メディア研究

マクルーハンのメディア論と梅棹忠夫の情報論

 今回は、マクルーハンの『メディア論』を読みながら、メディアの進化について考えてみたいと思う。この本が出版されたのは、1964年である。ちょうど、テレビが黄金時代を迎えた時期である。しかし、まだパソコンやインターネットが登場する以前である。それにもかかわらず、本書はいきなり、次のようなメッセージで始まっている。

 西欧世界は、3000年にわたり、機械化し細分化する科学技術を用いて「外爆発」(explosion)を続けてきたが、それを終えたいま、「内爆発」(implosion)を起こしている。機械の時代に、われわれはその身体を空間に拡張していた。現在、一世紀以上にわたる電気技術を経たあと、われわれはその中枢神経組織自体を地球規模で拡張してしまっていて、わが地球にかんするかぎり、空間も時間もなくなってしまった。急速に、われわれは人間拡張の最終相に近づく。それは人間意識の技術的なシミュレーションであって、そうなると、認識という創造的なプロセスも集合的、集団的に人間社会全体に拡張される。さまざまのメディアによって、ほぼ、われわれの感覚と神経とをすでに拡張してしまっているとおりである。

 ここで、「内爆発」とは「地球が電気のために縮小して、もはや村以外のなにものでもなくなってしまった」という事実をさしている。また、「電気」とは、通信やテレビのことをさしているように思われる。現代なら、さしずめインターネットや衛星放送などを思い浮かべるところだろう。

第1章 メディアはメッセージである

 マクルーハンは、メディアを「人間の拡張」と定義している。第1章は、次のような有名なメッセージから始まる。

 われわれの文化は統制の手段としてあらゆるものを分割し、区分することに長らく慣らされている。だから、操作上および実用上の事実として「メディアはメッセージでる」などと言われるのは、ときにちょっとしたショックになる。このことは、ただ、こう言っているにすぎない。いかなるメディア(すなわち、われわれ自身の拡張したもののこと)の場合でも、それが個人および社会に及ぼす結果というものは、われわれ自身の個々の拡張(つまり、新しい技術のこと)によってわれわれの世界に導入される新しい(感覚)尺度に起因する、ということだ。

 これは、明らかに「技術決定論」的な考え方だ。続くいくつかのパラグラフは、「メディアはメッセージである」ということを、言い換えたものだ。

 電気の光というのは純粋なインフォメーションである。それがなにか宣伝文句や名前を描き出すのに使われないかぎり、いわば、メッセージをもたないメディアである。この事実はすべてのメディアの特徴であるけれども、その意味するところは、どんなメディアでもその「内容」はつねに別のメディアである、ということだ。書きことばの内容は話しことばであり、印刷されたことばの内容は書かれたことばであり、印刷は通信の内容である。

 これを言い換えると、古いメディアが新しいメディアにとっては「メッセージ」になっている、ということだろうか。現代のインターネットに置き換えて考えると、インターネットのメッセージ内容は、既存メディアであるテレビや新聞(メディア)だということになろうか。つまりは、オールドメディアのメッセージは、新しい技術革新の結果、ニューメディアに取り込まれる、というメディア=メッセージ間の共進化が起こっているということだろうか。

 映画の「内容」は小説や芝居や歌劇である。映画という形式の効果はプログラムの「内容」と関係がない。書記あるいは印刷の「内容」は談話であるが、読者は書記についても談話についてもほとんど完全に無自覚である。

 ここでは、メディアはそれが伝えるメッセージとは関係なく、メディアの形式そのものが多大な心理的・社会的インパクトを与える、といっているようにも思われる。つまりは、メディアそれ自体の特性を考慮することが、その影響力を考察する上で重要なのだ、という意味にも解される。そのように理解すれば、次の章もわかりやすくなるのかもしれない。

第2章 熱いメディアと冷たいメディア

 ラジオのような「熱い」(hot)メディアと電話のような「冷たい」(cool)メディア、映画のような熱いメディアとテレビのような冷たいメディア、これを区別する基本原理がある。熱いメディアとは単一の感覚を「高精細度」(high definition)で拡張するメディアのことである。「高精細度」とはデータを十分に満たされた状態のことだ。写真は視覚的に「高精細度」である。漫画が「低精細度」なのは、視覚情報があまり与えられていないからだ。電話が冷たいメディア、すなわり「低精細度」のメディアの一つであるのは、耳に与えられる情報量が乏しいからだ。さらに、話されることばが「低精細度」の冷たいメディアであるのは、与えられる情報量が少なく、聞き手がたくさん補わなければならないからだ。一方、熱いメディアは受容者による参与性が低く、冷たいメディアは参与性あるいは補完性が高い。だからこそ、当然のことであるが、ラジオはたとえば電話のような冷たいメディアと違った効果を利用者に与える。

 マクルーハンは、テレビがクールメディアつまり「低精細度」のメディアだとしているが、現代のハイビジョンなどはどうなのだろうか?高精細度でデータを十分に満たされたメディアになっているのではないだろうか?また、スマートフォンやスカイプなどはどうだろうか?これもまた、ありとあらゆるデータを詰め込んでおり、ホットで「高精細度」のメディアになっているのではないか?だからといって、ユーザーの心理や社会に巨大なインパクトを与えているといえるだろうか?現代は、まさにマルチメディアの時代になっており、もはやマクルーハンのいう「熱いメディア」「冷たいメディア」の単純な二分法は意味をなさなくなっているのではないだろうか。

 技術決定論的なメディア論は、第6章にもあらわれている。

第6章 転換子としてのメディア

 この電気の時代にいたって、われわれ人間は、ますます情報の形式に移し変えられ、技術による意識の拡張をめざしている。 (中略)
 われわれは、拡張された神経組織の中に自分の身体を入れることによって、つまり、電気のメディアを用いることによって、一つの動的状態を打ち立てた。それによって、、これまでの、手、足、歯、体熱調整器官の拡張にすぎなかった技術-都市も含めて、すべてこの種の身体の拡張であった-が、すべて情報システムに移し変えられるであろう。電磁気の技術は、いま頭骨の外部に脳をもり、皮膚の外部に神経を備えた生命体にふさわしい、完全に人間的な穏和と静寂を求めている。人間は、かつて網代舟、カヌー、活字、その他身体諸器官の拡張したものに仕えたときと同じように、自動制御装置のごとく忠実に、いま電気の技術に仕えなければならない。

 コンピュータやインターネットが支配する現代社会を予見させる文章だが、これはいったいメディアの影響を楽観的に見たものなのか、それとも悲観的に見たものなのだろうか?

 話は変わるが、昨日、NTTの電話通信回線が4時間にもわたって麻痺するという事故が起きた。毎日新聞によると、これはスマートフォンの急増によるものだという。

 NTTドコモの携帯電話で相次いだ大規模な通信障害は、スマートフォン(スマホ)の本格普及で通信量が急増し、携帯電話会社のインフラ整備が追いついていない実態を浮き彫りにした。動画やゲームのやりとりなどスマホの多機能化が進み、こうしたデータ通信量は国内で今後数年で10倍以上に膨らむとの見方もある。事業者の対応が伴わないとトラブルもやまず、通信インフラに対する信頼も損なわれかねない。【毎日新聞1月26日】

 若者を中心に、スマートフォンが普及し、使い方も大幅に変わってきているようだ。

 東京都内の男子大学生(22)は「スマホに買い替え、動画投稿サイトなどインターネットを使う時間が増えた」と話し、若者を中心にパソコン代わりに使う場面が増えている。しかもスマホの利用者の多くは、どれだけ通信しても料金が一定の「定額制サービス」に加入しており、スマホの通信量は「(従来の携帯電話に比べて)10倍はある」(通信業界関係者)という。(毎日新聞、同上記事より)

 スマートフォンは、もはや従来のガラケーとはまったく異なる使い方をされているようだ。マクルーハンのことばでいえば、クールだった電話がホットなメディアになっているということなのかもしれない。

 しかし、だからといって、スマホがPCを代替しているのだ、とはいえない。クラウド時代には、PCとスマホは、むしろ、時間的、空間的な情報圏域の中で、相互補完的に使い分けがなされるようになっているのではないだろうか。そうした中で、最近は「ネットブック」を使う人が少なくなっているようにも思われる。自宅や仕事場ではPC+スマホ、移動中はスマホといった使い方が普及しつつあるのかもしれない。それとともに、マクルーハンのように、それぞれのメディア別にその特性を二分法的に捉えるというのは、もはや時代遅れになっているのかもしれない。もっと別の新しいメディア論を構築すべき時期に来ているように思われる。

 ちなみに、私も最近スマホを購入し、いまでは、スマホで毎日、新聞を読んだり、ラジオを聴いたり、音楽を再生したり、ユーチューブで動画をみたり、メールをチェックしたり、とさまざまな使い方をしている。それも、仕事の合間(あるいは仕事をしながら!)。マクルーハンがこれを見たら、スマホとはいったいどんなメディアなんだ、とあきれてしまうかもしれない。ユーザー調査の方法も従来とは大幅に変更しなければいけなくなるような気がしている。

梅棹の情報論 VS マクルーハンのメディア論

 梅棹忠夫さんの「情報産業論」が公表されたのは1963年だった。マクルーハンの『メディア論』が刊行されたのは1964年である。明らかに梅棹さんの方が早い。にもかかわらず、梅棹さんの生態史観にもとづく情報論は、マクルーハンよりも、はるかに大きな広がりと論理的な明晰さを備えている。梅棹さんは「汎情報論」を唱え、マクルーハンは「汎メディア論」を唱えた。しかし、重要なのは、メディアではなく情報であろう。そのことは、後に「情報のメディア戦略」として論じることにしたい。

 梅棹理論の優れた点は、「内胚葉」→「中胚葉」→「外胚葉」というように、生態学的な進化のプロセスを、情報産業の進化にむすびつけて論じ、その中で、外胚葉産業として情報(精神)産業を位置づけた点にある。マクルーハンは、単に脳神経系の拡張としてメディアを論じたにとどまっており、そこには理論性が感じられない。「ホット」「クール」といったメディア特性を論じるが、そこにも理論的な根拠が明確に示されてはいない。マクルーハンのメディア論は、もはやテレビ時代の遺物と化してしまったようである。

 少し残念なのは、梅棹さんが記号やメディアについて生態史的な観点から体系的に論じていないという点である。評者は、「情報」「記号」「メディア」の関連を次のような階層的構造になっていると考えている。

 つまり、「メディア」は「記号」の担架体であり、「記号」は「情報」の担架体であるということである。ドーキンスは、『利己的な遺伝子』の中で、遺伝子情報の生存戦略について詳細に論じたが、この考え方から、「情報のメディア戦略」といった考え方を引き出すことができるのではないかと思う。それについては、別途論じることにする。梅棹さんの生態史観と組み合わせるならば、新しいメディア論の構築も不可能ではないような気がする。いずれ稿を改めて論じることにしたい。その前に、ドーキンスの『利己的遺伝子』論を、次回に再読してみようと思う。

情報のメディア戦略考

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