に発表」という但し書のついた記事が事件の発生に先立って配られるし、しかもその発表記事には、事件がすでに起こったように書いてある。「その事件は本当か?」という質問よりも、「その事件にはニュース価値があるか?」という質問のほうが、ずっと重要なのである。
- 疑似イベントの現実に対する関係はあいまいである。しかも疑似イベントに対する興味というものは、主としてこのあいまいさに由来している。疑似イベントに関する限り、「それはどういう意味か?」という質間は新しい重要性をおびてくる。列車の転覆に関するニュース的興味というものは、何が起こったのか、その結果はどうなったのとかいう点にあるのに反し、インタビューに関する興味というものは、ある意味で、インタビューが本当にあったのかどうか、あったとすればその動機はなんであったのだろうかという点にある。ステートメントの場合も、いったいそれが言明しているところのことを本当に意味しているのであろうか。こういった類のあいまいさがない場合には疑似イベントもそれほどおもしろくないのである。
擬似イベントは自己実現の予言としてくわだてられるのが常である。30周年記念祝典は、ホテルがすぐれたものであると宣言することによって、実際にホテルがすぐれたものとなることを可能にしている。
擬似イベントの時代にあっては、われわれを混乱させるのは、経験の人為的単純化ではなく、むしろ経験の人為的複雑化である。擬似イベントが大衆の関心を得ようとして、同じ分野の自然発生的出来事と競争する時には、いつでも擬似イベントのほうに勝ち目がある。テレビの中で起こっている出来事のほうが、テレビの外で起こっている出来事を圧倒してしまう。擬似イベントが自然発生的出来事を圧倒してしまうのはなぜか?ブーアスティンは、その理由となる擬似イベントの特長のいくつかをあげている。
- 疑似イベントのほうがより劇的である。対立候補者によるテレビ討論のほうが、あらかじめ準備されていない立会い演説や、候補者が個々に用意してきた正式の演説の連続よりもはるかに大きなサスペソスを持たせることができる。たとえば、ある質問をあらかじめ用意しておいて、突然それを持ち出すといった方法によってである。
- 疑似イベントは、もともと広く伝達されることを目的として計画されたものであるから報道しやすく、またいきいきとしたニュースにしやすい。登場人物はそのニュース・バリューと劇的性格という観点から選ばれる。
- 疑似イベントは、思いのままにくり返すことができるし、またその印象を後から補強することもできる。
- 疑似イベントは、作り出すのに費用がかかる。したがって、それらを見たり倍じたりする値打ちがあるものとして報道し、拡大し、広告し、賞費することに利害関係を持つ人間が存在する。それゆえ、疑似イベントは投資された金を回収するために、前もって宜伝され、後になっても再演される。
- 疑似イベントは、理解されることを目的として計画されたものであるから理解しやすい。したがって、われわれを安心させる。われわれは候補者の資格や複雑な問題について気のきいた議論をすることができない場合でも、少なくともテレビ出演のできぐあいについては判断を下すことができる。自分たちにも理解できる政治問題があるということは、なんと気持のよいことであろうか!
- 疑似イベントは、社交的で話の種になり、見るのに便利である。疑似イベントの発生はわれわれのつごうに合わせて計画されている。新聞の部厚い日曜版は、われわれがゆっくりとそれを読むことができる日曜日の朝配達される。テレビの番組は、われわれがビールのジョッキを手にしながら見る用意ができた時に始まる。そして朝、人々が事務所に集まった時、話題の中心になるのは、予定されずに突然起こってニュースとなったようなものではなくて、ジャック・パー(群落に以酸番)やその他のスターによって、定期的に放送される深夜番組である。
- 疑似イベントについての知識、すなわち何がどんなぐあいに報道され、何がどんなぐあいに演出されたかについて知っていることが、「ものしり」かどうかの試金石になる。ニュース雑誌には定期的にクイズが現われるが、その質問は、何が起こったかではなくて、誰がニュースに現われたかについてである。すなわち、ニュース雑誌に報道されたことについての質問である。疑似イベントは、いささか時代遅れの私の友人たちが「偉大なる書物」のなかに発見しようと努めた「共通の談話」をわれわれに提供し始めた。
- 最後に、疑似イベントは他の疑似イベントを幾何級数的に発生させる。疑似イベントがわれわれの意識を支配するのは、その数がつねに増大しているからである。
このような「擬似イベント」を作り上げることができるのは、いうまでもなく、テレビ局やそのスポンサー、大企業、広告代理店など、テレビのコンテンツを支配する組織や集団である。テレビ時代には、こうした少数の勢力(権力集団)が、擬似イベントを創造することによって、大衆に対するイメージ操作を独占的に行うことができたのである。
メディア・イベント論(Dayan & Katz)
ダヤーンとカッツ(Dayan & Katz, 1992)は、ブーアスティンの「擬似イベント」よりもやや狭義の概念として、「メディア・イベント」についての実証的研究を行なった。メディア・イベントとは、「テレビがその日常のルーティーン[定期的な番組編成]を破って特別に行う歴史的なイベントの生中継のことである。」(水野, 1998)。メディア・イベントはテレビ放送の一ジャンルであるが、次のような要件を満たすものと定義している。
1. 日常生活を中断して放送されること
2. 生中継(ライブ)であること
3. メディアの「外部」(別な組織や団体およびスタジオ外)で組織・運営されること
4. あらかじめ計画され、予告・宣伝されたイベントであること
5. イベントが行なわれる時間と場所が特定されていること
6. 英雄的なパーソナリティあるいはグループが登場すること
7. 敬虔さと儀式性が賦与されること
8. 何それを見なければならないような社会規範の力が働くこと
9.非常に多数の受け手を感動させ、場合によっては驚かせること。結果的に、社会を統合し,価値や権威への忠誠を新たにさせる機能をもつ
10. 、ジャーナリストの批判性は一時保留され、社会のなかで対立・反目しあっている陣営間で、一時的な和解がなされること
ダヤンとカッツは、メディア・イベントを次の3つの類型に分けている。
(1) 「英雄的使命(heroic mission)」あるいは「征服(conquest)」:宇宙飛行士の月面上陸、サダトのイスラエル訪問、ローマ法王の諸国歴訪などに代表されるもので、常識では不可能と思われた限界にあえて挑戦し、それをのりこえようとする英雄的行為
(2) 「国家的祭典(occasion of state)」あるいは「載冠(Coronation)」:英皇太子の結婚、ケネディ大統領の葬儀、エジプト・イスラエルの平和条約の調印など、ひとつの時代の始まりあるいは終りを象徴するような儀式
(3) 「コンテスト(contest)」:大統領候補者によるテレビ討論、スポーツ世界選手権大会など、スーパー・プレーヤーがルールに従って競い合うもの。
では、メディア・イベントはどのような機能を果たしているのだろうか?この点について、ダヤンとカッツは、イベントに対するテレビのコミットメントという視点から、4つの機能を指摘している。
(1) オーディエンスに対し、セレモニーの現場に居合わせる体験を代償的に提供することによって、儀式における主役 (primary performer)となって、わくわくするような経験を提供する。
(2) テレビの中継は、セレモニーの持っている意味づけを与える機能を果たす(メディア・イベントの現実定義的な側面)。(例)イベントに居合わせた観衆のうち、イベントで称賛されている価値や象徴に同調する人々をクローズアップして見せるなど。
(3) テレビは、イベントが担っている意味の案内役(ガイド)として機能する(解釈的な側面)。この役割は、(アナウンサーのナレーションなどによって)イベントに物語的な統一性を付与し、またそれに物語の筋だてを与えることを通じて遂行される。
(4) イベントは、他のあらゆる番組より絶対的に優先される。すなわち、競合する他の関心事よりも上位に置かれ、「聖なる時」として、いかなる干渉からも保護される(保護的な機能)。例えば、イギリスのロイヤル・ウエディングのセレモニーの間に起きた暴動は、セレモニーが終わるまで報道されることはなかった。
水野(1998)によれば、テレビは、単にイベント自体の定義に忠実でそれを視聴者に目撃させるというだけでなく,視聴者にあたかも現地にいるかのように思わせようとするものである。そのために、テレビは、現地にいる主役たちと観衆との相互作用を描き出す。儀式においては、その焦点は明確に主役たちにある。しかしながら、主役たちと観衆との間に相互作用がなければならない。とりわけ、観衆の反応が不可欠な要素となっている。もし観衆の反応がなければ、儀式は空虚なものとなる。この点で、パレードは典型的だろう。観衆のいないパレードなど考えられもしないからである。
イベントは3次元の現実、観衆は反応する存在であり、テレビはイベントにより近づきうる手段である。現実においては、現場の観衆の間に、ある種の社会階層ができあがる。つまり、招待され儀式の中心近くに位置するか、単に周辺に位置するかによって,自分が社会的にどのような立場にある人間かがわかる。それに対して、テレビというものは、あらゆる視聴者が平等にイベントに接触できるようにするだけでなく、現地の観衆よりももっと多くのものを見させてくれる。それと言うのも,テレビの画面をさえぎるものがないからだけでなく、テレビは、組織者の意図するそのイベントの定義を強調し、さらに解釈を付け加えさえするからである。1993年の皇太子の成婚にあたって、午前中行われた「結婚の儀」には、慣例に従って天皇・皇后は式には出席せず、テレビでそれを見たという。その時点で,テレビ視聴者は天皇・皇后と同じ”特権的な”位置にあったと言える。
テレビはまた、あらゆる人々がイベント全体を見ることを可能にした史上初のメディアでもある。これは、一つには「スペクタクル」ということから生じる。イベントが一大スペクタクルに変換されることにより、かって本物にしかなかった「オーラ」は、今や、むしろメディアイベントの方に付与される。現地の観衆は逆にそのようなオーラの欠けたイベントを体験するのである。
テレビは現地と視聴者の居る場所との物理的な距離を感じさせることはなく、儀式がスペクタクルに変換されていることも意識させまいとする。しかし、テレビは、それがさまざまな距離を消そうとする努力の中で、かえって、その距離を明らかにしてしまうこともある。例えば、テレビによって、かっては普通の人が知りえなかったような、晩餐会における主役のきらびやかなドレスを人々は目にすることができ、それをまねることもできる。しかしながら、決してそのオリジナルを目にしているのではないことが意識させられる。この意味では、テレビによる参加は、それがオリジナルのオーラ(がある場合、それ)を決して侵害しない限りでのものであることが思い知らされるのである。
また、テレビが一旦消してしまった距離というものを,テレビ局のスタッフで現地にいる者とスタジオにいる者との違いを無意図的に浮かび上がらせることによって、テレビはその距離感というものを別な形で再建することもある。例えば、現地にいる者が、そこでしか聞けない「うわさ」を聞き伝えるという形で、イベントにおける物理的な存在感を示すのである。
つまり、テレビは、結局のところは視聴者を現地に運ぶことはできないのである。しかし、この「経験の二次性(secondhandedness)」は、テレビが、これまでに人々が体験できなかったような仕方で補ってくれる。このことについては、すでにブーアスティンの「疑似イベント」論やラング夫妻の実証的な研究においても言われてきた。すなわち、テレビは現実をよりドラマチックに、フィクションとして再構成して視聴者に提示するのである。ダヤーン&カッツは、イギリス皇太子の成婚式中継についての考察をもとに、テレビは日常性からの脱文脈化(de-contextualization)と非日常性への再文脈化(re-contextualization)との二つの過程を通じて、人びとをニュースでもなく娯楽でもない第三の現実に導き入れる、と述べている(竹内, 1984)。脱文脈化は、報道担当の組織面においても、放送時間の編成面においても、平生とはまったくちがった方式をとることによって行なわれる。一方、再文脈化は、めったにない世紀のイベントであることを繰り返し予告し、当日は朝からイベント一色に塗りつぶされた放送を流しつづけることによって、進行してゆく。イギリス皇太子の成婚に際して、「メディア、とりわけテレビは、『水曜日朝のフィーバー』とよばれたほどの集団催眠状態を作りあげた。メディアは人びとを聖域に迎え入れる通過儀礼の司祭として機能した。テレビは人びとを日常世界から連れ出して、この別天地に招き入れた」。こうして、テレビはメディアイベントというものを,神話とシンボルにあふれた儀式から、一編の小説へと翻訳していく機能を果たしているのである。
皇太子結婚パレード中継に関する研究
日本でメディア・イベントについて実証的に研究した事例としては、高橋・岡田・藤竹の研究と、水野・三上の研究がある。時期は異なるが、いずれも皇太子成婚パレードのテレビ中継の事例研究である。前者は、ラング夫妻(Lang & Lang, 1968)のマッカーサーデー研究をモデルとして実施したものであり、後者はLang夫妻(Lang & Lang, 1968)及びDayan & Katz(1992)のメディア・イベント研究をモデルとして実施したものである。
昭和の皇太子結婚テレビ中継に関する調査研究(高橋、岡田、藤竹、由布 1959)
調査の概要:
調査主体:
高橋徹(東大新聞研究所)
藤竹暁(東大大学院)
岡田直之(東大大学院)
由布祥子(東大新聞研究所)
調査時期:1959年4月
調査目的:
皇太子結婚パレードのテレビ報道における「現地」のイメージとテレビで再現された「現地の地図」から得られたイメージの比較によってテレビのメディア特性を明らかにすると同時に、そのいずれが人々の関心を充足するか、またテレビのイベント映像が「天皇制価値感情」にどんな影響を及ぼしたかを明らかにすること。
調査方法:
(1) 視聴者分析
4月10日の馬車行進が行われる二重橋から東宮仮御所までの沿道4区におけるテレビ所有家庭を母集団とし、そのなかから層化無作為抽出法によって選ばれた598世帯をサンプルとして、個人別面接調査を2回にわたって実施した(回収数:第1回411、第2回350)。
(2) メディア分析
4月10日に至るまでのテレビ各局の動きを捉える他、NHK、KRT、NTV三局が4月10日当日行なった「実況放送の内容分析を行うことによって、各局の報道特性を比較した。また、反応分析器(program analyser)を利用して、テレビ視聴者の画面に対する反応と音に対する反応を記録した。
(3) パレードの観察
「現地」と「地図」の相違を明らかにするために、参与観察法の訓練を受けた東大生を主要なテレビカメラの配置地点に位置させ、群衆行動の観察に当たらせるとともに、彼ら自身が直覚的に把握した「お二人」(皇太子、皇太子妃)のイメージを記録させた。それと同時に、パレードの見物人から60名の有意サンプルを選んで、現地に出かけた動機、彼らが「現地」で抱いたイメージとマスメディアから獲得しているイメージとの相違などについて質問紙調査を行なった。
調査の結果:
(1) 現地と地図の選択:
1950年代という、テレビの草創期のメディア・イベントだったにも関わらず、中継当日の1世帯あたりの平均視聴時間は10時間35分にもおよび、当日のテレビ番組に対する視聴者の関心は非常に強いものがあった。特に、当日もっとも深い感銘を受けた番組は「パレードの沿道中継」という回答が47.9%に上った。これは、パレード沿道の住民に対する調査の結果である。これに対し、パレードを見に行った人はわずか17.2%に過ぎなかった。つまり、全サンプルの大半(80.6%)が、彼らに与えられた地理的近接性というチャンスを放棄して、「テレビで再現された現地」(擬似環境)を選択したのだった。その理由を見ても。「沿道では一部しか見られないが、テレビだと全容が見られるから」(38.0%)など<積極型>の回答が多かった。直接経験への参加志向よりも、テレビによる間接的視聴が圧倒的な勝利を収めたのだった。
(2) テレビ中継への充足と現地での失望
当日のテレビ各局の番組への満足度は、89.4%と極めて高かった。特に、「お二人の大写し」が「感動した場面」のトップ(48.0%)に挙げられており、パレード中継でテレビ各局が力を入れたクローズアップ映像が、メディアイベントにおける独自の現実構成力によって視聴者に大きくアピールしたことを示していた。これは、マッカーサー帰還パレード中継においてラング夫妻が見出した知見とも一致する。これとは対照的に、パレードの沿道に集まった人びとの場合、お二人の表情がはっきりと見える範囲を左右50メートルとするならば、わずか15秒のために3時間以上も待ちくたびれた見物人は、相互にほとんどコミュニケーションを欠いていた。ここでは、熱狂する群衆の様子もあらわれなかった。人々は「自分の穴」でお二人に対面したのである(高橋・藤竹・岡田, 1959, p.6)。
平成の皇太子結婚テレビ中継に関する調査研究(水野、三上)
メディア・イベントに関して、実証的メディア効果論の視点から取り組んだ日本の研究として、1993年6月9日の「皇太子成婚パレード」のテレビ中継に関する調査研究がある。これは、水野博介(埼玉大学教授:当時)と筆者(三上)が企画・実施したものである。諸般の事情により、筆者は調査結果の報告書作成には加わることができなかったが、水野による報告論文(水野, 1994, 1998)が公刊されているので、以下ではこの論文の要点を紹介することにしたい。
(1) テレビ中継のメディア・イベント特性
本研究でテーマとして取り上げた皇太子成婚パレード中継放送は、Dayan & Katzの研究における「メディアイベント」の定義にほぼ当てはまっていた。
1. この報道は、ルーティーンの放送でないことが明らかである。当日は、国民の祝日となり、ネットワーク・テレビは、通常の番組に代えて、早朝より十数時間に及ぶ特別番組を組んだのだった。
2. これは皇室行事であり、それが国によって費用もまかなわれ、公的な行事となったもので,その運営主体と催された場所の両方の意味で,テレビの「外部」に組織されたものであった。
3. 皇太子の結婚式典は、イデオロギー的な価値及びより普遍的な価値と関わるものであり、今回のイベントの放送は、そのような価値を強化するものと予想された。
4. この特別放送は,あらかじめ予定され,予告され、前宣伝がなされていた。例えば、テレビ番組情報誌は、あらかじめこの日の放送予定を人々に知らせており,テレビ自身も、局の番組CMなどでこれを予告・宣伝していた。
5. この特別放送に敬さと儀式性が付与されていたことは明らかである。むしろ,それらが最も大きな特徴と言えよう。その放送内容において,結婚の当事者やその関係者。あるいは天皇制や皇室についての批判めいた言辞や紹介は全くなく、逆に敬語が連発される。普段聞かれる天皇制や皇室についての批判的な言説は、このイベントの期間中は抑えられていた。
6. 日本社会の中で対立あるいは反目し合う勢力として、政府与党と野党があるが、、野党も,この結婚イベントについては特に言挙げすることはなく,この面では「一時的な和解」に類する雰囲気がかもし出された。
(2)調査の概要
1. アンケート調査(以下、「大学生調査」と略記)。もう一つは、やはり6月中旬に、パレードの沿道から幅およそ200メートル以内の範囲にある住
ぞおよび自営のお店に、アンケート調査票を留置き、それを郵送で回収したものである。配布数は780で回収数は345,回収率は44.2%だった(以下,「沿道調査」
と略記)。
2. 6月9日水の特別編成の番組をNHK 及び民放の計6局のすべてについてビデオ録画し内容分析を行なった
3. 現地における参与観察とインタビュー:
結婚パレード当日,3つの研究班(学部学生3人、院生3人を含む計9人による)を構成して、パレードがなされた沿道で観察を行ない,パレードを見るために沿道に集まっていた人々のうち,合計29人を有意抽出してインタビューし、ビデオカメラによる録画と録音も行なった。
(3) 調査の結果
1. 皇太子成婚に関するテレビ視聴とパレードの映像
首都圏では、NHK及び民放の計6局が6月9日(水)には朝から夜まで特別編成の番組を放送したが、この日の放送のメインイベントであった「ご結婚パレード」の中継番組(午後4時30分頃から5時30分頃まで)の視聴については、大学生調査で男女別及びその合計で次のような結果が得られた。
パレードの総世帯視聴率(関東、ビデオリサーチ)は79.9%,ほぼ8割の世帯でパレードを見たことになる。これは、1959年の成婚報道に匹敵する高さである。
しかし、中継されたパレード映像の大部分は、オープンカーに乗ってパレードする皇太子と雅子妃のクローズアップ(それも車の後部左側に座った雅子妃中心)であった。
これは、テレビ放送技術の進歩が、長時間にわたるクローズアップ映像のリレーを可能にした結果であり、1959年のパレード中継においては望めないことであった。しかし、逆にそのために、今回はむしろ映像としては単調であった。今回は、前回の馬車と違って車高の低いオープンカーで、スピードアップされた上に、距離も約半分と短く、また、水も痛らさぬ警備のおかげで、パレードに関してはハプニングもなかったことも、単調さに輪をかけたかもしれない。
2. 現地における参与観察とインタビュー
パレードの一行が出発する二重橋近くで観察した水野と三上は、パレードが始まる約1時間半前の午後3時過ぎに、検問(荷物のチェック)を受け、現地に着いたが、すでに観衆を整理する鉄冊の前列には二重三重の人垣ができ、沿道近くで見ることは不可能だった。。午後4時45分を過ぎ、予定通りパレードが来たらしかったが、筆者らには何も見えなかった。オープンカーが通り過ぎると、人々はあっという間に人垣を解いて、帰路に向かい始めた。帰路の途中で、皇居前広場などで記念写真を撮っていた人々も多くいた。
パレードを待つ群衆の様子を別な観察者はこう述べている。「印象に残ったのは、「これじゃ、見えないわね」『たくさん人が来ているのね』という声の多さである。そして、三宅坂を通過する時刻が近づくにつれて、多くの人が耳を澄まして、まわりの様子を聞いていたことである。『来た?」「いやまだだ」というちょとした会話が聞かれた」。パレードが実際に通過した際には、この観察者の報告では、「日の丸の旗が『バサバサ』と揺れ、それと共に「キャー』『ウォー』『万歳』「雅子さーん」「そこどいて」『見えない』「カメラ邪魔」等々の声が入り乱れ,人びとは前に押し寄せてくるし,ものすごい状態だった。しかし,この状態は、ほんの少しの間だった。あまりにもオープンカーの速度が速かったからだろう、と述べている。年配の人々にとっては、何がしかの感慨を与えるものだったようだが、若年層はただ見ることに熱中しただけの人が多かったようだ。しかし、若者の中でも,皇太子はやはり違うと感じとった人がいたり、皇室にミーハー的ではあるが、たいへん興味を抱いていた人もいたようである。
3. 成熟したテレビ視聴者による新鮮な現場体験
高橋らによる1959年のパレード沿道調査では、家族のうち一人でもパレードに出かけた世帯は、わずか17.1%であった。このときは、家にいて、テレビという最新のメディアで、はっきりと見たいという欲求の方が、現場でちらっと見ることで満足することを上回っていた。それに対して、今回の沿道調査では、留置した調査票の郵送回収率(パレードを見た人が記入して返送)は44.2%であり、おそらく半数かそれ以上の世帯で、誰かがパレードに出かけたと推定される。現在では、ビデオデッキが家庭に普及しており、あとで録画した番組を見ることができるので、とりあえず現場でよく見えなくともいいから、とにかく見に出かけた、というメディア環境の変化を反映した行動とも考えられる。
4. 大学生調査
実際にパレードを見に行った学生は2.7%と少ないが、実際には行かなくても行きたい気持ちがあったとする学生が28.9%と相当数いた。このイベントの一回性が動機づけを生み出す原因であったかもしれない。行きたいという動機の回答結果は次のとおりである。
・「歴史的なイベントに参加したかったから」(58.7%)
・「テレビでしか見たことのない人物を自分の目でみたいから」(51.6%)
・「パレードやお祭りが好きだから」(22.8%)
・「結婚する2人を祝福したかったから」(17.9%)
今回のパレードが一回性しかない希有なイベントであることが大きな動機づけの要素となっていたと思われる。つまり、一回性しかないからこそ、それを体験し実物を見たいとする欲求がかき立てられたのだろう。
5. パレードを見た人々の満足度
1959(昭和34)年の調査では、マスメディアによって肥大した期待を抱いて現地におもむいた人々の多くは失望したと結論づけたが、今回の調査で、実際のパレードが全くあるいはまあ期待通りだったとする回答(選択肢1と選択肢2)は合計64.2%に達しており、仮説通り現地で見たことに大きな価値を認めていることがわかった。
このように、1993年の調査では、ラング夫妻や高橋らの先行研究とは違って、現地(パレードの沿道)で参加した人々の満足度が高かった理由として、水野は、テレビの普及が成熟段階に入り、メディア・イベントの放送が日常化する中で、テレビで見るよりも現地で見ることの価値がかえって高まっているためではないか、と次のように述べている。
2つの先行研究と今回の研究との大きな違いは、先行研究が行われた時代にはテレビはまだ「ニューメディア」そのものであり、その機能や可能性は未知数なところが多かったし、見る側もテレビ視聴体験は浅いかほとんどないようなテレビ普及段階であったのに対し,今回の研究は、テレビが本格的に放送を始めてからすでに40年が経過し、相当に「成熟」したメディアだと考えられる時代に行った、という点である。
先行研究の時代は、テレビを見ること自体がまだ珍しい頃であり、テレビを通して歴史的なイベントや大事件に接し世の中の一面を垣間みるという体験自体が、相当に新鮮で、これまでにない貴重なものと認識されていたと思われる。
それに対して今日では、テレビで歴史的なイベントや大事件を見ることさえ、必ずしもそれほど珍しいことではなくなりつつある。テレビを見る側も「成熟」した視聴者になったのである。それ故、逆説的であるが、テレビで大きなイベントを見ることは、もはやありふれた経験であるため、現地でそれを見ることの方がむしろ高い価値を持つと感じられるのではないかという仮説をたてた。
というのも、テレビの存在が普遍化した今日、逆に、テレビで見るような類のイベントや大事件の現場に物理的に居合わせたり、それらを肉眼で目撃することの方が、稀少であり、ずっと高い価値を持つとする意識が芽生えてもおかしくない。テレビを通じて目撃することは、何万人あるいは何億人の中の1人としての経験でしかないが、現場に居合わせることは、ずっと確率の低い,まれな経験である。また,ダヤーン&カッツが言うところの,テレビが決して克服しえない「距離」を克服できるかもしれない機会でもある。
そうしてみると,先行研究が示しているように、イベントを現場で見ようとして集まった人々が期待はずれに失望し、テレビを見た人々がより満足を感じる,ということも必ずしも言えないかもしれない。むしろ現地では、テレビでは感じえない個々の人物・事物のオーラを感じとることができるかもしれない。
実際,今回のイベントの場合,後で見るデータにもある通り、現場に居た人々は多かれ少なかれ期待通りのものを見,テレビと同じくらいに満足を得たのである。(水野, 1998)
擬似パニックに関する研究(三上)
これまで、災害発生時、警報発令時、生命の危険が迫っている危機的状況においては人々がいっせいに脱出しようとして集合的反応としてパニックが発生しやすいと言われてきたが、実際にはパニックは稀にしか起こらないことが、近年の災害社会学研究において明らかになった。これを「災害神話」の一つとして定式化したのは、アメリカの災害研究所長のE.L.Quaranatelliであった。
Quarantelliは、多数の災害事例の研究や過去のパニック研究をもとに、「パニックが実際に起こった事例は極めて少ない」という実態を明らかにした (Quarantelli, 1954 ; Quarantelli and Dynes, 1972)。そして、パニックが起こったとされている事例の多くは、誤った報道によるもので、ニュース報道はしばしば、パニックを誇張して伝えそれが、歪められた「パニック神話」を構築する大きな要因になっていると述べている。例えば、Quarantelli (2008)によれば、1938年の「火星人襲来」のラジオ放送では、85%以上のリスナーがそれをラジオショーとして受け取っており、実際にパニックを起こした人はごく少数であったという。また、1973年にはスウェーデンで架空の原子力発電所の事故が架空のニュースとして放送され、マスコミはこの放送でパニックが起きたと報じたが、実際にはパニック的逃走は発生しなかったという調査結果もある、と指摘している。筆者の調査した「余震情報パニック」騒ぎも、Quarantelliの指摘する「パニック神話」の一つと考えることができる。
このように、パニック現象は現実世界では滅多に起こらないのに、マスメディアによってしばしば誤って伝えられ、それが一般の人びとの間でも、誤った誇張したイメージとして広がっていることは、防災対策を考える上でも大きな問題となっている。こうした歪んだ「パニック」イメージや、それを醸成するマスメディアの「パニック」報道は、リップマンの擬似環境論に倣って、「擬似パニック」と呼ぶことができるだろう。第1部で紹介した「火星からの侵入」パニックは、大規模な擬似パニックの代表的な事例と言える。しかし、その実態や、なぜパニック報道が作られたのか、という点に関しては、十分な実証研究が行われたとは言えない。そこで、以下では、擬似パニック、擬似パニック報道に関する実証的研究の事例として、スウェーデンと日本で行われた研究を紹介することにしたい。
スウェーデンの「原発事故報道」パニック(Rosengren)
1973年11月13日、スウェーデン・ラジオ局は、当時スウェーデン南部に建設中だった原子力発電所で放射能漏れ事故が発生したという架空のストーリーを、ニュースのスタイルに脚色して放送した。その内容は、放射性物質が風に乗って南方へ運ばれ、海峡を越えてデンマークのコペンハーゲンから15マイルのところまで到達したというものだった。
11分間にわたるこのフィクション番組は,核エネルギーに関連して将来起きるかもしれない危険性をめぐる専門的な問題に一般の人々の目を向けようという意図で作られたものだった。この番組では、救急車のサイレンの音を入れたり、よく知られたアナウンサーの声を入れるなどして、非常にリアリスティックな装いを凝らしていた。ただし、番組の前後には,この番組がすべてフィクションであるという断りのアナウンスが挿入された。
ところが、全く予期しないことに、この番組が視聴者の一部分によって本当のニュースと間違えて受けとられたのである。それから1時間もたたぬうちに、マルメ市のラジオ局が、スウェーデン南部地方で広い範囲にわたってパニックが起きたというニュースを流し、翌日の新聞も大見出しでパニック発生を報じた。その後数週間にわたって、この番組の内容と公衆の反応をめぐってマス・メディアや国会の内外で活発な論争が繰り広げられた。しかし、これらの議論では、広範囲に生じたとされるパニックのメディア・イメージは一度も真剣に検討されることなく,既定の事として受け取られたのである。
しかし、事件直後、Rosengrenらがスウェーデン南部の3都市に住む15-79歳の人を対象にアンケート調査を行なったところ、ラジオ番組聴取者の反応に関してメディアの報道や一般のイメージとはまったく異なる実態が明らかになった(Rosengren eta1., 1975)。つまり,番組によって引き起とされたとされるパニックは、実際にはまったく観察されなかったのである。
調査結果によると,この番組を聞いた人は約19%いたが、そのうち47%が番組を二ュースと誤解していた。誤解した人のうち78%が驚いたり不安になったりした。さらに、驚いた人のうち14%が何らかの対応行動をとっていた。つまり、この地域の成人のうち、番組を誤解したのは約10%であり、びっくりしたのは7~8%、何らかの対応行動をとった人は1%にすぎなかったのである。
平塚「誤報警戒宣言」パニック(三上、池田、宮田)
これと似たような事件が我が国でも起こった。平塚市での「警戒宣言」誤放送騒ぎである。1981年10月31日(土)午後9時3分でろ,神奈川県平塚市で、市内45箇所に設置された同報無線のスピーカーから、警戒宣言が発令されたことを知らせる市の広報が誤って放送された。これは,市長の声で事前にテープに録音されていたものが、機械の操作ミスから、タイマーと連動して自動的に送出されてしまったための事故とわかった。放送の内容は、内閣総理大臣から警戒宣言が発令されたこと、平塚市が警戒本部を設置して広報活動、デマ対策や交通規制に全力をあげていることを伝えるとともに、市民に対し、情報収集・火の始末・避難準備などの対応行動をとるよう指示するものだった。
翌朝の新聞は、この誤放送によって平塚市でパニックまたはそれに近い騒ぎが起きたととを一斉に報じた。例えば、読売新聞は「東海地震が来る!?/平塚,夜の警報パニック/全市に避難命令放送/実は操作ミス,30分後訂正/問い合わせ電話,パンク寸前」という大見出しで次のように伝えた。
「31日夜,神奈川県平塚市で市内全域に配置されているスピーカーから,激しいサイレンが鳴り出し、「地震警戒宣言が発令されました。食糧などを持って避難してください」と避難命令が出された。このため避難袋を抱えて戸外へ飛び出す市民も出るなど、市内はパニック状態に陥り、警察や消防署,市役所などへ市民からの電話が相次いだ。
結局,スイッチの操作ミスから地慶戒報テープが回り出したためと分かり、騒ぎは約1時間でおさまったが、同市は大規模地震対策特別措置法に基づく東海地震の「地震防災対策強化地域」に指定されているだけに、市民の驚きと混乱は大きく、怒りの声が沸き上がっていた。」(11月1日朝刊社会面トップ記事・前文)
また、朝日新聞は、1面のトップでこの事件を取り上げ、「大誤報・・地震警戒宣言(平塚)/広報無線ミス作動/夜間に住民避難騒ぎ」という大見出しで、夜空に不気味に浮び上がる同報無線の拡声装置の写真とともに、次のように報じている。
「東海地震の防災対策強化地域に指定されている神奈川県平塚市で31日夜9時すぎ、市内全域に設置されているスピーカーから突然,「内閣総理大臣から大規模地震の警戒
宣言が発令されました。火を消して身の回りのものを準備して下さい…・・・・」という放送が流れた。約80分後に誤報とわかり、平塚市は大あわてで訂正したが、警察や消防署には市民からの問い合わせ電話が殺到して大混乱。団地住民が戸外に飛び出したり、防災ずきんをかぶって炊き出しの用意をするなど一時はパニック寸前の騒ぎとなった。
訂正放送までの間、市民たちは、実家に話をしたり、子供を起して防災ずきんをかぶせるなど、大騒ぎとなった。大あわてでガスの火を止め、バケツやヤカンを持ち出して飲料水を確保して炊き出しを始めた人や、家中で避難準備をしたり、屋外へ飛び出した人も多かった。」
このうち、読売新聞の記事には、住民の反応以外の事実関係でいくつかの誤りが含まれていた。一つは、「避難命令が出された」という記事である。実際には避難命令が放送されたという事実はなく、これは、「いつでも避難できるように準備しておくように」という「避難準備の呼び掛け」の誤りだった。もう一つは,「激しいサイレンが鳴り出し」という部分で、実際にはそのような事実はなかった。
それでは、住民の反応についてはどうだろうか。新聞が報じたように、警戒宜言発令の誤放送を聞いて多くの平塚市民はパニック状態に陥ったのだろうか。
東京大学新開研究所「災害と情報」研究班が、事件の約2週間後に事件当時平塚市内にいた1.681人を対象として実施した調査によると、実際にこの放送を直接または間接的に聞いた人は、とのうち20%(328人)にすぎなかった。また、警戒宣言放送を聞いた人のうち、これを信じたのは14%、ある程度不安になったのは20%にすぎなかった。
「警戒宣言」を信じたのは、低学歴の人々に比較的多いという傾向が見られた。これは、「火星からの侵入」におけるヘルツォークらの調査結果と一致する。批判能力の高さが誤報の信用度と関連しているということだろう。
対応行動をみると、大半の人は情報を確認したり、火の始末をするなどの冷静な対応行動をとっていたことがわかる。実際に避難したと答えたのは2人だけであり,これは、警戒宣言を聞いた人の0.6%、サンプル全体のわずか0.1%にすぎない。
避難をした2人のうち一人に筆者がフォローアップのインタビューをしたところ、この女性(34歳・主婦)は次のように、家族とともに整然とした避難行動をとっていたことがわかった。この日の夜9時でろ、彼女はいつものように自宅で夕食後のひととき、家族そろってテレビを見ていた。同居家族はで主人と子供3人、それにおじいちゃんとおばあちゃんの計7人である。9時3分すぎ、市の同報無線のスピーカーから市長の声で放送が聞とえてきた。それは「警戒官言が出ました。私の言うことをよく聞いてください。デマに惑わされず冷静に行動してください」という内容だと聞き取れた。これを聞いて、彼女は本当に戒宜言が出たと信じ込み,かなり強い不安を感じた。そこで、すぐに寝ていた子供を起して着替えさせ,火の始末をし,非常持ち出し品の準備をして、家族全員で隣の小学校へ避難した。避難する前に,テレビやラジオをつけたり、外へ出て確かめようとしたが、確認できず、ご主人が市役所へ電話をかけたが一向に通じなかったということである。小学校の校庭には他に避難している人もなく,通りかかった人たちが、防災頭巾をかぶって避難している彼女たちの姿を不審そうに見ていた。このような状況に疑問を感じ、ご主人が手び家へ戻って市役所に電話をかけたところ、やっと通じて「誤報」だと確認し、家族は全員家に引き返して、一件落着となった。彼女の家では、ふだんから防災準備をよくやっており、警戒宜言が出たときに家族がどのように連絡を取り合うかとか、どとへ避難するかということを話し合っていた。隣の小学校は市の指定避難場所であり、彼女はとこでの防災訓練にも参加したことがあったのである。このように、実際に避難した人の証言をみても、パニック的な行動とは魅け離れたきわめて環境適応的で整然とした対応行動だったのである。もちろん、このことから直ちに、パニック的な逃走行動を示した人が皆無だったと断定することはできない。しかし、この夜,平塚市民が示した反応は全体的にきわめて冷静であり、集合的パニックは全く起きていなかったと結論づけることができる。
以上,擬似的脅威の集合的認知によって住民の間に一定の心理的・行動的反応が生じ、それがマス・メディアや流言などを通じて「パニック」発生と誤認されて社会成員の間で受容される現象のいくつかを紹介し、実証的研究による実態把握を試みた。そこで、最後に、このような「擬似パニック」がどのようなプロセスを経て形成されるのかという点について検討することにしたい。
擬似パニックは二種類のコミュニケーション過程を通じて形成される。その一つは、流言の作用であり、もう一つは、マス・メディアの取材・報道過程における情報の歪みである。Rosengren らは,サンプル・サーベイのデータを補足するために、局所的にバニックが起きたかどうかについて警察・消防関係者、店員などに対するインテンシヴな聞き取り調査を行なったところ、彼らの中には、パニックがあったというウワサを聞いた人はいたが、実際にパニックの現場を目撃した人はいなかった(Rosengren et al., 1975)。同様の知見は「余震情報パニック」のとき筆者らが沼津市で行なった聞き取り調査においても得られている。事件翌日の日経新聞は、沼津市で非常食の買いだめ騒ぎがあったととを次のように報じた。
ところが、筆者らが事件直後に、同店で店員にインタビューをしたところ、実際には報道されたような「騒ぎ」はまったく起きていなかったことが確かめられた(岡部他、1978)。以下は、店員との一間一答である。
<店員1>(余震情報が出て騒ぎになったが、ここで物が買い占められたとか?).あったらしいが…・・・。(その場にいましたか?)いましたが…・…・・。(お客が殺到して•・・)
殺到するというほどでもない。(乾パンなんか売り切れた?)うわさでしたけど・…・。(現実には?)見なかったから。
<店員2>(18日当日、乾パンとか相当売れたとか聞いたんですが?)乾パンとかかん詰めとか売れました。(ほとんど?)全部というわけではないが、「おかずカン」ですね、マグロッチキン・・・・・そういうもの。(かなりというくらい?)そうですね。
(特に混乱は?)別に混乱はない。(物が買えなくて苦情をいったお客とかは?)
そういう事はない。(3、4年前,トイレットペーパー騒ぎがあったでしょ。そのとき,とちらも買いだめは?)あの時は、なくなる、なくなるでもう・・・・・。(その時に比べたら問題にはならないと・・・・・・)ええ、そうですね。
この他に店の客にインタビューしたり、買いだめがあったというウワサのある他のスーパーでも聞き取りを行なったが、いずれの場合にも、パニック的な買いだめ騒ぎがあったという事実を確認することはできなかった。このように、余震情報騒ぎに関する限り、買いだめパニックはうわさの中で形成された神話にすぎず、現実にはほとんど発生していなかったと結論づけることができる。このような「パニック流言」がどうして拡がるかということの説明は難しいが、人々の潜在的不安を背景に、地震流言の一変種として発生したのではないかと推測される。
「パニック」報道発生原因の解明
ローゼングレンが調査したスウェーデンの事例において、マス・メディアが何故聴取者の反応を誤って「パニック」と報道したのか、その原因を探するために,事件報道の担当責任者に対するインタビュー調査を実施した。その結果,ラジオのニュースで事実が歪められて放送された原因として、次の二つの点があるととがわかった。
第一に,ラジオ局の報道担当者は,最初地方紙の編集記者からバルセベックで原発事故があったという連絡を受けて非常に驚いた。それから間もなく,ラジオ局には一般市民から々に電話がかかってきた。このため,ラジオ局の担当者は、番組を開いた住民の間で何か異常な騒ぎが起とっているという印象を受けることになった。
第二に、ラジオ局では事件の第一報を入手したとき,ニュースの原稿締め切りが1時間足らず後に迫っており、現地へ行って直接確認をとる時間的余裕がなかったため、マルメとランドの察への竜話取材で済ませる他なかった。その頃、察にも興奮した住民からの問い合せ電話が殺到しており、察官はラジオ局の取材に対して、市民から多くの話を受けたことを認めると共に、受けた電話の中で特に変わった内容のものを教えた。その結果,ラジオ局ではパニックが起きたという確信を得るに至ったのである。
こうして、ラジオ・ニュースでは、事件を次のように「原発パニック」として次のように伝えた。
「2つの地域にある普察・消防署・マス・メディアの電話交換機が輻輳した。人々は避難所に列を作っている。バルセベック原発周辺地域の大群集が移動を開始した。マルメの人々は、貴重品を集めて、車で南方へ向かった。」このニュースによって、「パニックが発生した」という状況定義が行なわれ、それ以降のニュースでも「バルセベック原発パニック」という言葉が引き続き使用されることによって既成事実化され、社会的にもそのまま受容されることになったのである。
平塚市の「誤報醬戒言」事件においても,これとほぼ同様のプロセスが進行したことが筆者らの実態調査によってある程度明らかになった(三上, 1984)。この調査では、朝日・読売・神奈川3紙の記者や編集者にインタビューを行ない、事件当夜の取材・報道過程の解明を試みた。ここでは、その中で筆者が担当した読売新聞の事例を紹介しておきたい。事件の取材・報道を主に担当した部局は、東京本社の編集部と整理部、横浜支局,および平塚通信部である。このうち、直接本文および前文の記事の原稿を作成し、送稿したのは、横浜支局および平塚通信部の記者だった。そこで、このふたりの動きを中心として,誤報事件の取材を通じて「パニック」記事が作られていったプロセスを辿ってみよう。
事件の第一報はまず横浜支局に入った。午後9時5分ごろ、平塚市内の読者から「いま広報無線で放送しているが、警戒宣言があったのか」という問い合せがあった。これを開いて、横浜支局の記者は、最初何かの間違いではないかと半半疑だった。というのは、この種のイタズラ電話は以前にも経験していたからである。しかし、とにかく取材を開始することにし,そのとき支局内にいた4人全員に指示して、電話取材に当らせた。
まず、気象台に電話を入れ、警戒宣言が本当に出たのかどうか確認したところ、「そんな警報は出していない」というので、もし実際に出たとすれば誤報であることが確認された。次に、県に電話をしたところ、「そういう話は聞いていない」というので、平塚瞥察に電話して問いあわせた。すると、「そういう話があるので電話が殺到している」という返事だったので、誤報が出たのはどうやら事実らしい,と判断した。そこで、平塚市役所へ電話したが、代表番号は話し中で通じなかった。
A記者と支局デスクは,こうした初動の電話取材を通じて、この事件について、もし誤報が事実だとすればこれは東海地震では初めてのケースであり、ニュースバリューとしてはかなり高く,「全国版の頭を張れるニュースだ」と判断した。以後の取材は、この基本方針に基づいて行なわれることになった。
平塚通信部駐在のB記者との電話連絡は、輻輳のためなかなか取れなかったが、約10分後にやっとつながった。A記者はB記者に対し「大変なことが起きているようだね」と言ったが、B記者はこのとき平塚で何が起きているかをほとんど把握してはいなかった。当日の夜9時ごろ、B記者は平塚市内の自宅で家族とともに、テレビをみたり新聞を読んだりしてくつろいでいた。9時8分すぎ、突然外でスビーカーらしきものから何かワーワーと音がするので、何事かと思い、窓を開けてみたがはっきりせず、妻と一体何だろうと話し合った。最初は広報無線からの放送とは気づかず、廃品回収車の拡声器か何かかと思ったが、その時間にしてはおかしいので、調べてみようという気持になった。
まず、警察署に電話してみたが通じなかったので、次に市役所、消防署の順に電話してみたが、結局どこにもつながらなかった。横浜支局のA記者から電話が入ったのはそのときである。B記者はまだ正確な情報を何一つ得ていなかったが、「大変なことが起きているようだね」という問いかけに対し、突差に「ええそうですね。そちらにはどんな情報が入っていますか?」と受け返し、「誤報が出たという情報が入っている」という返事を得て初めて事件の発生を知ることになった。
この会話で取材の打合せが行なわれた。A記者も支局デスクも「平塚ではパニックが起きている」と思っていたので、恐らく市民が街の中をゾロゾロ歩いているだろうと想像し、「市役所へ行く途中でパニック状態になっている住民の表情がわかるような写真を撮れ」とB記者に指示した。B記者は直ちにカメラを片手に市役所の記者クラブへと急いだ。しかし、市役所へ向かう途中,市民の様子は冷静で「とくに混乱は起きていない」という印象を受けた。A記者に指示されたような絵になる被写体も見つけることはできなかった。その夜一杯、B記者は市役所内の記者クラブにいて、誤報関係者の取材をしたり、8~9人の市民に電話で取材をしたが、市民の反応は冷静だったため、誤報の原因解明に取材のポイントをおくことにし、取材の大半はこれに費やされることになった。
一方、横浜支局では、B記者から市民の反応が予想外に冷静だとの情報を得、またパニックの証拠となるような写真も入手できなかったので、当初の「バニックは起きた」との判断が若干猫らいだ。しかし、支局で平塚市の電話帳をめくって市民に直接電話取材をしたととろ、「防災頭巾をかぶったりして家の中でワーワーやっている」人が何人かいたし、「避難袋を抱えて外に出ている人もいる」と答えた市民もいた。また、B記者からの連絡でも,市役所へ行く途中、外に出ている人を何人か見たということだったので、「完全なパニック」とはいえないまでも、それに近い状態が起きているのではないかと判断し、「パニック状態」と若干ニュアンスを弱めた表現にして記事を書き、東京本社へ送信したのである。
こうして「パニック」記事が作られることになったわけであるが、その主たる原因としては,当初から「パニックが起きた」とA記者が速断していたことの他に、締め切り時間が迫っていた上、現地での取材要員が1名しかおらず、充分な取材が出来なかったこと、および、取材して得た情報が誇張ないし歪曲して解釈されたことをあげることができる。
読売新聞の横浜支局に事件の第一報が入ったのは,31日(土)の午後9時すぎだったが、この時間帯だと首都圏以外向けの早版には間に合わなかった為,神奈川県全域を含む13版と東京・横浜を含む14版(最終版)に載せるととを目標に取材・編集が行なわれた。しかし、13版の締め切りまでには1時間半弱しか時間的余裕はなかった。記事全体の要約ともいえる「前文」をA記者自身が書いたのは午後11時頃であるが、この時点では,パニックが起きたかどうかを最終的に確認することはできず,前述のように「パニック状態」という若干曖味な表現で報道することになった。しかし,この記事が東京本社へ送られ、整理部が「見出し」をつけたときには,この微妙なニュアンスは伝わらず、「夜の警報パニック」というセンセーショナルで断定的な表現にされてしまったのである。
また、現地での取材人員の不足も、短時間で充分な情報を収集できなかった原因の一つに数えられる。当時、平塚通信部に駐在していた読売新開の取材要員はB記者だけであり、B記者は取材,写真撮影,送稿という一連の作業をほとんど一人で行なわなければならなかった。しかも,誤放送の原因解明に手間取ったため,市民の反応について充分な取材をすることができなかった。その結果,横浜支局の「パニック」判断をはっきりと否定するだけの情報を提供するまでには至らなかったのである。
現実を歪めた「パニック」報道が行なわれることになった最後の要因は、取材の過程で知らず知らずのうちに一定方向への誇張ないし歪曲が加えられたことにあったと考えられる。例えば、読売新聞の記事には電話取材で得た市民の証言が2例載っている。筆者を含む調査班が現地で聞き取り調査を実施していた折、そのうちの一人にたまたま行き合せたが、この市民によれば、読売新聞から電話取材を受けたが、同紙はその内容を著しく歪曲して記事にしたということである。この点について、読売新聞側からはこれを肯定する回答は得られなかったが、取材の際に、誘導尋問的な聞き方をしたり、相手の話の内容を記事にする際に、強調点を変えるケースがあることを認める回答が得られた。記者が取材内容を意図的に歪めることは一般に考えられないが、現地から遠く離れた所から「バニックが起きた」という先入見をもって市民への電話取材が行なわれた今回のような事例では、誘導尋問や強調点の移動(すなわちパニックに近い反応部分の誇張)を通じて、無意図的に「バニックが起きた」ことを裏づける方向へと情報が歪められて加工された可能性は否定できない。
以上を要約するならば、「擬似パニック」が形成される要因として、現実的ないし擬似的な脅威の集合的認知とこれを引き起こした社会不安とを背景として、(1)「パニック流言」が伝播すること,(2)マス・メディアの取材・編集担当者が「パニック・イメージ」に基づいて情報の収集と加工を行なうとと、(3)現地通部→支局→本社というタテ系列の情報伝達過程において末端からの情報が正確に上部まで伝わらず、最終的に最もセンセーショナルな「パニック」の見出しが選択されてしまうこと、などを指摘するととができよう。
培養理論
培養理論とは、1960年代後半に、アメリカのジョージ・ガーブナー(George Gerbner)によって提唱された、マスメディアの現実構成機能に関する実証的効果論である。
文化指標研究
ジョージ・ガーブナーは、1919年、ハンガリーのブダペストで生まれた。1939年、アメリカに渡り、UCLAの学士号を取得後、「サンフランシスコ・クロニクル」紙で新聞記者および編集者として短期間働いた。軍役に従事した後、南カリフォルニア大学で大学院に進学し、1955年にコミュニケーション学の博士号を取得。1964年にはフィラデルフィアにあるペンシルベニア大学のアネンバーグ・スクール・フォー・コミュニケーションの教授および学部長に就任した。1989年に学部長を退任したが、1994年まで同大学で教鞭を執り続けた。1973年、ガーブナーはマスコミュニケーションを理解するための新たなパラダイムを提唱した。このパラダイムは、文化指標研究と呼ばれ、制度過程分析、メッセージシステム(内容)分析、そして培養分析の3つの要素で構成されている。培養分析(または培養理論)は、メディア効果論における重要な理論的視点であり、視聴者の社会的現実に対する認識にテレビがどのように影響を与えるかを解明するものである。これに先立って、1967年、ガーブナーは「テレビ暴力プロファイル」を開発した。このツールは文化指標プロジェクトの一環として作成され、3000以上のテレビ番組と3万5000以上のキャラクターを網羅したデータベースを基に、プライムタイムのネットワーク放送番組における暴力の継続的かつ一貫したモニタリングを可能にした 。
コミュニケーション研究の歴史における他の多くのプロジェクトと同様に、「文化指標」は応用的な文脈で独立した資金を受けて開始された(Gerbner, 1969)。アメリカでは、マーティン・ルーサー・キングやボビー・ケネディの暗殺後の国内混乱の時期である1960年代後半に始まり、社会における暴力(テレビでの暴力も含む)を調査するために「暴力の原因と防止に関する全国委員会」が設立された。「文化指標プロジェクト」として後に知られる研究の初期段階で、ガーブナーらは、テレビでの暴力の程度を明らかにし、その性質を記述し、テレビの世界を長期的に監視するための基準を確立した(Gerbner, 1969)。1969年には、暴力の原因と防止に関する全国委員会の報告が公開される前に、議会が100万ドルを拠出し、「テレビと社会行動に関する外科医総監科学諮問委員会」を設立した。この時期に、「文化指標」を含む23のプロジェクトが資金を受けた。この研究では主に、ゴールデンタイムおよび週末の日中に放送されるネットワークドラマ番組の内容に焦点を当てた。こうして、培養分析に先立って、メッセージシステム分析のプロジェクトがスタートしたのである。
現代の大衆文化において、テレビの娯楽番組が果たす役割はきわめて大きい。日本人は平日に平均して約3時間テレビをみており、その中でも娯楽番組の視聴に費やす時間が圧倒的に多い。娯楽番組の中で、人びとの現実構成にもっとも大きな影響を与えるものがあるとすれば、それはテレビドラマであろう。現代のテレビドラマはリアリズムを基調としてつくられている。テーマは日常の家庭生活から、男女の恋愛、親子の葛藤、ビジネス活動、犯罪、病と死、社会問題に至るまで多種多様であるが、その多くは、われわれの身のまわりでいつ起こるかも知れないような出来事を扱っている。もちろん、視聴者の大半は、ドラマが所詮お話にすぎないということを十分に承知の上で、それを楽しんでいるわけである。ドラマの世界に浸っている間、視聴者はしばしば至高の現実としての<日常生活世界>から限定的意味領域である<ドラマ的現実>の世界に逃避することができるのである。そこでは、視聴者は、日常生活世界でのルールに代わって、ドラマを解釈するための固有の認知様式=解釈フレームを用いて、ドラマ的現実を主観的に再構成しているのである。ドラマの中の釜場人物が殺されたとしても、それを演じた俳優が実際に死んでしまったと思う人はまずないだろう。それはあくまでもお話の世界で起こった出来事にすぎないのである。
しかし、その一方で、われわれはドラマに登場する人物と同じようなタイプの人間が身のまわりにもいることを知っており、またそこで繰り広げられる人間ドラマと同じような出来事が現実世界のどこかで起こっていても不思議ではない、と感じている。また、テレビドラマに没入した一部の視験者が、登場人物の演じるパーソナリティや役柄を現実のそれと混同してしまう、というケースも少なからずみられる。医者を演じた俳優が健康相談を受けたり、悪役を演じた俳優が日常生活でも腹黒い性格をもっているかのような印象をもたれてしまうことは決して珍しいことではない。テレビが茶の間に入り込み日常生活に浸透した<ふだん着>のメディアであり、その映像による表現力がきわめてりアルであるがゆえに、テレビドラマの構成する現実への移行は、シュッツのいうような「ショックによる飛麗」を伴うことなく、ごく自然に行われる。それだけ、ドラマ的現実と各観的現実との間の境界は不明瞭なものになりやすいともいえる。
したがって、視職者の属性、視環境、客観的現実へのアクセス可能性のいかんによっては、視験者がテレビドラマの中で構成される現実を客観的現実と混同する可能性もあるわけである。その意味でも、<ドラマ的現実>と<客観的現実>とを比較してみることは、<主観的現実>椎成への影響を考築する上でも、不可欠の手続きといえよう。ちなみに、後述するように、ガーブナーらの<文化指標アプローチ>においては、培養過程を分析するための前段階のステップとして、メディア内容の分析結果と客観的現実との比較照合が行われているのである。
(1)登場人物の属性
a.性別
もし、テレビドラマが現実を忠実に反映しているならば、登場人物の男女比は全体としては1:1でなければならないはずである。ところが、従来のドラマの内容分析をみると、欧米諸国でも日本でも共通して、女性よりも男性の登場する割合のほうが高い、という結果が得られている(村松、1982.p.183)。例えば、ガーブナーらの内容析によると、テレビドラマの主役の約4分の3は男性であった(Gerbner et al., 1976 ;Gerbner et al., 1986)。グリーンバーグらの分析したテレビドラマにおいても、登場人物の71~73%は男性だった(Greenberg et al., 1980a)。
b.年齢
次に、登場人物の年齢分布をみると、どの内容分析においても共通して、20代から40代までの年齢層に集中している、という結果が得られている(Gerbner et al, 1980 b)。その例として、テレビドラマ(平日のブライム・タイム)の登場人物の年齢分布とアメリカの現実の年齢別人日統計データとを比較したガープナーらの分析結果を図2に示す(Gerbner et al., 1980b)。明らかに、現実の分布とはかなり食い違っていることがわかる。20代から40代というのは、人生でもっとも活動力の盛んな時期であり、恋愛、結婚、出産、就職、成功、不倫、離婚など、ドラマチックな出来事がもっとも起こりやすい時期である。したがってドラマにしやすい、ということが、こうした年齢的な偏りを生む最大の原因であろう。
c.職業
登場人物の職業もしくは活動領域をみると、もっとも多いのは専門職であり、サービス業従事者、管理職がこれに続いている。これら3つの職業の比率は、いずれも現実の世界での比率を大幅に上回っている。逆に、事務職や工員などは現実の比率を大幅に下回っていることがわかる。ガーブナーによると、ブルーカラー労働者とサービス業従事者の割合は、アメリカの有職者の67%を占めているにもかかわらず、ドラマの登場人物の中では25%を占めるにすぎないという(Gerbner et al., 1986)。さらに興味深いのは、警察官や弁護士など、犯罪の取締りに関わる職業に就いている人が、現実には有職者人口の1%にすぎないのに、ブルーカラーやサービス業従事者より3倍も多くドラマに登場することである(Gerbner et al., 1977b, 1986)。
d. 社会階層
登場人物の所属する社会階層をみると、10人のうち約7人は、社会階層を5段階に分けたとき「中の中」に相当する人びとである、という分析結果がある(Gerbner et al, 1986)。これは実態とは食い違うものであるが、国民総中流階級という<中流幻想>を反映したものといえるかもしれない。いわば、裕福で社会的に成功した人びとがテレビドラマでは頻繁に登場しているのである(Gerbner et al. 1976;1986)。
(2)登場人物の行為
客観的現実との比較を射程に入れつつ、テレビドラマの登場人物の行為を分析した研究としては、ガープナーらによる「暴力シーン」(violence erisode)の詳細な内容分析がある。これは、登場人物の行為に関する分析としてはもっとも精級なものであり、また後述する指養分析とも深い関わりをつので、ここで少し詳しく紹介しておこう。
まず、(暴力)(violence)という言葉の定義であるが、ガーブナーはこれを「自分自身または他者に対する(武器を用いた、あるいは用いない)物理力の顕在的な行使であり、傷つけられるか殺されるという苦痛を強要したり、実際に傷つけたり殺したりする行為」と定義している(Gerbner et al.1986,1978)。テレビ・ドラマに出てくるく暴力>を量的に測定するために、ガーブナーらは「番組率」(prevalence)、「行為率」(rate)、「役割」(role)という3つの変数を定義している(Gerbner et al..1978)。「番組率」(%P)とは、全サンプルの中で、暴力シーンを少しでも含む番組の割合のことをいう。「行為率」というのは、1番組あたりの暴力シーン数(R/P)、あるいは、1時間あたりの暴力シーン数(R/H)をさしている。また、「役割」は全登場人物の中で暴力行為における加害者または被害者の占める割合のことであり、「加害者」、「被害者」、「暴力関与者」(%V)、「殺人者」、「殺人者」、「殺人の関与者」(%K)の6種類について、それぞれの割合を測定している。
以上の測定データをもとに、ガーブナーらは<暴力指数>(Violence Index;VI)を構成している。これは、「番組スコア」(program score;Ps)と「人物スコア」(character score;CS)とを合計した数値である(VI=PS+CS)。ここで、「番組スコア」と「人物スコア」はそれぞれ次のように定式化されている。
PS=(%P)+2(R/P)+2(R/H)
CS=(%V)+(%K)
ただし、(%V)は「全登場人物の中で、暴力の加害者または被害者の占める割合」を、(%K)は「全登場人物の中で殺人の加害者または被害者の占める割合」を意味している。
12年間を通しての数値でみると、次のようなことがわかる。つまり、全番組の約80%が力シーンを含んでおり、1番組あたりの暴力シーン数は平均5、2回である。また、ドラマの全登場人物の中で暴力に関与する人物の割合は64%に達している。このような傾向は、多少の変動はあるとはいえ、12年間を通してほぼ一定している。また、暴力指数については、1967年から1973年までは減少傾向をみせたが、74年になると再び上昇し、その後もとくに減少している気配はない。さらに、子供向け番組とプライム・タイムの番組とを比較してみると、いずれの指標についても、子供向け番組のほうが暴力的要素を多く含んでいることがわかる。女性は男性よりも被害者になる割合が高い。その中でもとくに、老人の女性、若い女性、未婚の女性、社会階層の低い女性、外国の女性、非白人の女性が被害者になりやすい。また、傷つけられるよりもむしろ殺される率が比較的高いのは、老人の男性、既婚男性、社会階層の低い人、外国人、非白人の男性などである。このようなプロフィールは、長期間にわたって不変であることをガープナーは示している。
このように、アメリカのテレビドラマでは、毎日のように、暴力が氾濫しているわけであるが、ガープナーらは、こうした<ドラマ的現実>は、各観的現実とは著しく食い違ったものであることを指摘している。すなわち、1973年の警察統計によれば、アメリカ国内でも実際の犯罪件数は、人口100人あたり0.41件にすぎず、何らかの犯罪をおかした人のうち、暴力的な犯罪(暴力、傷害、殺人など)をおかした人の割合は10%にとどまっているのである(Gerbner et al., 1977b)。
テレビの培養分析
初期の文化指標の構想では、文化制度の一つとしてのマスメディアが、特定の価値観がコンテンツの制作に影響を与え、さらにそれが個人の影響を及ぼすという視点だったが、次第に対象となるメディアがテレビに絞られるようになった。というのは、テレビからのメッセージが共通のシンボル環境の中心になっているからである。
テレビが登場して以来、われわれをとりまくシンボル環境は激変した。テレビは毎日大量のメッセージを人びとに提供し続けており、アメリカ国民は1日平均3時間以上もテレビを見ている。新聞などと違って、テレビはだれでも容易に近づくことのできるメディアである。そこから流れてくるメッセージは、世の中で何が起こっているか、人びとがどのように生きているのか、大切なことは何か、日常生活でどのように生きるべきかをわれわれに教えてくれる。このようにして、テレビは、かって数会の牧師が定期的な説数を通じて地域社会の人びとに対して果たしていたのと同じような<シンボル機能>を、はるかに広範囲の異質な大衆に対して果たすようになった。いまや、「テレビから反復的に提供される大量のメッセージとイメージは、共通のシンボル環境の主流(mainstream)を形づくっているのである」(Gerbner et al., 1986,p. 18)。
以上のような認識の上に立って、ガーブナーらは、テレビがその圧倒的に高い普及率と視職行動の非選択性・反復性のゆえに、人びとに対して共有された<現実>感覚や価値観を培養している、と主張した(Gerbner et al.,1976)。このような人びとの共通意識は、従来の効果研究が扱ったような特定の態度や意見ではなく、もっと一般的なレベルでの信念や価値観だ、とガープナーらはいう。それは、われわれが社会的現実について認知する際の「前提的観念」(premise)とでも呼べるような基底的意識であり、俗にく文化>と呼ばれるものに近い。それは社会的現実についての共有され、受け継がれたパターンの集合体である。そして、テレビは既存の社会秩序に組み込まれた機関であるがゆえに、現行の秩序や支配的な規範、価値を維持し強化する役割を果たしている、とガーブナーらは述べる (Gerbner et al., 1976)。
こうしたテレビの培養効果を実証的に研究するための方法として、ガーブナーらは<文化指標アプローチ (cultural indicator approach)>を採用したのである。(Gerbner,1969,1973)。ガーブナーによれば、人びとの意見や信念や価値観に及ぼすテレビの影響力を知るためには、まず、テレビから流されるメッセージ・システムについての体系的かつ包括的な分析を長期間にわたって行うことが必要である。これは「メッセージ・システム分析」(message system analysis)と呼ばれる。先に紹介したテレビの「暴力シーン」に関する分析は、その最大の成果といえる。また、そうしたメッセージがどのような制度的過程(権力、役割、社会関係)を通じて選択、形成、伝達されるかを明らかにすることが必要である。これは「制度過程分析」(institutional process analysis)と呼ばれるものである(Gerbner, 1966)。
そして、以上二つの研究にもとづいて、テレビのメッセージが、長期的・反復的・非選択的な視聴を通じて、人びとに共通のイメージや価値観を培養する過程を実証的に研究することが必要になる。これが<培養分析>(cultivation analysis)と呼ばれるものである。ただし、制度過程分析に関する具体的な研究はほとんど行われていないので、ここでは取り上げない。以下では、3番目の「培養分析」について詳しく検討することにしたい。
培養分析の方法と実際
培養分析は具体的にどのような手織きを用いて行われ、また分析の結果、どのような知見が得られているのだろうか。この点について、ガーブナーらの研究を中心にまとめておこう。
前述のように、培養分析は長期的、反復的、非選択的なテレビ視聴が人びとの現実構成に及ぼす影響を実証的に研究することを目的としている。そこからただちに、「テレビをよく見るグループ(高視聴者)とあまり見ないグループ(低視聴者)を比較すると、前者のほうがテレビの提示する現実像を受け入れやすい」という仮説が導き出される。ただし、もしテレビの提示する<記号的現実>が客観的現実の実態に近い場合には、両者の違いを検出することは困難だし、そのこと自体あまり意味はないので、取り上げるべき<現実>は、「暴力シーン」のように、テレビの描写と実態との間に大きな食い違いがあるようなものに限定せざるを得ない。したがって、培養分析を行うためには、まずテレビの内容分析を行い、それと客観的現実との比較照合を行うことが原則的には必要である(Gerbner et al.,1986)。
1968年から77年までのプライム・タイムに放送されたアメリカのテレビ・ドラマの中では、主要登場人物の64%と登場人物の30%が加害者または被害者として暴力シーンに関与している、という分析結果が得られている。ところが、1970年の国勢調査データによれば、暴力的犯罪者の占める比率は100人当たり0.32%にすぎない。つまり、テレビドラマでは現実をはるかに上回る割合で暴力シーンが登場しているわけである。もしこの仮説が正しいとすれば、テレビ高視職者は低視聴者に比べると、テレビに描かれる<暴力>像に近い現実認知をもちやすくなることが予想される。つまり、テレビ高視聴者の方が暴力の比率について過大な認知をしやすいという種向がみられるだろう。
この点を調べるために、視聴者に対して、実生活での暴力の経験について推定してもらい、テレビ的現実に近い数字と実態に近い数字のうち一方を選ばせるという質問を行った。具体的な質問は次のようなものである。「ある1週間にあなたが何らかの暴力に関わるチャンスはどれくらいあると思いますか。それは10日に1回の割合でしょうか、それども100回に1回の割合でしょうか」。「10回に1回の割合」というのはテレビ的現実に近い数字であり、<テレビ寄りの回答>とみなせる。また、「100回に1回」というのは、より実態に近い数字であり、これは<現実寄りの回答>といえる。ガーブナーらは、この他にもテレビの長時間視聴が影響を与えそうな現実認知について、同様の質問をつくり、繰り返し様々なサンプルを対象として調査を実施したり、既存の調査データを分析した。
その結果、高視聴者は低視聴者に比べてテレビ寄りの回答が有意に高いという一貫した傾向が見出された、としている。なお、ガーブナーらは、テレビ寄りの回答率における高視聴者と低視聴者との間の差を<培養格差>(cultivation differential ; CD)と名づけ、これを培養効果の指標として用いている。一般に、CDの値が+で大きくなるにつれて、培養効果も大きくなると解釈することができる。
暴力シーンへの接触と特に強い関連の見出された現実認知としては、①危険の知覚や恐怖感、②対人的な不感や疎外感、の二つがある。それぞれについて、具体的調査データを検討してみよう。
(1)暴力についての危険の知覚と恐怖感
テレビの高視聴者は、テレビ・ドラマの中に氾濫する暴力に繰り返し頻繁に接触することによって、低視聴者に比べると、現実の世界でも暴力がはびこっており、危険に満ち満ちている、というイメージを抱きやすいだろう、という仮説にもとづいて、ガープナーらはこうした危険の認知に関するいくつかの設問を作り、さまざまなサンプルを対象として面接調査を行っている。その結果、いずれの質問についても、高視聴者はそれ以外の人に比べてテレビ寄りの回答をする傾向がみられた。さらに、第3の変数による影響を除去するために、年齢、学歴、新聞関読度、人種、居住地域、所得などでコントロールした上で、テレビ視聴量と現実認知との関連性を調べたところ、大部分の変数とそれぞれのサブ・グループにおいても+のCD値が得られた。
(2)対人不信感と疎外感
このように、テレビの高視聴者は、自分の住む世界を実態以上に暴力と危険に満ちたものとして認知するようになる結果、「大抵の人は信用できない」とか「自分のことしか考えていない人が多い」といった対人的不信感を抱きやすい、という傾向が見出されている(Gerbner et al,1980a)。ガーブナーらはこれを「冷たい世間」症候群("mean world”syndrome)と名づけている。具体的な設問についてみると、例えば、「人びとは大抵自分のことしか考えていない」、あるいは「他の人びととつきあうときには、用心するに越したことはない」と考える人は、テレビを長時間見る人に比較的多い、という講査結果が得られている。性別、学歴、新聞関読度などでコントロールしても、この傾向に変化はみられない。
一方、培養分析を積み重ねるにつれて、培養過程がより複雑に作用することが次第に明らかになってきた。つまり、人びとのおかれた生活状況や集団特性などの要因によって培養効果の程度が異なることが分かってきたのである。ガーブナーらは、こうした培養効果の差を生じる原因の大半が、<主流形成>(mainstreaming)と<共鳴現象>(resonance)という二種類の動的プロセスによって説明できると考えた(Gerbner et al., 1980a)。
まず、<主流形成>というのは、「低視聴者が多様な意見に分かれているような属性集団において、高視聴者の間で共通の意識が形成されること」を意味している(Gerbner et al,,1980a)。例えば、一般に高学歴層や高所得層にはテレビの低視聴者が比較的多いことが知られており、その低視聴者はテレビ的現実を受容する可能性がもっとも低い。しかし、高学歴層、高所得層における高視聴者は、低学歴層、低所得層と同じようにテレビ的現実に偏った共通の意識を抱きやすい、という結果が得られている。(Gerbner et al.,1980a)。
次に、<共鳴現象>というのは、「日常の生活環境がテレビ内容と待合する場合に、培養効果が促進される」という、一種の「相乗効果」作用を意味している。例えば、暴力への不安感がもっとも培養されやすいのは、都市の犯罪多発地域の住民である(Doob and MacDonald. 1979; Gerbner et al., 1980 a ) 。
培養分析の新たな展開
次に、1980年代に入ってからの指養分析の研究動向と今後の課題について、①研究領域の拡大、②研究地域の拡大、③メディア内容の分化と拡大、④効果レベルの拡大、⑤培養効果形成要因の研究、⑥他の関連研究との理論的統合、という5つの側面からまとめておきたい。
(1)研究領域の拡大
70年代の搭養分析は、ガーブナーらの<文化指標アプローチ>にもとづいて、テレビの、暴力シーンが視聴者の現実構成に及ぼす影響に主たる焦点が当てられていたが、最近になって、く社会的現実>の他の領域に培養分析を適用する研究が次々と現われるようになった。そのような<社会的現実>の研究を列挙すると、①政治的志向性、②医者に対する態度、③人種問題に対する意識、④高齢者についての信念、⑤性差別、⑥性役割の認知、⑦生活水準についての知覚、などがある。これらの研究の大半において、一定の培養効果の存在が確認されている。
(2)調査地域の拡大
培養分析は、もともとペンシルバニア大学アネンバーグ・コミュニケーション研究所でガーブナーを中心とするグループが始めたものであり、この理論それ自体、テレビの平均視聴時間の長いアメリカ社会を念頭においてつくられたものである。したがって、当初はアメリカ国内での調査研究に限定されていた。しかし、その後、ヨーロッパ、カナダ、オーストラリアなどでも培養分析を適用した調査研究がいくつか行われるようになった。例えば、ウォーバーは、イギリスのテレビドラマが現実認知に及ぼす悪響を分析しているが、その結果、高視聴者と低視聴者との間で現実認知に有意差は見出されなかった(Wober, 1978)。この点については、ホーキンス(Hawkins and Pingree,1983)が指摘するように、イギリスではテレビドラマに暴力シーンの出てくる比率がアメリカに比べてはるかに低いことや、イギリス人の平均テレビ視職時間がアメリカに比べて著しく短いこと、などの特殊要因を考えれば、当然の結果といえよう。一方、オーストラリアでの暴力番組イメージの認知に及ぼすテレビ視職の影響を調査したピングリーとホーキンスの研究では、培養効果が確認されている(Pingree and Hawkins, 1981)。
(3)メディア内容の分化と拡大
ハーシュは、ガーブナーらの研究に対する批判の中で、指養分析のように、テレビ内容全体を扱うのではなく、特定の番組やジャンルへの接触と現実構成との関連性をもっと重視しなければならない、と指摘している(Hirsch, 1980a)。また、ホーキンスとビングリーも、番組ジャンルによって特養効果の大きさが異なる可能性を調査データによって示唆している(Hawkins and Pingree, 1980)。このように、テレビ番組のタイプによって増養効果の差があることは、すでに指摘したように、テレビの内容自体がく多元的現実)を構成していること、それぞれの<現実>に対する認知様式(解釈フレーム)が異なっていること、等を考えれば、当然の結果といえる。また、ラジオ聴取がテレビ接触と同程度の培養効果をもつというハーシュ(Hirsch,1980)の指摘からも推定されるように、テレビ以外のさまざまなメディアの持つ<培養効果>についても注意を向けることが必要であろう。
(4) レベルの拡大
培養分析においては、メディア内容が現実世界についての知覚に及ぼす影響の研究が中心だが、次第に「信念」「価値観」「態度」などまでも含めて、培養効果を研究するようになってきた。ガーブナーらは、ホーキンスらにならって、これを「第二次の培養分析」(second-order cultivationis)と呼んでいる(Gerbner et al.,1986)。
テレビの継続的な高視聴が態度レベルにまで強い最響を及ぼす可能性のあるグループは、少年など限られた特性の人びとである可能性が強い。一般成人に対しても、態度レベルの培養効果が強力に作用すると考えるのは、非現実的な仮定であろう。さらに、研究の対象は、認知、評価的なレベルまで含めた<現実構成>への影響の有無だけにとどまるべきものではない。問題はむしろ、こうした<現実構成>への影響がさらに、(行動)にまで影響を及ぼすかどうかという点であろう(Hawkins and Pingree, 1983)。今後、この面での研究を進めていくことが大きな課題といえよう。
(5)培養効果形成要因の研究
ガープナーらは、指養効果が形成されるダイナミックなプロセスが<主流形成>と<共鳴現象>という系統的なメカニズムによって生じるとしたが、このようなプロセスそれ自体は、視聴者の置かれている日常生活環境のさまざまな特性や、視聴者のもつさまざまな個人的特性、テレビ視聴行動の特性などによって規定されているものと考えられる。ホーキンスとピングリーは、培養効果が形成される条件として、①情報処理能力、②テレビ・メッセージに対する批判的な態度、③視聴者自身の経験や他のメディアの利用状況、④テレビ視聴における選択性の程度、⑤集団凝集性などの社会構造的要因、などを指摘している。またアドーニらは、日常生活世界の関連性領域における<身近さ一疎遠さ>の位置づけと対応したテレビ・メディアへの依存度を現実構成効果の重要な規定要因と考えている (Adoni et al., 1984) 。以上あげたようなテレビ視聴による培養効果形成の要因は、現実には複雑に絡み合いながら作用しているものと考えられる。こうした諸要因について、今後さらに系統的かつ実証的な分析を深めていくことが必要と思われる。
日本での培養理論研究
培養理論が日本で初めて紹介されたのは、1980年代に入ってからである。村松泰子(1982)、三上俊治(1987、1993)、三上俊治・水野博介・橋元良明(1989)、水野博介(1991)、斉藤慎一・川端美樹(1991)、斉藤慎一(1992、2002、2007)、中村功(1993)などが培養理論について、レビューや実証研究の結果を発表している。なお、"Cultivation Theory"の日本語訳は、当初、「教化理論」「涵養理論」「培養理論」など筆者によってバラバラで統一されていなかったが、村松(1981)、三上(1987)、斉藤(1992)による詳しい紹介論文が出て以降、次第に「培養理論」に統一されるようになった。現在では、ほぼこの訳語で定着するに至っている。
研究レビュー
村松(1982)は、ガーブナーの「文化指標」論と「培養過程」分析をいち早く日本に紹介した論文である。「テレビは、大量に伝達され、人々に共有されるメッセージのシステムである。社会は、このようなメッセージ・システムを通じて、人間存在をめぐる現実や価値について、人々に共有される観念を培養していく。このメッセージ・システムが変化すれば、人々を方向づけている共有されたシンボル環境も遅かれ早かれ変貌を遂げていく。この変貌の性格や速さを捉えるための指標が「文化指標」である」と、文化指標について的確な紹介を行なっている。また、文化指標としてのメッセージ・システムの分析を「メッセージ・システムの分析」「制度的側面の分析」「培養過程の分析」という3つの領域の一つであることも合わせて紹介している。その上で、ガーブナーが1970年に行なった暴力描写の内容分析について詳しく紹介している。
三上(1987)は、現実の社会的構成過程におけるマスメディアの役割について考察したアドーニとメインの論文(Adoni & Mane, 1984)とリップマンの擬似環境論のモデルをもとに、<客観的現実>」<記号的現実><主観的現実>という3つの現実モデルを再構成し、
(1) マスメディアの描く世界(記号的現実)は、現実の世界(客観的現実)とどの程度違っているか、またどのように現実を歪めているか
(2) マスメディアの描く世界(記号的現実)は、受け手の現実構成(主観的現実)にどのような影響を及ぼしているか
について、既存のメディア効果論の文献をレビューしている。そして、テレビにおける<ドラマ的現実>の構成に関する研究として、文化的指標アプローチと培養分析について、詳しい解説を加えている。本論文での培養理論のレビューは、日本語での最初の本格的な解説となっている。
水野(1991)は、文化指標研究と涵養効果分析(培養分析のこと)を単独に取り上げて考察した最初の日本語論文である。本論文では、ガーブナーが1960年代に文化指標研究を立ち上げた経緯を歴史的背景に沿って解説するとともに、テレビが安定したスタイルを持った生活と環境の中で非選択的に接触される結果、家庭や学校、教会に代わって社会化の機能を果たし、人々の現実認識を涵養しているという「涵養効果分析」の基本的考え方を紹介している。そして、暴力プロフィール、涵養効果格差などの基本的研究成果を紹介し、最近の涵養効果研究の成果についても広く解説している。最後に、文化指標研究において蓄積されてきたデータをもとに、長期的な内容の変化を分析することによって、テレビの文化的機能について解明する道が開けるとの展望を示している。
斉藤(1992)は、培養理論の概要を紹介するとともに、培養理論の問題点を整理し、培養理論はいくつかの点で修正が必要であり、今後の課題として因果関係の特定、培養理論の枠組みの中での視聴者のメッセージ解釈の問題、心理学的メカニズムの解明の必要性があることを明らかにした。因果関係については、「テレビ視聴が現実認識に影響する」という考え方と「社会的現実の認識のあり方がテレビ視聴行動を規定する」という考え方があり、前者を主として想定していた従来の培養理論に対しては批判的な研究が相次いでいると指摘している。視聴者のメッセージ解釈については、培養理論では内容分析により明らかにされたテレビの世界を、そのまま視聴者のテレビメッセージ解釈の仕方と考えていた。しかし、実際には視聴者はメッセージ内容の知覚や解釈を能動的に行なっており、メッセージ解釈における多義性を考慮すべきだ、という批判があると指摘している。また、培養理論の基本的前提である「テレビ視聴の非選択性」についても、多くの批判がなされていることを指摘し、特定タイプの番組視聴量と現実認識との関係を調べる方が論理的だとしている。最後に、培養効果過程における心理学的なメカニズムの解明が残されていると述べている。
斉藤 (2002)は、前掲論文以降の培養理論の展開をレビューし、培養理論をめぐる論争点を整理し直している。まず、テレビ視聴量と現実認識との間に見られる関連が擬似相関ではないかという問題については、多くの研究で擬似相関ではないという結果が得られている。因果関係の有無については、パネル調査を用いて因果関係を示する研究がある。また、培養効果が生じる際の心理的メカニズムを解明する研究も進んでおり、テレビ視聴が現実認識に一定の影響を及ぼしていることが示されている。次に、培養効果の独立変数として、「テレビ全体の視聴量」を用いるか、「特定ジャンル(番組)の視聴量」を用いるかで論争が行われてきたが、斉藤は、最近の培養理論の研究動向をもとに、特定ジャンルの視聴量を独立変数として用いた研究も培養理論とみなすべきだと指摘している。最後に、今後の検討課題として、メディア環境の問題を取り上げ「今後仮に、多チャンネル化に伴って番組内容も質的に多様化し、視聴者の細分化や分極化も進んでいくとするなら、培養理論もテレビ全体に共通するメッセージだけを扱うものだとは言っていられなくなるのではないか」としている。
次に、日本でこれまでに行われた文化指標及び培養効果に関する実証的研究の事例をいくつか紹介しよう。
テレビによる社会的現実の認知に関する研究(三上他, 1989)
調査の概要:
大学生235名に対し、特定のテレビニュースを視聴してもらい、1週間後にアンケート調査を実施。主な調査項目は、テレビニュースの視聴有無、普段のマスメディア接触、犯罪、「自殺、エイズに関する認知、短期的効果測定のための項目。
調査結果:
本研究は、培養効果を日本では初めて調査データによって実証的に検証したものである。アメリカでは、テレビドラマの内容分析によって、暴力がテレビドラマに氾濫しているという知見があり、ガーブナーらは、こうした内容上のバイアスが受け手の累積的・反復的視聴を通じて、暴力的な犯罪に対する過大な認知を培養しているという仮説を立て、調査データで検証した。具体的には、ある1週間に実生活で暴力に巻き込まれる確率を推定してもらい、テレビよりの回答(10回に1回)と実態に近い回答(100回に1回)のうち1つだけを選んでもらった。その結果、テレビ高接触群は低接触群に比べてテレビよりの回答が多い、つまり暴力に関わるチャンスを過大に評価するという傾向が見出された。日本でも、岩男ら(1981)の研究によって、アメリカと同様に暴力がテレビに氾濫しているという結果が得られている。
三上らは、培養効果を検証するために、今後1年以内に暴力的事件に巻き込まれる可能性に対する設問の回答とテレビニュース視聴度との関連を調べたところ、ガーブナーらの研究とは反対に、テレビニュースへの接触度の高いグループでは、むしろ犯罪に巻き込まれる可能性を低く評価しやすいという傾向が見られた。また、これとは別の設問で、最近1年間の日米の殺人犯罪件数を別々に推定したもらい、これをテレビニュース視聴量別に分析した。その結果、アメリカの犯罪件数については、培養効果仮説で予想されるように、テレビニュース接触度が高くなるにつれて、殺人発生の推定件数は多くなっていた。これにたいし、日本での殺人件数については、逆にテレビ接触度の高い人ほど件数を少なめに推定するという傾向が見られた。このように、日本では培養効果仮説は必ずしも支持されなかった。ただし、本研究で用いた設問はガーブナーらの調査とは若干異なっていること、データの分析方法がオリジナルの培養効果の分析と異なっていることなど、若干の問題も含んでいる。
培養仮説の日本における実証的検討(斉藤・川端, 1991)
調査の概要:
首都圏の大学生、短大生458人に対して質問紙調査を実施(男性37.3%、女性62.7%)。主な質問項目は、ガーブナーらが培養分析で用いた質問項目、東京で暴力的な犯罪に巻き込まれる人の割合、アメリカの大都市の状況の認識。現在の日本の社会状況に関する質問項目、テレビの視聴時間、テレビ以外のメディアへの接触など。
調査結果:
培養効果に関して、4つの仮説を立てた。1.テレビに長時間接触してきた人は、そうでない人より現実の社会をより危険だと知覚し、培養効果が見られる、2. テレビドラマが現実を反映していると思っている人は、そうでない人よリモ、より大きな培養効果が起こる、3. 性格が消極的な人は積極的な人と比べて、より大きな培養効果を示す。調査データについて、暴力に関する11の設問項目の因子分析を行い、因子別に培養効果の有無を測定した。第1因子は「暴力への不安」、第2因子は「暴力の犠牲者数の推測、第3因子は「対人不信感」の因子と名付けられた。第1因子に因子負荷量の高かった3つの質問項目に対する培養格差及びガンマを用いた分析の結果、「夜道を一人で歩くことに不安を感じるかどうか」という質問については、全体として培養効果は見られなかったが、性別で分けてみると、男女ともに弱いながら培養効果が見られた。他の2つの質問項目に関しては、両項目ともに全体・各属性集団ごとを問わずある程度の培養効果が見られた。さらに、男女別で比較すると、性別で共鳴現象がみられた。また、暴力への不安スケールとテレビ視聴量の偏相関分析の結果を見ると。性別・性格・新聞閲読量などを同時にコントロールした偏相関係数は、やや弱いながら有意な値を示した。第2因子の2項目について、培養格差及びガンマを用いた分析を行った結果、両項目とも、テレビドラマの「高信頼グループ」にはある程度の培養効果が見られたが、「低信頼グループ」にはほとんど培養効果は見られなかった。最後に、第3因子(ガーブナーのいう「冷たい世間指標」)の3項目についての分析結果をみると、全体的には弱い培養効果が見られたが、属性ごとの違いはあまり見られなかった。以上の結果をまとめると、第1因子「暴力への不安」に関しては、仮説1のみが支持され、第2因子「暴力の犠牲者数の推測」では、仮説1(部分的)、仮説2、仮説4が支持され、第3因子「対人不信感」では、仮説1(部分的)と仮説4が支持された。
以上の結果、本研究においては、暴力・犯罪の現実にんちに関しては、培養効果は部分的にしか支持されないという結果が得られた。これは、培養効果のパターンは決して単純なものではなく、属性集団の違いによって培養効果は異なって現れることを示している。
文化指標の日米比較研究(Mikami, 1993)
調査の概要:
国際文化指標プロジェクト(International Cultural Indicator Project)の一環として、ガーブナー、シニョリエリなどと行った共同研究。参加者は、George Gerbner(代表)、N. Signorielli、三上俊治、水野博介、竹下俊郎の5名。暴力的なシーンや行動だけでなく、番組内容のさまざまな特徴、主要および副次的登場人物の特徴、テレビドラマに登場する家族のプロフィールを分析した。共通のコードブックとコーディング手法を使用することで、内容分析データを国際的に比較し、2つの国の間の類似点と相違点を検証した。日本の分析対象番組は、1990年6月4日〜10日のNHK、日本テレビ(NTV)、TBS、フジテレビ、テレビ朝日で放送されたすべてのドラマ番組。7月16日から7月19日にかけて、研究チームの5名がペンシルバニア大学アネンバーグ・スクール・オブ・コミュニケーションズに集まり、研究所の他の3名のスタッフとともにコーディング計画に関する共同ワークショップを開催。16カ国が参加する文化指標プロジェクトで使用されたコードブックに基づき、いくつかのコーディングカテゴリを共同で修正し、最終的なコードブックを完成させた。コードブックには、-番組の特徴(96項目)、主要登場人物の特徴(139項目)、副次的登場人物の特徴(28項目)、暴力シーンの特徴(14項目)などが含まれている。
調査結果:
1. 番組のテーマ
日本とアメリカのテレビドラマの最も顕著なテーマは「家族」であり、両国の約70%のドラマが家族を主要なテーマとして含んでいた。また、「犯罪」も両国で頻繁に登場するテーマだった。一方、アメリカでのみ頻繁に登場したテーマには、「ビジネスと産業」「健康と医療」「法執行」「子ども」「青春期」「経済的成功」「マスメディア」だった。対照的に、日本でのみ頻繁に登場したテーマは「個人の監視」と「人為的災害(事故)」だった。これらの結果は、番組のジャンル構成や文化的背景の違いを反映している。2.
2. 登場人物の目標と価値観
日本の女性登場人物が最も頻繁に追求していた目標は「家族の幸福」と「他者の幸福」だった。一方、日本の男性登場人物は「他者の幸福」と「他者の安全・安心」を主な目標としていた。これに対し、アメリカでは、男女ともに「親密な関係」と「個人の幸福」が主要な目標または価値観として描かれていた。この結果は、日本とアメリカの文化的価値観の違いを反映していると解釈できる。しかし、両国ともに、女性は男性よりも「個人の幸福」「家族の幸福」「親密な関係」を追求する傾向が強く描かれ、一方で男性は女性よりも「地位」や「正義」を追求する傾向があった。「親密な関係」「地位」「達成」「富」は、アメリカの登場人物が日本の登場人物よりも追求する傾向が高いことがわかった。
3. 暴力の描写
アメリカのドラマでは59.4%の番組が暴力を題材として含んでいたのに対し、日本のドラマではほぼすべての番組(97.1%)が暴力を題材として含んでいた。この結果は、日本のドラマがアメリカよりもはるかに多くの暴力を描写していることを示すものである。
4. 暴力の行為者と被害者
日本では主要人物の56%が暴力を振るう者として描かれていたのに対し、アメリカでは29%だった。また、日本では主要人物の殺人者の割合もアメリカより高い結果となった。被害者については、日本では主要人物の61%、副登場人物の24%が被害者として描写されており、アメリカでは主要人物の30%、副登場人物の16%が被害者だった。殺人やその他の暴力行為の被害者として描写された人物の割合はアメリカより日本の方が高かった。日本とアメリカの両国で、男性は女性よりも殺人者として描写される傾向が強くあった。
5. 暴力行為の測定(暴力指数)
サンプル内での暴力行為の総数は、アメリカで266件、日本で296件だった。暴力行為を含む日本のドラマの約85%が「犯罪/アクション・アドベンチャー」と分類され、一方アメリカでは58%だった。
暴力行為の平均持続時間は、日本が14.1秒、アメリカが13.6秒だった。暴力に直接関与する参加者の平均人数は、日本が3.1人、アメリカが2.5人だった。暴力行為に用いられた手段としては、アメリカのドラマでは銃の使用頻度が日本より高く(アメリカ23.7%、日本13.5%)、一方で日本のドラマでは体や手足がより頻繁に使用されていた(日本64.2%、アメリカ59.4%)。
1時間あたりの暴力行為の発生率(R/H)はアメリカが4.7、日本が6.9だった。暴力行為を行う者、被害者、またはその両方を含む割合(%V)は、アメリカが40.2%、日本が75.3%だった。殺人を行う者または殺人の被害者を含む割合(%K)は、アメリカが10.9%、日本が22.1%だった。これらの数値から、Gerbnerらが提唱した「暴力指数(Violent Index, VI)」を以下の式で計算した(Gerbner and Signorielli, 1990)。
VI = %P + 2(R/P) + 2(R/H) + %V + %K
その結果、VIはアメリカが126.3、日本が225.7だった。
以上の結果から、日本のテレビドラマではアメリカよりも暴力行為がはるかに多く描写されていることが明らかになった。以上の研究知見は、綿密な国際共同研究の結果明らかになった日米間のテレビドラマ描写の違いであり、文化指標研究における貴重な研究成果といえよう。
テレビにおける暴力ーその実態と培養効果(中村, 1999)
調査の概要:
1. テレビの殺人関連情報の内容分析
1997年9月16日から212日までに松山市で放送された地上波の全番組のうち、殺人関連情報を含む番組数、放送時間、シーンの数などを計測した。対象とした番組はニュース、ワイドショー、ドラマ、時代劇など殺人事件が頻繁に出てくると思われる5つのジャンルである。
2. 調査データの培養分析
1997年9月23日から10月6日の2週間、松山市で20歳から69歳までの1,000人を対象として留置式調査を実施した。有効回収は656票。主な設問項目は、テレビ接触量と現実認識(暴力犯罪の推定、殺人被害者数の推定)である。
調査結果:
1. 内容分析の結果
殺人を含む番組数や殺人項目数では、ニュースが最も多かった。殺人関連情報の放送時間では、ニュースが4604秒、ワイドショーが14164秒、刑事ドラマが538秒、時代劇が1446秒であり、ワイドショーの放送時間が圧倒的に長かった。テレビの暴力描写において、ワイドショーが極めて重要なジャンルになっていることがわかった。
2. テレビ視聴の培養効果
一般代表サンプルに対する調査をもとに、テレビの総視聴時間と現実認識との関係を調べたところ、テレビ視聴時間が3時間以内の低視聴者でテレビ的回答をした人が52.8%であったのに対し、4時間以上の高視聴者であh63.5%にも達した(カイ2乗検定1%水準で有意)。つまり、ガーブナーらの仮説通り、テレビをよくみる人は現実世界でも暴力があふれていると考える人が多かったのである。
次に、テレビ番組のジャンル別の視聴頻度と現実認識との関連を分析した。擬似相関を排除するために、学歴や年齢などの変数をコントロールした上で、ロ現実認知を従属変数に、テレビ視聴状況を独立変数にしてロジスティック回帰分析を行ったところ、次のようなことがわかった。「テレビの総視聴時間をテレビ視聴状況を表わす変数として計算した場合、総視聴時間が長い人ほどテレビ的回答をする傾向が見られた。その影響の信頼性を示すp値は5%以下で、それほどはっきりしたものではないが、各変数をコントロールした上でも総視聴時間の影響が検出された。総視聴時間に関しては弱いながらもガーブナーらの仮説が今回立証されたことになる。一方テレビ視聴状況として、ワイドショー、刑事サスペンスドラマ、バラエティー番組の視聴類度をそれぞれ投入した場合は、よりはっきりと影響が確認された。すなわち1%以下の有意水準で、ワイドショーや刑事・サスペンスドラマやバラエティー番組をよく見る人ほど、現実も暴力があふれていると認識していることがわかったのである。」このように、各ジャンルで培養効果の表われ方が異なっているという結果は、従来の培養効果研究を再検討を迫るものと言えるかもしれない。
21世紀の培養理論
培養理論は、1960年代にガーブナーによって創始されたメディア効果論であり、主にテレビという大衆向けの視聴覚メディア、主流的なマスメディアの認知的影響を説明するための理論だった。21世紀に入り、テレビの支配力が翳りを見せ、双方向的なニューメディア、ユーザー主導型メディアが次々に登場してメディア環境が大きく変わろうとしている現在でも、培養理論はメディア効果論として有効性を保ち得るのだろうか?
培養理論の創始者であるガーブナーは、惜しくも2005年に亡くなっており、彼自身の考えを聞くことは叶わないが、ガーブナーとともに長年にわたって培養理論の研究を続けてきた3人の専門家(モーガン、シャナハン、シニョリエーリ)が2014年に「21世紀の培養理論」(Cultivation Theory in the Twenty-First Century)と題する論文を発表している。この論文の要旨を紹介することによって、培養理論の今後を占うための参考資料としたいと思う(Morgan, Shanahan & Signorielli, 2014)。
依然として大きな比重を占め続けるテレビ
私たちの生活には多くの種類の画面が存在するにもかかわらず、依然として最も多くの時間を費やしているのはテレビ画面である。家族や居間の大画面テレビ、キッチンの小型テレビ、コンピューター、iPad、スマートフォン、などデバイスは多様化しているが、多くの人は毎日テレビのコンテンツに多くの時間を費やしている。このような状況下で、いかなる場所においても、テレビは依然として国家および世界の物語の語り手であり、ほとんどの時間、ほとんどの人々に対して物語を提供し続けている。現代の子供たちは、親、友達、学校、教会ではなく、商業機関によって語られる物語が大半を占める家庭に生まれ育っている。テレビは人生について教え、誰が勝者で、誰が敗者で、誰が権力者で、誰が弱者であるのか、さらに誰が幸福で、誰が悲しんでいるのかを教えてくれる。テレビは、異質な集団に共通の社会化と日常的な情報(通常、娯楽の形で覆い隠された形)を提供する主要な情報源である。それは世界を定義し、特定の社会秩序を正当化する物語の絶え間ない流れを提供しているのである。確かに、テレビは世界を説明する多くのメディアの一つにすぎなくなっている。実際、現代の子供たちはマルチメディアでマルチタスクする環境で成長しており、メディアに費やす総時間は1日あたり11時間を超えている。しかし、その大部分はテレビと関わりを持っている。多様なデジタルメディアや新しいメディア技術が利用可能であるにもかかわらず、今日でもテレビは依然として最も多くの視聴者と広告収益を集めているのである。
したがって、数多くの専門化した新しいチャンネルや、ますます小規模な視聴者を対象としたさまざまなプログラムが登場しているにもかかわらず、制度としてのテレビは引き続き社会のほぼ全員に共通のイメージを提供している。そして、暴力、ジェンダー、人種、階級、権力、消費、その他の基本的なイデオロギー的側面に関する重要なメッセージや教訓は、異なるプログラムやチャンネルを超えて一貫している。
培養理論の発展
2010年の時点で、500本以上の培養理論関連の研究が発表されており、その3分の2は、ガーブナーや彼のオリジナル研究チームと無関係の独立した研究者による拡張、追試、レビュー、批評である。最初の培養研究は、テレビ視聴が暴力や被害の信念と認識にどのように寄与するかを調査したが、その後、ジェンダー役割、少数派や年齢役割のステレオタイプ、健康、科学、家族、教育の達成や志望、政治、宗教、環境など、多くの社会的・生活的側面に研究の対象が拡大した。これらのテーマの多くは、文化間比較の文脈でも検討されている。実際、これまでにアルゼンチン、オーストラリア、ベルギー、ブラジル、中国、イギリス、ドイツ、ハンガリー、イスラエル、日本、メキシコ、ロシア、韓国、スウェーデン、タイなどで培養研究が行われている。培養理論は、議題設定理論や「利用と満足」理論と並び、1956年から2000年の間に発表された主要な学術誌において最も多く引用された3つの理論の1つである。さらに、1993年から2005年に発表された16の学術誌の記事962本を分析した結果、培養理論が最も多く引用された理論であった。このように、培養理論の研究は、21世紀に入った現在も大きく発展し続けている。
メディア効果論における培養理論の独自性
ガーブナーは文化を「社会的関係を規制し、再生産するメッセージとイメージのシステム」と見なした。言い換えれば、文化とは大量生産された物語のシステムであり、それが存在とその意識の間を仲介し、両者に寄与するのである。その結果、私たちを取り巻く媒介されたメッセージやイメージは、世界についての私たちの考え方を反映し、再生産する。培養は「変化」を研究する多くのメディア効果モデルとは異なり、単純な線形的「刺激ー反応」モデルやメディアメッセージに対する短期的な即時反応を意味するものではない。むしろ、テレビの反復的で安定したメッセージへの長期的な累積的接触に焦点を当てている。それは、多くの視聴者に利用可能なチャンネル数が増加したにもかかわらず、依然として持続している。培養とは、テレビ視聴が人々の社会的現実の認識に独自の影響を与えることを意味している。ガーブナーにとって、培養とは、テレビ番組に見られるような社会的および制度的な力学を示す象徴的な環境に住むことであり、それが集団的意識を創り出すということであった。
認知プロセスと現実感の認識
ガーブナーは、培養の認知プロセスを理解することは特に重要ではないと考えていた。彼は、培養に関与するプロセスは、人々が世界や環境について物事を学ぶ一般的なプロセスにすぎないと仮定していた。しかしながら、Shrumの研究は一貫して、ヒューリスティック処理(心理的短絡処理の使用)が社会的現実について学ぶ際の中心的な役割を果たしていることを示している。私たちは通常、情報源(例:テレビ)を特に問われない限り考慮せず、情報源を考慮した場合には、培養効果が見られないことが多い。このメディアメッセージの認知処理に関する研究は、培養理論に対して大きな外的妥当性を提供している。
同様に、「現実感」、特に「現実感の認識」が培養を理解するうえで重要な要素として検討されている。多くの研究者は、「現実的」と認識される番組だけが世界に関する信念に影響を与えると考えていたが、最近の研究はその答えがそれほど単純ではないことを示している。例えば、BusselleとBilandzicは、現実感の認識は「デフォルト」の状態であると提案している。つまり、特段の理由がない限り、私たちはコンテンツが現実的であると仮定してしまう傾向がある。ほとんどのコンテンツは、それがファンタジーと認識されているものであっても、ある程度の現実感の認識を持っており、視聴者はテレビから得た印象を実世界の理解に持ち込むのである。BilandzicとBusselleは、物語への「没入」(批判的な思考を弱める、または物語に完全に「引き込まれる」)が培養における重要な要素だと言う提案を行なっている。彼らの研究結果は、「没入しやすさ」が培養を増加させる特性である可能性を示唆している。
番組ジャンルと培養効果
これまで、多くの研究者が培養現象やその関連効果を理解するうえで、特定のメディアメッセージのジャンルへの露出が重要な要素であるべきかどうかを問いかけてきた。ガーブナーの当初の理論では、テレビ視聴は特定の番組やジャンルではなく、全体の視聴時間によって測定されると考えられた。ShanahanとMorgan(1999)は、「番組ジャンルや視聴形式を超えて共通する設定、配役、社会的類型、行動、関連する結果のパターンがテレビの世界を定義している」(p.30)と指摘している。このため、重視聴者は日々こうしたイメージやメッセージに繰り返し触れることで、社会的現実に対する見解が影響を受けると予測される。
一方で、培養研究は特定のジャンルの番組に焦点を当てるべきだと考える者もいる。これらの研究者は、異なる番組タイプが世界に対して多様な見解を提示し、社会的現実に対する独自の認識を培養すると仮定している。CohenとWeimann(2000)は、異なるジャンルは通常フォーマライズされた構造に基づいているが、それでも視聴者に多様な世界観を提供していると述べている。例えば、ニュース、犯罪、アクション番組や時事問題を探る番組は、社会秩序に焦点を当て、公共の生活を家庭生活とは区別し、正と誤を明確にする傾向がある。一方、シチュエーション・コメディや家庭ドラマ、ソープオペラは、家庭問題、家族関係、友情に焦点を当てている。
特に、一部の研究者は、視聴者の恐怖や暴力に対する認識が、特定ジャンル、特に犯罪関連の番組視聴に起因すると仮定している。犯罪番組が社会における犯罪の統計を歪めていることが知られているにもかかわらず、多くの研究が犯罪に関する認識と犯罪番組視聴との間に関係があることを示している。例えば、Holbert, Shah, and Kwak(2004)は、全国規模のサンプルを用いて、テレビニュースや警察のリアリティ番組の視聴が犯罪に対する恐怖心に関連していることを発見したが、犯罪ドラマの視聴はそうではなかった。また、この分析では、ノンフィクション番組(警察のリアリティ番組など)の視聴が、フィクションの犯罪ドラマ視聴よりも社会的現実に対する認識に強く関連している傾向があることが示された。この違いは、警察のリアリティ番組の現実感の高さによるものと解釈された。
ニューメディアと培養理論
この40年間でメディア環境の多くの側面が大きく変化してきた。1950年代から1980年代にかけて、テレビはABC、CBS、NBCの3つの主要ネットワークが視聴者の大部分を占めており、各市場には独立局が数局しか存在しなかった。映画は劇場で上映されるか、劇場公開終了から数年後にテレビで放映されるのが一般的であり、書籍や雑誌、新聞は書店やスーパーマーケット、薬局、ニューススタンドで購入する物理的な媒体であった。
しかし現在では、ケーブルや衛星放送システムが数百のチャンネルを提供し、オンデマンドで数千の番組や映画を視聴可能である。インターネットは、ほぼすべての映画やテレビ番組への即時アクセスを可能にしている(合法・違法を問わず)。多くの映画は依然として劇場公開されるものの、上映期間が短縮され、ケーブル映画パッケージ、DVD、あるいはダウンロードやストリーミングといった、より収益性の高い市場に迅速に移行する傾向が強まっている。中には、家庭用ビデオ市場専用に制作される映画もある。また、新聞や雑誌、書籍の物理的なコピーを購入することも可能だが、多くの人々がこれらを電子的に消費するようになっている。
こうした状況下で培養は、コンテンツの基盤的要素と視聴者がこれらのメッセージとどのように相互作用するかに焦点を当ててきた。ShanahanとMorgan(1999)は、「メッセージの内容は、それを届ける技術よりも本質的に重要である」と指摘している(p.201)。この点から、新しい技術はメディアが視聴者に与える影響を説明する重要な方法としての培養理論を無効にするものではない。新しい技術により、視聴者は自分の見たいものを、見たいときに、見たい場所で視聴することが容易になったが、同時に視聴量自体も増加している。視聴チャンネルが増えたにもかかわらず、これらのイメージに浸透する共通のメッセージや教訓を探ることが、ますます重要になっている。インターネットでのテレビ番組の視聴は、本質的には「テレビを視聴している」ことに変わりはない。
MorganとShanahan(2010)は、「テレビはまだしばらくの間、私たちの主要な文化的ストーリーテラーであり続けるだろう」(p.351)と述べている。したがって、培養理論に基づく研究は、インターネットの一般的なコンテンツを評価し、コンピュータを主要な娯楽媒体として使用する人々が、受け取るメッセージによって世界をどのように認識するかを明らかにする必要がある。同時に、これらのメッセージがテレビ番組で一貫して見られる価値観や要素と同じかどうかを検証することが重要である。コンピュータ技術に結びついた娯楽を利用する人々が、従来のメッセージを受け取る可能性は高いと推測される。このことから、培養の証拠は基本的に同じままであると考えられる。
結論
全体として、テレビは以前よりも断片化し、多様なスクリーンで視聴されるようになっているが、それでもなお、テレビは多くの物語を多くの人々に、ほとんどの時間語り続ける「物語の語り手」であり続けている。したがって、21世紀においても、目にするもの、語られる物語、そして人々が世界を見る方法との関係は、これまでと同様に重要であり続けている。ガーブナーの培養という広範なアイデアは、1970年代初頭と同様に、現代においてもなお有効性を持ち続けている。
(筆者のコメント)
本論文の著者はいずれもガーブナーの共同研究者や後継者であるせいか、多チャンネル化やインターネットの時代になっても、テレビからのメッセージが支配的な影響力を持つ時代は続くとして、従来の培養理論を擁護する文章で終わっている。しかし、2024年のアメリカ大統領選挙や兵庫県知事選挙にみられるように、今やYouTubeやSNS上のコンテンツが有権者の現実認識に大きな影響を及ぼし、それが選挙の結果をも左右するような時代に入りつつあることも事実である、培養理論も、こうしたメディア環境の変化に合わせて、理論の再検討を行う時期に来ているのではないだろうか。
マスメディアの議題設定機能
11月28日(木)〜12月2日(月)
議題設定研究登場の背景
議題設定研究は、1968年のアメリカ大統領選挙での調査を通じて生まれたが、そのきっかけとなったのは、ロサンゼルスのホテルでの何気ない会話だった。また、議題設定仮説のヒントになった先行研究は、リップマンの「世論」とコーエンの著作だった。
ホテルでの何気ない会話から始まった
それは1967年のことだった。マクスウェル・マコームズは、カリフォルニア州UCLAのジャーナリズム学部の助教授だった。ロサンゼルスのウィルシャー通りにあるセンチュリープラザホテルで仕事後に一杯飲みながら、マコームズともう一人の若手同僚は、ある特定のニュースイベントがなぜ世論に大きな影響を与えなかったのかを議論した。その日のロサンゼルス・タイムズの一面を見ると、そのニュースイベント(ジョンソン政権における小さなスキャンダル)の記事は、小さな写真と控えめな見出しだけで、ほとんど目立たない扱いだった。一方で、その日の一面には他の二つのニュースが大きく取り上げられていた。しかし、この日に別の新聞、例えばニューヨーク・タイムズを読んでいた人は、そのスキャンダルをもっと重要な問題だと考えたかもしれない。この「メディアによる議題設定」の議論が、マコームズをUCLAの書店に向かわせ、コーエン(1963年)の著作(『新聞と外交政策』)を購入するきっかけとなった。その本には、議題設定についての現在では有名な次のような比喩的表現が含まれていた。
報道は人々に「何を考えるべきか」を伝えるのには必ずしも成功しないが、「何について考えるべきか」を伝える点では驚異的な成功を収めている」
(It may not be successful much of the time in telling people what to think, but it is stunningly successful in telling its readers what to think about. )
その後まもなく、マコームズはノースカロライナ大学でドナルド・ショーと共にチャペルヒル研究を行うことになったのである。
リップマンの「世論」
マコームズらの「議題設定機能」研究の知的ルーツは、リップマンの「世論」における擬似環境論にあった。マコームズの論文「ニュースメディアと我々の頭の中の映像」(The News Media and the Pictures in Our Heads) (McCombs, ) の中で、リップマンの「世論」と議題設定」研究との間の関連について、次のように述べている。
コーエンの論文
コーエンは、「新聞と外交政策」という著書の第1章「設定」の中で、リップマンの「世論」を引用した後に、議題設定研究のヒントになった有名な言葉を残している。関連のある部分を次に引用しておく。
年を追うごとに外交政策はアメリカの公共政策の中心的な課題へと近づいており、国家的価値を守るための困難と費用がますます大きくなっている。問題が国家の存続に関わるものとして明確になるにつれ、我々が行う外交政策の選択の重要性、さらにはその選択肢の範囲を事前に理解することの重要性が、より深く認識されるようになる。ウォルター・リップマンが「頭の中の地図」の重要性について書き、「人々が世界を旅するためには世界の地図を持たねばならない」と述べたのも、まさにこの点に関連している。
国際問題の全体像を直接経験できる者はいないということは自明の理でありながら重要な事実である。我々は、幸運にも重要な出来事に参加したり観察したりする機会があれば、そのごく一部を直接知ることができるかもしれない。しかし、一般的には、外部の世界、すなわち外交政策の世界は、大衆伝達メディア、特に報道を通じて我々に届くものである。
外交政策に関心を持つ大多数の人々にとって、実際に機能する世界の政治的地図、すなわち運用可能な世界地図は、地図製作者ではなく、記者や編集者によって描かれている。例えば、ラテンアメリカは地図製作者の地図では多くの空間を占めるが、アメリカの大多数の新聞が描く政治的地図にはほとんど存在しない。そして、新聞で報道されていない出来事(またはラジオやテレビで報道されない出来事)は、我々にとっては実際には「存在しなかった」も同然である。
つまり、報道は単なる情報や意見の提供者以上の存在である。報道は人々に「何を考えるべきか」を伝えるのには必ずしも成功しないが、「何について考えるべきか」を伝える点では驚異的な成功を収めている。そしてこのことから、個々人の世界観は、個人的な関心だけでなく、彼らが読む新聞の記者、編集者、発行者によって描かれた地図に依存して異なって見えるようになる。
地図という概念は範囲が狭すぎるかもしれない。というのも、報道が伝える政治的現象の全範囲を十分に示唆しているわけではないからである。むしろ、それは場所、人々、状況、出来事のアトラスであり、さらに**報道が人々の問題解決に対する考えを論じる際には、政策の可能性や選択肢のアトラスでもある。編集者は、自分はただ人々が読みたがっているものを掲載しているだけだと考えているかもしれないが、それによって人々の注意を引きつけ、次の波が押し寄せるまで彼らが何を考え、何を話題にするかを強力に決定しているのである。
このように、コーエンの著書でしばしば引用される文章の前後関係を詳しくみると、それはリップマンの「世論」における擬似環境論に強く影響されたものであることがわかるのである。
ラング夫妻の研究
一方、コーエンよりも早く、議題設定機能とよく似た機能に言及したマス・コミュニケーション研究者として、マコームズとショーは、ラング夫妻をあげている。1959年にラング夫妻は「マスメディアは特定の問題に注意を向けさせる。政治家の公的なイメージを構築する。マスメディアは常に、個人が何について考えるべきか、知るべきか、感情を抱くべきかを示唆する対象を提示している(The mass media force attention to certain issues. They build up public images of political figures. They are constantly presenting objects suggesting what individuals in the mass should think about ,know about, have feelings about)」と述べていた(Lang & Lang, 1966; McCombs & Shaw, 1972)。
マスメディアの「議題設定機能」仮説の検証(1972年チャペルヒル調査)
「議題設定機能」仮説とは、「マスメディアが政治的な手点に関する議題を設定し,争点に関する人びとの顕出性(salience:重要度の評価)に影響を与える」という考え方である。議題設定機能仮説を初めて操作的に定式化し,実証的データによって検証したのは、アメリカのマス・コミュニケーション研究者であるマコームズとショー(McCombs & Shaw, 1972)であった。かれらは,1968年のアメリカ大統領選挙キャンペーン期間中、まだ投票態度を決めていない有権者100名を対象として面接調査を行い,議題設定仮説の検証をこころみた。彼らは、調査対象者に,その時点でどんな問題が政策面での重要な争点だと思うかを自由回答方式で答えてもらった。また,調査期間とほぼ同時期に調査対象地域で発行されている新聞,ニュース雑誌、および調査地域で視聴可能なネットワーク・テレビのイブニング・ニュースを内容分析し,主要な6つの手点と選挙キャンペーンに関するニュースの報道量を測定した。分析された争点は、「外交政策」「法と秩序」「財政政策」「公共福祉」「公民権」および「その他」である。そして有権者がどんな争点を重要だと判断しているかという争点顕出性の程度と、マスメディアがそれらの争点を強調する程度(報道量)との間の順位相関係数を算出したところ、主要なニュース報道に関しては+0.967,マイナーな報道に関しては+0.979という非常に高い相関を示した。これは、議題設定機能の仮説をある程度支持するものであった。この選挙では、ニクソンの他にハンフリー、ウォーレスも立候補しており、各候補者のキャンペーンにおいて強調された争点はかなり異なっていたが、有権者による争点顕出性は、それぞれの支持する候補者の争点強調度よりもマスメディアの報道全体における争点強調度との間でより強い相関が見いだされた。このことは、有権者の争点認知が、自分の支持する政党や候補者のキャンペーンよりも、むしろマスメディアが全体として設定する議題によって、より大きな影響を受けていたことを示すものである。
調査の方法:
1. 調査対象
本研究では、チャペルヒルの有権者がキャンペーンの主要な問題として挙げた事項と、キャンペーン中に彼らが利用したマスメディアの実際の内容を比較照合した。調査対象者は、経済的、社会的、人種的にコミュニティを代表する5つのチャペルヒル地区における有権者登録リストから無作為に選出された100名。この100名の回答者を選定するため、フィルター質問が用いられ、まだ投票先を明確に決めていない者だけを選び出した。調査対象をこのように限定したのは、彼らがキャンペーン情報に最もオープンで(特定の候補者にまだ完全にコミットしておらず)影響を受けやすいと推測されたからである。
2. 回答者の「主要な問題」とマスメディアの内容分析
各回答者には、候補者がその時点で何を言っているかに関わらず、自分が重要と考える主要な問題を挙げてもらった。調査者は回答を可能な限り正確に記録した。これと同時に、これらの有権者に情報を提供しているマスメディアを収集し、その内容を分析した。
マスメディアのニュース内容は、「主要」と「副次」の2つのレベルに分けられ、メディアごとの主要項目は次のように定義された。
(1) テレビ:長さが45秒以上、またはトップ3の主要ニュースに該当するストーリー。
(2) 新聞:政治ニュース報道が少なくとも記事全体の3分の1(最低5段落)を占め、かつ一面のトップ記事、または3段組み以上の見出しの下に掲載された記事。
(3) ニュース雑誌:1ページ以上にわたる記事、またはニュースセクションの冒頭に掲載されたリード記事。
(4) 社説ページ:社説ページのトップ左隅に配置されたリード社説、および社説やコラムコメントの3分の1(最低5段落)が政治キャンペーン報道に充てられた項目。
調査結果:
マスメディアは、有権者がキャンペーンの主要問題をどのように判断したかに大きな影響を与えていたことがわかった。調査では、質問項目において「候補者がその時点で何を言っているかに関係なく判断する」よう指示されていたにもかかわらず、有権者が重要な問題として挙げたものと、マスメディアが取り上げた主要項目の重点との間には+0.967の相関があった。同様に、副次項目の重点と有権者の判断との相関は+0.979であった。つまり、このデータは、マスメディアがキャンペーン問題に置いた重点(候補者の重点をある程度反映している)と、有権者の様々なキャンペーントピックの顕出性や重要性に関する判断の間の強い関連性を示唆している。しかし、大統領候補3人がそれぞれ異なる問題に大きく異なる重点を置いたにもかかわらず、有権者の判断はマスメディア報道の全体集約を反映しているように思われる。これは、有権者が特定の支持候補に関係なく、すべての政治ニュースに一定の注意を払っていることを示唆している。
考察:
マスメディアの議題設定機能の存在は、ここで報告された相関関係だけでは証明できないが、マスメディアによる議題設定が起こるために必要な条件と一致する証拠が示された。本研究では、チャペルヒル有権者全体をいくつかのマスメディアの総体的な報道と比較した。このアプローチは議題設定仮説の最初のテストとしては適切であるが、今後の研究では、広い社会的レベルから社会心理学的レベルに移行し、個々の態度を個々のマスメディア利用と対応付ける必要がある。
本研究の証拠をマスメディアの影響を示すものと解釈することは、他の説明よりも説得力がある。有権者とメディアの重点が一致する相関関係が偶然である、すなわち両者が同じ出来事に反応しているだけで相互に影響を及ぼしていないという主張は、有権者が日々の政治情勢の変化を観察するための別の手段を持っていることを前提としている。しかし、この前提は現実的ではない。大統領選挙キャンペーンに直接参加する人は少なく、大統領候補を直接見る人はさらに少ない。対人コミュニケーションで流れる情報も、主にマスメディアのニュース報道に基づき、中継されるものである。マスメディアは国家的な政治情報の主要な一次情報源であり、大多数にとって、マスメディアは絶えず変化する政治現実を簡単に得られる最良かつ唯一の近似情報だからである。
また、高い相関が示しているのは、メディアが単に受け手の関心に合ったメッセージを成功裏に発信した結果であると主張することも可能である。しかし、多くの研究が示しているように、職業的なジャーナリストのニュース価値と視聴者の関心の間には大きな乖離が存在する。このような中で、今回のケースで完璧に近い一致が見られることは驚くべきことである。それよりもむしろ、メディアが主要報道の分野で優位性を持っていると考える方が妥当である。
論文発表の経緯
マコームズとショーの論文(1972)がその後の議題設定研究者に多大な影響を与えたにもかかわらず、この論文が発表されるまでには困難があった。彼らはチャペルヒル研究の論文を当時の主要な学会の一つであったジャーナリズム教育協会 (AEJ) の理論・方法論部門に投稿したが、「型破りすぎる」「サンプルが少なすぎる」「理論的根拠が不十分」といった理由で拒否された(Tankard, 1990, p.281)。彼らは一時論文の発表を諦めようとしたが、最終的にマスコミュニケーション効果を扱う主要な学術誌である Public Opinion Quarterly (P.O.Q) に投稿し、1972年に調査実施から4年後にようやく掲載されることになった。
彼らの論文がP.O.Q.に掲載されて以来、議題設定研究は大きな脚光を浴び、実証的、理論的な多くの議題設定研究が次々と行われるようになった。
議題設定研究の概要
1991年には、それまでの代表的な議題設定に関する研究論文を集めたリーディングスが出版されたが、その中で、これまでに約200もの議題設定に関する実証的研究が行われてきたと述べられている(Protess & McCombs, 1991, p.43).。アメリカ・ジャーナリズム学会(AEJMC)の機関誌 Journalism Quarterly誌 の Vol.69,No.4(1992)は、議題設定研究「生誕20周年記念」の特集を行い。議題設定研究に関する論文9本を一挙に掲載している。その巻頭論文では、議題設定研究の創始者の一人であるマコームズ(McCombs, 1992)が、「探検家たちと測量家たち:議題設定研究の拡大戦略」と題して、過去20年間に議題設定研究がどのような段階を経て発展してきたかを回顧し,今後の研究戦略についての展望を行っている。この論文で,マコームズは議題設定研究の発展段階を、主要な研究業績を基準として4つの時期に区分している。
第1期:1972年にマコームズとショー(McCombs and Shaw, 1972)が、1968年のアメリカ大統領選挙における有権者調査をもとに、議題設定仮説の検証を試みた論文(前述)の発表に始まる。この時期は、いわば研究の黎明期であり、調査そのものはサンプル数が100人程度の小規模なものにとどまり、また調査地域も小さな学園町に限定されていた。
第2期:1972年の大統領選挙期間中に行った大規模な調査をもとに、1977年に出版された初めての単行本『アメリカにおける政治争点の生成(The Emergence of American Political Issues)の刊行によって開始された。この時期には、大規模代表サンプルで議題設定仮説を検証するとともに、「オリエンテーション欲求」「新聞とテレビの議題設定効果の比較」など、いくつかの新しい仮説や研究プログラムを提示することによって,議題設定研究の拡大が図られた。
第3期:1976年大統領選挙期間中の大規模パネル調査をもとに、1981年に刊行された『大統領選挙におけるメディアの議題設定』(邦訳題名『マスコミが世論を決める』(MediaAgenda-Setting in a Presidential Election)の刊行を契機とする。この時期には、候補者のイメージが新たな「属性議題」として追加され、議題設定研究の拡大が行われた。
第4期:1980年代以降現在にまるまでの時期の研究である。この時期にみられる大きな特徴は、「従属変数の転換」にあった、とマコームズは指摘する。すなわち,第1期における議題設定研究の問いかけが「誰が公衆の議題を設定するのか?」(Who sets the public agenda?)というものであったのに対し、第4期になると、「誰がニュース議題を設定するのか?」(Who sets the news agenda?)という問いかけに変わったのである。つまり,それまでの議題設定研究では、もっぱら「公衆の議題」が従属変数として扱われ、ニュース議題が独立変数として扱われていたのに対し,80年代の研究では、「メディアの議題」そのものが新たな従属変数として扱われるようになり,ニュース議題の設定過程に関する実証的研究が精力的に行われるようになったのである。さらに、マコームズは、2005年に公開した論文「議題設定の概観:過去・現在・未来」 (McCombs, 2005)において、1972年以降の議題設定理論の発展を次の5つの段階に分けて整理し直している。これは、それまでにあちこちに分散していた議題設定研究の成果を1箇所にまとめて提示するとともに、この分野における現在および近未来の研究課題を強調する点にあった。
第1段階:基本的な議題設定研究
第2段階:属性型議題設定
第3段階:議題設定効果の心理学
第4段階:メディア議題
第5段階:議題設定効果の帰結
そこで、上の5段階のうち、議題設定の発展において特に重要だと思われる「基本的な議題設定研究」「属性型議題設定」「メディア議題」「議題設定効果の帰結」の4つに絞って、研究の概要をまとめておきたい。
基本的な議題設定研究の発展
(1) 新聞、テレビ、雑誌など異なるメディア
マコームズとショーによるオリジナルの研究では、新聞、テレビ、雑誌を全てひっくるめて議題設定機能を測定していたが、新聞とテレビでは異なる議題設定効果を示すという研究結果がその後いくつか得られた。ただし、新聞とテレビのどちらがより大きな議題設定効果を示すかという点に関しては、必しも一貫した結果は得られていない。パターソンとマクルーの行った調査研究 (MeClure & Patterana ,1976)では、新聞にくらべてテレビの議題設定効果は小さいという知見が得られている。しかし、これとは逆の結果が得られた研究もある(Palmgreen & Clarke, 1977など)。
(2)議題設定効果の時間的変化(最適効果スパン)に関する研究
マスメディアがどのような争点を強調するかということは、時期によって当然異なったものになる。したがって、議題設定研究において、どのくらいの期間のメディア内容を分析するかによって、受け手の争点顕出性との間の因果的関連性も異なったものになるだろう。ここで問題になるのは、いったいメディア報道は、どのくらいのタイムスパン(時間的間隔)をおいて、受け手の争点顕出性に対してもっとも大きな影響を及ぼすのか、という点である。これを「最適効果スパン」の問題という。ストーンとマコームズ(Stone & MoCombs,1981)がニュース週刊誌を用いて行った研究によれば、受け手調査前の2~6ヶ月間のメディア内容がもっとも大きな議題設定効果を示したという。また、ニューヨーグタイムズ紙を用いて行ったウィンターとイエール(Winter & Eyal, 1981)の調査によると、最適効果スパンは受け手調査前の1ヶ月間だった。しかし、最適効果スパンの長さには研究によってさまざまなバリエーションがあり,共通の知見を引き出すことは困難である。最適効果スパンが新聞とテレビでは違うという研究もいくつかある。一般に、新聞のほうがテレビよりも最適効果スパンは長いという研究結果が比較的多く見られるようである(Weaver et al, 1981 ;Shaw & McCombs, 1977など)。つまり、新聞は長時間をかけて受け手の争点顕出性に影響を与えるが、テレビはより速効的に受け手の顕出性に効果を及ぼすといわれる(テレビのスポットライト的効果)。
(3)個人内議題(個人内の争点顕出性),対人議題(対人間の争点顕出性)、知覚された公衆議題(知覚されたコミュニティの争点顕出性)の区分
マクレオドら(MoLeod et al, 1974)は、従来の議題設定研究で受け手の争点顕出性の測定レベルが一意的ではないことを指摘し、これを「個人内の争点顕出性」「対人間の争点顕出性」「知覚されたコミュニティの争点顕出性」に分けて測定すべきことを提案した。これらは後に「個人内議題」(intra-personal agenda)「対人議題」(interpersonal agenda)「知覚された公衆議題」(perceived community agenda)と呼ばれるようになった。個人内議題とは、有権者などの個人ひとりひとりが、政治的な争点に関して抱く重要度の認知ないし評価のことをさしている。マコームズとショー(McCombs and Shaw, 1972)を始めとして、議題設定研究の多くは、「個人内の争点顕出性」に及ぼすメディアの効果を測定したものである。対人議題とは、日常の会話でどんな争点が話題に上るか、というレベルの争点顕出性のことである。また。知覚された公衆議題は、「世間の人びとは、いまどんな問題を重要な政治上の争点だと考えているか」という知覚をさしている。ノエル・ノイマンらが測定した「意見の風土」 (climate of opinion)の知覚がこれにやや類似している。実際の調査では、「あなた自身の関心は別として、世間の人たちはどんな問題を重要だと思っているでしょうか」という設問の仕方をする。マスメディアの議題設定効果は、これら3種類の議題に対して、異なる程度を示すことが予想される。
(4) 「議題設定効果」に関する3つの概念モデル
1) 認知モデル(awareness model)
これは、マスメディアが特定の争点を報道することによって、受け手がその争点の存在を「認知」するか/しないか、という次での議題設定効果である。それぞれの争点がどのくらい重要かという評価は含まれない。いわば、マスメディアの報道が特定の争点を「議論の土に乗せる」機能を果たすと考えるのである。これは、マスメディアの「争点顕在化(公共化)」機能といってもよいだろう。
2) 顕出性モデル(salience model)
これは、マスメディアで特定の争点を強調することによって、受け手の手点顕出性が高まるという効果である。認知モデルよりもレベルの高い効果である。従来行われてきた議題設定研究の大半は、このレベルでの効果を測定したものである(竹下、1984)。
3) 優先順位モデル(priority model)
これは、メディアにおける強調度を基準とする争点の優先順位が、受け手の争点顕出性における優先順位に直接影響を与えるという効果モデルである。これは,顕出性モデルよりもレベルの高い効果といえる。なお、岡田(1992)は,議題設定効果の認知的次元をより体系的に理解するための枠組として、「知覚の焦点化」(注意を比較的限定された争点や話題に焦点化する),「認知の選別的重点化」(争点・話題の重要性や優先度についての評価的認知に影響を与える),「認知の構造化」(主要な争点や話題の全体像を輪郭化する),「認知の方向づけ」(争点や話題に関する思考や論議の枠組みと文脈を設定する),という4つの次元での議題設定効果を指摘している。このうち,とくに「認知の構造化」および「認知の方向づけ」に対する効果は、従来の議題設定効果よりもさらに一歩踏み込んだレベルの認知的効果である。.
(5) 争点の構造
テレビや新聞のニュース報道では、国内外のさまざまな争点に関して、出来事の単なる報道にとどまらず、ときには事件の原因や背景,争点に対する社会各層の反応や意見。問題の解決策などに至るまで、さまざまな角度から取り上げる。これまでの議題設定研究では、こうした争点報道自体のもつ重層的構造が必ずしも明確に認識され、研究デザインに取り入れられることはなかった。その結果、メディアの争点報道のどの部分が受け手の争点認知のどのレベルに影響を及ぼすかを正確に把握することができなかった。しかし、こうした問題点を克服する試みがまったくなかったわけではない。例えば、ベントンとフレイジア(Benton and Frazier, 1976)は、争点を「一般的争点項目」「下位争点」「下位争点に関する特定の情報」の3つのレベルに分け、マスメディアがどのレベルで議題設定効果を持つかを検証した。
(6) 因果関係の検証
初期の議題設定効果に関する研究は、メディア議題と個人内議題との間の単純な相関を計算するだけにとどまっていた。これでは、メディアの議題が受け手の議題に影響を与えたのか、あるいはその逆なのか、といった因果関係を確定することはできなかった。そこで、両者の因果関係を調べるための研究がいくつか試みられてきた。
1) パネル調査データを使った時差相関分析(cross-lagged correlation)
これは、2時点で同じ対象者に対して行ったパネル調査を利用する方法である。もし時点1におけるメディアの争点強調度と時点における公衆の争点顕出性との間の相関Xが、時点Iにおける受け手の手点顕出性と時点におけるメディアの争点強調度との間の相関Yよりも大きければ、メディアの議題設定効果が確証されることになる(McCombs, 1977)。具体的な調査データをみると、例えば、ウィーバーらは、1972年大統領選挙の期間中に行ったパネル調査データと、同時期に地元新聞について行った内容分析の結果をもとにを時差相関分析にかけ、図のような関係を得た。(Weaver et al., 1981など)。
2) 時系列データの分析
ファンクハウザー(Funkhouser, 1973)は,ニュース報道,世論調査,現実世界の指標における時系列データの相関分析を通じて、時間的順序を考慮した議題設定効果の検証を試みている(3)。分析対象期間は、1960年から1970年までの11年間である。14の争点別に、この期間のニュース報道(ニュース雑誌記事)の本数および本数の順位を調べ、また世論調査データをもとに、これらの争点に関する一般公衆の重要度の順位を計算した。その結果,ニュース報道の内容と世論の間には強い相関がみられた(順位相関係数0.78;p<0.001,カイ2乗適合度検定で有意;p<0.001)。一方,各争点に対応する現実世界の指標(統計データ)との関連を調べたところ、メディアの報道内容と現実世界の指標は、必ずしも一致していないことがわかった。しかも,そのような場合には、公衆における争点顕出性の変化は、メディアの報道に追随する傾向がみられた。これは,メディアの報道が公衆の争点顕出性を増大させるという因果関係を示唆する結果といえる。
3) 実験的な研究
アイエンガーとキンダー (lyenger and Kinder,1987)は,フィールド実験の手法を用いて、議題設定効果の厳密な検証を試みた。実験群の被験者に、アメリカの国防の欠陥に関する4本のニュース(計17分間)を4日間にわたって見せ,対照群の被験者には国防問題を含まないニュースを見せた。そして、ニュース視聴の直前と直後に調査を実施して、政治意識の変化を調べた。主な設問項目は、①8つの国家的問題についての重要度評価,②各問題に対する関心度,③政府が対策をとることの必要度、④日常会話で各問題を話題にする頻度,などであった。以上4つの設問への回答は互いに相関が高かったので、合成して問題の重要性に関する尺度をつくった。実験の結果,国防関係のニュースを見た被験者は、実験後、国防問題への関心が高まったのに対し、対照群では変化はみられなかった。この実験の結果、イェンガーらは、議題設定効果が検証されたとしている。
(7) 随伴条件(議題設定効果を規定する媒介的要因)の分析
マスメディアは,つねに、だれに対しても,同じように議題設定果を引き起こすわけではない。個人を取り巻くさまざまの内的。外的な条件が、議題設定効果を促進したり、あるいは反対に抑制したりすることがわかってきた。そうした媒介的要因のことを、議題設定研究では「随伴条件」(contingent conditions)と呼んでいる。これまでに指摘され、ある程度の実証的分析が行われてきた随伴条件には、次のようなものがある。
1) メディア接触量
メディアによく接触する人ほど、議題設定効果を強く受けるという研究結果が、ほぼ共通して得られている。例えば、竹下(19838)は、和歌山市での住民調査と新聞の内容分析をもとに、ニュース報道の争点順位と受け手の争点顕出性の順位相関係数を新聞の政治記事接触度別に計算した結果、「メディアへよく接触する人ほど議題設定の影響を強く受けている」という関連を見い出した。
2) 対人コミュニケーションの役割
他の人と政治的な話題をよくする人ほど、議題設定効果を強く受けやすいという研究がある(Shaw,1977)。ただし、これについては、これまで必ずしも一貫した結果は得られていない。例えば、マクレオドら (Mcleod et al.,1974)は,とくに高年齢層において、キャンペーンの話題に関して対人コミュニケーションの活発な人ほど大きな議題設定効果を受けやすいという傾向を見い出した。また、新間の議題設定効果が低下する選挙キャンペーン後期に対人コミュニケーションが議題設定効果を促進する機能を果たすという知見を得た。またアーブリングら(Erbring et al.,1980)の研究によれば、対人コミュニケーションは、新しく現れた争点に関してはその顕出性を高める働きをするが、長期にわたって継続する争点については効果がないという。これとは反対に、対人コミュニケーションが場合によってはメディアの議題設定効果を抑制する働きをする、という研究もある(Atwater et al.,1985など)。さらに,対人コミュニケーションは議題設定に対してなんらの効果も及ぼさないという結果も報告されている (Lasorsa and Wanta, 1990).ウォンタとウー(Wanta and Wu, 1992)は、争点として,メディアが多く取り上げる「マスメディア議題」と、あまりメディアで取り上げられないが一般公衆の関心の比較的高い「非メディア議題」の両方について、対人コミュニケーションが争点顕出性に及ぼす効果を測定した。その結果、対人コミュニケーションは、マスメディア議題については、議題設定効果を増強する働きをするが、場合によっては、競合的な非メディア議題の顕出性を高めることによって、メディアの議題設定効果を減殺することもある,という知見が得られた。また、ウィーバーら(Weaver et al.,1992)は,楽物乱用問題という争点に対する人びとの知覚を,個人の生活という「個人レベル」での知覚と,州内での問題の深刻化という「社会レベル」での知覚に分け、対人コミュニケーション、個人的経験、マスメディア接触がそれぞれ争点顕出性に及ぼす効果を測定した。その結果,個人的経験やマスメディア接触は、社会レベルの争点顕出性に影響を与えないが、対人コミュニケーションは、薬物問題に関する個人的知覚と社会的知覚をともに増大させるという知見が得られた。ウィーバーらは、この知見をもとに、対人コミュニケーションは、個人の世界を社会の世界と結びつけるという「橋わたし的機能(bridging function) を果たしている、と述べている。
第2レベルの議題設定(属性型議題設定)
(1)第2レベルの議題設定とは
従来の議題設定研究において研究の対象となったのは、ある公共的な争点(問題)だった。けれども、それぞれの争点や問題には、多くの「属性」や「カテゴリー」が含まれており、それが争点項目のイメージや顕出性に影響を与えることがある。こうした属性レベルでの議題設定のことを「第2レベルの議題設定」という。かつて、コーエンは、報道は人々に「何を考えるべきか」を伝えるのには必ずしも成功しないが、「何について考えるべきか」を伝える点では驚異的な成功を収めている、と言ったが、これは基本的な議題設定効果には該当するが、第2レベルの議題設定効果の表現としては不十分である。このレベルにおいては、メディアの報道は人々に「どのように考えるべきか」を伝えている、と考えることができる、とマコームズは言う (McCombs and Estrada, 1997)。
(2)アメリカ大統領選挙における属性型議題設定
1976年のアメリカ大統領選挙に関する2つの研究は、第2レベルの議題設定に関する初期の研究である。ウィーバーらによるパネル調査研究では、シカゴ・トリビューンの属性議題と、イリノイ州有権者による大統領候補ジミー・カーターおよびジェラルド・フォードの描写における属性アジェンダの間には、驚くべき一致が見られた (Weaver et al., 1981)。14の特性で構成されるメディア議題と、それに続く公衆議題との間のクロスラグ相関の中央値は0.70であった。また、1976年の大統領予備選挙に関する別の研究(Becker & McCombs, 1978)でも、ニュースウィークの属性議題と、ニューヨーク州の民主党支持者による党の大統領候補者に関する描写の属性議題との間にかなりの一致が見出された。これらの結果は、ニュースメディアが有権者の心の中で候補者のイメージを定義する属性議題を設定する力を持っていることを示す重要な証拠を提供している。
(3)日本の総選挙に関する議題設定研究
1990年代に入ると、第2レベルの議題設定効果を明確に示す実証的研究が次々と現れた。その最初の研究が、1993年の総選挙について行われた竹下と三上による研究である。彼らは、まず伝統的な議題設定の枠組みをもとに一般的な問題の顕出性を検討している。つまり、メディアが特定の選挙争点を強調することが、有権者によるその争点の重要性(顕出性)の認識に影響を与えたかどうかを分析している。
政治改革の問題がメディア議題を圧倒的に支配していたため、彼らは議題設定の主要な補助仮説を立てて厳密な検証を行った。メディア効果研究の長年の成果に基づき、彼らは、一般大衆における政治改革問題の顕出性は、ニュースメディアへの接触レベルに比例すると言う補助仮説を立てた。この接触レベルの測定は、各回答者の政治関心度の測定を加えることでさらに強化された。このニュース接触と政治関心を組み合わせた測定は、政治ニュースへの注意度を示す指標となる。この指標に基づき、彼らは、政治改革問題の顕著性が政治ニュースへの注意度と正の相関を示す、という仮説を立てた。東京の650人の有権者を対象にした調査データ分析の結果は、この仮説を支持していた。テレビニュースへの注意度については、政治改革の顕出性との相関は0.24であり、新聞については0.27であった。党派的帰属、学歴、年齢、性別を統制した偏相関も有意であった。
ニュースメディアへの接触が公衆議題における政治改革問題の顕著性に影響を与えたという証拠が得られた後、竹下と三上は第二次元へと研究を進めた。政治改革の7つの側面についての回答者の個人的重要度評価を因子分析した結果、2つの明確な因子が明らかになった。一つは「倫理関連因子」(政治家の行動に法的制限を課す提案や、政治家の綱紀粛正を強化する提案を強調するもの)、もう一つは「制度関連因子」(選挙制度の変更や改革を求めるもの)である。テレビニュースと新聞は、制度関連の改革側面を倫理関連の側面よりも2倍頻繁に取り上げていた。このようななメディア議題は、有権者の頭の中にある政治改革のイメージ(属性議題)に影響を与えたのであろうか。議題設定の第2レベルに関するこの問いに答えるためには、竹下と三上が第1レベルの議題設定の分析で用いたものと類似の方法で定式化された2つの仮説を検証する必要がある。第1の仮説は、公衆議題における制度関連の改革の顕出性が、政治ニュースへの注意度と正の相関を示すことを主張する。一方、第2の仮説は、公衆議題における倫理関連の改革側面の顕出性と政治ニュースへの注意度の間に相関がないことを予測する。分析の結果、どちらの仮説も支持された。この研究は、第1レベルと第2レベルの議題設定効果を同時に検討し、我々の頭の中のイメージに対する両レベルの議題設定効果について強力な証拠を示している。
(3) 環境問題の属性議題
経済問題と同じような広がりと複雑さを持った,もうひとつの現代の争点が環境問題である。公共的争点として、環境問題は国際的な関心事からローカルなものまで、あるいは抽象的な関心事からきわめて具体的なものまでを含んでいる。三上・竹下・仲・川端の研究は、地球環境問題に関して、日本の2大日刊紙のニュース報道が東京都民の関心のパターンに影響を及ぼしていることを明らかにした。1992年6月の「環境と開発に関する国際連合会議」に先立つ4ヵ月間、「朝日新聞」「読売新聞」は、地球環境問題の8側面に関する報道を着実に増やした。 こうした報道には酸性雨、野生動植物の保護、人口爆発、地球温暖化など多様な下位争点が含まれていた。 こうしたニュース報道は、東京都民の間で有意な議題設定効果を生み出した。(6月半ばに実施した面接調査の直前から)2月の時点まで遡って報道内容を測定し場合には、新聞の属性議題と公衆の属性議題との相関は+0.68であった。面接直前から4月の初旬までの内容分析期間では、相関は+0.78まで増大し、これが一番高い値で、内容分析期間を面接直前から5月中旬に短縮するまでこの値が続いた。国連会議開催日と重複する日および会議直前週に内容分析期間を絞った場合には、新聞議題との一致度がより低くなってしまった。これは、議題設定の学習過程には時間的ズレが関わっていることを示唆するものである。日本で見出された時間的ズレは、米国で地球環境問題の諸側面に関して発見されたズレと類似していて興味深い (Mikami et al., 1995; McCombs and Estrada, 1997)。
(4) 属性型議題設定とフレーミング効果
第2レベルの議題設定、すなわち属性型議題設定の展開もまた、この理論を同時代の別な主要概念ーフレーミング(framing)一と連結させるものである。属性型議題設定とフレーミングは、メッセージ内で注目された容体それが争点であれ、政治家であれ、他のトビックであれーがどのように提示されるかに焦点を合わせている。属性型議題設定もフレーミングもともに、こうした容体の特定の側面や評細を強調することが、客体に関するわれわれの思考や感情にどの程度影響を及ぼすのかを探究する。画機会の結合に関してこうした一般的な記以上に踏み込むことは難しい。というのも、フレーミングの定義の仕方にはかなりのばらつきが見られるからである。結果として、属性とフレームとが同義的な概念となることもあれば、重複した、ないしは間連した概念とされることもある。ときには、両者はまったく異なる概念と見なされることもある。
両概念を同義的に用いた例から始めると、1996年米大統領選候補者指名で共和党の4人の候補者のキャンペーンをコンピューターを用いた内容分析で調べたある研究は、各陣営のプレスリリースや「ニューヨークタイムズ」「ワシントンポスト」「ロサンゼルスタイムズ」におけるキャンペーン関連ニュースで、28の属性を特定した。議題設定の視点から見ると、この研究の焦点はプレスリリースとニュース報道の属性議題であったが、論文の題名では焦点は「候補者をフレーミングする」と表現された。議題設定研究のデザインとは異なり、発表された論文は、候補者陣営による発表内容とジャーナリストによる描写内容とを比較するものではなかった。議題設定理論にもとづくならば、ごうした追加の比較を行うことで、候補者のプレスリリースがニュース議題に反ほす属性型議題設定効果を発明することができる。テキサス大学で行われた読題設定理論のセミナーで計算したところ、このフレーミングと命名された研究から、属性型議題設定効果に関する実質的な証拠が得られた。候補者のうち3人の相関はそれぞれ+0.74.+0.75.そして+0.78であり、ロバート・ドールに関してはやや低めの、しかしまだ十分に高い+0.62という数値が得られた。ごのドールが最有力候補であり、最終的に共和党の指名候補となった。
フレームと属性との間の重複→理論的連関一に対する独創的な視点を採用したのが、日本経済の第状に対する世論を扱った研究である。この分析は、フレームとは下位の諸属性を集約する装置であるというアイディアにもとづいているが、同時に「問題状況 (problematic situations)」の概念にも依拠している。問題状況概念とは、具体的な社会争点や関心事をより一般的な認知的カテゴリーへと読み換える視点でお客。(200年から201年にかけての)82週間にわたり「毎日新聞」を内容分析し、日本経済の等状に関してニュース報道で取り上げられた12の異なる側面もしくは属性を特定した。日本経済の写状に関するこうした属性を問題状況のコンテクストに位置づけるために、一般公業に対する調査では、こうした12の側面のそれぞれを回答者がどれくらい問題合みだと考えているかがたずねられた。12項目に関する回答を因子分析することで、4つのマクロフレームが析出された。それらは問題状況カテゴリーとしてあらかじめ理論的に仮定されたものとほぼ一致していた。各因子は「制度崩壊」「損失」「不確実さ」「対立」のカテゴリー(フレーム)を表し、12項目はすべていずれかに収まった。
「毎日新聞」による経済報道の属性型議題設定効果は、下位の属性(争点の
12の側面)のレベルと、マクロなフレーム(4つの問題状況カテゴリー)のレベルの両方でテストされた。両レベルとも、ニュースへの接触度が高まるにつれ、新聞の議題と公衆の議題との一致度は増大する傾向が見られた。下位の属性の場合,ニュースへの低・中・高接触グループの相関はそれぞれ+0.54,+0.55., +0.64であった。フレームの場合、同じく接触度別3グループの相関は+1.00,+0.80,+1.00である。相関の値が2つのレベルで異なっているのは明らかにカテゴリー数が異なるからであろう (12対4)。しかし,ミクロ・マクロ属性両方の場合とも議題設定効果が見出された。
メディア議題の設定
ロジャーズとディアリング (Rogers and Dearing, 1988)は,議題設定研究を「社会における影響過程の研究」の一方法として位置づけ、議題設定に関する従来の文献をレビューした結果、これを「メディア議題の設定」「公衆議題の設定」「政策議題の設定」_という 3種類の議題設定に関する研究系譜に整理した。ここで、「議題」(agenda)とは、ロジャーズとディアリングによれば、「ある時点において重要性の階層の中で順序づけられて知覚される争点や事象」と定義されている。これまでの議題設定研究では、上にあげた3つの議題をそれぞれ従属変数として、これらがどんな要因によって影響されるかが研究されてきたという。この論文では、約150にも及ぶ従来の議題設定に関する研究文献を分析し、その問題点を抽出するとともに、将来の議題設定研究に向けての理論的統合を試みている。そのための概念枠組みが、以上3つの議題間の相互依存および規定要因の連関関係として、図のように整理されている。
(1) メディア議題の設定
ロジャーズとディアリング(Rogers and Dearing, 1988)によれば、メディア議題(media agenda-setting)の設定に関する研究は、ラザースフェルドとマートン(Lazarsfeld and Merton, 1948)にまで遡ることができるという。ラザースフェルドとマートンは、権力をもった集団、とくに組織された企業が、微妙な社会的コントロールを通じて影響力を行使する結果,メディアの議題が設定される、という認識をもっていた。このような認識は現在の議題設定研究においても基本的に変わっていないが、今日では、メディア議題の設定過程において、単にパワーエリートからの影響力だけでなく、メディア組織内部の権力関係、他メディアとの競争、公衆議題、現実世界の出来事など、多くの影響源が指摘されている。
(2) 公衆議題の設定
すでに見たように、コーエン(Cohen, 1963)は、「プレスは大抵の場合,人びとにどう考えるか(What to think)を教えることには成功しないかもしれないが、何について考えるか(What to think about)という点に関しては大いなる成功を収めている」と述べ,マスメディアの議題設定機能を初めて明確に定式化した。これを「争点顕出性」という概念を用いて操作的に定義し直し、実証的仮説検証に道を開いたのが、マコームズとショー(McCombs and Shaw, 1972)の研究であった。メディア議題の場合と同様に、公衆議題の設定過程に対して影響を与える要因には、マスメディアだけではなく、対人コミュニケーショシ、オリエンテーション欲求などがあり、これらはすでに述べたように「随伴条件」として研究されてきたところである。
(3) 政策議題の設定
政策議題(Policy Agenda)の設定過程に関する研究は、従来から主として政治学の分野で進められできた。そこでの問題は、ある争点が政策決定者の制度的議題に上がるのは、どういったメカニズムによるのか、それを規定する条件は何か、といったことである。最近では、政策議題の設定過程においてマスメディアの果たす役割に注目した研究が、コミュニケーション研究者の側でも活発に行われるようになってきた。これは、実証的な議題設定研究を「議題構築過程」の研究と結びつけることによって、世論過程のダイナミズムをより明確に把握しようとする試みとしても位置づけることができる。ウォーターゲート事件における政策議題の構築過程とマスメディアの役割を詳しく追跡したラング夫妻(Langand Lang, 1983)の研究は、その先駆的な業績といえる。
(4) 3つの議題の間の相互関係
以上述べた3つの議題は,相互に独立したものでないことは、ロジャーズとディアリングの図からも明らかである。また、図の矢印がフィードバック・ループを作っている点にも注意する必要がある。世論形成過程の中で,3つの議題は、相互に複雑な影響を与え合っているというのが実態である。例えば、メディア議題と公衆議題との間の影響関係についても、両者が相互に相手に一定の影響を及ぼしていることが、これまでの研究でも観察されている(Erbring et al, 1980; Weaver et al, 1981など)。ザッカー(Zucker, 1978)によれば、疎遠な争点については、「メディア議題→公衆の顕出増大」という影響が強く作用し、身近な争点の場合には「公衆議題→メディア議題における顕出性増大」という影響がみられたという。ラング夫妻(Lang and Lang, 1983)も,ウォーターゲイト事件が政治争点化していくプロセスにおいて,メディア議題、公衆議題、政策議題の相互間で複雑な形響が作用しあっている様を詳しく記述している。
セメツコら(Semetko et al., 1991)は、マスメディアや政党・候補者が選挙期間中に、どのようにしてキャンペーン議題を形成するかという問題に焦点を当てて、メディア議題の形成過程に関する研究を行った。とくに、メディアの議題形成が社会の政治・文化構造の中で形成されるという点に注目して、アメリカとイギリスという異なる政治・文化構造をもつ2カ国の国際比較研究を行った。この研究は、従来の「メディア効果」という視点から、「メディアー政治組織関係」の視点への転換として位置づけられる。その問題意識は、「もしメディアが議題を設定するとすれば、だれが議題設定者に対して議題を設定するのか? (If the media set the agenda, who sets the agenda for the agenda-setters?)という点にある。研究の焦点は、メディアが選挙キャンペーン中に行う選挙関連ニュース報道は、単に政治家や候補者の提示するメッセージを伝達するだけなのか,それとも,独自の裁量権を発揮して、自ら選挙キャンペーンの争点を提示するのか、という点に当てられた。もちろん。現実にはこの両者は二者択一の関係にあるわけではなく,選挙報道は,つねに政治家とジャーナリストとの間の相互作用の産物である。問題は、その中でメディアの裁量権が現実にどの程度発揮されているか、メディアの裁量権を規定する要因は何か,ということである。
セメッコらは「アメリカの方がイギリスよりもメディアの裁量権は大きい」という仮説を立てた。この仮説を検証するために、彼らはテレビニュースと新聞記事の内容分析、②テレビ局での選挙ニュース制作過程の参与観察、③政党と候補者のキャンペーン資料の内容分析,という3種類の調査データを用いて、英米両国の比較分析を行った。調査の結果、次のような知見が得られた。
1) テレビニュースの議題形成
イギリスのテレビの選挙報道は、アメリカにくらべると、より内容豊かで,多様で,実質的で、政党志向が強く,一方的なコメントに関する自由度が低く、政治家に対して敬意を含んだものになる傾向がみられた。これに対して、アメリカの選挙ニュースは、より簡明で、集中的で、競争レース的で、伝統的なニュース価値によって誘導され,すぐに判断を下しやすく、そうした判断を下す際に、しばしば政治家を見下すような態度をとることがあった。また、イギリスでは、アメリカよりも政治家についてのキャンペーン記事が多く、政治家から直接情報をインプットされる余地があった。イギリスでは、夜のキャンペーンニュースの3分の1以上は政治家の生の声で占められていたが、アメリカのネットワークキャンペーン報道では、わずか9分の1以下であった。ビジュアルな映像を分析した結果,アメリカのテレビ局は、ニュースを選択する際にイギリスより大きな裁量権を行使していることがわかった。
イギリスではアメリカより政党始動型ニュースが多かった。実質的なトピックスとゲーム的なトピックスとをくらべると,イギリスでは実質的な争点が多いのに対し、アメリカでは競馬レースのような勝負により大きな重点が置かれた。その分だけ、アメリカではメディア始動型のニュースが多かった。
以上から、アメリカのテレビ・ニュース制作者は、イギリスにくらべて、キャンペーン議題の設定において、より大きな役割をはたしていることがわかった。イギリスでは、アメリカに比べて、政党の議題とメディアの議題との間により密接な関連がみられた。
2) 新聞議題の形成過程
アメリカではイギリスにくらべて,キャンペーン期間中のメディアの裁量権が大きい,という仮説が支持された。イギリスでは候補者の示す争点順位をそのまま忠実に伝える傾向がみられるが、アメリカの場合には、こうした傾向はあまりみられなかった。
新聞の党派性は、政党の争点議題が報道される仕方に影響を与えている。イギリスの新聞は全体として政党の争点順位をかなり忠実に反映させているが、党派性のとくに強いタブロイド紙は、ときに非常に批判的な報道をしていた。
また,イギリスの新聞はアメリカに比べると、政党始動型のニュースがはるかに多かった。アメリカの新聞は、文達でもビジュアルでも、メディア始動型ニュースがはるかに多いという傾向がみられみリポーターのコメントについても、アメリカのジャーナリストの方がイギリスよりも大きな裁量もっていた。方向性をもったコメント、とくに相手をけなすようなコメントはアメリカのジャートの方が多かった。このように、アメリカではイギリスに比べてテレビでも新聞でも議題形成における裁量権が大きいう知見が得られた。言い換えると,イギリスの場合には、メディアは議題を「設定する」よりは、しろ議題を「増幅する」(agenda amplifying)役割をはたしている。これに対して、アメリカのメテアは、議題を「形成」(agenda shaping)しているということができる。とセメッコらは述べている。
結論として、セメツコらは、今後の研究課題を中心に、次のような点を指摘している。
① 議題設定研究者は、キャンペーン議題の形成過程をもっとくわしく探求すべきである。現実の選挙キャンペーンにおいては、マスメディアの議題をいかにコントロールするかをめぐって、さまざまな政治勢力やジャーナリストの間で激しい駆け引きや争いが展開されているのである。それゆえ、今後の研究においては、「議題設定」を動態的なプロセスとして理解しなければならない。議題形成をメディア議題のコントロールをめぐる戦い(struggle for controling media-agenda)として捉えるならば、このプロセスは政治制度,制度内でのメディアの地位、メディア組織内部特性の相違などによって大きく左右されることに注意すべきである。
② 将来の議題設定研究においては、マスメディアの議題設定行為を所与のものと考えてはいけない。つまり、メディアの議題がジャーナリストとニュース組織だけによって決められると考えてはならない。また,選挙キャンペーン期間中,メディア議題が政党や候補者だけによって一方的に決定されると考えるのも正しくない。
(5) ニュース議題の設定におけるPRの役割
国際レベルから地方レベルまで、政府や企業の活動についてわれわれが知っていることの多くは、広報官や他のPR 実務家が発信源になっている。こうした政府の広報官や企業のPR担当者は、ニュース機関の活動に対して、日々まとまった量の情報を提供することで「情報助成(subsidy)」を行っている。しかも、この種の情報はニュース記事のスタイルを正確に模した「プレスリリース」の形で提供されることが多い。「ニューヨークタイムズ」と「ワシントンポスト」の紙面の 20年間分を調べたところ、記事の約半数はプレスリリースや他の直接的な情報助成に基づくものであった。両紙の記事総数の約17.5%は、少なくとも部分的にはブレスリリースに基づいていた。別の32パーセントは記者会見や背景説明がネタであった(Sigal, 1973)。「ニューヨークタイムズ」や「ワシントンポスト」は、大量のスタッフと多大な資源を有する大新聞社である。これら両紙でさえPR情報源にかなりの程度依存しているという事実は、メディア議題全体が日々形成するうえで情報助成が果たしている役割を浮き彫りにするものである。
ルイジアナ州の主要日刊紙による6つの州政府機関に関するニュース報道もまた、そうした機関の広報官が提供する情報にかなりの程度まで基づいていた。こうした広報官が提供する情報助成(主に文書化されたプレスリリースによるものと、時たま口頭での伝達によるもの)の半数をやや超えるものが、その後に記事化された。トピックの議題は、州の財政から一般経済、また冠婚葬祭から祝賀イベントまでを含む幅広いものであった。具体的に言うと、広報官発の議題とそうした情報を利用したニュース記事の議題との間の8週間の期間での対応度は+0.84であった。州政府機関発の議題とそれら州政府機関に関する全記事との同じ期間での対応は+0.57であった。
(6)メディア間の議題設定
エリート級のニュースメディアは、他のニュースメディアの議題に対してかなりの影響を及ぼすことが多い。米国でメディア間議題設定の主役を演じることが多いのは「ニューヨークタイムス」である。この役割は今やかなり制度化されており、AP通信社はその会員社に対して、タイムズ紙の翌朝刊1面に掲載予定の記事リストを毎日送信するほどである。タイムズ紙の1面に載ることが、あるトピックがニュースバリューを持つ証しと見なされることが多い。
ニューヨーク州西部ラブキャナル運河での深刻な化学物質汚染事件や、ペンシルバニア州やニュージャージー州辺でのラドンガスの脅威といった問題は、地方紙が何ヶ月にもわたって集中的な報道を行っていたにもかかわらず、これらの問題が「ニューヨークタイムズ」の議題に上るまでは全国的な注目を集めることはなかった。1985年後半にタイムズ紙が薬物問題を発見したことが、翌年には米国中の主要紙や全国テレビニュースによる大規模報道をもたらした。その報道のピークは 1986年9月にネットワーク局それぞれが全国放送した特集番組である。ある韓国の研究は、大手ニュース組織によるメディア間のこうした影響が、オンラインニュース環境でも存在することを示している。
議題設定効果の帰結(後続効果)
初期の議題設定研究は、メディアの効果を、受け手の「争点顕出性」という知覚レベルに限定していたが、その後の展開の中で、議題設定効果のレベルを拡大し、受け手の認知構造へ、さらに態度や行動のレベルでの効果にまで研究の射程を広げるようになっている。
ウィーバーら(Weaver et al., 1981)は、アメリカ大統領選挙における調査を通じて、マスメディアが有権者の候補者に対する認知的イメージに影響を与えるだけではなく、候補者への評価にも影響を与えているという結論を下した。これは、マスメディアが受け手の態度を変化させたためだろうか。この点に関しては、ベッカーとマクレオド(Becker and McLeod, 1976)の提案したモデルが参考になる。かれらによれば、公衆の認知変化は、マスメディアの設定した議題による直接的効果であるか、おるいはマスメディアのメッセージ内容から、公衆の態度を通して媒介された、間接的効果であるか、のいずれかだという。これと関連して興味深いのは、イエンガーとキンダー(lyenger and Kinder, 1987)の提唱した「プライミング効果」(priming effect)である。彼らは、内容を統制したテレビ・ニュースを用いたフィールド実験を行った結果,アメリカ大統領に関するニュース報道は、争点についての認知を高めただけでなく、大統領のとっている政策を判断するための基準(standard)を設定するという効果を及ぼしていることを突き止めた(^。このように、政治的評価を下す際の基準が変化することを、イエンガーらは「プライミング」呼んだ。こうした「基準」は、しばしばプラスあるいはマイナスの価値評価を含んでいるので、プライミング効果を通して、争点対象に関する意見形成にも影響を及ぼすことになる。一般に、メディアが争点の特定部分を強調したり、争点対象についての判断基準を与えたり、あるいは特定の文脈の中に位置づけたりすることを、争点対象の「フレーミング」と呼ぶことにすれば、プライミングは、メディアによる「フレーミング」の後続効果と考えることができる。そして、メディアの議題設定効果を「フレーミング効果」にまで拡張することも可能であると思われる。これは、岡田(1992)が指摘した効果の認知的次でいえば、「認知の構造化」および「認知の方向づけ」の効果に相当する。問題は、こうした効果が度変化を必然的に伴うのか、という点であろう(Rogers and Dearing, 1988)。これについては、さきほどのベッカーとマクレオド(Becker and MeLeod, 1976)を参考として考察するならば、次のような仮説が設定できるのではないかと思われる。すなわち、メディお手点をどうフレーミングするかによって、受け手の異なる態度要素が活性化されて、争点と結びっけられ、それが現象的には「意見の変化」を引き起こすことになるのではないか、という仮説である。
例えば、最近再び政治争点として浮上しっつある「憲法9条改正問題」についていえば、マスメディアは以前ならば「憲法改正→自衛隊の軍隊化→過去の戦争への逆行」というフレーミングで報道していたのが、最近では「憲法政正→自衛隊のPKO活動→国際平和の維持」という文脈の中での新たなフレーミングが行われるようになっている。この場合,戦争や平和への態度は不変でも,こうしたフレーミングの変化を受け入れることによって、憲法改正には「賛成」という意見レベルの変化が生じることは大いにありうる。事実,最近の世論調査では、憲法改正に賛成の意見が次第に増えているのである。
マスメディアの議題設定効果が、争点顕出性の増大を通じて、さらに態度や行動にまで影響を及ぼすという「2段階の影響過程」(two-step process)モデルを提唱する研究者もいる。ロバーツ(Roberts,1992) は、1990年のテキサス州知事選挙期間中に、3回にわたるパネル調査を行い,政治広告の議題設定効果を測定した。この選挙は RichardsとWiliams という2人の候補者の間で争われたが、ロバーツは、Richards に投票したグループとWilliamsに投票したグループとの間に争点認知の違いがあるかどうかを,判別分析によって検討した。その結果,争点に対する関心度によって,投票行動の約70%が正しく判別された。さらに、「政党支持」「性別」「メディア情頼度」「勝敗予想への関心」「選挙戦への関心度」を説明変数として追加投入すると、投票行動の判別率は80%以上になった。この結果から、日バーツは,2段階の議題設定効果が生じていることがある程度確かめられたとしている。
それでは、なぜ2段階の影響過程が生じるのだろうか。この点に関しては、ブロシウスとケプリンガー(Brosius and Kepplinger, 1992)の研究が参考になる。ブロシウスらは、メディア議題がドイツの有権者の政党支持に及ぼす効果を解明するために,テレビ・ニュースの内容と有権者の投票意図の関連を調べた。その結果;テレビ・ニュースは、単に有権者の手点顕出性を高めるだけでなく,政党支持にも膨響を与えているという知見が得られた。この知見を説明するための理論仮説として、ブロシウスとケプリンガーは、「手段的実現理論」(The theory of instrumental actualization)を提案した。これは、受け手が一方の対立陣営の見解を支持する出来事に接触すればするほど、彼らはその陣営の見解を支持するようになる」という仮説である。選挙というのは、一種の儀式化された対立抗争である。選挙期間中に,マスメディアが一方の陣営の候補者の得意とする(と一般に知覚されている)争点や出来事を大きく報道するならば、有権者は、そうしたメディアに多く接触すればするほど、その候補者の見解を支持するようになる。このような手段的実現理論は、プライミング効果ときわめて類似しており、またフレーミング効果の一形態とみなすこともできる。
日本における議題設定研究
基本仮説の検証(竹下 1982)
チャペルヒルでマコームズとショーが行った最初の議題設定研究の追試を日本で最初に本格的な形で行ったのは、竹下俊郎(1983)である。データの測定モデルや調査方法はマコームズらに準じている。
調査の概要:
1. 受け手調査
調査地点:和歌山県和歌山市
調査対象:選挙人名簿から無作為抽出された成人男女1,000名。有効回答数は717。
議題設定に関する設問項目:争点顕出性測定のための質問(争点リストの中から最も関心のある争点を選んでもらう)、新聞・テレビ接触、他者との政治会話の頻度、政治への関心度など。
2. 内容分析
対象メディア:新聞(全国紙4紙)、テレビ(NHKおよび民放の夕方のニュース番組)。受け手調査最終日に先立つ6週間分を内容分析。
3. 調査に用いた争点カテゴリー
①外国との貿易摩擦
②防衛問題
③行財政改革
④所得税減税
⑤ロッキード問題
⑥公共事業の談合・不正
⑦校内暴力・青少年非行
調査の結果:
議題設定仮説に従えば、ある争点がメディアにおいて顕出的であればあるほど、受け手の側でもその争点を顕出的(重要)とみなす人が多くなるはずである。この仮説を検証するために、一方ではメディアでの言及量が多い順に争点の順位づけを行い、他方受け手の側でも、最も重要なものとして回答された比率が高い順に争点を順位づけ、両者の争点順位の一致度を順位相関係数を用いて調べた。分析にあたって、メディア議題分析(争点顕出性)の集計期間を変化させることによって、受け手に対する議題設定効果の最適な期間(最適効果スパン)も検討している。
新聞についてみると、新聞の争点顕出性の順位と受け手の順位の相関が最も高かったのは、内容分析の測定期間を面接最終日前2週間ないし3週間とした場合であり、順位相関係数はそれぞれ0.71、0.75であった。議題設定効果を左右する随伴条件として、「メディア接触」「トピックへの関心」などの要因を分析した。メディア接触については、議題設定効果が最も強く現れているのは、新聞の政治記事をよく読むグループだった。トピック(政治)への関心度との関連をみると、タイムスパンが2週間の場合も3週間も場合も、政治への関心が高いグループほど新聞の争点顕出性との一致度が高い、つまり議題設定力が強いことを示す結果が得られた。
テレビについて同じように分析してみたところ、テレビニュースの議題と受け手議題との間の相関は、最適タイムスパンの如何に関わらず.20以下であり、非常に相関が低いという結果となった。随伴条件との関連についても新聞と同じ分析を行なっている。まず、テレビニュースを「よくみる」と回答したグループでは、他の回答者よりも相対的に高い相関値を示しており、議題設定効果の大きさとメディア接触量とが正の関連にあるという傾向が見られた。政治への関心度との関連をみると、測定期間に関わらず、政治への関心が高いほど、テレビニュースと受け手の関連も強まる傾向が見られた。
パネル調査による検証(竹下 1986)
本研究は、前記の基本仮説調査とは違って、パネル調査による検証を行なっていること、国政選挙の期間中に調査を行なっている点に特徴がある。
調査の概要:
1. 有権者調査:
第1回:1986年6月6日〜8日
第2回:1986年6月21日〜23日
第3回:1986年7月4日、5日
個人内議題をたずねる設問:「今度の選挙で争われる政策上の問題のうち、あなたが最も重要だと考える問題は何でしょうか」
世間議題を尋ねる設問:「では、あなた自身のお考えはさておき、今度の選挙で世間の多くの人々が最も重要だと考えている政策上の問題は何だと思いますか」
(自由回答で答えてもらい、アフターコーディングして分析した)
2. 内容分析:
新聞(朝日、読売)、テレビニュース(夕方の全国向けニュース番組)を分析。
3. コーディングした争点カテゴリー
①税金・税制
②円高・景気・貿易
③物価
④行財政改革
⑤福祉
⑥教育
⑦防衛
⑧首相の政治手法
⑨その他の争点
⑩争点への言及なし
調査の結果:
1. メディア議題
新聞の争点報道を時期別にみると、第1期で最も多く取り上げられた問題は「中曽根首相の政治手法」であり、「円高・景気・貿易」問題がそれに続いていた。第2期になると、「税金・税制」問題が急浮上し、第3期でもそのまま第1位の座を占め続けた。テレビの争点議題も新聞とよく似ていた。第1期の報道で最も突出していた争点は首相の政治手法の問題だった。それが第2期には税金問題がトップに躍り出る。そしてその傾向は第3期まで持続した。
2. 有権者の議題
まず個人内議題をみると、有権者が今回の選挙で最重視した争点は、円高問題や税金問題など経済領域の問題に集中していた。首相の政治手法は有権者の関心を引くことはなかった。特に第2期以降、税金問題に対して有権者の関心が収斂する傾向が強く見られた。一方、世間議題(世間の注目を集めている争点)についても、円高問題や税金問題を挙げる回答者が投票日に近づくにつれて急増する傾向が見られた。
3. 議題設定仮説の検証
パネル調査のデータで見たメディア議題-対-有権者の議題の組み合わせパターンをみると、キャンペーンが進むにつれて、メディア(新聞、テレビ)の議題と有権者の議題(個人内議題、世間議題)との相関(順位相関係数の値)が高まっていく、という傾向が見られた。相関が高まっていった原因は、時期を経るごとにメディアの議題が有権者の議題に歩み寄ったいったためだとわかった。メディアの議題設定効果は有権者の個人内議題のレベルよりも、世間議題のレベルでより明瞭に検出された。すなわち、新聞やテレビニュースの選挙報道は、有権者個人にとっての重要争点を規定するよりも、世間の多くが重視する争点は何かという有権者の認知に対して、より大きな影響を及ぼしていたと考えられる。
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4. 選挙報道への注目度がきわめて高いレベル(VH)から、比較的高いレベル(日)、中程度(M)、低いレベル(L)までの四グループに分けて分析した結果、VHグループは、各時期・各メディアごとに四通り作成した注目度のタイポロジーのどの場合にも、回答者サンプルの一割前後を占めているにすぎないが、政治への関与度や投票意図の確定度では他のグループより抜きんでていいることがわかった。おそらく、選挙に関して自分なりの判断基準を確立しているがゆえに、メディア報道の高利用者でありながらも、議題設定の影響を受けにくくなっているのだと推測される。(ハードコア層の可能性)
属性型(第2次)議題設定効果の検証(竹下、三上 1995)
本研究は、マコームズのいう議題設定研究の第3期に属するもので、従来の一般的争点を超えて、属性型の争点や下位争点レベルの議題設定効果に注目して仮説検証を試みたものである。新たな段階の議題設定研究を切り開く研究として、国際的にも大きな注目を集めた(例えば、McCombs, 1997など)。
調査の対象となったのは、1993年7月に行われた総選挙である。この総選挙は国政に38年ぶりの政権交代をもたらした画期的な選挙だった。6月19日に政治改革法案をめぐって宮沢内閣不信任案が可決されて、衆議院が解散された。可決後、自民党の一部改革派議員が離党して新党を結成し、野党各党と「非自民連立政権」の樹立で合意するなど、総選挙での政権交代を実現しようという動きが活発化した。選挙の結果、自民党の議席は過半数を大きく割り込み、新生党、日本新党、新党さきがけの保守新党が躍進、与野党間の激しい駆け引きの末に、細川護煕(日本新党代表)を首班とする非自民連立内閣が誕生することになった。
この総選挙では、マスメディア特にテレビの果たす役割が大きな注目を集めた。非自民連立政権を誕生させ、自民党一党支配の55年体制を崩壊に導いた立役者はテレビのニュースや政治討論番組だったのではなかったのか、という議論が自民、非自民いずれの側からも指摘された。いわゆる新党ブームは、マスコミの力を借りて引き起こされたものであることは、誰の目にも明らかだった。特に、テレビ朝日の人気番組「ニュース・ステーション」では、久米宏キャスターや和田解説委員が「政治を変えなければならない」と盛んに強調した。実際、テレビ朝日報道局長(当時)が「政治とテレビ」をテーマにした日本民間放送連盟の会合で、先の総選挙報道について、「非自民連立政権が生まれるよう報道せよ」と指示した、との発言を行ったことが『産経新聞』で報じられるなどテレビで世論操作が行われたのではないかとの疑惑が沸き起こり、国会証人喚問にまで発展した。
調査の概要:
1. 有権者調査(パネル調査)
東洋大学社会学部の社会調査実習の一環として実施した。
第1回調査:
調査期間:1993年7月7日(日)〜11日(日)
調査対象者:練馬区在住の20〜74歳男女650名
標本抽出法:住民基本台帳から確率比例2段階無作為抽出
調査方法:個別訪問面接、留置法を併用
有効回収:342票(52.6%)
第2回調査:
調査期間:1993年7月15日(木)〜17日(土)
調査対象者:第1回調査の回答者342名
調査方法:個別訪問面接、留置法を併用
有効回収:182票(53.2%)
2. 内容分析:
新聞(朝日、読売)、テレビニュース(NHKおよび民放の夜のニュース番組)を内容分析。
3.調査票で取り上げた項目:
a) 一般的な争点レベルの議題
「この中で、最も重要だと思う問題は何ですか?」と尋ねた。
b) 政治改革の下位争点レベルでの議題
「政治改革の問題について、最も重要だと思う点は何ですか?」と尋ねた。
調査の結果:
1. 一般的な争点レベルでの議題設定
内容分析の結果、政治改革が1993年総選挙報道において圧倒的に顕著な争点であったことがわかった。そこで、メディアの強調度と有権者の顕著性の順位を比較する方法を採用せず、仮説検証のために2つの指標を構築した。1つは、最大争点である政治改革問題の一般的な顕出性レベルの測定である。前述の「最も重要な問題」についての質問において、回答者が政治改革問題に全く言及しなかった場合は「低顕出性」とし、それを最も重要な問題の一つとして挙げた場合は「中顕出性」、最重要問題として挙げた場合は「高顕出性」としてコーディングした。全回答者のうち、41.8%が低顕出、33.9%が中顕出、24.3%が高顕出と分類された。2つ目の指標は、テレビや新聞における政治ニュースへの注意度で、テレビニュースや新聞への接触レベルと選挙への関心レベルを組み合わせて構成した。これは、メディア効果に関する測定値として、単なる接触レベルの測定よりも効果的な予測因子であると期待される。
一般的な問題レベルで議題設定効果が発生する場合、テレビや新聞の政治ニュースへの注意度の増加は、政治改革問題の顕出性の増加と関連することが予測される。この予測を検証するため、政治ニュースへの注意度と政治改革問題の顕著性の間の単純および偏相関係数を計算した。分析の結果、テレビや新聞の政治ニュースへの有権者の注意度と政治改革問題の顕著性の間に、統計的に有意な相関が見出された。この相関は、人口統計学的および党派的変数を統制した後でも中程度の強さであった。これにより、一般的な問題レベルで議題設定効果が検証された。
2. 政治改革の下位争点レベルでの議題設定
政治改革に関する下位争点の顕出性は、政治改革の7つの具体的な項目リストを用い、回答者にとって最も重要だと考える項目を選んでもらった。この回答を因子分析した結果、政治改革に対する人々の理解は2つの因子に要約できることが分かった。一つは「倫理関連因子」と呼べるもので、腐敗防止や綱紀粛正を強調するものである。もう一つは「制度関連因子」と呼べるもので、特に選挙制度改革を含む制度の変更や改革を、政治改革全般への最も重要なステップと位置付けるものである。この2つの因子に基づき、政治改革の下位争点顕出性を示す指標を、各回答者の因子スコアを計算することで構築した。
政治改革に関連する報道においてメディアがどのような下位争点を取り上げたかを分析したところ、元の7つのカテゴリーは、回答者の下位争点顕出性測定で使用した2つの因子と同じパターンに統合された。「制度」関連の下位争点に言及する記事の数が「倫理」関連の下位争点に言及する記事の数をほぼ2対1の比率で上回っていることが示された。この結果から、下位争点レベルで議題設定効果が発生する場合、テレビや新聞の政治ニュースへの注意度の増加は、制度関連の下位争点の顕出性の増加と関連し、倫理関連の下位争点の顕出性には関連しないと予測される。調査データを分析すると、政治ニュースへの注意度は、制度関連の下位争点の顕出性とは関連があるが、倫理関連の顕出性とは関連がなかった。このパターンは新聞についても同様だった。つまり、当時、新聞やテレビの選挙報道によく注目した人ほど、政治改革の中でも選挙制度改革を特に重視する傾向が見出され他のである。さらに興味深いのは、このレベルでは新聞がテレビニュースよりも比較的強い影響を持つように見える点である。この理由として考えられるのは、新聞がテレビニュースよりも分析的な記事を多く含み、問題を効果的にフレーミングした可能性があるということである。
竹下と三上による本調査研究は、議題設定効果の属性レベルの第2次議題設定におけるマスメディアの影響を実証的に明らかにした貴重な研究成果として注目を浴び、マコームズも自身の学会や論文で何度も引用している(McCombs, 1997他)。議題設定研究の発展に一定の貢献をすることができたのではないかと考える。竹下(1998)は、この第2次レベル(属性型)の議題設定について、従来の「何について考える」(what to think about)から、ある争点について「それをどのように考えるか」(how to think about it)へと、仮説の適用領域を拡張する試みであ李、結果として、属性型議題設定はフレーミングの概念とlきわめて類似性が高い、と指摘している。
環境問題に関する議題設定研究(三上、竹下、川端、仲田)
次に紹介する研究は、1992年6月にブラジルのリオデジャネイロで開催された「地球サミット」(UNCED)の期間中に、マスメディアの大々的な環境報道が一般市民に及ぼした認知的影響を議題設定研究の手法を用いて分析したものである。環境問題をテーマとして議題設定仮説を検証した数少ない事例と言える。
調査の概要:
1. 一般市民意識調査
調査期間:1993年6月13日〜23日。T大学の社会調査実習の一環として実施。
調査方法:留置回収
有効回収:581件(うち男性50.3%、女性49.7%)
調査項目:マスメディアへの接触状況、テレビや新聞での環境ニュースへの接触状況、環境問題への関心、地域・国内・地球規模における環境問題の顕出性、UNCEDに関するマスメディア報道の評価、環境保全に関連する行動、態度や性格に関する項目、人口統計学的特性。
2. 内容分析
テレビニュース:
NHKの夕方ニュース(「7時のニュース」)、NHKの夜間ニュース(「ニュースセンター9時」)、TBSの夕方ニュース(「ニュースの森」)、TBSの夜間ニュース(「ニュース23」)、フジテレビの夕方ニュース(「スーパータイム」)、テレビ朝日の夜間ニュース(「ニュースステーション」)である。UNCEDの期間(1992年6月1日から6月14日)に、これら6つのニュース番組で報道された環境ニュースをすべて録画し、分析した。
新聞記事:
「朝日新聞」「読売新聞」の2紙について、面接調査の前の20週間(1992年1月27日から6月14日)を対象に分析を行った。調査の質問票に記載された地球環境のサブテーマに該当する記事や社説を「朝日新聞」および「読売新聞」の電子データベースから抽出した。各サブテーマごとに2~5つのキーワードを設定し、それらが見出しやリード文に含まれる記事を選定した。その後、不適切な記事を除外し、適切な記事をコーディングした。
調査の結果:
1. テレビニュース接触度と環境問題顕出性の関連
現代日本が直面する9つの主要な問題をリストアップし、特に重要だと考える問題を複数選択で回答してもらった上で、その中で最も重要だと考える単一の問題を選ぶよう依頼した。回答者の70%以上が環境問題を現代日本の最重要課題の一つとして挙げており、この割合は他のどの項目よりも高かった。UNCED以前に環境問題に関するテレビニュースに接触した頻度と問題の顕出性との間に有意な関連が見られた。テレビニュースを多く視聴するほど、環境問題を重要だと認識する傾向が強かった。
2. 新聞のメディア議題と市民意識の関連性
地球環境問題に関する新聞の議題と、回答者が最も重要だと考える地球環境サブテーマの議題との関連を、全体のサンプルと環境問題全般の顕出性レベルごとに順位相関係数で測定した。分析の結果、最新の2週間の報道量(UNCED期間にほぼ相当)と一般市民の議題との間に比較的弱い相関が見られた。これは、UNCEDがメディアイベントとして一般市民の意識にはあまり影響を与えなかった可能性を示唆している。しかし、メディア議題を過去に遡り、2週間ごとの累積報道量を加味すると相関は増加し、6~10週間の累積期間(タイムスパン)で相関はピークに達した。その後、相関はわずかに減少する。この傾向はSalwen(1988)で見られたものと非常に類似しており、新聞の議題設定効果が長期的かつ累積的であることを示唆している。
環境問題全般の顕出性レベルを分析に取り入れた場合、中程度の顕出性を持つ回答者が、各累積期間において最も高い相関を示した。この理由として考えられるのは、環境問題に対して高い顕出性を持つ人々は、地球環境問題について固定的なイメージを持っている傾向があり、メディアの議題設定設定の影響を受けにくいということである。
本研究の内容は、議題設定研究を総括したマコームズの単著『アジェンダセッティング』(2017 竹下訳)でも詳しく紹介されており、議題設定研究の国際的な発展において一定の役割を果たしていると評価することができるだろう。
議題設定とフレーミング(竹下)
本研究は、議題設定研究の立場から、メディアのフレーミングが人々の認識に及ぼす効果を、幅広い争点やトピックに適用可能なフレームの枠組みを用いて測定する試みである。ここで、フレーミングとはある問題や出来事に対する解釈枠組みの適用と定義されている。
調査の概要:
1. 調査のテーマ
取り上げた争点は、1990年代初頭の馬ルル崩壊以降、長期にわたって低迷を続けてきた「日本の経済状況」。この複雑で諸説分かれる問題について、一般の人々がどのような視点からどう理解しているのか、またマスメディアの報道は人々の問題理解にどんな影響を及ぼしているかを追求した。
2. 予備調査:フォーカスグループインタビュー
1999年9月から12月にかけて、20歳代から60歳代までの男女28人を対象に、低迷する日本の経済状況のうち、何が一番問題だと思うかを自由に語ってもらった。
3. 意識調査:
2001年5月下旬から6月初めにかけて、東京都在住の20歳以上70歳未満の男女800人を対象に実施。留置法。有効回収数は556(69.5%)。フォーカスインタビューを参考にしながら、12フレーム項目を作成し、それぞれについて、「重大さ」の程度を4段階で評価してもらった。
4. 内容分析:
マスメディアの経済報道における経済問題のフレーミングの仕方を調べるために、内容分析を実施した。「朝日新聞」と「読売新聞」を対象とし、意識調査実施前の1年間を分析対象として、13日分を系統抽出。第1面の「経済関連記事」を分析した。対象記事は「経済の下位争点」と「問題状況フレーム」のカテゴリーで分類した。
調査の結果:
1. 有権者の問題状況認識
日本経済に対する問題状況認識の構造を調べるために、回答選択肢を因子分析した結果、「制度崩壊」「損失」「不確実さ」「対立」という4つの問題状況フレームが抽出された。
2. ミクロ属性次元の議題設定(下位争点レベルでの効果)
新聞の下位争点強調度と有権者の下位争点重要度認知との間の関連を調べると、回答者全体で見た場合、スピアマン順位相関係数は0.59隣、統計的に有意だった。これは、ミクロ属性次元での属性型議題設定効果に一定の支持を与えるものと言える。
3. マクロ属性次元の議題設定(問題状況フレームレベルでの効果)
このレベルでの属性型議題設定効果は、「フレーミング効果」ということができる。意識調査での回答の因子分結果から、4つの問題状況フレームに対応する因子が抽出された。そこで、これらのメジャーと、「経済報道への注意度」尺度との関連を調べたところ、経済報道への注意度と、メディアによる顕出性の最も高かった「制度崩壊」フレームに対する重要度にんちとの間には有意な正の相関(ピアソン相関係数0.31)が見られた。他方、新聞報道で強調されていなかった「損失」と「対立」フレームに関しては、報道への注意度とフレーム重要性認知との間には、有意な関連は見られなかった。以上は、フレーミング効果の存在を支持するデータといえよう。
本研究の意義:
本研究は、メディアによる経済問題のフレーミングが受け手の経済問題の認識の仕方に影響していることを実証的に明らかにしたことに意義がある。新聞の経済報道では、低迷する日本の経済状況を定義する際に、「制度崩壊」を最もよく用いたが、受け手の側でも、経済報道を熟読している人ほど、同じフレーム(制度崩壊)を重視する傾向が見られた。長期的不況の原因・対策については、経済の専門家の間でも「景気循環要因を重視し、マクロの景気対策をとるべきだ」との立場と、「構造的な要因を重視し、構造改革を優先すべきだ」とする立場に分かれている。本調査の結果は、新聞の報道も都民の認識も後者の見方(フレーム)に傾斜していたことを示している。これが、「構造改革なくして景気回復なし」というスローガンを掲げた当時の小泉内閣に国民が少なからぬ支持を与えた理由の一端を示すものと竹下は述べている。
本論文は、「第2レベルの議題設定」の研究に属するもので、「フレーム」という属性のレベルにおける議題設定効果(つまりフレーミング効果)を初めて調査データを用いて詳細に検証したもので、大きな意義を持っていると言える。実際、マコームズも議題設定に関する総論的な著書(McCombs, 2014)の中で、本研究を大きく取り上げているほどである。フレーミング効果研究の分野に対しても、重要な学術的貢献として評価されることだろう。
議題設定研究の将来展望
最後に、議題設定研究50周年を迎えて、創始者のマコームズとショー、それに生成期の共同研究者ウィーバーの3人が、議題設定研究の発展を振り返り、今後の方向性を示した論文を紹介することにしたい。"New Directions in Agenda-Setting Theory and Research" と題して、2014年にMass Communication & Society誌に掲載されたものである。
議題設定研究の7つの側面
議題設定理論は、50周年を迎えるにあたり、過去の研究と現在の成果を踏まえ、さらに発展する可能性を示している。議題設定理論は、チャペルヒルにおけるメディアが公衆の問題意識に与える影響を厳密に検証した研究から始まり、現在では以下の7つの側面を持つ広範な理論へと発展している。
- 基本的議題設定マスメディアの議題が、公衆の議題に対して、問題、政治的な人物、その他注目対象の重要性に与える影響(議題設定の第一段階)。
- 属性議題設定マスメディアの議題が、公衆の議題に対して、それら対象の属性の重要性に与える影響(議題設定の第二段階)。
- ネットワーク議題設定ネットワーク化されたメディアの議題が、ネットワーク化された公衆の議題に対して、対象や属性の重要性に与える影響(議題設定の第三段階)。
- オリエンテーション欲求メディアとの接触における各個人の心理学的要因を詳細に示す概念であり、議題設定効果の強さを理解するための中心的な要素である。最近では、メディア接触と議題設定効果を結びつける二重の心理的経路が詳述されている。
- 議題設定効果の結果議題設定効果が態度、意見、行動に与える影響。
- マスメディアの議題の起源支配的な文化的およびイデオロギー的環境、ニュースソース、メディア間の影響、ジャーナリズムの規範と慣行、ジャーナリスト個人の特性など多岐にわたる。
- 議題融合マスメディアの市民的議題や自分が価値を置くコミュニティの議題を、個人の見解や経験と統合し、満足のいく世界観を形成するプロセスを指す。
上記の7つの側面のうち、本論文では、現代の研究で特に活発な理論的領域である「方向性の必要性」「ネットワーク議題設定」「議題融合」の3つが特に詳述されている。
オリエンテーション欲求と議題設定の心理学
マコームズとウィーバー(1973)は、オリエンテーション欲求を「関連性」と「不確実性」の組み合わせとして定義し、関連性が低い場合にはオリエンテーション欲求も低く、関連性が高く不確実性が低い場合には中程度のオリエンテーション欲求となり、関連性が高く不確実性も高い場合には高いオリエンテーション欲求となるとした。彼らは政治的関連性を、1972年の大統領選挙キャンペーンへの関心やその議論で操作的に定義し、不確実性を投票行動の一貫性、政党への強い帰属意識、大統領候補の選択に対する確信度で測定した。結果として、新聞やテレビを政治情報のために利用する頻度がオリエンテーション欲求のレベルに応じて増加するという仮説が強く支持され、新聞の議題設定効果もオリエンテーション欲求のレベルに応じて直線的に増加することが確認された。
また、2008年の米国大統領選挙に関するカマイとウィーバー(2013)の調査では、オリエンテーション欲求がニュースメディアへの単純な接触頻度よりも政治ニュースへの関心を予測する上で強い指標であることが示され、さらに第2レベルの議題設定効果(候補者属性の重要性)に対しては、メディア接触よりもメディアへの注目度が良い予測因子であることが確認された。
このように、オリエンテーション欲求は議題設定理論において重要な心理学的概念であり、メディア利用や議題設定効果の理解を深めるための鍵となる要素であるといえる。
なぜ議題設定が起こるのか
議題設定効果の心理学を包括的に分析したマコームズとストラウド(2014)は、「なぜ議題設定が起こるのか」という問いに対する答えとして、オリエンテーション欲求が一部を説明するに過ぎないと結論づけている。彼らは、アクセス可能性と適用可能性を含む心理的プロセスを通じて議題設定効果が生じる仕組みを説明する研究をレビューしている。マスメディアを受動的に利用する人々は、積極的に利用する人々に比べてオリエンテーション欲求が低い傾向があることが示されており、「中程度-積極的」オリエンテーション欲求(高い関連性と低い不確実性)を持つ人々は、オリエンテーション欲求が高い人々(高い関連性と高い不確実性)よりも偏向的なメディアを利用する傾向があるとされている。このパターンから、「中程度-積極的」オリエンテーション欲求を持つ人々は方向性の目標に動機づけられ、高いオリエンテーション欲求を持つ人々は正確性の目標に動機づけられると推測される。
オリエンテーション欲求が低い人々や「中程度-受動的」(低い関連性と高い不確実性)のオリエンテーション欲求を持つ人々は、メディア情報を受動的に処理し、ニュースメディアを比較的少なく利用するため、議題設定効果は限定的である。一方、「中程度-積極的」オリエンテーション欲求や高いオリエンテーション欲求を持つ人々は、情報収集を積極的に行い、アクセス可能性バイアス(頭に浮かびやすい情報への偏り)の影響を受けにくい。「中程度-積極的」オリエンテーション欲求を持つ人々は偏向的なメディアを利用する傾向が強く、第2レベルおよび第二レベルの議題設定効果が高い結果を生む。一方、高いオリエンテーション欲求を持つ人々は主流の、偏向の少ないメディアを利用する傾向があり、第1レベル(問題)議題設定効果が強いが、第2レベル(属性)の効果は中程度である。
ソーシャルメディアと議題設定
近年の研究では、ソーシャルメディアの議題設定プロセスが、伝統的なメディアと公衆の関係を超えて広がっていることが示されている。例えば、2012年の米国大統領選挙におけるソーシャルメディアの議題は、伝統的なニュースメディアと比較して非常に多様であり、より包括的な公共の議題設定を観察する手段として機能している。
ただし、ソーシャルメディアの議題設定プロセスは、ニュースメディアと公衆の間の双方向的なフローを含む場合もあり、ニュースメディアが公衆の議題を刺激し、逆に公衆の議題がニュースメディアの議題を刺激するという二段階のプロセスを形成することがある。
ソーシャルメディアのデータを用いた議題設定研究は、世論を連続的に観察する新たな視点を提供するが、依然として世論の限定的な部分を反映している。さらに、ソーシャルメディアデータの単位は主に「メッセージ」であり、個人単位の分析を行う従来の調査との違いがある。このギャップを埋めるためには、ソーシャルメディアデータと伝統的な調査手法を補完的に活用する必要があると考えられる。
ソーシャルメディア議題を含む議題設定プロセスは、ニュースメディアと公衆との関係を超えた拡張を示している。この拡張は、ソーシャルメディア議題の3つの異なるサブセットの起源に基づいて説明される。
ソーシャルメディア議題を構成する一部のメッセージは、市民の特定の問題への長年の、しばしば情熱的な関心から生じる。例えば、妊娠中絶、同性婚、銃規制といったホットボタン問題が挙げられる。時折、ニュースイベントがこれらの問題に関するソーシャルメディア上のメッセージの急増を引き起こすことがあるが、ニュースメディア議題がこれらの問題について市民の対話を刺激する役割は基本的に小さい。まれに、市民が直接的に出来事を観察し、それについてソーシャルメディアでコメントすることもある。これは主にスポーツイベントや政治討論会のような出来事についてのコメントであり、市民ジャーナリズムの一部もここに含まれる。
これら最初の2つのサブセットは、ソーシャルメディア議題を定義するメッセージの小さな部分にすぎないが、ソーシャルメディアから収集した大規模データセットに依存する際に、メディアと公衆の関係を観察する際の「ノイズ」をもたらす。つまり、ソーシャルメディア議題は非常に多様な起源を持つメッセージの混在であり、包括的すぎる。
最初の2つのサブセットは、主に市民によるソーシャルメディア議題への独自の貢献である。3つ目のサブセットは、ニュースメディアの伝統的な議題設定機能の拡張および再定義を示している。このサブセットは、優先問題議題よりもはるかに広範な問題のセットを含むことがある。このソーシャルメディア議題は、ニュースメディアが最初に公衆の議題を刺激し、その後公衆の議題がニュースメディアの議題を刺激するという、2段階の議題設定プロセスの一部となる場合もある。つまり、双方向のフローが存在する。
新たな視点:第3レベルの議題設定
心理学者や哲学者の中には、人々の心的表象が絵画的、図式的、または地図的に機能すると考える者もいる。つまり、観衆は対象と属性をそれらの要素間の相互関係に基づいてネットワークのような絵としてマッピングするのである。この観点から、ニュースメディアは要素群間の関係性の重要性を公共に転移させる。これらの要素群は、メディアや公共の議題における対象や属性、または対象と属性の組み合わせである。メディアと公共の議題の要素間のこれらの関係群が、議題設定の第3レベルである(Guo, 2014)。
ニュースメディアが要素群間の関係性の重要性を公共に転移できる程度を初めて探求した研究は、メディアにおける属性群間の関係性の重要性の転移に焦点を当てた。この研究では、従来の属性議題設定と比較するため、KimとMcCombs(2007)が収集したデータセットにネットワーク分析を適用した。テキサス州知事と米国上院議員の候補者を対象にした研究で、KimとMcCombsは各候補者について、また4人の候補者全体で強い属性議題設定効果を発見した。彼らの分析は、ニュース記事と市民の候補者に関する記述の中で、様々な属性が出現する頻度を比較したものである。ネットワークの視点から再分析を行った結果、ニュース記事と市民の記述における属性の共起を調査し、元の研究の効果の強さと一致する有意なネットワーク議題設定効果を発見した。例えば、KimとMcCombsの分析におけるメディアと公共の属性議題間の相関(0.65)は、メディアと公共のネットワーク議題間の相関(0.67)と一致している(Guo & McCombs, 2011)。
また、対象の重要性の転移を調査した別の研究では、米国ニュースメディアのネットワーク化された問題議題と、2007年から2011年にかけて毎月の全国世論調査で測定された公共のネットワーク化された問題議題を比較した。この5年間の各相関は0.65から0.87の範囲であった。上述の属性議題の分析と同様に、ネットワーク分析と従来の相関分析の統計結果は非常に類似している(Vu, Guo, & McCombs, 2014)。
これらの関係性をメディアが提示する際の冗長性が再び鍵となる可能性が高いが、公共にこれらの効果を生み出すために必要な冗長性のレベルは、研究者たちに新たな問いを提示している。概念的および方法論的に独立したこの新たな広い視点、すなわち議題要素の束ね方に関する第3レベルの議題設定は、「メディアのネットワーク化された問題議題における関係性の重要性が公共のネットワーク化された問題議題に転移できる」という包括的な議題設定仮説を検証するものである。議題の操作的定義は拡大し続けており、研究者にとって豊かな探求領域を提供している。
議題融合と市民共同体の均衡
メディアのメッセージがあっても、それを受け取るオーディエンスが存在しない場合、議題設定は成立しない。1960年代から1970年代にかけて、強力なメディアの影響が再発見されて以降(Gerbner, Gross, Morgan, Signorielli & Shanahan, 1994; Noelle-Newmann, 1993; McCombs & Shaw, 1972)、オーディエンスがメディアの議題を選択する役割についての認識が高まってきた。市場におけるメディアの選択肢は爆発的に増加している。我々の中には、ウェブで新聞を読む者、FacebookやTwitterで同様の興味を持つグループを見つけたり作成したりする者、一日中さまざまなニュースチャンネルを監視する者がいる。一方で、特に高齢者であれば、依然として日刊新聞を読んだり、テレビの夕方ニュースを視聴したりしている。我々には選択肢があり、それを活用して議題メッセージを組み合わせ、自分の個性を満たす議題共同体 (Agenda Community) を形成しているのである。我々は、全ての人に届くネットワーク放送のようなメディアから選択する一方で、個人的な興味や大切な人々の興味に合ったスポーツ雑誌やウェブサイト、ブログといったメディアを利用している。
垂直的なメディア、たとえばネットワークや地方放送局は、大規模な共同体の多様性を取り込み、ピラミッドの頂点から広範な観衆に向かって発信しているように見える。これらのメディアは、通常、社会の基本的な制度や価値観を反映している。一方で、雑誌、ケーブルテレビ、TwitterやFacebookなどは特定の関心や個人的なつながりを持つコミュニティを構築し、ピラミッドの水平面で生きているかのような感覚を生む。現実には、垂直的な制度共同体と、価値ある個人的な共同体の双方に属しながら生きている。我々は受動的な存在ではなく、これら二つの共同体に関する情報を組み合わせ、自分自身の経験や好みに合わせた共同体を見つけ出したり、作り出したりしているのである。
垂直的な市民共同体を構成する情報には、社会全体を代表するものが含まれる一方、水平的なコミュニティは個人的または特殊な関心を反映している。この二つの情報源に加えて、個人の経験や信念が融合の要素として重要である。この三つの要素をどのように組み合わせるかが、議題融合の鍵となる。これを理論的に表現するための仮説が次のものである:
議題共同体の魅力(Agenda Community Attraction, ACA) = 垂直的メディア議題設定の相関(平方)
- 水平的メディア議題設定の相関(平方)
- 個人的選好
たとえば、ある社会システムにおいて垂直的メディアの相関が0.80の場合、その平方は0.64となる。残りの0.36(1.00から0.80を引いたもの)は水平的メディアおよび個人的要素に起因する。このうち水平的メディアが0.20であると仮定すると、その平方は0.04となる。最終的に、残りの0.32が個人的選好に帰属する。この仮説的な例を用いると、以下のように表現される:
ACA = 0.64 + 0.04 + 0.32 = 1.00
この仮説に基づき、議題共同体における水平的コミュニティの寄与を特定し測定することが研究課題となる。心理学的には、個人の選好や経験がメディアの選択やメッセージの受容に影響を与えることは知られている。議題融合の分析を通じて、垂直的および水平的メディア、さらに個人的な影響の役割を総合的に評価することが可能である。
ここで、議題融合(Agendamelding)とは、他者を含む多様な情報源から議題を組み合わせ、自分の経験や好みに合った世界観を形成する社会的プロセスである。このプロセスが非常に個人的で無意識的なため、「議題融合(agendamelding)」という用語が用いられる。
オーディエンスが垂直的議題、水平的議題、そして自身の経験をどのように融合させるかは、グループごとに、また時代ごとに異なると考えられる。垂直的メディア議題の影響が増減すると、それに応じて水平的メディアと個人的な要素も変動する。垂直的メディアとの相関が比較的高いシステムは、安定した社会システムを示唆すると考えられる。しかし、代替的共同体の議題の力が増すにつれ、不安定な移行期間が訪れる。モデルの右端では、代替的共同体を中心とした新たな安定性が再出現する。その後、このプロセスは繰り返され、新たな安定性、または別の代替的共同体への移行が生じる。このモデルは、各国の議題設定データを用いて検証する必要があることは言うまでもない。
(筆者のコメント)
議題設定理論は、1972年に創設されて以来、新しい概念装置や検証方法、適用領域を次々と開発し、目覚ましい発展を遂げてきたが、本論文では、さらに第3レベルの議題設定や議題融合といった、新しい理論装置を加えて、さらに強力な効果論への飛躍しようとしている。また、培養理論とは違って、ソーシャルメディアなどの新しいメディア環境も理論の中にたくみに取り込んで、オーディエンスや市民共同体といった新時代の世論モデルの構築を見据えて理論へと、新たな方向性を示しているように思われる。今後の更なる発展を期待したいと思う。
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