6月26日から約1週間、スイス・アルプスを旅行しました。その間、毎日のように奇跡的とも言える出来事が相次いで起こりました。例えば、ツェルマットに滞在していたとき、夜明け直後に、マッターホルンの頂上が真っ赤な朝焼けに染まり、それが刻々と下の方に降りてくる様は、この世のものとも思えぬ、美しくも感動的な光景でした。
同じ日のわずか数時間後、ゴルナーグラード鉄道で登った先にあるリッフェルゼーという小さな湖の周辺をハイキングしたのですが、快晴の青空をバックに、雄大なマッターホルンの姿がリッフェルゼーに鏡のように映し出される、夢のような絶景を見ることができました。これも、滅多にない奇跡的な体験でした。
同じ日の午後、ツェルマットからケーブルかーとロープウェイを乗り継いで、一人でハイキングをしたとき、雨と雷に遭い、険しい登山道で6時間以上にわたって困難な山歩きを強いられたのですが、これも奇跡的に無事下山することができました。
ここ数ヶ月の出来事を振り返っても、奇跡的と言えるようなことが相次いで起こりました。たとえば、3月には地方の私立高校に通う息子が、超難関の東大理一に合格しましたが、これは高校での成績を思えば、まさに奇跡的な出来事でした。
また、4月には東京に引っ越したのですが、わずか2週間という限られた時間で東大の近くに素晴らしい賃貸マンションを見つけることができました。ネット検索で知り合った不動産屋さんから的確な紹介をいただいたおかげなのですが、このようなご縁もまさに奇跡的な出会いとしか言いようがありません。
私はいま75歳。後期高齢者の仲間入りをしてから約半年たちました。それなのに、このような奇跡的とも言える出来事が毎日のように起こっているのは不思議です。それはなぜなのでしょうか?はっきりした理由があるのでしょうか?
これに関連して思い出すのは、ユーミンの歌「やさしさに包まれたなら」の一節です。
小さい頃は神さまがいて
不思議に夢をかなえてくれた
やさしい気持で目覚めた朝は
おとなになっても 奇蹟はおこるよ
カーテンを開いて 静かな木洩れ陽の
やさしさに包まれたなら きっと
目にうつる全てのことは メッセージ
素直に生きていて、自然な優しさを身につけている子供達には、神様からのメッセージが毎日ダイレクトに届くので、神様の用意してくださっている奇跡が毎日のように起こります。多くの子供達は、そうした奇跡をごく自然に受けとめることができます。
ところが、人間は思春期を迎え、大人になるにつれて、素直な心を失って行きます。その結果、神様からのメッセージも届かなくなり、したがって、せっかく神様の用意してくれた奇跡を経験することもできなくなります。
大人になり、社会的に責任ある仕事をもち、科学的な思考を身につけ、家族を養う責任を負うようになると、神や天国や奇跡などといった目に見えない世界を「不可知」なものとして忌避する傾向が強まります。その結果、神様からのメッセージを受け取ろうとする気持ちが起こらず、したがって、そうしたメッセージを認知することもできなくなるのではないかと思います。
しかし、私のように老年期を迎えて、仕事からもリタイアし、世間のしがらみからも解放され、子供時代の素直な気持ちを再び持つことができるようになると、神様から毎日届くメッセージを自然に感知することができるようになります。感知するといっても、神様の声が聞こえるとか、メッセージが文字の形で降臨するといったことではありません。実際には、心にふと浮かぶインスピレーション、アイディア、思考の流れといったものが、自分の独創的な考えではなく、目に見えない世界を始原として、泉のように心の奥から自然に湧き出でてくる、といった体験をさしています。これなら、誰でも似たような経験をされているのではないかと思うのです。それを「自分だけの独創的なアイディア」だと思うのか、それとも、「もとは神様から発せられたメッセージで、私はただそれを受け取っているだけ」だと思うのか、私は後者の考え方を是とします。ノーベル賞を受賞した物理学者のアインシュタインも、次のような名言を残しています。
人生には、二つの道しかない。 一つは、奇跡などまったく存在しないかのように生きること。 もう一つは、すべてが奇跡であるかのように生きることだ。
この「日記」ブログでは、これからも毎日のように起こるであろう奇跡の記録を克明に残し、果たしてアインシュタインの名言が正しいかどうか、検証を続けていきたいと思います。