ルネサンスとは何だったのか?
フィレンツェは、今回の15日間イタリア旅行の3分の1を占め、一番楽しみにしていた世界遺産都市でした。これまで、2回行ったことがありますが、まだ見ていないルネサンス期の芸術作品も少なからずありました。特に、敬愛してやまないミケランジェロの彫刻作品が多数残されていました。フィレンツェはルネサンス美術の宝庫といわれています。今回の旅行では、フィレンツェにある数多くの美術作品を通して、ルネサンスについての理解を深めることが大きな目標の一つになっています。
ChatGPTによれば、ルネサンスとは次のようなものとされています。
「ルネサンス(Renaissance)は、14世紀から17世紀にかけて主にヨーロッパで発展した文化的・知的な運動で、「再生」や「復興」を意味します。古代ギリシャ・ローマの文化や思想を再評価し、その影響を受けた芸術、哲学、科学、文学の分野で革新が起こりました。
特にイタリアで始まり、そこからヨーロッパ全土に広がりました。この時期には、ミケランジェロ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ラファエロなどの著名な芸術家や、ガリレオやコペルニクスなどの科学者が登場しました。
ルネサンスの主な特徴は以下の通りです:
1. ヒューマニズム: 人間の価値や個々の能力を強調する思想。
2. 芸術の発展: 遠近法の発明や、より写実的な表現技術の導入。
3. 科学の革新: 実証的な方法論を基にした新しい科学の発展。
4. 古典復興: 古代ギリシャ・ローマの文化や思想を再発見し、それを元に新たな文化を創造。
この時代の影響は、現在の西洋文化、思想、科学技術に深く根付いています。」
「ルネサンス」という言葉の起源
16世紀半ばにトスカーナ大公コジモー世・デ・メディチに仕えたジョルジョ・ヴァザーリが「もっとも著名な画家・彫刻家・建築家列伝』で用いた「再び生まれる」という意味のイタリア語「リナッシタ rinascita」であるとされている。時代区分の用語としては、1855年にフランスの歴史家 ジュール・ミシュレが彼の浩瀚な著作『フランス史』第七巻の表題に「ルネサンス renaissance」を用いたことが始まりとなる。一方、歴史家のヤーコプ・ブルクハルトは、『イタリア・ルネサンスの文化』(1860)において、14世紀から16世紀のイタリアに限定して、「ルネサンス」と呼ぶにふさわしい一つの独特な文化が醸成されたことを見ようとした。(小佐野重利、小池寿子、三浦篤編『西洋美術の歴史』4 ルネサンスI より)
私見によれば、ルネサンスは、単なる「文芸復興」だけを目指していたのではなく、中世の抑圧的、閉鎖的な文化から人間を解放する運動でもあったのではないかと思うのです。人間が生まれつき持っている「人間らしさ」「個性」「自由」を呪縛から解き放ち、解放しようとする試みです。ボッティチェリの「春」「ヴィーナスの誕生」はその象徴的な作品と言えるのではないでしょうか。
イタリア旅行と私の中の「ルネサンス」
日本に住んでいると、知らない人と目を合わせても、ニコッと笑顔を交わすということは滅多にありませんでしたが、イタリア旅行をしているうちに、知らない人と目を合わせると自然に笑顔が出るようになりました。それによって、イタリア人や外国人との間の垣根が取れて、スムーズなコミュニケーションができるようになりました。こういう仕草ができるようになったのは、別に今に始まったことではなく、実は私がまだ30歳くらいの時だったと思います。当時、フルブライト交換研究員としてアメリカに1年間滞在していましたが、滞在先のオハイオ州立大学災害研究所のスタッフが、Quarantelli 所長をはじめ、全員がにこやかな笑顔で迎えてくださいました。彼らは会うたびに、いつも笑顔を絶やさないのです。ホストファミリーのケイヤーさんご夫妻も、やはりいつも笑顔で迎えてくださいました。日本人にはない、こうした笑顔を通したコミュニケーションにどれほど私が癒されたかわかりません。それ以来、知らない人とでも心からの笑顔を交わすという習慣が身についたような気がします。日本にいたら、知らない同士での笑顔のコミュニケーションなど、一生身につけることはなかったでしょう。それほど、日本人の対人関係は未だ閉鎖的だと言えるのではないでしょうか。
イタリアで見知らぬ同士での笑顔を通して得たコミュニケーションの体験は、アメリカから日本に戻ってからの長い年月のうちに忘れていた、自然な笑顔を再び取り戻す大きなきっかけになったようです。後期高齢者になった今になって、私の心の中で、「人間性の復興」=ルネサンスが起きたのでした。
花のサンタ・マリア大聖堂 Santa Maria del Fiore
ドゥオーモ Duomo
フィレンツェの街を一望する場所としては、花のサンタマリア大聖堂ドゥオーモのてっぺん、大聖堂付設のジョット鐘楼の頂上、シニョリーナ広場にあるヴェッキオ宮殿アルノルフォの塔の頂上、アルノ川対岸の丘の上にあるミケランジェロ広場などが有名です。今回はドゥオーモが間近に見えるジョットの鐘楼に登ろうと思いました。ところが、入り口を間違えて、ジョットの鐘楼に登るつもりが、大聖堂のドームのてっぺんに登ってしまいました。失敗かと思ったのですが、考えてみれば、このドームの頂上は鐘楼よりも高いし、かのブルネレスキが設計した巨大ドームに登れたのは幸運だったとも言えます。
ブルネレスキのドーム
この大聖堂を象徴する巨大なドーム(クーポラ)は、建築家フィリッポ・ブルネレスキによって設計されました。ブルネレスキは1420年から1436年にかけて、この画期的なドームを建設しました。このドームは、二重構造となっており、内部と外部のドームが相互に支え合う構造を持ち、当時としては技術的に驚異的なものでした。このドームの建設により、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂は当時の世界で最大のドームを持つ建物となり、その後のルネサンス建築に大きな影響を与えました。
花のサンタマリア大聖堂は、建物の巨大さだけではなく、建物外壁のデザイン、色彩、クーポラの形状の優美さなど、すべての面で世界一の大聖堂と言ってもいいほどの美しさと格式の高さを示しています。まさに、フィレンツェの象徴といってもよい、素晴らしい建造物だと思います。フィレンツェの中心部(centro)に位置するため、道に迷ったときに目安としても役に立ちます。
ドゥオーモの頂上
行列を待つことなくドゥオーモの頂上に登るためには、事前にオンラインで「ブルネレスキ・チケット」を購入する必要があります。Duomoの塔の入場時間は15分ごとに細かく指定されていますから、当日は遅れないように入場しましょう。
実は、ドゥオーモの頂上に登ったのは今回が初めてではありません。1993年に両親とイタリア旅行をしたときも、私だけ自由行動の時間にこのドゥオーモの頂上まで登ったことがあります。ただ、その時はまだ四十代の若い頃でした。今回は、76歳という高齢での再挑戦でしたので、正直言ってきつかったです。でも、これが最後の機会だとの覚悟で頑張りました。頂上で私のような高齢者で登りきった人は、他にはアメリカ人の老夫婦だけでした。その方も、多分これが最後と頑張って登ったのではないかという気がします。
クーポラ頂上からの眺め
ジョットの鐘楼 Campanile di Giotto
大聖堂の横にはジョットの鐘楼(Campanile di Giotto)があり、鐘楼は大聖堂と調和したデザインで、74.5メートルの高さを誇ります。鐘楼の設計は、ジョット・ディ・ボンドーネが担当しましたが、彼の死後、タレンティがその仕事を引き継ぎ完成させました。この鐘楼の最上階は、フィレンツェの街並みを一望できる絶好の場所でもあり、観光客に人気です。
サン・ジョヴァンニ洗礼堂
大聖堂の正面には、フィレンツェで最も古い建物の一つであるサン・ジョヴァンニ洗礼堂があります。この八角形の建物は、大聖堂と調和する美しい大理石で覆われており、「天国の扉(Porta del Paradiso)」と呼ばれる黄金の扉が特に有名です。この扉は、ルネサンスの芸術家ロレンツォ・ギベルティによって制作されたもので、旧約聖書の物語を描いた見事なレリーフが施されています。
ドゥオーモ地下の古代ローマ時代の遺跡
シニョリーア広場 Piazza della Signoria ; ヴェッキオ宮殿 Palazzo Vecchio
シニョーリア広場は、イタリアのフィレンツェにある歴史的かつ文化的に非常に重要な広場です。この広場は、フィレンツェの政治と芸術の中心として長い歴史を持ち、今もなお多くの観光客が訪れる場所です。シニョリーア広場の歴史は13世紀に遡ります。当時、この場所にはタワーハウスが立ち並んでいましたが、フィレンツェの政治権力が集中する中心地として計画的に整備されました。1299年から1314年にかけて、広場に面してヴェッキオ宮殿が建設されました。この宮殿はフィレンツェ共和国の政府の本拠地として機能し、現在もフィレンツェ市庁舎として使用されています。
ウフィツィ美術館 Galleria degli Uffizi
ウフィツィ美術館(Galleria degli Uffizi)は、イタリアのフィレンツェにある世界的に有名な美術館で、ルネサンス美術の最高峰を集めたコレクションを所蔵しています。美術館は、メディチ家によって収集された絵画や彫刻など、膨大な数の芸術作品を展示しており、フィレンツェを訪れる際には必見の場所となっています。
歴史
ウフィツィ美術館の建物は、1560年から1580年にかけて、メディチ家のコジモ1世・デ・メディチによって、ジョルジョ・ヴァザーリの設計で建設されました。もともとは、トスカーナ大公国の行政機関や司法機関の事務所として利用される予定で、「ウフィツィ」という名前も「オフィス」という意味を持っています。
美術館としての設立
コジモ1世の息子、フランチェスコ1世・デ・メディチが、1581年にこの建物を美術館として使用することを決定しました。彼は、メディチ家が所有する芸術品を展示するために、ウフィツィの一部を改装し、公開しました。これが現在のウフィツィ美術館の始まりです。
メディチ家のコレクション
メディチ家は、ルネサンス期を通じてフィレンツェの文化的、政治的な影響力を誇示するために、ヨーロッパ中から優れた芸術作品を収集しました。その結果、ウフィツィ美術館には、ルネサンス美術の傑作が数多く集まることとなりました。18世紀には、最後のメディチ家の当主であるアンナ・マリア・ルイーザ・デ・メディチが、フィレンツェ市と契約を結び、メディチ家のコレクションを永遠にフィレンツェに留めることを確約しました。
スリにご注意!
フィレンツェの他の観光スポットと同様に、ウフィツィ美術館の中も観光客で混み合っていますから、スリや置き引きなどの犯罪に注意が必要です。私も当日、スリらしき女に遭遇しました。私がベンチで休んでいるとき、同じベンチに一人の女が座り、しばらくすると、スマホを私の方に向けて、「これで自分の写真を撮ってくれないか」と頼んできたのです。普通なら喜んでこれに応じる私なのですが、この時の女の仕草が不自然で、彼女の目を見た途端、これは怪しい、と直感しました。自然な笑顔ではないし、しかも写してくれという背景が、なんということのない胸像で、わざわざ人に撮ってもらうような背景でもないのです。これはいよいよ怪しいと思い、私はすげなく断ってしまいました。多分、私がリュックをベンチにおいて撮っている間に、この女はリュックの中から貴重品を盗み取ろうとしているのだろう、とその時の私は直感したのでした。このように、スマホで自分の写真を撮ってもらうというのは、今ではごく普通のことになっていますが、油断をすると、スリにやられてしまう危険も孕んでいるのではないか、と感じた次第です。
夜間の特別開館日にオンライン予約
ウフィツィ美術館は超人気スポットですから、予約なしに行くと、長蛇の行列に並ばなくてはなりません。時間の限られた海外旅行では、入館までに1時間以上の待たされるのは、致命的な時間のロスになりかねません。そこで、ウフィツィ美術館では、15分刻みで事前に入館時間の予約をオンラインで受け付けています。公式の予約サイトは以下のリンクからアクセスできます。
私がフィレンツェに滞在していた期間中の9月3日は火曜日で、ちょうど特別に22時まで開館していました。そこで、夕方から晩にかけて入館しようと思い、16:00入場のチケットを購入しました。おかげで、夕方から晩にかけて、入館者の比較的少ない時間帯に、ゆっくりと美術鑑賞することができました。夕方以降は、昼間の団体ツアー客が激減するので、館内の入場者も少なくな離、ゆったりと絵画を鑑賞することができるので、夜間入場ができる曜日をあらかじめ調べておいて、旅行の日程を組むことをお勧めします。
ヴェッキオ橋 Ponte Vecchio
ヴェッキオ橋(Ponte Vecchio)は、イタリアのフィレンツェを流れるアルノ川に架かる中世の石橋です。イタリア語で「古い橋」という意味を持ち、フィレンツェ最古の橋として知られています。橋の上には宝飾店やジュエリーショップが並び、観光客に人気のスポットです。また、橋の上にはヴァザーリの回廊(Corridoio Vasariano)と呼ばれる通路があり、これはヴェッキオ宮殿とピッティ宮殿を結ぶためにメディチ家のために設計されたものです。
歴史
ヴェッキオ橋は、フィレンツェを流れるアルノ川に架かる橋で、その歴史は古代ローマ時代にさかのぼります。現在の橋は1345年に再建されたもので、フィレンツェで最も古い石造りの橋です。中世には橋上に職人や商人が店を構えていました。
橋は度重なる洪水に見舞われましたが、何度も修復され、現在もその美しい姿を保っています。特に、第二次世界大戦中には、フィレンツェを占領していたドイツ軍が退却する際、すべての橋を破壊した中で、ヴェッキオ橋だけは破壊を免れたというエピソードがあります。
構造と特徴
ヴェッキオ橋の特徴は、橋の両側にずらりと並ぶ小さな店舗です。かつては肉屋や皮革職人が店を構えていましたが、1565年にメディチ家のコジモ1世が、これらの店舗を金細工職人に限るよう命じました。それ以来、ヴェッキオ橋は金細工や宝石の店が並ぶ橋として知られています。
橋の中央部には、アルノ川を見下ろす展望スペースがあり、観光客に人気です。また、橋の上を通る「ヴァザーリ回廊」という特別な回廊があり、これはウフィツィ美術館とピッティ宮殿を結ぶために造られたものです。この回廊はメディチ家が秘密裏に移動するために使われました。
文化的意義
ヴェッキオ橋はフィレンツェの象徴とも言える存在で、多くの芸術作品や文学作品に登場します。イタリアン・ルネサンスの時代から現在に至るまで、多くの芸術家や詩人がこの橋を描き、フィレンツェの豊かな文化と歴史を象徴する場所となっています。
サン・トリニタ橋 Ponte San Trinita
アルノ川に架かるサン・トリニタ橋は、ヴェッキオ橋の近くにあって、ヴェッキオ橋の絶好のビューポイントとして知られています。また、ここからヴェッキ橋までの川沿いの歩道は、ロマンティックな雰囲気を楽しめるため、カップルなどの散歩道になっているようです。フィレンツェから始まった革製品メーカーのフェラガモの本店と博物館も、サン・トリニタ橋の近くにあります。
サン・トリニタ橋は、「神曲」の作者ダンテ・アリギエリが、18歳の時に運命の恋人ベアトリーチェと出逢った場所としても知られています。Henry Holidayの油絵と比較するために、橋の欄干と遠景のヴェッキオ橋が入るように写真を撮ってみました。
詩人ダンテとフィレンツェ、ベアトリーチェとの出会い
ダンテ (Dante Alighieri 1265 - 1321)は、中世イタリアの代表的な詩人、作家、哲学者です。フィレンツェで生まれ、フィレンツェでベアトリーチェに恋し、フィレンツェを追放され、二度とフィレンツェに戻ることはありませんでした。
ダンテは、1265年頃、金融業を営む教皇派(ゲルフ)の小貴族の父アリギエーロ・ディ・ベッリンチョーネ(Alaghiero di Bellincione)とその妻ベッラ(Bella)の息子として生まれました。最愛の女性、ベアトリーチェとの最初の出会いは9歳のときでした。
ダンテは、父に連れられて、ポルティナーリ家で催された春の祭り(Calendimaggio)に行きました。ここで、同い年の少女ベアトリーチェ・ポルティナーリに出会い、一目で恋に落ちてしまったのです。ベアトリーチェへの愛を歌ったダンテの詩集『新生』 ( La Vita Nuova )には、この最初の出会いの様子が次のように述べられています。
その方は九歳になりそめたころわたしの前にあらわれ、わたしは九歳をおえようとするころその方を見かけたのである。高貴な血のような紅の、すなおで、つつましやかな色どりの服を身にまとい、ベルトをしめ、あどけない年ごろに似合いの身なりをしていた。げにこの刹那、心臓の深奥の室に住むわが生命の霊ははげしくわななき、鼓動は血管のすみずみにまで怖ろしいほど感じられた。(平川祐弘訳『新生』第2章より)
それ以来、ダンテの心はベアトリーチェへの愛に満たされ、片時も彼女を忘れることはありませんでした。ダンテがベアトリーチェと再会するのは、それから9年後、18歳になった時でした。アルノ川にかかるサンタ・トリニタ橋のたもとで、友人二人と連れだって歩くベアトリーチェと偶然出会ったのでした。このとき、ベアトリーチェはダンテに気づいて軽く会釈しましたが、それ以上の会話が交わされることはありませんでした。しかし、ダンテはベアトリーチェとの再会に深く感動し、自室に戻ってから彼女の夢を見、ベアトリーチェへの恋心を激しく燃やしたのです。『新生』には、このときの様子が次のように述べられています。
それからかっきり九年の歳月が経ち、その最後の日がまさに過ぎようとした日に、この奇跡的な女性がまたも眼前にあらわれたのである。純白の衣服をまとい、二人の、やや年上の婦人の間にはさまれて、わたしの前を過ぎて行く。そして道を進みながら、わたしのいる方へと眼を向けた。わたしはひどくどぎまぎしたが、女性はあの得もいわれぬ優雅な物腰でいかにも上品にわたしに会釈した。それだからその時わたしはもう至福のかぎりを見たと思った。あの方の甘美なご挨拶がわたしにとどいたときは、その日の第九時かっきりであった。そしてその時こそ、あの方が声を発し、その声がわたしの耳にとどいた初めであった。わたしは嬉しさのあまりなかば酔いしれた心地となって人々の群れを離れ、部屋に戻って一人きりとじこもると、あの優雅な女性のことをじっと思いつめはじめた。(平川祐弘訳『新生』第2章より)
後に、画家のHenry Holidayは、アルノ川のほとりでのダンテとベアトリーチェの出会いの場面を油絵で描いています。場面設定は、アルノ川にかかるサンタ・トリニタ橋 (Ponte Santa Trinita)のほとり、背後にはヴェッキオ橋 (Ponte Vecchio)が見えています。橋の横を3人の若い女性が歩いてきます。中央の女性が白いドレスを着たベアトリーチェ(Beatrice Portinari)、左側にはベアトリーチェの友達のモンナ・ヴァンナ(Monna Vanna)、右側には少し後れてベアトリーチェの召使いの女性。右側、橋の欄干に手をついてベアトリーチェをじっと見つめるのは、ダンテ。ベアトリーチェはダンテを見ることなく前方に眼を向け、ダンテを見つめるのは、ベアトリーチェの女友達のモンナと召使いの女性だけ。これは、ダンテがベアトリーチェへの恋心を他人に悟られないよう、別の二人の女性に恋文を送ったという逸話をもとに作った構図とも考えられます。ダンテがベアトリーチェと出会った場所が、サンタ・トリニタ橋だったかどうかはわかりません。ダンテが生きていた頃、この橋はまだなかったという歴史的な証拠もあるようです。ただ、ヴェッキオ橋を遠景とするアルノ川の河畔で出会ったというストーリーは、いかにもロマンティックな場面のように思われます。
フィレンツェのミケランジェロ
今回のイタリア旅行の当初計画では、フィレンツェ出身の2人の偉大な芸術家、ミケランジェロとダンテにゆかりの場所を訪ね歩く予定でしたが、ミケランジェロの作品を収めた美術館であるバルジェッロ国立博物館とブオナロッティ邸美術館を見学したら、ミケランジェロの偉大さに圧倒され、ダンテへの興味が半減してしまったので、今回の見学の目的をミケランジェロ一本に絞ることにしました。
フィレンツェ観光の2日間で鑑賞したミケランジェロの作品は、
1) ダヴィデ像(コピー):シニョーリア広場
2) 聖家族:ウフィツィ美術館(絵画)
3) 階段の聖母(ブオナロッテ邸)
4) ケンタウロスの戦い(ブオナロッテ邸)
5) ブルータス像(バルジェッロ国立博物館)
6) バッカス(バルジェッロ国立博物館)
7) 聖母子(バルジェッロ国立博物館)
8) ダヴィデ-アポロ(バルジェッロ国立博物館)
9) ダヴィデ像(アカデミア美術館)
10) 奴隷像(アカデミア美術館)
11) ダヴィデ像(コピー)(ミケランジェロ広場)
の11点です。今回鑑賞できなかったミケランジェロの重要な作品は、メディチ家礼拝堂の彫刻群です。これらは、次回訪問時にぜひ見たいと思っています。なお、ドゥオーモ博物館所蔵のピエタ像は、1993年に見ていますので、今回は省略しました。
バルジェッロ国立博物館
バルジェッロ国立博物館(Museo Nazionale del Bargello)は、中世とルネサンス期の彫刻や美術品のコレクションで知られています。この博物館は、フィレンツェで最も古い公共建築物の一つであるバルジェッロ宮(Palazzo del Bargello)内に位置しており、その歴史は深く、建物自体も非常に重要な文化財です。
この博物館には、ミケランジェロの重要な彫刻作品が多く展示されており、ミケランジェロの芸術を深く知る上では外すことのできない美術館だと言えます。地理的に見ると、次にみるカーサ・ブオナロッティから徒歩で約10分ほどの場所にあるので、二つの美術館を合わせると、6点もの名作を堪能することができます。私も、まずバルジェッロ博物館に入ったあと、カーサ・ブオナロッティの作品を鑑賞しました。
酒と豊穣の神「バッコス」は、現存するミケランジェロ作品の中で、最も初期に作られた大型独立彫像です。この作品は当初、注文主ヤコポ・ガッリの邸宅に設けられた古代風庭園に展示されていました。コントラポストの姿勢をとり、緩やかなS字カーブを描く体の反らせ方は、古代彫刻から学んだ成果です。一方で、いつも酩酊しているイメージの神の姿をあらわすために、筋骨逞しいミケランジェロ特有の男性裸体像とは異なり、その体つきはしまりがなく、ブヨブヨとした様子が巧みに表現されています。(池上英洋「ミケランジェロ」より)
カーサ・ブオナロッティ Casa Buonarroti
カーサ・ブオナローティの建物は、ミケランジェロ自身が購入したものであり、彼の家族が長年にわたり居住していました。しかし、ミケランジェロがこの家に住んでいたわけではなく、主に彼の甥であり、後に彼の遺産を管理したミケランジェロ・ブオナローティ・イル・ジョーヴァネによって、ミケランジェロの栄光を称えるための博物館として整備されました。
ミケランジェロ・イル・ジョーヴァネは、建物を改装し、ミケランジェロの作品や関連資料を展示するためのスペースを設けました。17世紀以降、カーサ・ブオナローティはミケランジェロの遺産を保存し、彼の家族の歴史を伝える場所として機能してきました。
この博物館には、ミケランジェロが若い頃に制作した「階段の聖母」や「ケンタウロスの戦い」といった初期の彫刻作品が展示されています。これらは、彼の才能が早くから認められていたことを示す重要な作品です。
アカデミア美術館 Galleria dell' Accademia
アカデミア美術館は、特にミケランジェロの彫刻作品「ダヴィデ像」を所蔵していることで知られています。この美術館は、ルネサンス芸術の宝庫であり、フィレンツェを訪れる際には必ず立ち寄るべき場所の一つです。
事前予約の必要性
アカデミア美術館は、フィレンツェの数多くの美術館の中では、ウフィツィ美術館に次ぐ人気を誇っています。予約しないで行くと、美術館前の建物沿いに延々と続く行列に並ばなくてはなりません。幸い、私はオンラインサイトで時間指定の予約をしていたため、行列をスキップして入館することができました。公式の予約サイトは、次のところです。
ダヴィデ像
ダヴィデ像は、ミケランジェロがまだ20代の時の作品ですが、ヴァチカンのサン・ピエトロ大寺院にある「ピエタ像」と共に、極めて完成度が高く、かつその巨大さに圧倒されます。ジャック・ラング、コラン・ルモワーヌ著『ミケランジェロ』によると、ダヴィデ像の制作経緯は次のようだったと言います。
「昔々、大変壊れやすいという理由で加工するのは不可能と見なされている大理石の塊があった。教会の建物管理部大聖堂の工事担当委員会ーの中庭に保管されていたその塊は、この役立たずの代物を利用できる勇敢な男を何年も前から待ち焦がれていたのである。ミケランジェ 口より以前に二人の彫刻家がシシュフォスの岩〔徒労に終わる際限のない労苦)を体験している。アゴスティーノ・ディ・ドゥッチョとベルナルド・ロッセリーノであり、それぞれ1464年と1476年のことである。意欲がそがれるほどの「ギガス」(巨人〕と呼ばれるこの大きすぎる大理石を前にして、二人とも彫ることができなかったのである。実際にこの石塊は彫刻家たちを怖気づかせ、意志薄弱なものを寄せつけずにフィレンツェの中心地に埋もれていた。傍若無人の輩のたび重なる失敗は、彼らの彫り跡を残したこの大理石を顕著なまでに損ねてしまったのである。それゆえにミケランジェロがこの石彫りに手を染めるときには、以前に手を入れられたお粗末な彫り跡を活用して作品を創らねばならなかった。つまり作品を創造すると同時に修正する必要があったのである。実に見事ななんでも屋である必要があったのだ。 この大理石の塊をものにしようとすることでミケランジェロは不可能に挑戦したのだ。コンディヴィによれば完成にはほぼ「18か月」を要した。その場しのぎの劣悪な場所で、止むことなく仕事をし続けた18か月であり、「下手に荒削りされ、彫刻された」といわれたこの一枚岩の巨石を素晴らしい彫刻作品に変貌させるための18か月だったのである。」
アカデミア美術館に安置されたこの巨像を見ると、よくもこうした劣悪な状態にあった巨大な大理石から、今にも動き出しそうな、生き生きとした古代の英雄像を削り出したものか、と唖然になってしまいます。まさに、ヴァザーリが「美術家列伝』の中で評したように、ミケランジェロは神のごとき才能をもって全身全霊を持って、魂のこもった幾多の偉大な作品群を創造したのでした。
シニョリーナ広場のダヴィデ像
ウフィツィ美術館の聖家族
サン・マルコ美術館 Museo di San Marco
フィレンツェのサンマルコ美術館は、15世紀のドミニコ会修道院を改装して作られた美術館で、特にルネサンス期の芸術家フラ・アンジェリコ(Fra Angelico)の作品が多く展示されていることでも知られています。この美術館は、フィレンツェの歴史的中心部に位置し、主に宗教美術を展示しています。
フラ・アンジェリコは、15世紀初頭のイタリア・ルネサンス期を代表する画家で、修道士でもありました。彼の最も有名な作品のいくつかがこのサンマルコ修道院の壁画として描かれています。特に、修道士たちが個別に使っていた小部屋(セル)に描かれた宗教的な場面は、そのシンプルで瞑想的なスタイルで知られています。代表作「受胎告知」(Annunciazione)は美術館内の中庭に隣接するエリアに展示されています。この作品は、フラ・アンジェリコの技術と精神的な表現力を象徴する作品です。美術史に残る傑作です。美術の教科書にも必ず登場しますね。
サン・ミニアート教会とミケランジェロ広場からみたフィレンツェの夕景
9月5日 この日は朝から雨模様で、傘をさしながらの観光になりましたが、ミケランジェロの作品を鑑賞するのが目的だったし、傘も持っていたので、特に不便はありませんでした。ただ、フィレンツェ滞在最終日の夕方は、フィレンツェを一望に見渡せるミケランジェロの丘で夕焼けに染まるフィレンツェで過ごしたかったので、できれば晴れてくれればいいな、と思っていました。
その私の願いが天に届いたのかどうか、夕方になって、天気が急速に回復してきました。そこで、当初の予定通り、ミケランジェロ広場行きのatバス12番線に乗って行くことにしました。12番線バスの一番近い乗り場は、ホテルからだと、サンタマリアノヴェラ駅とアルノ川の中間あたりにあるようです。始発駅です。Googleマップを頼りに歩いて行ったのですが、駅からは意外と遠く、探すのに苦労しました。近くのお店の人に聞いて、やっと見つけたのですが、時刻表の時刻から15分過ぎてもバスは来ません。私よりも早くから待っていた中国人カップルは、しびれを切らして立ち去ってしまいました。結局、待つこと40分くらいで、ようやく12番バスがきました。実は40分もあれば歩いてミケランジェロに到着していたのです。でも、ミケランジェロ広場は、結構高い丘の上で、体力を要するので、徒歩で登るのは諦めていたのです。
バスはアルノ川を渡り、ジグザグの坂道を一気に登っていきます。15分ほどで、目的地に到着したのか、乗客が続々と降りて行くので、私もミケランジェロ広場に着いたのかと思い、つられて降りたのですが、実は違っていました。私が降り立ったのは、サン・ミニアート・アル・モンテ教会( San Miniato al Monte)だったのです。『地球の歩き方』による説明は次のとおりです。
「ロマネスク様式の優雅なファサードをもつサン・ミニアート・アル・モンテ教会は、非常に小さいのだが、その美しさは高台にぽつんとあるという立地条件もあって印象的だ。この教会は、3世紀中盤のキリスト教者迫害に遭って殉教した聖ミニアートにささげられた。ファサードは白と緑の大理石で美しく飾られ、フィレンツェに発達したロマネスク様式の典型とされている。」(『地球の歩き方 フィエレンツェとトスカーナ』より)
この教会のあるところで下車したのは正解でした。とても素敵な教会だったことと、ここからのフィレンツェの眺めが素晴らしかったこと、さらに、ここがミケランジェロに丘よりも人が少なくて、階段などに座って、ゆっくりとフィレンツェ遠望を楽しめるからです。
30分ほどゆっくりと教会からの景色を楽しんだ後、石段を下って、お目当てのミケランジェロ広場に出ました。途端に、大勢の観光客が広場一帯を埋め尽くしています。これにはびっくり。よほどこの広場は人気なんですね。フィレンツェを遠望する景色は素晴らしいけれど、人が多すぎる。一応、広場の中央に立つミケランジェロのダヴィデ像の写真を記念にとり、自撮りもしておきました。
帰りは、ジグザグに続く石段を延々と下り続けて、30分以上かけて、ようやくアルノ川に着きました。石段を下り終えると、疲れを休めてくれるかのように、ヴェッキオ橋を背景にした美しいアルノ川に出ました。灯りが川面に映り、恋人たちをロマンティックな気分にさせるのか、たくさんのカップルたちが河岸をそぞろ歩きしています。
このミケランジェロ広場には、1993年にも上ったことがあります。その時は、JTBのツアーに参加していたのですが、朝早く起きて、一人で徒歩で1時間以上かけてこの高い丘に上ったのでした。まだ若かったので、こんなことができたんですね。ツアーガイドさんも驚いていました。
あとがき
本章執筆の元になったのは、筆者のFacebook上の記事です。投稿に対していただいたコメントや「いいね」は、イタリア旅行中の大きな励みになりました。また、本章執筆のために参考にした文献の閲覧は、東京都立中央図書館および東京大学附属駒場図書館を利用して行いました。記して謝意を表します。
なお、本章に掲載した写真は、ミラーレス一眼レフカメラSONY α7IV、SONYレンズ FE20mm F1.8 Gを用いて撮影したものです。写真の現像、編集はAdobe Lightroomを用いて行いました。
参考文献
ヴァザーリ『美術家列伝』第1巻、第2巻、第6巻 森田義之他監修 中央公論美術出版 2022年
小佐野重利、小池寿子、三浦篤編『西洋美術の歴史』4 ルネサンス
アンソニー・ヒューズ著『ミケランジェロ』岩波 世界の美術 岩波書店2001年
田中英道著『ミケランジェロ』講談社学術文庫 1991年
青木昭著『図説ミケランジェロ』河出書房新社 1997年
ピエール・デュ・コロンビエ他著「世界伝記双書 ミケランジェロ』若桑みどり訳 小学館 1983年
ダンテ・アレギエリ著『新生』
ジャック・ラング、コラン・ルモワーヌ著『ミケランジェロ』
『地球の歩き方 フィレンツェとトスカーナ』
Le Gallerie degli Uffizi Official Guide
Museo Nationale del Bargello: The Official Guide
Florence Casa Buonarroti Visit Guide