メディア研究

実証的コミュニケーション研究の創始者 P.Lazarsfeldについて(2014年11月2日:再録)

シカゴ学派=実証的アメリカ社会学の出現

 毎年、いま頃になると、講義の話題は、いわゆる「メディア効果論」になる。5回位を費やして、歴史的な展開を論じるのだが、その出発点は、1930年代のラジオ研究にまで遡る。1930年代のアメリカは、「ラジオ」というニューメディアが急速に普及し、大きな社会的影響力を及ぼしていると信じられた時期である。ちょうど、いまのインターネット普及時代に類似した、転換期の社会だったといえるだろう。19世紀に入ると、ヨーロッパから大量の移民が流入し、都市部では人種のるつぼ的な状況で「大社会」が現出したともいわれた。シカゴ大学を中心として、多くの社会学者がこうした状況で「社会」とは何か、「コミュニケーション」とは何かという、時代を映し出すテーマについて、理論的、実証的な研究を精力的に行ったのである。

 シカゴ大学では、エスノグラフィックな質的調査が重視され、多くの優れた都市社会学の成果が生み出された。その伝統は、「シカゴ学派」として、現代まで連綿として続いている。

コロンビア大学=定量的コミュニケーション研究の始まり

 一方、ニューヨークのコロンビア大学では、定量的な調査研究によって、ニューメディアであるラジオについて、実証的な調査研究を行おうとするプロジェクトが行われた。その主導者が、Paul Lazarsfeldであった。彼は、のちに「実証的社会学の父」とも称されるようになる。

Lazarsfeldの生い立ちと渡米

 Lazarsfeldは、1901年、ウィーンでユダヤ人を両親として生まれた。父は法律家、母は精神分析家であった。彼は大学で数学と物理学を学び、アインシュタインの重力理論の数学的側面に関する博士論文を書いている。

Paul Lazarsfeld

 その後、ウィーン大学の心理学研究所を創設したKahl Buhlerのもとで研究を続けた。そこで、社会心理学的な応用調査研究を提案している。1930年代はじめ、Lazarsfeldと2人の同僚(妻Marie JahodaとHans Zeisel)はオーストリアの小さな町で失業問題の政治的影響に関する研究を行った。研究の結果は、失業は政治的無関心を助長するという予想外のものだった。この研究の重要性を認めたBuhlerは、ハンブルグでの国際心理学会議で発表するよう勧めた。学会での発表は、たまたま出席していたロックフェラー財団のヨーロッパ代表の目にとまり、Lazarsfeldはアメリカでの1年間の在外研究の機会を得ることになった。1933年10月、Lazarsfeldはニューヨークに到着した。

Lyndとの出会いと縁結び

 渡米した直後、Lazarsfeldはコロンビア大学教授のRobert Lyndとコンタクトをとった。Lyndは妻とともに、有名なMiddletown(1929)という実証研究を出版していた。Lyndはその後、Lazarsfeldがアメリカに定住する上で、いわば縁結びの役割を果たすことになる。

 Lazarsfeldがアメリカに到着してからわずか数か月後、オーストリアでファシストによるクーデいてターが起こり、Lazarsfeldはアメリカに移住することを決意する。LyndはLazarsfeldのために、ニュージャージー州のUniversity of Newarkに就職口を見つけてくれたのである。また、Lyndの示唆により、ロックフェラー財団から研究助成を受けて、ラジオに関する大きな研究プロジェクトに代表として参加することになった。これは彼のキャリアにおいて画期的なものとなった。このプロジェクトでは、プリンストン大学のH.CantrilやF.Stanton (『火星からの侵入』調査でのちに知られるようになった)と協同研究を行っている。

 この研究プロジェクトが発展 的に解消し、数年後には、やはりLyndの仲介のおかげもあり、ニューヨークのコロンビア大学応用社会調査研究所(Bureau of Applied Social Research at Columbia)として結実したのであった。

実証的社会調査研究の推進

 Lazarsfeldが設立した応用社会調査研究所は、大学付属の社会調査研究機関の嚆矢をなすものであった。大学の付属機関でありながら助成資金は企業や政府から獲得するという斬新なスタイルのものであり、その後の同種機関のモデルとなった。  Lazarsfeldの貢献は、実証的社会学研究の方法論を築いたこと、世論調査、投票行動、市場調査研究を推進したこと、などにあった。彼はまた、数々の協同研究プロジェクトを通じて、錚々たる社会学者、コミュニケーション学者たちを輩出する、コラボレータの役割をも果たした。その中には、Theodor Adorno、Robert Merton、Elihu Katz、David Riesman、B.Berelsonなどがいた。

Lazarsfeldと実証的マス・コミュニケーション研究の発展

 1937年、Lazarsfeldは、2年間にわたる大規模な「ラジオ研究プロジェクト」を開始した。このプロジェクトには4つの主要なテーマがあった。

  1.  ラジオと読書
  2.  音楽
  3. ニュース
  4. 政治

 これらの研究において、主たる対象は、マス・オーディエンスであった。ラジオというニューメディアは、商品の販売促進にも利用されるし、受け手の知的水準を向上させるのにも役立つし、政府の政策に関する理解を深めるためにも利用され得る。いずれにしても、Lazarsfeldらの研究の目的は、いかにして送り手のメッセージが受け手に伝わり、効果を生み出すかという点に関する実証的知見を提供することにあった。プリンストン・ラジオ・プロジェクトによって1938年に行われた、『火星からの侵入』研究は、ラジオの受け手がどのように番組を受け止め、それにどのように反応したのか、というマスメディア効果論の嚆矢をなすものだったが、これはLazarsfeldの問題意識と合致するものでもあった。

ラジオと印刷物

 Lazarsfeld自身がラジオ研究所の研究成果として初めて執筆した出版物は、『ラジオと印刷物』(Radio and the Printed Page)という書物だった。これは、コミュニケーションメディアとしての印刷物とラジオの比較研究であると同時に、新しい研究方法論に関する最初の出版物でもあった。それは、当時革新的なコミュニケーション技術であったラジオの社会的影響について書かれた画期的な業績だったのである。とくに現在まで大きな影響力を放っているのは、「人々が、どのような条件のもとで、どのような充足を得るためにラジオや印刷物を利用しているのか?」という「利用と満足」研究のスタンスである。

 方法論的な特徴としては、大量のデータにもとづく定量的な調査研究と小規模でインテンシブな質的研究を組み合わせた点にある。具体的な研究方法としては、(1)番組の内容分析、(2)異なる受け手の分析、(3)充足研究の3つをあげることができる。

 この書物の中でもっとも有名な研究事例は、クイズ番組に関する受け手研究である。対象として選ばれたのは、当時もっとも成功していた『プロフェッサー・クイズ』という番組だった。この研究では、のちにLazarsfeldの二番目の妻となるHerta Herzogが重要な貢献をしている。彼らは、この研究を通じて、リスナーが引き出す多様な充足タイプを明らかにしたのであった。

参考文献:
Paddy Scannell, 2007, Media and Communication. Sage Pubication.

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