ヘルタ・ヘルツォークの肖像写真("What Do We Really Know About Herta Herzog"表紙からの引用)

メディア研究

ヘルタ・ヘルツォークの生涯と業績ージェンダーの視点から読み解くメディア研究史

1.はじめに

本稿は、実証的メディア研究の歴史において、創始者の一人として偉大な業績をあげたヘルタ・ヘルツォークの生涯と業績を概観し、ジェンダーの視点から、メディア研究史における位置付けを再検討するとともに、彼女の研究が現代のメディア・コミュニケーション研究およびメディア実践に及ぼした影響の総合的評価を試みるものである(1)

本論文を執筆するにあたっては、主として、ヘルタが逝去した2010年以降に出版された記念論文、レビュー論文、アメリカのマス・コミュニケーション研究史専門家による研究論文を参考にさせていただいた。また、冒頭のカバー写真として、記念論文集(2) What Do We Really Know About Herta Herzog? (2016 New York: Peter Lang)表紙の一部を使わせていただいたことをお断りしたい。

2. ウィーン時代

ラザースフェルドとの出会い

ヘルタ・ヘルツォーク (Herta Herzog) は1910年ウィーンの同化派ユダヤ人家庭に生まれた。父親は弁護士だった。学校時代、ヘルタは余暇にヴァイオリンを弾くのが好きで、特にピアニストの父とデュエットをするのが好きだった。1928年にウィーン大学に入学した彼女は、在学初年度にシャルロッテおよびカール・ビューラー夫妻による心理学講義を受講することとなった(3)。彼らは1923年にウィーン大学心理学研究所を創設しており、シャルロッテは児童発達に、カールは思考心理学に関して重要な貢献を行っていた。同研究所には数名の優秀な助手が所属しており、その中には数学者であり、統計学を社会心理学に応用していたパウル・ラザースフェルドの姿もあった。ラザースフェルドは水曜夜に「心理学実習」を主催しており、学生が研究成果を発表するほか、ジャン・ピアジェやコンラート・ローレンツといった著名な学者の講演も行われていた。

「声とパーソナリティ」博士論文の執筆

博士論文として、ヘルツォークは新興メディアだったラジオを研究対象とし、ラザースフェルドの勧めにより、英国の研究に倣って、ラジオアナウンサーの声と人格が聴取者に与える影響を調査した。彼女は1933年、『声とパーソナリティ(Die Stimme und Persönlichkeit)』と題した博士論文でPh.D.を取得した。この研究では、2,700人の聴取者が、スピーカーから受けた印象、それぞれのパーソナリティをどのように想像しているか、信頼しているか、などの質問に答えた。この研究でヘルツォークは初めて、声のトーンと話し手の想定される特徴との間に関係が存在し、性別がその解釈に重要な役割を果たしていることを証明した 。しかし、1931年の夏、論文執筆中にヘルツォークはポリオ性脊髄炎にかかった。彼女の右腕は一生麻痺したままだった。その結果、ヘルツォークは大好きだったヴァイオリン演奏を諦め、左手で字を書くことを学ばなければならなかった。

ラザースフェルドとヘルツォークの渡米

ウィーン大学を卒業後、ヘルツォークは 経済心理学研究所の助手になった。当時、ラザースフェルドは妻のサセックス大学教授マリー・ヤホダ、シカゴ大学教授のハンス・ツァイゼルとともに、マリエンタールというウィーン南部の村での失業者に関する共同研究(4)を行なっていたが、この研究がロックフェラー財団パリ代表部の目にとまり、アメリカでの海外研究費を得ることになり、1933年に渡米が実現した。ポールが渡米中、ヘルタは彼の授業を引き継ぎ、博士課程の学生の指導に当たった。研究員としての滞在期限が切れる1935年、ラザースフェルドはウィーンでのユダヤ人迫害が強まったため、アメリカに留まる決意を固めた(Lazarsfeld, 1973)。その前年にはマリーと離婚していたこともあり、ラザースフェルドと恋愛関係にあったヘルタは彼と一緒に生きる道を選び、1935年に渡米し、二人はすぐに結婚した(5)

ラジオ調査室 (ORR)での活動

1937年になると、ロックフェラー財団が、ラジオがアメリカ社会に与える影響に関する大がかりな研究プロジェクトの本部を、ラジオ研究で実績のあるハドリー・キャントリルのいるプリンストン大学に設置した(6)。キャントリルの要請によって、ラザースフェルドが「ラジオ調査室」the Office of Radio Research (ORR) の室長に任命され、スタントン、キャントリルが副室長に就任した。ヘルツォークも創設メンバーの一人として入局し、ラザースフェルドとともにラジオの影響に関する調査研究に従事することになった。ORRでの当初のヘルツォークの研究は、主にラジオのリスナーに焦点を当てたものが多かったが、次第に市場調査の分野でも指導的役割を果たすようになり、特にフォーカス・インタビューや内容分析などの方法論に関する専門知識を深めていった。ORRにいる間、ヘルツォークは19本の論文を発表し、合計652ページに達したが、13本は未発表に終わった (Klaus, 2016)。

ORRは1939年にはニューヨークのコロンビア大学に移管され、「応用社会調査研究所」Bureau of Applied Social Research (BASR)と改名された(7)。ラザースフェルドとヘルツォークも同大学に移り、ヘルツォークも副所長になった (Klaus, 2016; Lazarsfeld, 1973)。しかし、ヘルツォークはラザースフェルドの妻だったこともあり、必ずしも主任研究員として正当な扱いを受けることができず、報酬も低かったと言われている(8) (Klaus, 2016, P.22)。

ヘルツォークがORRに勤めていた1937年から1943年までの間にあげた業績は多岐にわたるが、その代表的なものを挙げると、「火星人来襲ドラマパニック」に関する調査研究、「プロフェッサークイズ」ラジオ番組のリスナーに対する調査研究、「昼間の連続ラジオドラマ(ソープオペラ)」のリスナーに対する調査研究、フォーカス・インタビュー法の開発と改良などがある。以下で、それぞれについて詳しく考察する。

5.「火星人襲来ドラマ」の影響に関する調査研究

プリンストン大学教授だったハドリー・キャントリルの著作とされる『火星からの侵略』が、実際にはプリンストン・ラジオラジオ調査室(ORR)による共同作業の産物であったことが、ロックフェラー財団のアーカイブを詳しく分析したPooleyとSocolofの研究によって明らかになった(Pooley and Socolof, 2013)。ロックフェラー財団の資金によって運営されたORRは、ラザースフェルドが率いており、後のBASRの直接的な制度的前身であった。ラザースフェルドや、ORRの主要メンバー(特にヘルタ・ヘルツォーク)は、「火星人襲来ドラマ」パニックの初期調査と後の執筆において中心的な役割を果たしていた。同書は、「魔法の弾丸」(magic bullet)というレッテルが示唆するような単純な強力メディア論ではなく、ラジオ・メディアがはるかに複雑な影響を及ぼしていたことを提示している。むしろ「火星人来襲ドラマ」パニック放送に関する研究は、ORRおよび後のBASRによるメディア効果の複雑化を目指す長期的な研究(限定効果論)の初期段階として――すなわちその継続的一環として――読むべきだとPooleyらは主張している。Pooleyのこの指摘は、マスメディア効果論研究の歴史を根本から見直す契機になるかもしれない。後述するように、「火星人襲来ドラマ」の影響に関する研究において、ORRの女性研究員だったヘルツォークとゴーデットは、キャントリルに先んじて詳細なインタビュー調査を実施しており、そのデータを分析する中で、少なからぬリスナーがオーソンウェルズのラジオ番組を聞いて、そのまま信じ込むのではなく、何らかの内在的、外在的なチェック(情報確認行動)をとることによって、番組がフィクションドラマであることを見抜き、冷静な対応行動をとっていたという重要な事実を明らかにした。これは、リスナーの「批判能力」(先有傾向)や「情報確認」などの媒介的要因がラジオの影響を規定する重要な要因となっていることを初めて示したものであり、1940年の「ピープルズ・チョイス」での限定効果論を先取りしたものと言える。その点で言えば、ヘルツォークやゴーデットなどORRの女性研究者たちは、マスメディア効果研究の歴史において、「限定効果論」の生みの親 (Founding Mothers)だったと言っても過言ではない

調査開始のきっかけは、1938年10月30日(日)の夜、ORRの副局長だったフランク・スタントンの行動だった(Pooley & Socolow, 2013)。

夜遅く、フランク・スタントンと妻ルースは、CBS本社のある52丁目角のビルに向かってマディソン・アベニューを急いで車を走らせていた。車中のラジオでは、ちょうど「宇宙戦争」放送のクライマックスが流れていた。スタントンはその放送の最中に、世間に広がりつつあった興奮とパニックの報を耳にし、これはラジオ史上屈指の絶好の研究機会であると即座に認識した。

CBS本社に到着すると、彼は車を停め、エレベーターで自室へ向かい、番組の影響を測定するための質問票を、可能なかぎり迅速かつ正確に作成した。その後、ラザースフェルドに電話をかけて短く相談し、さらにジョージア州アトランタのフーパー・ホームズ社に連絡を取った。同社は保険業界向けに対面調査を専門とする企業で、電話調査に依存していなかった点が決定的に重要であった。スタントンは、経済階層や都市・農村別などの属性に応じて、必要なサンプル構成を綿密に確認し、翌朝には調査が開始された(Buxton & Acland, 2001, pp. 212–216;Stanton, 1991–1996, session 3, pp. 115–117)。

ただし、CBSでの過重な業務のため、スタントンはその後の調査資金確保に向けた11月の緊急活動には助言的役割にとどまった。パニック放送の直後から、ヘルツォークは、不安に駆られたリスナーたちへの詳細な聞き取り調査を実施した。この調査にもとづき、ヘルツォーク(1938)は初期の分析メモを作成したが、その中に含まれていたテーマの多くは、のちにキャントリルの『火星からの侵略』において驚くほど忠実に反映されている。にもかかわらず、彼女の貢献――そしてプロジェクトメンバーのヘイゼル・ゴーデットの貢献もまた――出版物においてはほとんど認識されなかった。

ヘルツォークの分析メモの中心的洞察は、「チェックアップ(情報確認行動)」に関する詳細な考察であった。この概念は、彼女が独自に考案したものだとみられる(1938, pp. 9–11, 14)。実際、『火星からの侵略』報告書において最も注目された発見は、リスナーの「批判能力」と、放送内容のフィクション性を他の証拠によって確認しようとする傾向との関連性であった。ヘルツォークは、この初期メモの段階ではチェックアップと教育や批判能力を直接結びつけてはいなかったが、確認行動が後続の研究において極めて重要であるという本質的な洞察を、メモの段階で明確に示していたのである(Pooley & Socolow, 2013)。

ラザースフェルドとキャントリルは、11月にロックフェラーの一般教育委員会に対する研究助成の申請の準備を始めた。キャントリルは、ロックフェラー財団への提案書を起草し、おそらく財団側の助言によって、この提案書をロックフェラー財団の姉妹基金である「一般教育委員会(General Education Board, GEB)」に提出した。提案書の中で、調査結果はプリンストン・プロジェクトによって出版されるとし、同プロジェクトのディレクターたちは「いずれもラジオに関心を持つ訓練された心理学者であり、すでに30件のインタビューをスタッフに実施させている」と述べている。この記述により、ヘルツォークの重要な貢献はここでも無視されてしまった。

エリザベス・クラウスによれば、「火星人襲来ドラマ」に関するリスナー調査をいち早く行なったのは、ヘルツォークだった(Klaus, 2016)。

「プリンストン大学のラジオ研究プロジェクトの副ディレクターであり、CBSのメディア・リサーチの責任者でもあったフランク・スタントンの依頼で、ヘルツォークは1938年10月30日にウェルズ原作のラジオドラマ『宇宙戦争』が放送された翌朝、30人の集中インタビューを行った。彼女はその結果を、"なぜ人々は「火星からの侵略」を信じたのか?"と題する調査報告書として発表した。この報告書は、ヘルツォークがハドリー・キャントリル、ヘイゼル・ゴーデットとともに行った有名な研究の基礎となった。」(Klaus, 2016, p.147)

この頃から、キャントリルは、「火星人襲来ドラマ」調査研究における自身の主導的役割を喧伝するようになり、ラザースフェルドとの対立が深まった。放送の直後から、キャントリルはプリンストン大学の報道機関に、自身がこの研究を率いているという話を繰り返し流していた。1939年1月中旬の『プリンストン・アラムナイ・ウィークリー』紙に掲載された記事「Psychologists to Study Martian Hysteria」の中では、CBSドラマに関する研究が「キャントリル博士の研究」とされており、「プリンストン・ラジオ・プロジェクトでのキャントリル博士のこれまでの研究が大いに寄与する」と記述されていた。記事中にラザースフェルドの名前は一切登場せず、これに激怒した彼はキャントリルに抗議の書簡を送ったという (Pooley & Socolow, 2013)。

この共同研究の成果は、1940年3月、『The Invasion from Mars: A Study in the Psychology of Panic(火星からの侵略――パニックの心理学に関する研究)』として出版された。著者としては、キャントリルが単独で記載され、ヘルツォークについては、「序」の中で、次のような簡単な謝辞が触れられているだけだった。

「ヘルタ・ヘルツォークは本研究の実施以前に、パニックについての独自の調査を行なっていた。彼女の経験と洞察に基づいて、本研究における面接調査を準備することができた。彼女は聴取者の試みた確認について初期研究を行い、第8章で報告されている事例研究を分析した。」(Cantril, 1940)

大衆向けの文体と目を引く主題が功を奏し、同書はすぐさま売上げを伸ばし、大衆市場向けペーパーバック版としても再発行された。メディア研究史においては、本書は一貫してキャントリル単独の業績と見なされており、大半の書誌的参照では「協力によって」というクレジットすら省略されている。ラザースフェルドをはじめ、ヘルツォーク、ゴーデット、スタントンとの関わりも、すでに長らく忘れ去られている。

6.「利用と満足」研究の創始者として

「利用と満足」研究創始者としてのヘルツォーク

おそらくメディア受容研究者としてヘルタ・ヘルツォークの名を広く知らしめたのは、彼女がORR、BASR時代に実施した「利用と満足」研究だろう。中でも、ラジオの「プロフェッサークイズ」および「昼の連続ドラマ」ラジオ番組のリスナを対象として実施した詳細なインタビュー調査による研究は、ラザースフェルドらの「ピープルズ・チョイス」調査研究とともに、実証的マス・コミュニケーション研究の黎明期における代表的な独創的研究として長く記憶されることだろう。

ただし、ここであらかじめ注意しておきたいのは、ヘルツォークが創始した「利用と満足」研究が、しばしばラザースフェルドの功績であるかのように紹介されることがあるという点である。例えば、我が国において「利用と満足」研究を初めて詳しく紹介した藤竹暁は、『マス・コミュニケーションの社会学』の中で、「ラザースフェルドの研究は「プロフェッサー・クイズ」というクイズ番組の分析であり、この調査分析には後に紹介する昼間の連続ラジオドラマの分析を行なったH. ヘルツォークがあたっている。」と誤った紹介している(藤竹 , 1973, p.62.)。また、この調査報告が掲載された『ラジオと印刷物』(Radio and Printed Pages)という書籍についても、ラザースフェルドが著者であるかのような紹介をしている。実際には、この本はORRでの調査報告を取りまとめたもので、ラザースフェルドは(単著の体裁をとってはいるが)実際には編者であるに過ぎない。また、ラザースフェルドは、プロフェッサークイズの調査研究には直接関わっておらず、ヘルツォーク単独の業績だったのである。

「プロフェッサー・クイズ」の研究

調査が行われたころ、アメリカではラジオのクイズ番組がドラマと並んで人気だった。当初ラジオに期待されていた教育的役割は、シリアス(真面目)な番組の低調さから見て、期待はずれという認識が広がっていた。しかし、一見娯楽的で低俗な内容だと思われがちなラジオの娯楽番組であっても、よく調べれば教育的機能を果たしているのではないか、というのがORRの研究者たちの見解だった。竹内(1976)は次のように指摘する。

『ラジオと印刷物(Radio and the Printed Page)』と題されたこの報告書は、当時全米の八割以上の家庭に普及したラジオの社会的影響を、印刷媒体との比較のうえで明らかにしようと試みたものである(9)。それによると、印刷物による知識の伝達の独占状態を破って登場したラジオに期待された啓蒙的、教育的な役割が、少なくとも社会問題や文化を扱ったシリアス番組の聴取実態から見るかぎり、決して十分に果たされてはいないことがわかった。つまり、従来印刷物の恩恵に浴することの少なかった層の人びとは、ラジオ番組一般にはよく接触してはいるものの、彼らの好む番組は、コメディ、ヴァラエティ・ショウ、連続ドラマ、クイズなどの娯楽番組にかたよっており、シリアス番組には背を向ける傾向が顕著だったのである。

しかしながら、「この一見否定的な知見は、大衆に対する理念の伝達という面で、ラジオが重要性をもちえない媒体であるということを、必ずしも意味するものではない」と、報告書の執筆者たちは考えた。その理由のひとつは、娯楽番組の聴取行動を仔細に分析してみれば、シリアス番組におとらない重要な教育的機能が発見されるかもしれないと思われたからである。たとえば、「あなたにとってためになる(you can learn something) 番組」をあげるようにいわれた100人の女性のうち22人がクイズ番組を指摘し、それに比肩できる番組はほかになかったことや、745人の高校生があげた「ためになる番組」のうち3分の1がドラマであり、4分の1がクイズだったことなどが、そうした予想の根拠となった(竹内, 1976, p.153)。

そこで、ラジオのクイズ番組に注目して、リスナーの番組受容の実態を詳しく調査したのがヘルツォークだった。調査の概要は次のとおりである。

(1)調査の概要
実施主体:プリンストン大学ラジオ調査室(およびコロンビア大学応用社会調査研究所)
主たる研究者:Herta Herzog
調査対象:低所得層から選ばれた20歳〜60歳の男女11名
調査方法:クイズ番組のリスナー(男性3名、女性8名)に対する詳細なインタビュー
調査対象ラジオ番組:プロフェッサークイズ。平均聴取率が13%と高く、人気のクイ番組。多くのリスナーから「教育的」だとの評価を得ている番組。

(2)調査の結果

このクイズ番組は、リスナーに対し、4つのアピールを持っていた。

1. 競争のアピール

競争的アピールは、11件すべてのインタビューにおいて言及されていた。ただし、その重要性については聴取者によって異なるバリエーションが見られた。第1に、番組に出演している回答者とリスナーの間の競争を楽しむという充足があった。第2は、一緒に聞いている共同リスナーとの間で競争を楽しむという充足だった。第3は、一緒に聞いているオーディエンスの前で褒めてもらうことによる自己顕示のアピールである。このタイプの充足(アピール)は、娯楽番組としてのクイズに普通期待されるアピールだと言える。
2. 教育的アピール
クイズ番組が普通「娯楽コンテンツ」と思われているにも関わらず、インタビュー対象者のほぼ全員が「教育的要素」の魅力を挙げ、多くの人がそれを最も重要な点として強調していた。これは、本研究における最大の発見だった。20人中15人だけが競技そのものが楽しみを増すと答えたが、全員がこの番組を「教育的」と見なしていた。クイズ番組で得られる知識が断片的で多様なものであることを自覚していたが、「クイズ番組から学ぶことは価値がある、知識を増やすことは良いことだ」と感じていた。というのは、クイズ番組を通じて知識の幅を広げることは、日常生活での会話に役立つからだと答えていた。とりわけ明確な例が、ある理髪師の語りである。彼は、番組を聴くために自分の余暇時間を犠牲にしてでも店に残ることすらあるという。彼がクイズ番組を聴く理由は以下の通りである:

「私の客はみんな女性で、彼女たちは本当によくしゃべる。クイズ番組は、彼女たちとの会話に役立つんだ。どんな話題が出てくるかわからないし、番組で聞いたことが助けになることがあるよ」

このように、人びとはより多くを知っていたいと望んでいるのは明らかである。なぜなら、知識の範囲が広がることで、会話を続ける可能性が増えるからである。

クイズ番組はまた、読書の代替手段としての機能も果たしていることが分かった。ある主婦は、昼間は一日中ブリッジに時間を費やしており、本を読む暇がないと述べた。そして、次のように言う:

「クイズ番組の方が本よりも良いわ。なぜなら、本には載っていないような質問についての情報をくれるから」

ある速記者は、「読書には時間とお金がかかる」と述べた。クイズ番組の情報は無料で手間もかからないのである。ある事務員はこう語る。仕事から帰宅したとき、妻は自分と一緒に過ごすことを期待しており、「一人で安楽椅子に座って読書している」ことには腹を立てるだろう。しかし、クイズ番組で一緒に学ぶことは妻も喜んでいるという。あるビジネスマンは、仕事終わりには疲れていて読書する気になれないと述べた。クイズ番組には「目を覚ましておけるだけの刺激がある」として好意的に語った。

ただし、クイズ番組から得られる知識は学校で学ぶ体系的な知識とは違って、「断片的な情報にすぎない」という批判的な受け止め方をする者もいた。本調査対象者の中に一人、非常に高い教育を受けた人物がおり、彼はこの番組を特に好ましくないと述べていた。その理由は、「出題される問題に明確な参照枠がない」ことであった。彼は、多くの問題の答えが自分にとっては意味をなさず、それを既存の関心や知識と結びつけることができないため記憶に残らない、と語った。ここでより重要なのは、番組の「教育的価値」が、まさにこのような「散発的かつ関連性のない情報片」にあると見なされている点である。調査対象者の間では、書籍を読むことや講座を受けることと、クイズ番組を視聴することの違いについて明確な合意があった。人びとは一様に、クイズ番組で得られる知識は、他の教育手段によって得られる「集中的知識」と比較して「多様な知識(diversified knowledge)」であると主張した。

3. 自己評価のアピール
クイズ番組はまた、自分について知る手段として役立っていた。例えば次のような回答があった。「自分がどれだけ愚かなのか分かった」「自分は予想以上に知識があると分かって嬉しくなる」「多くの質問に答えられることに驚くことがよくある」「他の人に勝つことよりも、自分が何を知っているのかを知ることの方が私にとって重要です。自分が思っていた以上に知識があることに気づきます」など。

4. スポーツのアピール
これは、スポーツ番組を見ているときと似た充足タイプである。全体で8人が競技そのものを楽しんでいると答えた。

番組を他人同士の競争として見る場合、主に次の3つの関心が挙げられる。

1)勝ちそうな競技者を選ぶことで、自分が優れた審判であることを示すことができる。
2)勝ちそうな競技者が、自分が勝ってほしいと思う人物像の象徴となる場合がある。
3)競技者が質問に答える際の失敗を楽しむことができる。

「プロフェッサー・クイズ」に関する「利用と満足」研究は、一見娯楽的な内容だと思われがちなクイズ番組であっても、リスナーが日常的に引き出している充足は多様であり、なかでも教育的アピールが最も高く、クイズ番組を聴くことがリスナーの知識の幅を広げ、日常の会話場面で役立てられていると同時に、読書の代替手段としての機能も果たしているという意外な知見が得られたという点で、きわめて意義深い成果だった。1960年代以降、欧米において量的な統計分析手法を用いて行われた各種のオーディエンス研究(McQuail, Blumler & Brown, 1972など)においても、ヘルツォークの発見した「教育的アピール」の機能が確認されており、ヘルツォークの分析と洞察の鋭さが裏付けられている(三上, 2014)。

昼の連続ドラマ(ソープオペラ)の「利用と満足」研究

ヘルツォークは、上記と同じ問題意識に立って、当時のアメリカ女性に圧倒的人気の高かったラジオの連続ドラマ(ソープオペラ)を取り上げ、クイズ番組と同じようなリスナーの受容調査を行った。この調査の結果について、ヘルツォークは1941年と1948年に、次のような別個の論文を発表している。

1. Herzog, Herta. (1941). On borrowed experience: An analysis of listening to daytime sketches. Studies in Philosophy and Social Science, 9 (1), 65–95. (Reprinted in M. Horkheimer (Ed.), Zeitschrift für Sozialforschung/, mit Gesamtregister, München: Deutscher Taschenbuch Verlag, (1980).
2. Herzog, Herta (1948). "What Do We Really Know about Day-time Serial Listners?", in Lazarsfeld, Paul F. and Frank N. Stanton (Eds.), Communications Research 1948 - 1949. Harper & Brothers: New York.

今日、本研究の成果に関して一番よく知られている論文は、1948年にラザースフェルドとスタントンの編集で出版されたBASRの報告書「Communications Research」に掲載された「我々は昼間の連続ドラマ聴取者について何を知っているか?」と題する論文である。この中で、調査の概要及び聴取者の「利用と満足」の部分を要約すると、次のようになる。

(1) 調査の概要
実施の主体:コロンビア大学応用社会調査研究所 (BASR)
主たる研究者:Herta Herzog
調査の目的:アメリカで最大の女性聴取者を持つラジオの連続ドラマの影響を詳細に研究すること。
調査方法:ラジオの連続ドラマの内容分析、ドラマのリスナーと非リスナーの比較、リスナーが連続ドラマから得ている充足についての詳細なインタビュー
インタビュー調査:100人の女性リスナーに対する詳細な面接調査

(2)調査の結果
100人の女性リスナーに対する詳細なインタビューの結果、彼らは昼間の連続ドラマから、3種類のタイプの充足を得ていることが分かった。
1. 情緒的解放 (emotional release)
彼らは、ドラマが提供する「泣く機会」を好み、「驚きや、幸せや悲しさ」を楽しんでいた。また、攻撃性を表現する機会も満足感の源になっていた。自分で問題を抱えているリスナーは、「他の人も問題を抱えていることを知って気が楽になる」と述べていた。ドラマの登場人物の悲しみは、リスナー自身の抱える悩みへの補償として受けとめられた。
2. 願望充足としての充足(wishful thinking)
2番目の充足タイプは、リスナーがドラマを通じて代理的な願望充足 (wishful thinking)を得ることだった。あるリスナーは、ドラマの物語に没頭して自分の悩みを忘れるために番組を聴いていた。一方、自分の人生の欠落を補うためや、自身の犯した失敗をドラマでの成功物語によって補償するために聴いている人もいた。例えば、自分の娘が家を出て結婚したり、夫が週5日間家を空けたりする女性は、『ゴールドバーグ一家』や『オニール家』のような幸せな家庭生活を描いたドラマをお気に入りに挙げていた。
3. 生活上の助言と忠告の源泉(日常生活の教科書)としての利用
3番目の充足タイプは、昼間の連続ドラマを日常生活の助言(advice)の源として利用するものだった。「これらの番組を聴いていると、自分の人生で何か問題が起こったときにどうすればよいかが分かる」というのが典型的な回答だった。アイオワ州で実施した関連調査によると、教育水準が低い女性ほど、連続ラジオドラマを「役立つ」と考える傾向が強いことが確認された。これは、教育歴の低い女性が「人と親しくなり、影響力を持つ方法」を学ぶ他の手段を持たず、昼間の連続ドラマにより依存している可能性が高いことを裏付けるものだった。具体的に連続ドラマから得られた助言の例を示すと、次のようになる。
・他者とうまく付き合う方法を教えられた
・夫やボーイフレンドを「扱う」方法を教えられた
・子供を「育てる」方法について助けられた
・特定の状況で自分自身をどのように表現すればよいかを学んだ
・自分の老いや戦争に行く息子を受け入れる方法を学んだ
Klapper(1960)は、これまでのマス・コミュニケーションの効果論を集約する中で、Herzogの研究を詳しく紹介しているが、「助言と忠告の源泉としての利用」のことを「日常生活の教科書としての機能」と呼んでいる。的確なネーミングと言える。連続ドラマに関するHerzogのU&G研究の意義は、クイズ番組の研究の場合と同様に、本来は娯楽的、逃避的なコンテンツとして、「情緒的解放」の充足だけがもっぱら注目されていたにもかかわらず、「日常生活の処方箋としての機能」という予想外の教育的な充足、機能を発見した点にあったということができる。

フランクフルト学派との連携

ヘルツォークは、この報告書を執筆するより7年も前に、調査結果についての詳しい考察をStudies in Philosophy and Social Scienceという学術誌に投稿していた。この雑誌は、1926年に労働史家カール・グリュンベルクによって創設された「フランクフルト社会研究所」の機関誌である。このグループの中核をなしていたのは、マックス・ホルクハイマーとフリードリヒ・ポロックであり、さらにヘルベルト・マルクーゼ、レオ・レーヴェンタール、テオドール・アドルノ、フランツ・ノイマン、エーリッヒ・フロム、カール・フリードリヒ・ヴィットフォーゲルといった人物がこれに加わっていた。彼らは皆、20世紀初頭に生まれた人物で、同化主義的ユダヤ人家庭の出身であった。彼らは『社会研究雑誌(Zeitschrift für Sozialforschung)』を創刊し、「批判理論」と称される資本主義社会に対するマルクス主義的文化批評の展開を目指し、「フランクフルト学派」と呼ばれるようになった。1931年にナチスが国会を掌握すると、彼らユダヤ系知識人たちは、自らを「内なる亡命者(internal exiles)」と見なし、ドイツからの脱出戦略を準備し始めた。その計画には、ジュネーヴに支部研究所を設置すること、研究所の資金の大部分をオランダに移すこと、そしてアメリカにおける提携先を探すことが含まれていた。彼らのアメリカ移住は、ポロックの助手であったアメリカ人ジュリアン・ガンパーツの推薦によって実現し、コロンビア大学がフランクフルトにおける制度的関係に類する緩やかな所属先を提供した

1938年にプリンストン・ラジオ調査局(ORR)の研究者たちは、プロジェクトに対して重要な質的分析を加えることのできる戦略的な協力者を探し始めた。そして、連邦通信委員会(FCC)がFRECコンソーシアムのために教育放送研究を実施するよう命じたことこそが、ロックフェラー財団のジョン・マーシャルによってテオドール・アドルノがアメリカに招かれる直接的な要因であったことが、シェパードの研究によって明らかにされた (Shepperd, 2021)。

しかし、フランクフルト学派の旗印である批判的研究(critial research)とは相容れないはずの行政的研究(adinistrative research)を推進したラザースフェルドが、なぜフランクフルト学派の中心人物であるアドルノを研究員としてORRに招聘したのであろうか?このてんに関して、ラザースフェルドは自伝的論文(Lazarsfeld, 1973)の中で、次のように述べている。

私はそれまで一貫して音楽に関心を抱いてきたので、プリンストン・プロジェクトの主任になると直ちに特別に音楽部門をつくった。(中略)すでに私はT・W・アドルノの音楽社会学に関する研究を知っていた。現在、彼はドイツ社会学界の重鎮の一人であり、かつ、しばしば批判社会学と実証主義社会学として名高い二つの立場のあいだで果しなくたたかわされる論争で一方の旗手をつとめている・私はアドルノのこの研究がこうした論争の特徴を備えていることは承知していたが、現代社会において音楽が果す「矛盾した」 役割に関する彼の著作に関心をそそられた。私はアドルノを説いて、彼の思想を経験的調査に結びつけさせることができるか否かみてみるのもやり甲斐のあることだと考えた。その上、私はアドルノが一員であった、マックス・ホルクハイマーの辛いるフランクフルト・グループに恩義を感じていた。私は彼らにアドルノをこの国に呼びよせる希望があるのを知っていた。そこで私は彼を招いてわれわれのプロジェクトの音楽部門の非常勤主任になってもらうことにした。経験的データに詳しい専門家を彼につけようとして私は同時に、以前、スタントンの学生であり、心理学博士号をもつ優秀なジャズ・ミュージシャンのガーハード・ウィーベも非常勤主任に任命した。彼とアドルノが一致協力して行なえばヨーロッパの理論とアメリカの経験主義との一体化を促進してくれるだろうと思ったのである。(中略)結局、1939年秋に更新されたロックフェラー財団からの研究費では音楽プロジェクトの予算継続は承認されなかった。 私はアドルノを招いてプロジェクトに参加してもらったことを一度も後悔したことはない。アドルノがプロジェクトから離れるとすぐホルクハイマー・グループは彼らの雑誌(社会研究雑誌:Zeitschrift für Sozialforschung)のある号で現代マスコミュニケーションの問題を取り上げた。この号には私も一文を寄稿して共感を抱きながら「批判的アプローチ」をアメリカの読者に説明しようと努めるとともにこの基本的立場を踏まえて、どのような方法をとれば新しい調査の構想を導き出すことができるかを明らかにした(10)。さらに私はあえて「ある作業、すなわち批判的コミュニケーション調査をそこに分類しうるような作業」を詳述しようとさえ努めた。(中略)私はこの論文を次の文で締めくくった。

「ラジオ調査室」がこの特集号に協力してきたのも、調査課題に対するきわめて普遍的な把握こそ価値ある結果を生み出す唯一のものだと感じられたからである。・・•・行政調査の分野に関心ならびに職業上の義務とをもつ筆者は次のような自己の念を表明したいと考えた。すなわち、ここには、あるタイプのアプローチが存在しており、このアプローチはもしコミュニケーション調査の全体の流れに包摂されるならば、既知のデータの解釈と新たなデータの探索とに役立つさまざまな問題や新しい概念を提起するうえで、大きな貢献をなしうるであろう。」(Lazarsfeld, 1973, pp.250-255)

引用が長くなってしまったが、ここにはフランクフルト学派の批判的アプローチとの違いにもかかわらず、ラザースフェルドがなぜアドルノを研究員としてORRに招聘したのか、その理由がはっきりと書かれている。このような企てが失敗に終わったとはいえ、それが「利用と満足」研究における質的調査と量的調査の融合、さらにはのちのカルチュラル・スタディーズの質的オーディエンス研究や「ダラス」をめぐるリーベス (Liebes)らのオーディエンス研究に大きな影響を与えたことは明らかであり、メディア効果論の歴史における重要な出来事だったと評価することができる。

実際、ラザースフェルドの後押しもあって、ヘルツォークはアドルノとともにラジオ聴取者の研究を共同で行うようになり、上述の『社会研究雑誌』特集号にラザースフェルドとともに単独論文を寄稿したのである。それが、「昼間の連続ドラマ」聴取者に関する調査結果の分析であった(11)。フランクフルト学派の機関誌であることを反映して、ヘルツォークの論文は、単なる実証的調査報告書の範囲を超えて、批判的視点を含む深い洞察を示すものであった。

ヘルツォークの論文「借り物の経験」 (On Borrowed Experience)

この論文は、1948年のBASR報告書の内容と基本的には共通するものであるが、聴取者の語った受容経験がより詳細に論じられており、かつ「現実からの逃避」といった批判的視点からの考察もより深く行われているので、それらの点を中心に、論文の内容を紹介することにしたい。

リスナーの3つの充足類型

連続ドラマに対するリスナーの反応は、大まかにいって三つに分類される。これらの反応は、機能的には同等であるが、経験様式として区別される。

1. 物語を聴くことは情緒的解放をもたらす。
2. 物語を聴くことは、リスナーの「単調な生活」を願望的に再構成(代替)する機会を与える。
3. 物語を聴くことは、現実問題への適応のための処方箋を提供する。

一部のリスナーは、主として感情を解放する手段として物語を楽しんでいる。別の者は、自らの生活に起こってほしい出来事を代わりに体験する場として楽しんでいる。また別の者は、より現実的に、物語から現在の生活に耐えるための指針を得るものとして楽しんでいる。

1.情緒的解放 (emotional release)
ドラマのストーリーの聴取は、さまざまなかたちで情緒的解放をもたらす。第一に、それは内に秘められた不安を発散させる「泣く機会」を提供する。リスナーが「泣ける」ことは、二つの理由から充足感をもたらしている。まず、多くの大人は、自分のことで泣く「権利」を自らに許していない。子ども時代のように母親の膝で泣くという慰め方を失ってしまっているのである。また、ドラマの物語は、リスナーが涙を流す理由を明示することなく泣くことを許してくれる。

第二に、連続ドラマは、性格的にあるいは現実の生活の性質ゆえに感情的刺激を得にくいリスナーに、驚いたり、感動したり、興奮する機会を与えてくれる。リスナーは、ドラマの中で「感動させられること」そのものに価値を見出している。彼女たちは物語を現実の代替として受け入れており、登場人物の内容と自己とを同一化し、ヒロインの成功を自分自身の成功の代理物として受け止めている。これらの物語は、短期間の擬似的なカタルシス(感情の浄化)を提供している。笑いや涙による一時的な感情の高まりは、物語が続いているあいだだけ、リスナーに心地よさをもたらすのである。リスナーたちは「新しい驚き」や「新しい泣く機会」を次々と求める。というのも、彼女たちは自らの現実の生活が望んでいるような感情的体験を与えてくれることはないと理解しているからである。

第三に、他者に対する攻撃を通じて、自身の困難を補償する手段を提供する場合がある。こうした攻撃性は、物語の中で「他人の不幸を楽しむ」ことで満たされることもあれば、現実の周囲にいる人々よりも優越感に浸るための手段となることもある。物語の登場人物たちとの「被害者同盟」を築くことで、リスナーは周囲の人々に対して軽蔑的かつ攻撃的になっていく。一般的には、リスナーは他人の不幸を楽しむことで、自らの苦しみを他者への攻撃性を通じて補償している。物語は、攻撃対象となる人物を提供するのである。登場人物への攻撃性が、自らの苦悩を補償する願望とどれほど密接に結びついているかは、次のリスナーの発言に如実に表れている。彼女は、夫の死後に子どもたちを育て上げるのに苦労してきた。彼女は、自己犠牲的な女性をヒロインとする番組を好んで聴いている。ドラマ『ヒルトップ・ハウス』について、彼女はこう語る。

「あの女性は、いつも子どもたちのために尽くしている……結婚するかしらね。でも孤児院をやめてまで結婚するのは正しくないかもしれない。彼女はすごいことをしているんだもの。私は結婚すべきじゃないと思うわ。」

このリスナーは、自身の不遇を補償するかのように、お気に入りのヒロインに対して、やや自分よりも悪い運命を望んでいるのである。彼女は、自分の夫を失った代わりに、ヒロインには最初から夫がいないことを望んでいる。彼女は自分の子どもたちのために犠牲となっているが、ヒロインにも孤児のために身を捧げることを期待しているのである。

2. 代理経験 (wishful thinking)

ここでは、リスナーは物語の中で起こっている出来事が自分に起こっていると想像し、登場人物に共感するというよりも、登場人物そのものになる。彼女は、物語を現実の代替物として受け入れ、それによって自らの生活を作り変える。このような経験では、「物語上の現実」と「実際の現実」との区別が、願望によって破壊されてしまうのである。

(1) 現実逃避(12)
もっとも極端な同一化において、リスナーは意識的に物語の世界へと逃避する。彼女は、物語を利用して、自分の生活の上に、より望ましい生活を重ね合わせる。聴取は強力な麻薬のように作用し、物語中の出来事に集中することによって、自分の悩みを忘れることができる。あるリスナーはこう語っている。

「金曜から月曜まで、物語が再開するのが待ちきれないの。自分の悩みを忘れさせてくれるから。私の悩みはお金のことだけ。でも彼らは違う。もっと複雑で、でも面白い問題を抱えているし、解決もできる。たとえば、彼らはワシントンに行きたくなったらすぐ飛行機に乗るの。お金なんて関係ないみたい。物語の中には本当のロマンスがある。デイヴィッドがプロポーズするのをずっと待っているのよ。」

このリスナーにとって、物語は実体験と同じくらい「現実的」である。彼女はドラマの主人公のロマンスを、自らのものとして経験しているのである。

(2) 「幸福な経験」の助長
一部の回答者は、現実生活において自分が楽しんでいると主張するような経験を、ラジオ番組を通じてさらに得ようとしている。その一例が、「幸福な結婚」の物語を聴くことを好む若い既婚女性である。彼女は次のように語っている。

「ああいう番組を聴くのが本当に好きなの。ブレント医師は、私にとって“二人目の夫”のような存在。結局、結婚は一度しかできないのよね。でも、他にも夫がいたらいいのに、と思ってるわ。」

物語の中のブレント医師は、彼女の実際の夫の代替物だと明言されているわけではないが、おそらく彼女の結婚生活に対する欲求は、その現実の満足度よりも大きく、ブレント医師を「第二の夫」として聴くことによって、その不足を補おうとしているのだろう。リスナーは物語を利用して、すでに持っているものを追体験しようとする欲望を持っている。増幅された「幸福な経験」は、おそらく現実生活において不足している「経験の強度」を代替的に満たすものとして機能しているのである。
(3) 欠けた部分をドラマで埋める
自分の生活において欠けていると自覚している要素を補うためにラジオ番組を利用するリスナーもいる。その一例は、病弱な夫と暮らしているが、彼を深く愛している女性である。彼女のお気に入りの番組は『ヴィックとセイド』であり、なかでも「面白いエピソード」が好きだという。

「夫が病気になってから、あまり楽しいことがないの。『ヴィックとセイド』を聴くのが大好き。あの二人は私たちに似てるのよ。ヴィックはうちの夫にそっくり。いろんな面白いことが起こるの。いつも夫にその話をしてあげるの。」

彼女が最も気に入ったエピソードは、セイドが友人宅のパーティで靴を取り違えて帰宅し、一方は自分の靴、もう一方は他人の靴だったという話である。おそらくこのリスナーは、現在、忠誠心を基盤とする単調な結婚に縛られている自分に不満を感じているのだろう。彼女が夫に語って聞かせる「面白いエピソード」は、実際には存在しないが、理想として求める「楽しい出来事」の代替となっているのである。

(4) ドラマによって過ぎ去った過去の思い出をを甦らせる
一部のリスナーは、すでに過ぎ去ってしまった思い出をよみがえらせるために、ラジオドラマを利用している。物語がもたらす連想が、彼女たちをかつての、より楽しかった時代へと連れ戻すのである。たとえば、ある女性は小さな町で育ち、その町を懐かしく思っているが、『デイヴィッド・ハーラム』を聴くことで、かつて知っていた小さな町での暮らしに戻る機会を得ている。彼女はこう語る。

「『デイヴィッド・ハーラム』と彼の素朴な人生哲学を聴くのが好き。あれは小さな町が舞台なの。私も小さな町で育って、大好きだったわ。」

こうした「過去との連想」が番組から得られる主たる喜びとなるのは、それによって呼び起こされる記憶が、現在の望ましくない状況に対して適切な代替物となる場合である。次のリスナーの発言が、その典型である。

「『ヘレン・トレント』を聴くのが好き。彼女のロマンスは、私のそれに似ている。夫はいつも愛情深くて優しかったし、口論なんてしたことがない。私たちは本当に幸せだったし、今もそうよ。この物語は、19年前の私のロマンスを思い出させてくれるの。」

彼女は「今も幸せ」と述べているが、彼女の語りがすべて過去形である点に、おそらく本人は気づいていない。この「今も幸せ」という言葉は、まさに彼女がラジオドラマから得ている充足感を体現しているのである。実際には、彼女と夫のあいだには以前よりも「口論」が増えている可能性がある。彼女は『ヘレン・トレント』を聴くことによって、19年前の恋愛体験を再現し、それが今も続いていると想像するのである。

(5)登場人物の成功への同一化による失敗の補償
あるリスナーは、家庭関係において失敗を経験しているようである。彼女の娘は駆け落ちし、夫については「週に五日は家にいない」と語っている。彼女は『ゴールドバーグ家』や『オニール家』といった、「成功した母親や妻」が描かれる番組を好んで聴いている。彼女はこう語っている。

「『オニール家』が好き。調和を重視していて、それでいて家族の個性も描かれているの。」

しかし彼女は、ママ・オニールについて、次のような批判もしている。

「あんなに神々しくて、理想を長く保てる女性なんて、いるわけがないでしょ。」

このように、彼女は一方では理想像を楽しみながらも、同時にその理想を現実的には否定しているのである。理想の登場人物を愛しながら、その成功によって自らの失敗を補う一方で、「そんな人物は実在しない」と断じることで、自分を慰めているのである。

このように、ヘルツォークは、第二の充足類型を論じるに当たって、それが「代理満足」を通じて、リスナーの現実生活からの逃避という望ましくない潜在的逆機能を果たしているという批判的な見解を示している。リーベス(Liebes, 2003)はこの点について、「ハーツォークは、理論的にも方法論的にも相反するかに見える二つの伝統――すなわちコロンビア学派とフランクフルト学派――を統合することに成功した。このような視点の融合を可能にした要因は、1940年代という、まだコミュニケーション研究という学問分野が確立されていなかった時代背景、そして批判的理論を展開する相反する学派の研究者たちに対するハーツォーク自身の親和性の高さにあると考えられる」と述べている(Liebes, 2003; Liebes, 2016)。

3. 現実適応の処方箋としての機能(recipes for adjustment)

一方、ヘルツォークがこの「利用と満足」研究で見出した第三の充足類型は、「ラジオの連続ドラマ」という娯楽的コンテンツから、リスナーが「日常生活の現実問題に適応するための処方箋(recipes for adjustment)を得ている」という発見だった。

(1) 退屈なだけに見える世界に意味を与える
多くのリスナーが、「物語が空虚な生活を満たしてくれた」と主張している。毎日、何かが予定されているという事実そのものが、彼女たちの日々の単調な生活に「冒険性」を加えているのである。人生は、一日15分ずつのラジオ放送という連続の流れとして意味を持つようになる。このようなリスナーにとって、物語がなければ、今日から明日へと希望をつなぐものが存在しなくなってしまう。物語は、その継続的な性質ゆえに、さもなければ空虚で無意味な生活に対する適応を可能にしているのである。
(2)ドラマの物語から助言を得る
リスナーの現実生活への適応に資するもう一つの聴取形態は、物語から「助言」を得ることである。多くの回答者は、物語が「自分にとって役立つ」「どう行動すべきかを教えてくれる」ために好んで聴いていると、自発的に語った。以下はその一例である。

「私は、番組から何か得られるかどうかで聴いてるの。『アント・ジェニー』では、毎回ちゃんと問題が解決するし、その方法が私の生活でも役に立つかもしれないのよ。」

「こういう番組を聴いておけば、自分の身に何か起きたとき、どう対処すればいいかわかるの。」

「『マ・ゴールドバーグ』がどうやって問題を解決するかを見るのが好き。縫い物をしながら考えるのにちょうどいいの。彼女はどうすればいいかを教えてくれるわ。」

このように、リスナーたちの物語に対する要求は、「学びたい」という欲求と、「逃避したい」という欲求との間で揺れ動いている。学ぶためには、物語が「現実を描いている」必要があり、逃避するためには、「より良き世界」を描いていなければならない。これら二つの要求は、表面的には矛盾しているように見えるが、実のところ、どちらもリスナーの不安感という共通の根から生じているのである。

このように、ヘルツォークは、同じ「ラジオドラマ」という娯楽的番組から、リスナーたちが多様な充足を引き出しており、それがときには「代理満足」という逃避的な負の機能をもたらすこともあれば、「現実適応の処方箋」というプラスの教育的機能を果たすこともあるという両義的な意味を持つことを初めて明らかにしたのである。

 

7.フォーカス・インタビューの創始者

ヘルタの業績はこれにとどまらなかった。彼女の学術的な貢献として最も大きく、彼女自身がのちに「人生で最高の業績」だったと振り返ったのは、フォーカス・インタビューの手法を開発し、メディア研究やマーケティング調査の分野で広く普及させたことである。フォーカス・インタビューは、現代でもマーケティング調査の領域では広く使われている調査手法である。

プログラム・アナライザーの開発と初期のグループインタビュー

フォーカス・インタビューの始まりは、1937年にORRでプログラム・アナライザーが開発された時にまで遡る。プログラム・アナライザーとは、「聴取者や視聴者が番組を見聞きしてい る時に感じる気持ち(「おもしろい」「お もしろくない」「好き」「嫌い」「わかる」「わ からない」など)の変化を,番組の流れに応じ て,連続的に記録する装置」(小平, 2016)だった。 プログラム・アナライザーはラジオ番組に対する聴衆の反応を秒単位で記録・分析することが可能だった。10~20名の被験者を一列に並べ、「好意的な反応」の際は緑のボタンを、「否定的な反応」の際は赤のボタンを押させることによって、磁気ペンがラジオ番組の秒単位の反応曲線を描き出した。プログラム・アナライザーの考案者はポール・ラザースフェルドとフランク・スタントンで ある。ヘルツォークは、開発当初からプログラム・アナライザーによる番組分析および放送後の質的インタビューの学術的、商業的活用において高い専門性を備えた人物であった。このインタビューは、フォーカスグループ・インタビューにおける「集団要素」を含んでおり、フォーカス・インタビューの先駆けという性格を備えていた。したがって、ヘルツォークはこの時点で、フォーカス・インタビューの創始者としての役割を果たしていたといってもいいだろう(Rowland, Allison L.. and Peter Simonson , 2014).。

しかしながら、1943年、ヘルツォークがマッキャン・エリクソン社に「プログラム・アナライザー部門」の責任者として迎え入れられると同時に、同社はプログラム・アナライザーの独占使用権を取得した。彼女はこの技術をイギリスおよび南米に広め、プログラム・アナライザーの国際的商業展開に貢献した。「リトル・アニー(Little Annie)」と呼ばれたこの分析装置は、ヘルツォークにフォーカスグループの専門性を要求し、同時に彼女を学術界から引き離す力としても作用することになり、後述するように、フォーカス・グループの創始者としての功績をマートンに奪われる結果となったのである(Rowland, Allison L.. and Peter Simonson , 2014)。

フォーカス・インタビューとは

しかるに、今日では、フォーカス・インタビューの創始者は、社会学者のロバート・K・マートンだとされている。この重大な事実誤認は、実は、マートンによる作為的な業績抹殺だったことが、シモンソンらの研究によって明らかにされている。マートンは、彼がラザースフェルドの死後、1987年に発表した論文を通して、フォーカス・インタビューにおけるヘルツォークの創始者としての業績を巧妙に「抹殺」してしまったのである。

Merton & Kendall (1946)の論文

フォーカス・インタビューについて、方法論の全体像を学術論文の形で初めて発表したのは、R.K.マートンとP.ケンドールだった (Merton and Kendall, 1946)。American Journal of Sociology誌第51巻(1946年)pp.541-557に掲載されている。その冒頭で、フォーカス・インタビューが他のインタビューと異なる特徴を次の4点にまとめている。

1. インタビューされる者は、特定の具体的状況に関与していたことが既知である。すなわち、映画を見たり、ラジオ番組を聞いたり、パンフレット・記事・書籍を読んだり、あるいは心理実験または観察された社会的状況に参加したり、というような経験を有している。
2. この状況の仮説的に重要な要素、パターン、全体構造は、事前に調査者によって分析されている。調査者は、この内容分析を通じて、その状況の特定の側面における意味と効果に関する仮説を導出している。
3. この分析に基づき、調査者はインタビュー・ガイドを作成している。そこには、主要な調査領域および、インタビューにおいて収集されるデータの妥当性を規定する仮説が示されている。
4. インタビューは、事前に分析された状況に接触した者の主観的経験に焦点を当てるものである。

そして、フォーカス・インタビューの実施例として、次のように、コロンビア大学応用社会調査研究所 (BASR)のグループ・グループ・インタビューをあげている。参考までに、英語の原文もへいきしておく。

応用社会調査研究所(Bureau of Applied Social Research)は、数年にわたり、マス・コミュニケーション(ラジオ、印刷物、映画)の社会的および心理的効果を研究するために、個人およびグループ・インタビューを実施してきた。この経験から、ある種の調査インタビューの形式が生まれた。それは、おそらく十分に特異な性格を有しており、固有の名称──すなわち「フォーカス・インタビュー」と呼ぶに値するものである。(For several years, the Bureau of Applied Social Research has conducted individual and group interviews in studies of the social and psychological effects of mass communications, radio, print, and film. A type of research interview grew out of this experience, which is perhaps characteristic enough to merit a distinctive label-the "focused interview.")(Merton and Kendall, 1946, p.541)

これを読む限り、マートンとケンドールがこの論文を書いた時点では、応用社会調査研究所(BASR)が1940年代の前半から実施していたグループ・インタビューを最初のフォーカス・インタビューだと認定していたと考えて差し支えないだろう。この時期にBASRで実施していた主なグループ・インタビューは、いうまでもなく、ヘルツォークの行った「プロフェッサークイズ」と「昼間の連続ドラマ」のリスナーに対する調査であった。実際、マートンとケンドールの論文では、「フォーカス・インタビューの活用例」としてヘルツォークの行った研究が次のように紹介されていた。

フォーカス・インタビューは、当初、コミュニケーション研究およびプロパガンダ分析から派生する特定の問題に対処するために開発されたものである。この種の問題の概要は、ヘルツォーク博士による詳細な事例研究に見ることができ、たとえば昼間の連続ラジオドラマやクイズ番組といったラジオ番組から聴取者が得る満足感に関する研究が含まれている(「昼間ドラマ聴取者について我々は何を本当に知っているのか?」Radio Research, 1942–43 所収)。(Merton and Kendall, 1946, p.542)

したがって、本論文はヘルツォークがフォーカス・インタビューの最初の実施者であったことを公的に認定したものになるはずだった。実際、1956年にマートン、フィスク、ケンドールのきょうちょで出版されたフォーカス・インタビューに関する単行本マニュアル(教本)でも、1946年の論文とほぼ同じ趣旨のヘルツォークに関するクレジット的な紹介文が掲載されていた。

Merton, Fiske and Kendall (1956)のマニュアル

この著作は、コロンビア大学応用社会調査研究所(BASR)の報告書として、1956年に単行本の形式で出版されたものである。1946年の論文とは違って、フォーカス・インタビューに関する方法を総合的にまとめた「マニュアル」(教本)という内容になっている。ただし、「フォーカス・インタビューの活用」(Uses of the Focused Interview)の部分では、1946年の論文とほぼ同じ趣旨で、次のようにヘルツォークの業績が明記されている。

フォーカス・インタビューは、コミュニケーション研究およびプロパガンダ分析から生じた特定の問題に対応するために、当初開発されたものである。こうした問題の概要は、さまざまな種類のラジオ番組において聴取者が得る満足感を扱ったヘルタ・ヘルツォーク博士による詳細な事例研究に示されている。目的の明確化が進むにつれて、研究関心は特定のパンフレット、ラジオ番組、映画に対する反応の分析へと集中していった。戦時中、ヘルツォーク博士および本マニュアルの第一著者は、複数の戦時機関より、士気高揚を目的とした特定の施策の社会的・心理的影響を調査する任務を与えられた。この作業の過程において、フォーカス・インタビューは次第に洗練され、比較的標準化された形態へと発展していったのである。(Merton ,Fiske and Kendall, 1956, p.5)

 

Merton (1987, 1990)におけるヘルツォークの抹殺

ところが、このようなヘルツォークの事例研究をフォーカス・グループの開発と結びつけて紹介した1956年の著作の出版から31年後にマートンが、Public Opinion Quarterly誌に掲載した論文では、ヘルツォークへの言及が全く消えているばかりか、グループ・インタビューの成立にまつわる驚くべき「誕生秘話」が紹介されている。少し長くなるが、該当箇所の日本語訳を以下に引用しておく。

すべては、ポール・ラザースフェルドとの最初の「不意の作業セッション」、つまりまったく予定外の仕事から始まった。それは1941年11月のことである。この話はすでに何度か活字になっている(Hunt, 1961; Lazarsfeld, 1975:35–37; De Lellio, 1985:21–24)。だが、フォーカス・インタビューの萌芽という文脈で語られたことはなかった。よってここでは、その新たな文脈においてあらためて語る。

当時年長者であったポールが、私と妻を夕食に招いた。到着時、私はやがて知ることになる典型的なポール流のやり方で、彼はドアで私たちを出迎え、次のようなことを言った:
「ボブ、君に素晴らしいニュースがある。今さっき、ワシントンのO.F.F.から電話があった。〔これは、後にアメリカ戦時情報局(OWI)となり、さらにその後『アメリカの声』へと繋がる組織である。〕彼らは、複数のラジオによる士気高揚番組に対するリスナーの反応をテストしてほしいという依頼をしてきたんだ。これは、君にとっても絶好のチャンスだ。さあ、スタジオに一緒に行こう。オーディエンスの反応をどうやってテストしているかお見せしよう。」

こうしてポールは、私をラジオ調査という不思議な世界へと引き込んだのである。当時のそれは、世間の誰にもほとんど知られていなかったし、ましてや私にとっては完全に未知の領域であった。私はポールが「ラジオ調査室(Office of Radio Research)」と呼ばれる組織を率いていることは知っていたが、その活動内容についてはまったく何も知らなかった。そこで我々は出発し、そして私はまったく異様な光景を目の当たりにした。私は初めてラジオスタジオに足を踏み入れ、そこで十数人──あるいは二十人ほどだったか──の小集団が、二列か三列に並んで着席しているのを見た。ポールと私は、できるだけ目立たぬように部屋の隅に観察者として着席した。そこには一方通行の鏡のようなものも存在しなかった。この人々は、録音されたラジオ番組を聴いている間に、何かネガティブな反応──たとえば苛立ち、怒り、不信感、退屈など──を感じたときには、椅子に取り付けられた赤いボタンを押し、ポジティブな反応を感じたときには緑のボタンを押すよう求められていた。それ以外の反応は、何も押さないという仕組みであった。まもなく私は、彼らの累積的な反応が、必要な本数の万年筆を封蝋と糸でつなぎ合わせたかのような、原始的なポリグラフ装置により記録されていることを知った。その装置は、好意・嫌悪の累積曲線を描き出すものであり、のちに「ラザースフェルド=スタントン・プログラムアナライザー」として知られるようになった。それから我々は、ポールの助手の一人が、テスト・グループ──すなわち「観衆」──に対して、彼らが録音中に示した好意的・否定的反応の「理由」を尋ねていく様子を観察した。

私は、インタビュアーの技法と手続きに重大な欠陥があると感じ、ポールに次々とメモを渡し始めた。たとえば、彼は個別的・集団的反応のいずれにも十分に焦点を当てておらず、無意識のうちに反応を誘導しており、番組の特定部分を再生している際に、当初の反応を自発的に引き出す努力を怠っていた。その他にも、いくつもの欠点があった。私にとってこのようなインタビュー状況はまったく新しいものであったが、インタビューという技術と実践に無縁であったわけではない。事実、私は1932年の夏、ハーバード大学の大学院生であった頃、WPA(公共事業促進局)のプロジェクトに従事し、ボストン地域に存在するありとあらゆる浮浪者やホームレスの男女にインタビューを行うという、当時としては過酷な条件下での調査を経験していた。そうした経験があったからこそ、私はこの状況を、むしろ人々の精神状態や感情を探る「特権的アクセス」であると受け止めたのである。

いずれにせよ、インタビューが終わった後、ポールは私に尋ねた──「どう思った?」と。私はこの形式全体への関心を述べると同時に、インタビューの進め方に対する自分の批判をある程度詳しく繰り返した。そして、これは後に私が知ることになるポールの典型的な反応であるが、彼はただちに私を取り込んできた。「ボブ、ちょうどよかった。今から別のグループが来るんだ。ぜひ、君に模範的なインタビューを見せてもらいたい。」これは、決して防御的・攻撃的な問いかけではなかった。むしろ、それこそがポールによる、初期的な「協力者の取り込み(co-optation)」の一環であったのである。私は、「やってみよう」と答えた。──かくして、私のフォーカス・グループ・インタビューとの人生が幕を開けたのである。

(中略)

フォーカス・グループ・インタビューの誕生と成長の初期段階について、もう少し述べておきたい。私はある時期、陸軍キャンプにおいて、兵士たちに対して、特定の訓練用映画や「士気高揚映画」(そのいくつかはフランク・キャプラをはじめとする一流の監督たちによって制作されたものであった)への反応を尋ねるインタビューを行っていた。この経験を通じて、またその後にラジオ調査室から発展した「応用社会調査局(Bureau of Applied Social Research)」における仕事を通じて、後に「フォーカス・インタビュー」として知られることになる一連の手続きが形成されたのである。

早くも1943年には、我々はフォーカス・インタビューを、グループだけでなく個人に対しても応用し始めていた。その代表例が、「ラジオ・マラソン」に関する研究である。これは当時としてはまったく新しい歴史的現象であり、大衆説得における集団行動と社会的文脈を調査するための「戦略的研究サイト(strategic research site)」を提供していた(Merton, Fiske, and Curtis, [1946] 1971)。このとき、ポピュラー歌手のケイト・スミスが、カリスマ的愛国者として広く認識されており、18時間にわたって65回もの準備されたスピーチを行った。そして、その結果として前例のない総額3,900万ドルの戦時国債の購入誓約を引き出すことに成功した。

我々は、ケイト・スミスの放送を部分的に、あるいは場合によってはすべて聴いた100人のニューヨーカーに対して、フォーカス・インタビューを実施した。これには、実際に国債の誓約を行った者と、行わなかった者の両方が含まれていた。インタビューはラジオ・スタジオではなく、個々人の家庭において個別に実施された。この場合、プログラム・アナライザーのような客観的な指標は存在しなかったため、インタビューの焦点は、我々が事前に徹底的な内容分析を施した放送テキストに置かれた。その結果得られた定性的データは、約1,000人の代表的ニューヨーカーに対して行われた世論調査に基づく量的データの解釈に大きく寄与することとなったのである(Merton, 1987, pp.552-555)。

1990年に出版されたフォーカス・インタビューの教則本『Focused Interview』は、1956年に出版されて絶版になっていた旧著の再版であったが、その序文には上記の1987年の論文がそのまま掲載された。確かに、「フォーカス・インタビューの活用」(Uses of the Focused Interview)の部分では、初版と同様にヘルツォークの事例研究についてのクレジットは踏襲されているが、序文でマートン自身の手で創始者としての回顧が詳細に掲載されたことにより、ヘルツォークのフォーカス・グループ創始者としての地位は、実質的にマートンによって置き換えられてしまったのである。これは、あまりにも不誠実で露骨な業績抹殺と言えないだろうか?

シモンソンは、このようなマートンの仕打ちについて、次のように厳しく指弾している。

意図的であったか否かにかかわらず、20世紀を代表する最も影響力あるアメリカの社会学者の一人であったマートンは、フォーカス・インタビューの歴史においてヘルツォークを象徴的に抹消することに加担したのである。彼は他の文献において、「優位性と劣位性の累積という社会学的過程」について論じているが(Zuckerman, 1998)、まさにここに、その一事例を見ることができる。すなわち、コロンビア大学の教授という地位、専門的評価のネットワークにおける優位な立ち位置、そして学術的成功という「優位の蓄積」が、社会科学研究の歴史を記述するうえでの発言権を彼に与えていたのである。対照的に、ヘルツォークはこうしたいかなる優位性も持ち合わせていなかった。彼女は、学界進出には不利な時代に生まれた女性であり、長年にわたって商業研究者として活動していたため、歴史家たちが参照可能な「出版された足跡」を残していなかったのである。(Simonson, 2016)

マートンが2003年に亡くなったとき、ニューヨーク・タイムズ紙の追悼記事の見出しは彼を「多才な社会学者であり、フォーカス・グループの父」と呼んだ(Kaufman, 2003)。Wikipediaでも、かつてはマートンの残した重要業績としてフォーカス・インタビューの発明をあげていたが、2025年現在、フォーカス・インタビューに関する記載は全く見られなくなっている。

ヘルツォークの証言

しかしながら、フォーカス・インタビューの創始者がヘルツォークであったことは、晩年の証言によっても裏付けられている。アメリカの著名なコミュニケーション研究者であるエリザベス・パースが1994年にヘルツォークと交わした手紙によれば、フォーカス・インタビューはヘルツォークが始めた調査手法であったたという(Perse, 1996)。また、Kleining (2016)が2009年、ヘルツォークが亡くなる直前の2009年12月2日、フォーカス・グループについて電話での会話したとき、ヘルタはこう語った。

「私が発明したことはあまりないが、フォーカス・グループは確かだ」と言った。そして、「99歳になった今、これはもはや重要なことではない。でも、もし私が誇りに思うものがあるとすれば、それはフォーカス・グループです」。彼女はこの発明の背景について、「フォーカス・グループは、アメリカのラジオ・プロパガンダが、戦争のためにアクセスできなくなった東ヨーロッパの人々にどのような影響を与えたかを調べるためのものだった。ニューヨークに多
く住んでいるそれぞれの国からの移民を募集し、彼らとともに番組をテストすることだった。

 

 

8.マーケティング調査業界における活躍

「フォーカス・インタビュー」の項でも述べたように、1943年、ヘルツォークはマッキャン・エリクソン社に「プログラム・アナライザー部門」の責任者として迎え入れられ、学術調査機関であるBASRを離れることになった。この方向転換は、マーケティング調査に対して従来から抱いていいた強い関心に加え、BASRでは必ずしも自分の研究業績が十分に評価されなかったこと、所長で夫のラザースフェルドが同僚のパトリシア・ケンドールと恋愛関係になったこと、などが影響したとも考えられる。ヘルツォークの移籍とともに、マッキャン・エリクソン社はプログラム・アナライザーの独占使用権を取得した。そして、彼女はこの技術をイギリスおよび南米に広め、プログラム・アナライザーの国際的商業展開に貢献したのである(Klaus, 2016)。

アカデミックの世界から商業的世界へと転身したとはいえ、ヘルツォークは以前に開発した多くの調査手法や、ラジオ・調査プロジェクトにおいて得た聴取者の心理・行動に関する多くの知見を、消費者により効果的に訴えかけ、商品購入時の嗜好、動機、欲求をより深く理解するために活用することができた。それは彼女がエリザベス・パースに宛てた手紙の中に明確に表現されている。

「1943年、当時マッキャン・エリクソン広告代理店のコピー調査部門を率いていたマリオン・ハーパーが、私に対し、ラジオ調査(番組およびコマーシャル)の定性的側面を扱う部門に加わり、動機調査を立ち上げてはどうかと提案しました。同時に、彼はハンス・ツァイゼルに対し、メディアおよび市場調査の定量的側面を指導するよう依頼しました。私は心を動かされました。象牙の塔で開発された方法論を、競争的市場という厳しい現実の中で試すという試みに、強く惹かれたのです。私はこの転職を決して後悔していません。たとえそれが学術生活からの根本的な転換を意味していたとしても、私は今や独立して行動していたのですから。」(Perse, 1996)

マッキャン・エリクソンは1930年に設立された国際的な広告代理店ネットワークであり、米陸軍やマスターカードなど著名なクライアントを有していた。ヘルツォークは、コミュニケーション研究の分野ではほとんど知られていないものの、アメリカにおいて市場調査分野では最も著名な人物の一人となった。彼女は動機調査の先駆者であり、その広告およびマーケティングへの導入と定着に大きく貢献した。その業績は高く評価され、1986年にはマーケット・リサーチ・カウンシルの殿堂に名を連ねることとなった

従来の広告調査が「誰が何を買っているのか」という問いを立てていたのに対し、ハーツォークは新たなアプローチをとった。すなわち、彼女の動機研究においては、「人びとはなぜ特定の商品を購入するのか」という問いを中心に据えたのである。彼女の最大の貢献は、このような動機調査の体系的な展開にあった。

1948年にハーパーがマッキャン・エリクソン社の社長に就任すると、ヘルツォークはまず調査部門の副責任者に昇進し、次いで本社ニューヨークにおける同部門の責任者となった。最終的には、マッキャン・エリクソンは市場および広報調査のための専門会社「マープラン(Marplan)」を設立し、ヘルツォークがその初代会長に就任したのである。ヘルツォークは国際的な市場調査の第一人者として、マッキャン社の海外支社における職員研修も担当していた。

1964年、マリオン・ハーパーが一流顧客の課題解決を目的とするシンクタンクを設立した際、ヘルツォークはジャック・ティンカー・アンド・パートナーズ(Jack Tinker & Partners)に参加するよう招かれた。このグループの初期メンバーは、ジャック・ティンカー(代表)、アート・ディレクターのダン・カルフーン、マーケティング・ジェネラリストのマイロン・マクドナルド、そしてリサーチャーのヘルタ・ヘルツォークで構成されていた(The Art Director’s Club, 2007)。彼らはニューヨークにおいて、きわめて贅沢な環境で活動することを許されていた。彼らの唯一の任務は、マッキャン・エリクソンから改称されたインタープラン社(Interplan Inc.)の主要クライアントに対して、創造的な課題解決策を開発することであった。その課題には、新製品の導入やマーケティング戦略の大幅な転換、あるいは経営陣レベルのその他の問題などが含まれていた。

このグループはまもなく大きな成功を収め、ジャック・ティンカー・アンド・パートナーズは広告業界の注目を集める存在となった。「ティンカーは、まさに10年間にわたり、多様な人材を統合するための精神的基盤、創造的資源、そして稀有なリーダーシップを提供していたのである。」ジャック・ティンカー・アンド・パートナーズは、コカ・コーラ、エクソン、ウェスティングハウスなど、名だたる大企業をクライアントとして抱えていた。その中でも、ヘルツォークは、胸やけや消化不良の治療薬として有名なアルカセルツァー(Alka-Seltzer)のテレビコマーシャルにおいて、二つの代表的な広告スポットに直接的な影響を与えた。すなわち、彼女は写真の中の手が、1錠ではなく2錠をコップに落とすべきであると提案したのである(Gladwell, 1999参照)。彼女がどのようにしてこの発想に至ったのか、その正確な経緯は不明であるが、確かにこの提案は同社の利益を倍増させた(Klaus, 2016)。

当時、彼女と緊密に仕事をしていたハーバート・クルーグマンは、次のように彼女を回想している。

「ヘルタは優雅で、穏やかで、言葉に説得力があった」と、当時彼女と緊密に協働していたハーバート・クルーグマンは述べている。「彼女には卓越した洞察力があった。アルカセルツァーは我々のクライアントで、次のCMの新たなアプローチを議論していた。彼女はこう言った。『水の入ったグラスに1錠のアルカセルツァーを落とす手の映像を見せるのでしょう? それなら、2錠落とす手を見せたらどう? 売り上げが倍になるわ』。そして実際に、そのとおりになった。ヘルタはまさに“グレイ・エミネンス(影の実力者)”であった。皆が彼女を崇拝していた」(Gladwell, 1999, p. 79)

ハーツォークはその後このグループを離れ、1970年末までに引退し、第二の夫であるパウル・マッシングとより多くの時間を過ごすための新生活に入ったのである。

9.ヨーロッパに戻る:オーディエンス研究への復帰

ヘルツォークとマッシングは1954年に結婚した。ヘルツォークの第二の夫であるパウル・マッシングは、ドイツ出身の政治社会学者であった。彼はナチス政権下において共産党の党員であり、ヒトラーへの政治的抵抗運動に積極的に関与していた。1933年には逮捕され、コロンビア・ハウスおよびオラニエンブルクの強制収容所で数か月を過ごしている。

マッシングが生涯にわたって思索し続けた問題のひとつは、反ユダヤ主義という現象であった。1939年、彼はアメリカ合衆国に移住し、最初はニューヨークの社会調査研究所(Institute of Social Research)に勤務した。その後別の職に移った後も、ホルクハイマー、アドルノら研究所の他のメンバーと連絡を取り続けていた(Fleck, 2007, p. 61)。1948年から1967年にかけては、ニュージャージー州のラトガース大学にて職を得ていた。

晩年、マッシングはパーキンソン病と診断された。病状が進行するにつれ、ハーツォークはティンカー・アンド・パートナーズから退職し、1971年には夫妻で長年暮らしていたジャージー・ヒルズの農場を売却し、ドイツ南部のグルンバッハにあるマッシングの故郷へと移住した。

政治社会学者であったマッシングは1979年に死去した。彼が亡くなった時点で、彼はグルンバッハの社会構造に関する研究に取り組んでいた。ハーツォークはその研究の完成を試みたが、調査はまだ初期段階であり、最終的には断念せざるを得なかった。

マッシングの死後、ヘルツォークは再びコミュニケーション研究の分野に復帰した。彼女の夫が療養施設で亡くなった地であるテュービンゲン大学の文化研究学科において、ヘルマン・バウジンガーからアメリカのテレビおよびテレビ研究に関する講義の担当を打診されたのである。さらに、当時ウィーン大学コミュニケーション学研究所の所長であったヴォルフガング・R・ランゲンブッヒャーからの招待も受け、同様の授業を担当することとなった。

当時、テレビにおいて最も話題となっていたトレンドは、『ダラス』および『ダイナスティ』の大成功に代表される新しい人気ドラマ(ソープオペラ)の登場であり、加えて彼女自身が50年前にすでにソープオペラに関する研究を行っていたことも影響して、ハーツォークは長期連続ドラマに関心を集中させることになった。

彼女はテュービンゲンおよびウィーンの学生たちとともに、これらソープオペラに対する視聴者の反応に関する予備調査を実施した。1986年から1990年にかけて、その調査結果に基づく論文を4本発表している(Herzog Massing, 1987など)。

同じ頃、『ダラス』を対象としてオーディエンス調査を行っていたグループは、世界各地にいくつかあった。その代表的な存在は、イスラエルのコミュニケーション研究者リーベスとカッツだった。彼らは、世界各地で「ダラス」の視聴者を対象とする詳細なグループ・インタビューを実施し、同じテレビドラマが文化圏の違いに応じて、異なる受容のされ方をしているという知見を得た (Liebes and Katz, 1990)。ヘルツォークは、ドイツとアメリカの『ダラス』視聴者を比較する調査を行ったが、研究手法として、ラジオ時代の「利用と満足」研究でとった方法に加え、マーケティング調査時代に培った心理学や動機研究の知見も入れながら、独自の視点からテレビのオーディエンス研究を行ったのである。

人生最後の20年間、ハーツォークは引退生活を送りながら、チロル地方の小さな町レウタシュで姉とその大家族とともに穏やかに暮らした。彼女はそこで、2010年2月25日に99歳で永眠した (Klaus, 2016)。

10.ヘルタ・ヘルツォークの残した遺産

ヘルツォークは、ラザースフェルドやマートンのように学会で常にフロントランナーとして脚光を浴び、数多くの目にみえる業績を残したというわけではなかったが、20世紀のコミュニケーション研究史において、実証的なメディア効果論の「生みの親」(Founding Mother)ともいえる、きわめて重要な業績を残したという点で、偉大な学者であったと評価することができる。最後に、ヘルツォークが20世紀のコミュニケーション研究において残した主要な業績をめぐる評価、ジェンダーの視点からみたいくつかの大きな教訓、21世紀の現代に受け継がれるヘルツォークの遺産について考察することにしたい。

ラザースフェルドとの関連

ヘルツォークはウィーン時代に心理学研究所で学生としてラザースフェルドと知り合い、助手だったラザースフェルドから指導を受け、アメリカに渡って結婚した。そして、ラザースフェルドとともに、ORRでラジオのオーディエンス研究に取り組んだ。この間、ラザースフェルドとの関係は、研究面で指導・助言を受ける立場から妻という立場、そして研究所での部下、共同研究者という立場へと変化していった。特に、ORRとBASRの研究所時代は、ラザースフェルドがディレクターだったということもあり、彼女の研究は必ずしも正当に評価されたわけではないようである。これは、ヘルツォークだけではなく、ORR、BASRなど研究所で働く女性研究員の多くが被っていたジェンダー格差の問題であった。これらの研究機関では、高度の知的作業、方法論の体系化、大規模研究プロジェクトの指導といった高ステータスの業務の大半が男性に割り当てられていた。その中で、女性たちの多くは「身体作業(body work)」と呼ばれる領域に集中していた。たとえば、対面インタビュー、紙媒体資料への手作業での分析、パンチカードのソートと入力、ホレリス機械の操作、プログラム・アナライザーの運用、大規模フィールド調査における調査員の募集と面談、タイプ打ち、速記などである(Rowland & Peter Simonson, 2014)。賃金もまた、男性職員と比べて、女性職員は桁違いに低く抑えられていた。

しかしその一方で、ヘルツォークの場合、夫であり同僚でもあるラザースフェルドは、彼女の優れた研究能力と業績を高く評価しており、研究成果に見合った待遇を受けられるよう奔走していたことも事実である。例えば、BASRの公式の報告書を出版する際にも、ヘルツォークの行なった「プロフェッサー・クイズ」に関する調査報告を1940年のシリーズ第1作(「ラジオと印刷物」)に掲載し、第3作の「コミュニケーション調査」に「昼の連続ドラマのリスナー」に関する調査報告を掲載している。また、第2作「ラジオ調査」でも、ヘルツォークによる編集上の貢献に対して謝辞を送ったのである。さらに、1938年に「火星人襲来ドラマ」事件後にヘルツォークが調査研究に大きな貢献をしたにもかかわらずキャントリルが彼女を共著者に加えなかったことに対して、激しく抗議した。

一般に、男性の研究者が同業の女性研究者と恋愛関係になったり、結婚することはよくあることだが、ラザースフェルドの場合、最初の妻マリー・ヤホダ、2番目の妻ヘルタ・ヘルツォーク、3番目の妻パトリシア・ケンドールはいずれも研究者であり、優れた研究業績を残したという点は、特異なケースとも言える。現実には、異なるジェンダーのカップルが共同研究者として、また研究機関の同僚として同じ場所で活動するに当たっては、さまざまな障壁やトラブルもあったと推測される。その中にあっても、第二次大戦中で多くの男性が戦場に行って不在という状況では、ORRやBASRは女性が研究者として活躍し、業績を上げることのできる数少ないチャンスだったともいえる。ラザースフェルドが所長として女性研究員を多く登用し、画期的な成果を次々と上げることができたのは、ヘルツォークをはじめ、多くの女性研究者にとっても僥倖だったといえるかもしれない。

キャントリルとの関連

しかし、ヘルツォークやゴーデットなど、当時ORRで働いていた女性研究員たちは、男性優位の研究環境の中で、達成した業績に対して、必ずしもそれに見合う評価を受けることができなかった。その代表的な例は、1938年10月の「火星人襲来」CBSラジオドラマ聴取者調査である。このとき、プリンストン大学教授だったハドリー・キャントリルは、事件後、いち早く独自に聴取者に対する詳細なインタビューを行い、リスナーの反応についての重要な発見をしたヘルツォークの業績を正しく評価できず、報告書の共著者にも加えないという重大な誤りを犯した。これについて、すでに詳しく述べたので細部については繰り返さないが、その後のメディア効果論の展開との関連について若干の考察を加えておく。

(1)情報確認行動の発見
(2)限定効果論の発見
(3)パニックがなかったという知見
(4)選択的接触について発見

 

 

 

マートンとの関連

 

 

 

「利用と満足」研究との関連

少数のサンプルに対するフォーカス・インタビューの結果が、その後の量的、統計的な分析と同等の発見を生んだことの意義。

 

 

娯楽コンテンツの教育的機能

 

 

 

ジェンダー・バイアスの問題

 

 

 

 

 

 

 

 

 

注:

(1) ヘルツォーク自身は、Perseにあてた手紙の中で、フェミニストではなく、またジェンダー的な視点から自ら性差別の対象になったという意識を持ったことはない、と否定している。

(2)ヘルツォークが2010年に99歳で逝去した直後から、ヘルツォークの優れた研究業績を再評価しようという動きが活発になり、シンポジウムの開催、記念論文集の出版などの企画が相次いだ。

(3)ビューラー夫妻についての説明。

(3)キャントリルは、ゴードン・オルポートと共に、1935年に『ラジオの心理学』という本を出しており、ラジオが印刷物よりも強い政治的影響力を持つ可能性を示唆していた。ロックフェラー財団はこの研究に注目していた。

(4) ソープオペラという呼称は、アメリカで連続ドラマに使われる愛称である。

(5) ラザースフェルドがこの特集号で寄稿した論文は、行政的研究と批判的研究に関する論考であった。

(7) プリンストン・ラジオ・プロジェクトの本部は当初ニューヨーク市に置かれていたが、研究が進展するにつれて、ラジオ活動の中心地であるニューヨーク市内の大学にプロジェクトを移管したほうが研究の効率が高まるという認識がディレクター陣の間に広がった。これにより、1940年春、ラジオ研究室はコロンビア大学へと移管された(Lazarsfeld, 1940序文)。

(20)1956年アメリカ社会学会会長に就任。1994年には、アメリカ国家科学賞を授与されている。マートンが亡くなるとコロンビア大学は大学葬でもって彼の偉大な学術的教育的貢献を称えた]

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