散歩の記録
散歩マップ
コース上の見どころ
鎌倉駅
JR鎌倉駅は、東口と西口があります。
東口(小町通り方面): 鎌倉観光のメインストリートである小町通りへはこちらから出ます。鶴岡八幡宮へ向かう道もこの東口側です。バス乗り場も東口に集中しており、報国寺、長谷寺、鎌倉大仏など、市内の主要観光地へのバスが発着しています。駅前にはタクシー乗り場や、お土産物屋さん、飲食店も多く立ち並び、常に賑わっています。
西口(御成通り方面): 東口とは対照的に、比較的落ち着いた雰囲気です。御成通りという商店街があり、地元の人々に愛されるカフェや雑貨店などが点在しています。住宅街も近いことから、地元住民の利用も多いです。銭洗弁財天宇賀福神社へ向かうルートの一つとしても利用されます。
鶴岡八幡宮
鶴岡八幡宮は、神奈川県鎌倉市に鎮座する武運の神である八幡神を祀る神社で、古都鎌倉の象徴として国内外から多くの参拝者が訪れます。
ご祭神(お祀りされている神様)
- 応神天皇(おうじんてんのう):第15代天皇で、武運の神・八幡神と同一視されています。
- 比売神(ひめがみ):八幡神の神霊の働きを助ける女神とされます。
- 神功皇后(じんぐうこうごう):応神天皇の母にあたる皇女です。
これら三柱の神様を総称して「八幡神」と呼びます。
創建と歴史的背景
鶴岡八幡宮の起源は、1063年(康平6年)に河内源氏二代棟梁・源頼義が、奥州を平定した際に、源氏の氏神として崇敬していた京都の石清水八幡宮を鎌倉の由比ヶ浜辺に勧請(かんじょう:神様の分霊を迎え祀ること)した「由比若宮(鶴岡若宮)」に始まります。
その後、1180年(治承4年)、伊豆で挙兵し鎌倉に入った源頼朝が、鎌倉幕府を開くにあたり、現在の小林郷北山(現在の場所)に遷し、武家の守護神として篤く崇敬されました。頼朝は、平安京の朱雀大路を模して若宮大路を整備し、鶴岡八幡宮を鎌倉のまちづくりの中心に据えました。これにより、鶴岡八幡宮は、鎌倉幕府の精神的支柱として、また武士の都の象徴として発展を遂げました。
現在の本宮(上宮)は、1828年(文政11年)に江戸幕府第11代将軍徳川家斉の命により造営されたもので、国の重要文化財に指定されています。
境内の主要な見どころ
- 段葛(だんかずら): 鎌倉駅から八幡宮へと続く参道「若宮大路」の中央に盛り土された参道です。源頼朝が妻政子の安産を願って造営したと伝えられています。八幡宮に近づくにつれて道幅が狭くなるように造られており、遠近法によって八幡宮がより大きく、遠くに見えるように工夫されています。春には桜並木が美しく、多くの人々で賑わいます。
- 源平池(げんぺいいけ): 太鼓橋を挟んで左右に広がる大きな池です。源氏の繁栄を願う**「源氏池(源氏の産=三つの島)」と、平家の滅亡を願う「平家池(平家の死=四つの島)」**という、源平合戦にまつわる逸話が込められています。
- 舞殿(まいでん): 下拝殿とも呼ばれ、大石段の前に位置しています。源義経を慕う静御前が舞を披露した若宮廻廊(かいろう)の跡に建てられたと伝えられています。年間を通じて多くの祭事や結婚式が執り行われます。
- 大石段(おおいしだん): 舞殿の奥にそびえる61段の急な石段です。この石段を登り切った先に本宮があります。2010年には、石段脇にあった樹齢千年と言われるご神木の「大銀杏(おおいちょう)」が強風で倒伏しましたが、現在はその株から新たな芽が育ち、再生のシンボルとなっています。大銀杏は、鎌倉幕府3代将軍源実朝が暗殺された際に、犯人である公暁が隠れていたという「隠れ銀杏」の伝説でも知られていました。
- 本宮(上宮): 大石段を上りきった場所に位置する、鶴岡八幡宮の中心となる御社殿です。現在の社殿は江戸幕府による再建ですが、その壮麗な姿は見る者を圧倒します。ここから鎌倉の街並みや、遠く相模湾まで一望できます。
- 若宮(下宮): 本宮の手前、舞殿のさらに手前に位置する社殿です。本宮の御祭神である応神天皇の御子である仁徳天皇など四柱の神様がお祀りされています。
- 白旗神社(しらはたじんじゃ): 本宮の左手に位置する黒塗りの社殿です。ご祭神は、源頼朝公と三代将軍実朝公で、必勝や学業成就のご利益で篤く信仰されています。
- 旗上弁財天社(はたあげべんざいてんしゃ): 源氏池の中の島に鎮座しており、源頼朝が源氏の旗上げにちなんで創建したと伝えられています。開運や芸事上達のご利益があるとされています。
- 丸山稲荷社(まるやまいなりしゃ): 鶴岡八幡宮の境内にある建物の中で最も古い室町時代の御社殿です。商売繁盛のご利益で知られています。
ご利益と祭事
鶴岡八幡宮は、武運長久、勝負運、出世、安産、縁結び、学業成就、商売繁盛など、多岐にわたるご利益があるとされています。境内の摂社・末社を巡ることで、様々な願いが叶う「パワースポット」としても人気です。
東勝寺橋
歴史的背景と由来
東勝寺橋の名前は、かつてこの橋の先にあった**東勝寺(とうしょうじ)**に由来しています。東勝寺は、鎌倉幕府第3代執権の北条泰時が創建した、北条氏得宗家の氏寺であり、大変格式の高い寺院でした。
しかし、この地は鎌倉幕府滅亡の舞台となった場所としても知られています。1333年(元弘3年)5月、新田義貞(にった よしさだ)らの鎌倉攻めによって幕府が追いつめられると、当時の執権である北条高時(ほうじょう たかとき)をはじめとする北条一族や家臣870余人が、この東勝寺で自害し、鎌倉幕府は滅亡しました。現在、東勝寺は廃寺となり、跡地には「腹切りやぐら」と呼ばれる洞窟が残され、当時の悲劇を今に伝えています。
また、東勝寺橋には、鎌倉時代の武将である**青砥藤綱(あおと ふじつな)**にまつわる有名な逸話が残されています。彼は夜間に出仕する際、この橋で大切な公金十文を滑川に落としてしまいました。十文を探すために五十文もの松明(たいまつ)を買って探させ、無事に見つけ出したといいます。人々がそれを嘲笑すると、藤綱は「十文は小額とはいえ、天下の財宝を失うのは惜しい。五十文使ったとしても、それは商人の儲けになり、結局天下の役に立つ」と説いたと伝えられています。この逸話は、青砥藤綱の公正さや公人としての心構えを示すものとして語り継がれています。橋のたもとには「青砥藤綱旧蹟」の石碑がひっそりと立っています。
現在の姿と特徴
現在の東勝寺橋は、1924年(大正13年)に建造された鉄筋コンクリート製のアーチ橋です。関東大震災の復興期には、このようなアーチ橋が数多く建設されましたが、その多くが撤去されてしまった現在、東勝寺橋は当時の姿を保つ希少な存在として、歴史的価値も評価されています。
その美しいアーチ形状と、滑川の渓谷美が見事に調和していることから、「かまくら景観百選」にも選定されており、鎌倉市の景観重要建築物等にも指定されています。特に、橋の下から見上げるアーチと、滑らかに流れる滑川の様子は、都会の喧騒から離れた静かで美しい風景を提供しています。新緑の季節や紅葉の時期は、特に写真愛好家にも人気のスポットです。
宝戒寺隧道
歴史と通称「お妾(めかけ)トンネル」
宝戒寺隧道の名前は、トンネルの近くにある天台宗の寺院、宝戒寺に由来しています。宝戒寺は、鎌倉幕府滅亡後に北条氏の菩提を弔うために建てられた寺院です。
この隧道は、正式な記録が少ないため、正確な掘削時期や背景には諸説ありますが、昭和初期に地元の資産家が私財を投じて掘ったとされています。
最も有名なエピソードは、この隧道が**「お妾トンネル」**という通称で呼ばれていることです。これは、大町(おおまち)に住んでいた旦那衆が、小町(こまち)にいたお妾さんに会いに行く際に、当時祇園山(ぎおんやま)をぐるっと迂回する必要があったため、その手間を省く目的で掘削したという逸話に由来しています。地元の人々の間では、このロマンチック(?)な話が語り継がれています。
また、単に個人の利便性のためだけでなく、地域住民が大町と小町の間を楽に行き来できるようにするための道として造られた側面もあるようです。
祇園山見晴台
見晴台からの眺望
見晴台からは、鎌倉の街並みと自然が織りなすパノラマを360度近く見渡すことができます。
東方向: 相模湾の広がりや、その先に霞む伊豆半島、房総半島まで見渡せることもあります。晴れた日には、海の青さと空の青さが織りなす絶景が広がります。
中央・西方向: 鎌倉駅周辺の市街地、鶴岡八幡宮の屋根、そしてその奥に連なる鎌倉の山々(例えば、大仏のある高徳院方面の山並みなど)が望めます。歴史的な建造物と自然の緑のコントラストが美しいです。
北方向: 円覚寺や建長寺方面の山々、そしてその先に広がる住宅地など、鎌倉の奥深さを感じさせる景色が広がります。
特に、夕暮れ時には、夕日に染まる鎌倉の街と相模湾が幻想的な光景を作り出し、ロマンチックな雰囲気を味わえます。また、新緑の季節や紅葉の時期も、山の表情が豊かになり、美しい景色が楽しめます。
歴史的な背景(祇園山とやぐら群)
祇園山自体も、鎌倉時代から中世にかけての歴史的な場所です。山中には、**やぐら(Yagura)**と呼ばれる横穴式の墳墓群が点在しています。これらは、鎌倉時代から室町時代にかけて、武士や僧侶、一般の人々の墓として使われたもので、祇園山周辺には特に多くのやぐらが見られます。見晴台への道の途中や、少し寄り道をすることで、こうした歴史の痕跡に触れることができます。
祇園山という名前は、京都の祇園社(八坂神社)を分霊したとされる**八坂神社(祇園天神)**がこの山の麓にあることに由来しています。
フォトエッセイ