もの忘れと記憶障害の違いについて
どんな人でも、多少はもの忘れをするものです。すべてのことを覚えていたら、ストレスになってしまいます。そのために、脳には「忘れる」という仕組みができているわけです。必要なときにすぐ思い出せればいいわけです。ただし、「あれ何だったっけ」といって思い出したいときになかなか思い出せないのも困ります。そのために、私たちはなにかにメモをとったり、手帳に記録しておいたりするわけです。
健康な人のもの忘れと、病的な記憶障害との違いはそれほど明確ではありません。どちらも記憶のプロセスで「忘れる」「思い出せない」という症状があるわけですが、健康な人の場合、それが生活に支障をきたすところまでは行きませんが、病的な記憶障害の場合は、症状が急激にあらわれたり、急速に進行したりして、日常生活を送る上で著しい支障をきたすという点が違っています。また、記憶のプロセスのどこに問題が生じているかという点でも違っています。
「記憶のプロセス」と言いましたが、脳科学の研究で分かっている基本的なこととして、記憶の要素(段階、プロセス)には、「記銘(入力)」「保持(貯蔵、保存)」「想起(出力、再生)」の3つがあります。これは人間の脳だけではなく、コンピューターやスマホにも当てはめることができます。このことは、これから20回の連載記事でも重要なポイントになってきますので、繰り返し参照したいと思っています。
記銘(memorization)
「記銘」とは、自分の経験や外部からの情報を脳に入力(インプットする)ことです。IT機器でいえば、マイクで音声を取り込んだり、キーボードで文字を打ち込むことなどに相当します。
記銘障害とは、聴覚器官や視覚器官などで知覚された情報が脳の海馬などの記憶装置に十分にインプットされない状態、あるいは海馬の働きが不十分で情報を記憶に変換することに失敗した状態をいいます。アルツハイマー病などでは海馬などに病変が生じるために、記銘能力が著しく低下し、ごく短時間しか覚えていることができなくなります。また、覚えている時間に加えて、一度に覚えられる情報の量も重要です。人間が一度に覚えられること(マジカルナンバー)は7+-2とか言われるように、人間の記銘力には限界があります。病的な状態では、そのマジカルナンバーも極端に少なくなってしまいます。
保持(retention)
記銘された情報を脳内に貯蔵する働きを「保持」といいます。コンピュータやスマホでいえば、ハードディスクやSSD、SDカードなどのストレージにデータを保存することに相当します。いったん保存されたデータは、コンピュータの場合、「削除」コマンドで消去することができますが、脳の場合には、「忘却」のメカニズムを通じて行われます。ただし、高次脳機能障害や認知症の方の場合には、数秒あるいは数十秒しか記憶の保持ができず、記憶から消えてしまうという問題を生じることもあります。その場合には、記憶の保持を助けるための何らかのサポートが必要になります。第2回にお話しするスマホとスマートウォッチの活用は、記憶の保持をサポートするもっとも効果的な方法です。
想起(remembering)
保持した内容を取り出す、あるいは出力(アウトプット)することを「想起」(再生)といいます。脳が「覚えている」あるいは「思い出す」という働きですね。コンピュータやスマホでいえば、保存されているデータを取り出す、呼び出すという機能がこれに相当します。コンピュータやスマホの場合には、どんなに膨大なデータを保存していても、キーワードで「検索」すれば、瞬時に必要なデータを取り出すことができますが、人間の脳の場合には、Googleのような優秀な検索エンジンを内蔵していないので、せっかく膨大な情報を保存していても、「思い出せない」ことが少なくありません。高齢者、認知症、高次脳機能障害の方の場合には、すぐ忘れて思い出せないという場合が少なくありません。そんなときには、やはり次回以降の記事で紹介するような方法で、想起のサポートをすることが有効です。
感覚記憶、短期記憶、長期記憶
心理学の領域では、情報が脳内に保持される時間の長さによって、記憶を「感覚記憶」「短期記憶」「長期記憶」の3つに分類しています。この分類は記憶障害やスマホでのサポートの問題を考える上でも役に立ちます。
感覚記憶(sensory memory)
感覚記憶とは、外部から刺激を与えたときに生じる、最大1〜2秒ほどのもっとも保持時間の短い記憶です。目、耳などの感覚器官で瞬間的に保持されるだけで、意識されません。外部からの刺激を与えたときの情報は、まず感覚記憶としてごく短時間保持され、そのうち注意を向けられた情報だけが短期記憶として脳内で保持されることになります。コンピュータでいえば、エディタやワープロなどに文字や写真を入力しただけの状態が感覚記憶、それを保存しないで終わってしまうと、入力したデータは一瞬で消えてしまうのに似ています。デジタルカメラでも、シャッターを切って撮影しても、カメラにSDカードなどの記憶媒体を入れ忘れると、保存ができずになにも記録に残りませんが、これも感覚記憶に似ています。重度のアルツハイマー型認知症の患者では、感覚記憶さえ失われる場合もあるようです。そうなると、自分が見たものも見えていない、聴いたものも聴いていないということになります。
短期記憶 (short-term memory, STM)
短期記憶とは、情報を短時間(ふつう数秒〜数十秒)保持する脳の働きをいいます。短期記憶の量的なキャパシティは、7+-2(5〜9の範囲)といわれています。これは心理学者のジョージミラーが提唱したもので、「マジカルナンバー (magical number)」と呼ばれています。もちろんこれは人間の場合で、コンピュータの場合には、パソコンやスマートフォン、アプリなどの保存容量以内といえるかもしれません。
人間の場合、短期記憶の情報は時間の経過とともに「忘却」されます。ただし、「維持リハーサル」を繰り返すことによって、海馬の働きで次に述べる「長期記憶」に転送されます。これが「学習」といわれるものです。記憶障害のため長期記憶に転送できない場合には、短期記憶として保持されている時間内に、手帖やパソコンやスマートフォンを用いて情報を外部の媒体に保存しておくことが大切になります。
長期記憶(long-term memory, LTM)
長期記憶は、短期記憶において消えずにそのまま長時間にわたって情報が記憶されることをさしています。短期記憶とは違って情報の保持時間が長く、数分から一生にわたって保持されます。保持される情報の容量にも制限はありません。
ただし、長期記憶もそのままずっと保持されるとは限らず、時とともに「忘却」されることもあります。また、たとえ保持され続けても、検索の手がかりが得られずに、脳内のどこかに眠ったままになる場合も少なくないようです。
コンピュータの場合にも、大量のデータを保存しても、適切な検索ツールがなかったり、情報が整理されずに「ゴミ箱」状態でランダムに保存されている場合には、必要な情報を取り出すことができなくなります。このような「検索不能」「アクセス不可」状態を解決する方法は、次回以下の記事で具体的に紹介したいと思います。
内容にもとづく記憶の分類
これまでの記憶の分類は、情報保持の時間によるものでしたが、保持される情報の内容による記憶の分類も重要です。次の3種類の記憶があります。
- エピソード記憶
- 意味記憶
- 手続き記憶
エピソード記憶(episodic memory)
「けさ学校に行った」「友達と食事をした」「スーパーで野菜を買った」「彼女結婚した」「交通事故に遭った」など、個人が経験した行動や出来事の記憶のことを「エピソード記憶」といいます。そうした経験や出来事は、起きた時間や場所、状況などと一緒に長期記憶の中に保存され、想起されます。ささいな出来事のエピソード記憶は、時間がたつにつれて「忘却」されることが多いので、人はしばしば記録にとどめておくために「日記帖」や「手帳」にメモを残しておきます。スマホにも、より大量のエピソード記憶を記録ためのアプリがたくさん開発されています。いわゆる「日記アプリ」「ライフログ」といわれるものはその代表です。代表的なアプリについては、次回以降の記事で使い方を詳しく説明します。
加齢、認知症、高次脳機能障害が進むと、エピソード記憶を保持する能力が次第に低下し、日常生活にも支障をきたす場合が少なくありません。そんなときには、「メモリーノート」のような紙の媒体を使うこともある程度有効ですが、キャパシティが桁違いに大きいスマホを活用することで、エピソード記憶の保持力や想起力を飛躍的に高めることができます。次回以降の記事で詳しく説明したいと思います。
意味記憶 (semantic memory)
意味記憶とは、いわゆる「知識」に相当するもので、言語とその意味、知覚対象の意味や関係、対象の性質、本などに書かれている知識など、組織化された情報の記憶のことです。こうした知識を最初に得たのは、本を読んだり、ウェブサイトで知ったり、人から話を聞いたりといったエピソード記憶であったわけですが、時間がたつにつれて、時間や場所とは独立した「知識」という意味記憶として保持されるようになります。そして、この新しい知識は、意味記憶の全体構造に組み込まれることによって、より高い確率で保持されるようになり、また適切に想起されるようになると考えられます。
加齢や認知症が進むと、なかなか新しい知識を覚えることが難しくなります。これは、意味記憶の「記銘」力(覚える能力)が衰えるためと考えられます。それを強力に補完してくれるのが、パソコンやスマホのアプリです。
手続き記憶(procedural memory)
手続き記憶とは、「言葉がしゃべれるようになる」「自転車に乗れるようになる」「ギターを弾けるようになる」「服のボタンのかけ方がわかるようになる」「スマホのアプリが使えるようになる」など、手続きや操作方法などに関する記憶のことをいいます。言葉で覚えるよりも「体で覚える」のに近い無意識に取得した能力は、手続き記憶に分類されます。
認知症や高次脳機能障害になると、こうした手続き記憶が失われてしまいます。「服を自分で着られなくなった」「駅までの道順がわからなくなってしまった」「自動車を運転できなくなってしまった」「言葉が出てこなくなった」「アプリの操作方法がわからなくなってしまった」などは、手続き記憶の障害によるものと考えられます。
「ワーキングメモリー」の真実
「ワーキングメモリー」という概念は、1970年代にBaddeleyらによって提唱されたもので、従来の「短期記憶」にはなかった能動的な情報処理の働きを加えた記憶機能と考えられます。日本語では「作動記憶」「作業記憶」などと訳されています。ワーキングメモリーの働きとしては、従来の短期記憶のように入ってきた情報を短時間保持するだけではなく、例えば人の話を聞いて理解したり、応答内容を考えたり、解釈を加えたりといった幅広い認知作用を司っていると思われます。
さらに、最近では、ワーキングメモリーは短期記憶だけではなく、長期記憶の働きも担う高次の記憶システムだという研究もあります。Cowan(2005)の研究によると、ワーキングメモリーとは、長期記憶の1つの要素であり、長期記憶に保存された表象のうち活性化水準が高められ、かつ注意が焦点化された表象の集合のことだとしています。長期記憶のうち活性化されていない部分はワーキングメモリーには含まれません。
このモデルによれば、ワーキングメモリーの容量は、従来のワーキングメモリー=短期記憶説とは違い、制限はありません。ただし、情報の活性化には時間的限界があり、リハーサルしない限り時間とともに活性度は低下していくと考えられます。例えば、受験勉強をしているときに、直前に繰り返し復習することで、長期記憶を活性化させるような例を思い浮かべると分かりやすいでしょう。
けれども、BaddeleyのモデルとCowanのモデルは、どちらも一長一短なような気がします。確かに、短期記憶は、ただ情報を短時間保持するだけではなく、入力された情報を理解したり、整理したり、評価したり、どれを長期記憶に転送すべきか判断したりといった「情報処理」を短時間で行うという機能も果たしており、それゆえ「ワーキングメモリー」と呼ぶにふさわしいものだと思います。ただ、このような高度の情報処理的な働きは短期記憶だけではなく、長期記憶の中にもあると思われますので、Cowanの言うように長期記憶の中にも備わっていると考えるのが合理的でしょう。言い換えれば、ワーキングメモリーは、短期記憶と長期記憶の両方に備わっており、いずれの記憶においても、活性化された部分で作動する情報処理システムだと考えることができるのではないかと思います。長期記憶の場合には、ワーキングメモリーは保持された情報を活性化したり、リハーサルによって記憶を想起しやすくしたり、長期記憶から不要なものを消去(忘却)したり、長期記憶に蓄積された情報や知識を「組織化」したり、「階層化」したり、「ネットワーク化」したり、「リニューアル(更新)」したりと、さまざまな重要な働きをしていると想像されます。それを通じて、長期記憶は単に知識の「貯蔵庫」であるだけではなく、「アクティブなデータベース」として最新の状態に更新されているものと考えられます。人間の精神の「成長」「進化」が絶えず続くとすれば、それはワーキングメモリーの働きのおかげではないのではないでしょうか。高齢化すると、新しいことを受けつけなくなったり、頑固になったり、古い知識にしがみつく人が多くなりますが、それは、短期記憶、長期記憶に内在するワーキングメモリーの働きが鈍くなるからかもしれません。
以上は、従来の記憶研究の中から、ワーキングメモリーについて私見をもとに私自身が引き出した一つの「仮説」にすぎません。脳科学の専門研究者にぜひ検証していただきたいと思います。なぜこのような仮説をあえて提示したかというと、それは、これから20回にわたってスマホを活用してもの忘れや記憶障害を克服する方法を考える上で、この仮説が役に立つと考えるからです。脳内の記憶メカニズムの実態はともかく、スマホ(iPhone)をフルに活用することによって、ワーキングメモリーの働きを実現することは可能ですし、それが記憶対策としてきわめて有効だということを、これから20回にわたる連載で一つ一つ実証していきたいと思っています。
記憶の階層、意味ネットワーク
コンピュータ上に情報を保存する場合、WindowsでもMacでも、フォルダを複数作り、それに名前をつけてファイルを保存していくと、効率的な保存と再生が可能になります。Google ChromeなどのブラウザにWebのブックマークに登録する場合でも、フォルダをつくってブックマークを整理してあげることで、必要なウェブサイトを探しやすくなります。
保存、登録すべきファイルやウェブサイトの数が増えると、一つのフォルダの下に、さらに細かい「サブフォルダ」を作って整理することで、フォルダの階層を深くすることも多くなります。
このようにコンピュータでは、長期記憶(ハードディスク)が階層的に構築されることで、大量に情報を保存しても、カオティックなゴミため状態に陥らずに済みます。脳内の長期記憶にも、このような階層的な秩序がつねに形成されているのではないかと想像されます。脳科学では、階層的な秩序のかわりに、「(階層的)意味ネットワーク」ということばが使われているようです。
Collins & Quillian (1969)は、意味記憶の構造について、階層的なネットワークモデルを提唱しました。具体的なネットワーク例は次のようなものです(太田信夫『記憶の分類』より)。
このモデルによれば、概念の記憶は上位概念(動物)から下位概念(カナリア)まで階層的に構造化されており、それぞれの概念(ノード)に特性がリンクされていると考えられます。記憶の再生(想起)も、ノードとリンクをたどって行われると考えられます。このような階層的意味ネットワークは、コンピュータにおける上位フォルダ、下位フォルダによる情報整理、保存とよく似ています。次回以降の連載記事でも、階層的な情報の整理の仕方について力をいれて説明したいと思います。
記憶障害の一つとしての見当識障害
最後に取り上げておきたいのは、アルツハイマー型認知症や高次脳機能障害においてしましば観察される「見当識障害」の問題です。これも、広い意味でのもの忘れ、記憶障害ではないかと考えられます。
見当識障害というのは、時間や季節がわからなくなる、いまいる場所が分からなくなる、相手がだれか分からなくなる、という記憶障害です。いつ(When)、どこ (Where)、だれ(Who)に関する短期記憶に関する「3W記銘障害」と言い換えてもいいかと思います。これは私の造語です。いずれにしても、従来の「認知障害」という捉え方ではなく、「記銘障害」「記憶障害」の一つと再定義することで、スマホを使った対策がとりやすくなります。詳しい使い方については、連載第19回に説明したいと思います。