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不可知の「なぜ」に挑戦する哲学
アインシュタインは「すべてが奇跡であるかのように生きるべし」という名言を残したが、なぜそうなのか?という根源的な問いを発することも、それに答えることもしなかった。なぜ奇跡は起きるのか?という問いに対し、科学者は「不可知の領域」として、それ以上の探求を決してしないだろう。「奇跡」と見える現象に対しては、「奇跡に見えても実は科学的に説明のつく現象」だけを検討の対象とするだろう。しかし、それでは奇跡という現実に起こる現象を100%説明することはできない。
かといって、宗教にその答えを求めることも正しいとは思えない。聖書などの経典には、かず多くの奇跡が記されているが、それらは預言者の超能力や聖者の存在意義を強調するために作られた物語や神話である場合がほとんどだ。それを額面通りに受け取ることはできない。実際には、奇跡は誰にでも毎日のように起こるのに、宗教では、特定の預言者の力、あるいは信仰の力に起因するかのように説かれている。また、宗教では、「奇跡はなぜ起こるのか?」という哲学的な問いはそもそも発しない。それは「神のみ業」の一言で片付けられてしまう。そこには普遍的な真理の探求といった学問的な問いは存在しないのである。
ライプニッツの唱えた「予定調和説」
しかし、17世紀以前の科学者は、このように科学では解明不可能な事象にも、哲学という領域で積極的に探求していたのである。その代表者の一人が、ライプニッツだった。彼は、宇宙を創る根源的な実体として「モナド」について考察したが、それよりもさらにスケールの大きな宇宙創成理論として、「予定調和説」を唱えたのだった。
(続く)