シェイクスピア文学から学ぶもの
シェイクスピアを読んでいて、ふと「真実一路」という言葉が思い浮かびました。シェイクスピアの戯曲は全部でわずか37作という比較的少ない数ですが、そこに含まれるテーマは、人生のすべてのあり方を含む、広く深いものだと思われます。それは果たして、作品ごとに違うテーマを扱ったものなのでしょうか?それとも、そこにはすべての作品に通底する共通のテーマが潜んでいるのでしょうか?
私はシェイクスピアの専門家でも何でもない、一介の読者にすぎないので、自由に想像力を膨らませて、自分だけの視点からシェイクスピアの思想を解読してみたいと思いました。そこで心に浮かんだのが、「真実一路」という生き方です。一般に科学者は「真理の探究」を使命としています。これに対し、文学者は「真実の探究」を生業とする専門家なのではあるまいか?それが私の立てた仮説です。私たちが文学者たちの作品に求めるのは、真理=知識ではなく、真実=価値です。価値とは、「正しい生き方」「正義」「自由」「民主主義」「平和」「幸福」「誠実」「愛」「友情」「美」「快楽」「奉仕」「権力」「地位」「富」「名誉」「健康」「清廉潔白」「高潔さ」「信仰」「伝統」など、個人にとって望ましい人生の目標や生きがいのようなものです。科学はこうした価値の判断には関与しません(ウェーバーの言う「価値自由」)。一方、これらに積極的に関与し、価値判断を下すのは、文学者の役割といってもいいかもしれません。読者である私たちは、文学者の作品を通して、さまざまな価値(真実)に共感したり、感動したり、学んだりしているのだと考えることができます。これらの価値=真実は、作者によって、あるいは時代によって大きく異なっていることでしょう。
では、シェイクスピアにおける「価値」の基本は何か?私が個人的に思うのは、「真実一路」という言葉で要約できるのではないか、ということです。つまり、シェイクスピア戯曲に登場する主役たちは、それぞれが自分の信じる価値実現に向けて「真実一路」の生き方を貫いているのではないか?そのことが、私たち読者の共感、感動を引き起こすのではないか?このような普遍的価値が全ての作品の根底を貫いているからこそ、シェイクスピアの作品は500年近く経ったいまでも、世界中で読み継がれ、繰り返し取り上げられるのではないでしょうか?
このようなシェイクスピア解釈は、専門家とはかなりかけ離れたものかもしれません。でも、河井祥一郎さんが『NHK100分DE名著 シェイクスピア・ハムレット』でも述べているように、「シェイクスピア学者が百人いれば、百通りの『ハムレット』解釈がある」そうですから、門外漢の私がこのように勝手な解釈を開陳しても許されるのかもしれません。
『ロミオとジュリエット』では、ロミオとジュリエットが、互いに運命的な出逢いで感じた愛を信じ合い、両家の争いに翻弄されながらも、諦めることなく、最後は自らの命を断つという自己犠牲を通じて天国で永遠に結ばれることを選択するという「愛の真実一路」を貫く(わずか4日間の)「短くも美しく燃える」人生を見せてくれます。『ロミオとジュリエット』では、もう一つの真実が語られています。それは「戦争」と「平和」の物語です。戦争(家同士の醜い諍い)というむごい運命は、あらゆる美しい価値や夢を破壊してしまいますが、最終的に(両家が和解して)平和が達成されるには、真実一路に生きる人々が無私の心で払う大きな自己犠牲が必要だったということを、この物語は教えてくれます。それが読者の大きな感動を呼ぶ所以でもあります。 『オセロー』では、高潔な人格を持つ主人公の黒人将軍オセローが、最愛の妻デズデモーナが副官キャシオと不倫の仲だという部下のイアーゴーからの度重なる讒言を信じ、デズデモーナに対する憎しみを募らせ、ついには妻を殺害してします。しかし、オセローは妻の無実を知り、自ら命を断ちます。オセローとデズデモーナは、ともに深く愛し合っており、この真実の愛は最後まで変わりませんが、オセローの愛は不倫への嫉妬により「憎しみ」へと変わります。しかし、この憎しみもデズネモーナを愛するがゆえに生じたもので、最後に真実を知ることにより、再び深い愛が戻り、強い自責の念から自殺するに至るのです。この物語では、「憎しみ」がしばしば屈折した愛の発露として、人の行動を大きく変えることを示しています。
『ヴェニスの商人』では、人のよいヴェニスの商人アントーニオが、親友のバサーニオのためにユダヤ人の高利貸しシャイロックから金を借ります。アントーニオは金を借りるために、指定された日付までにシャイロックに借りた金を返すことが出来なければ、シャイロックに彼の肉1ポンドを与えなければいけないという条件に合意します。アントーニオは簡単に金を返す事が出来るつもりでしたが、所有していた船は全て難破し、彼は全財産を失ってしまいます。
『オセロー』では、
ハムレットにおける「真実一路」とは?
最後に、『ハムレット』の有名な一節に新たな光を当てて、「真実一路」の解釈を展開してみましょう。
原文:Act3 Scene1
To be, or not to be: that is the question:
Whether 'tis nobler in the mind to suffer
The slings and arrows of outrageous fortune,
Or to take arms against a sea of troubles,
And by opposing end them?
福田恒存訳:
生か、死か、それが疑問だ、どちらが男らしい生きかたか、じっと身を伏せ、不法な運命の矢弾を堪え忍ぶのと、それとも剣をとって、押しよせる苦難に立ち向い、とどめを刺すまであとには引かぬのと、一体どちらが。
河合祥一郎訳:
生きるべきか、死ぬべきか、それが問題だ。どちらが気高い心にふさわしいのか。非道な運命の矢弾を じっと耐え忍ぶか、それとも、怒濤の苦難に斬りかかり、戦って相果てるか。
松岡和子訳:
生きてとどまるか、消えてなくなるか、それが問題だ。 どちらが雄々しい態度だろう、 やみくもな運命の矢弾を心の内でひたすら堪え忍ぶか、 艱難の海に刃を向け それにとどめを刺すか。
小田島雄志訳
このままでいいのか、いけないのか、それが問題だ。 どちらがりっぱな生き方か、このまま心のうちに 暴虐な運命の矢弾をじっと耐えしのぶことか、 それとも寄せくる怒濤の苦難に敢然と立ちむかい、 闘ってそれに終止符をうつことか。
坪内逍遥訳(現代語版)
世に在る、世に在らぬ、それが疑問じゃ。残忍な運命の矢や石投をただひたすら堪え忍んでおるが男子の本意か、あるいは海なす艱難をむかえ撃って、戦うて根を絶つが大丈夫の志か?